しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2011年12月18日日曜日

モレノ#9:「1年間の振り返り」

教会月報『モレノ』(Monthly Report of the church of the Nazarene in Oyama)に掲載した原稿をアップします。

                               

1年間の振り返り』(教会月報「モレノ」2011年12月号掲載)


いつもお祈り感謝します。年内の授業も終わり、冬休みに入りました。年明けの授業再開に向けて、夏休み明けから出来なかったこと(積ん読してある本を読んだり、友人の家に遊びに行ったり、ヘブライ語の独習をはじめたり、帰省したり…)を色々しようと思ってます。
今回は4月からを振り返っての短い報告です。

【神学校生活】
はじめての一人暮らしを経験している神学校生活です。毎日の食事のこと、勉強のペース、役所に行く用事、買い物へ行くタイミングなど、自己管理は難しいなと思わされています。
他の神学生たちとの交わりも慣れてきて、楽しんでいます。長期休暇のときは、たまに勉強会をしようという話になり、お互いに学ぶことを励まし合える環境が整ってきて感謝を覚えています。

【三軒茶屋教会】
三茶のみなさんにはとてもお世話になっています。神学校は閉鎖的な空間なので、教会に行ってたくさんの方たちと交わりが持てることは、とても大きな励ましになっています。神学生として、教会の働きを助けるというのが僕に求められていることなのですが、それと思うと、正直一番助けられているのは僕だなと思わされています。残り3ヶ月半、この教会での交わりを大切にして過ごしていきたいと思います。

【語学】
英語、ギリシア語、ヘブライ語、どれも大切だなと実感している日々です。
感謝なことに、今年はフィリピンへ行かせて頂けたこともあり、英語を読むことのハードルが少しずつ下がってきた気がします。学生時代もっとちゃんとやっておけばよかったと反省することもあるのですが、今出来る限りのことを積み重ねていこうと思い、ヘブライ語を英語で勉強し始めました。
今月、4月から始めたギリシア語の文法が無事に終わりました。年明けから実際に聖書(ヨハネによる福音書)の講読が始まります。最近、個人的にヨハネの手紙一をゆっくり読み始めたこともあり、 ここまで辿りつけたことに達成感を覚えてます。せっかく身につけたのだから、一生使い続ける言語にしたいです。

【堅固な基礎とは?】
今年はⅠテモテ6:19の「真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くように…」という言葉を自分自身の年間聖句として掲げています。この言葉と向き合う時、良い基礎を築ける一年だったか?という問いが出てきますが、良い基礎を築き、その上に何かを積み上げていくというよりも、今まで積み上げたものを一度崩す一年だった気がします。プライドだとか、高慢さだとか、自分自身の弱さとか、そういうものと向き合って、色んなものが崩されていくことに気づく時、自分自身の力によって気づいた基礎でなく、主にあって築かれるものこそが堅固な基礎なのだと気付かされました。それが堅固な基礎作りの第一歩なのでしょう。今のところ、2011年の年間聖句をこのように受け止めています。毎年のように色々と教えられることがあるので、年間聖句を自分で決めることはとても大切にしています。今年一年間何を語られ、これからどのような歩みをするべきかということを思い返しながら、来年のものをそろそろ考え始めようと思います。

【お祈りください】
・12月26~28日に奥多摩バイブルシャレーで中高生キャンプの奉仕をする予定です。2年半ぶりの中高生キャンプの奉仕なので、少し緊張しています。委ねられる中高生たちとの交わりと、彼らの信仰の成長のためにお祈りください。
12月31日~1月6日まで帰省する予定です。実家でゆっくり過ごすことが出来るように。
・残り3ヶ月半の三軒茶屋教会での奉仕と交わりのために。
2011年12月16日

2011年12月15日木曜日

神学生な日々#11:「ハバククはじめました」

9月から祈祷会で、月1回のペースで説教奉仕をさせて頂いています。
せっかく定期的に説教する機会が与えられたので、
ひとつの書簡を連続講解しようと思い立ち、
ハバクク書の連続講解説教をはじめました。
先月の祈祷会で3回目が終わり、次回は2章5節以降を取り扱う予定です。
通読で読むけれども、さらっと読んでしまい、
じっくり読んだことのないのが小預言書。
なので、とても良い勉強にもなっています。

最近気付いたことですが、このハバクク講解が回を重ねる度に、今の奉仕教会、三軒茶屋教会で過ごす時間が残り少なくなっていることに気付かされます。これはなかなか寂しいものです。たった1年の教会派遣ですが、神学生としてがっつり関わらせていただいていることもあり、愛着がとても深くなる。1年でこの教会での奉仕が終わるというのは寂しいな。。。

そんな思いを抱きながら、残りあと4回。
来週の水曜日はハバクク講解、第4弾です。

2011年12月12日月曜日

説教#10:「この人を見よ」

昨日、今年の奉仕教会である三軒茶屋教会で、説教の奉仕をさせて頂く機会を与えられました。祈りに覚えてくださったみなさん、感謝します。

『この人を見よ』
聖書 イザヤ書52:13-53:12、ヨハネ19:4-7
日時 2011年12月11日(日)
場所 日本ナザレン教団・三軒茶屋教会

2011年12月3日土曜日

もうすぐ年内授業終了

もうすぐ年内の授業終了。
早いもので12月。
今年も残り12分の1。
2011年、何だかここまで駆け抜けてきた感覚。

そろそろゆっくりこの1年を振り返りたいぞ。


*明日の午後は、三軒茶屋近隣の教会との合同礼拝です。

2011年11月28日月曜日

説教#9:「旅人よ、何を見つめて歩むのか?」


昨日、青葉台教会のユース礼拝で、説教の奉仕をさせて頂く機会を与えられました。祈りに覚えてくださったみなさん、感謝します。

『旅人よ、何を見つめて歩むのか?』
聖書 ヘブライ11:13〜16
日時 2011年11月27日(日)
場所 日本ナザレン教団・青葉台教会

2011年11月15日火曜日

冬の奉仕予定

すっかり寒くなって来ましたね。
毎日寒さで震えています。(そう、僕は寒がり)
冬休みも近づいてきたので、年内の奉仕予定を掲載します。
お祈りいただけたら幸いです。

11/16 祈祷会説教(三軒茶屋教会)
11/27 ユース礼拝・説教(青葉台教会、15:00〜)
12/11 礼拝説教(三軒茶屋教会)
12/21 祈祷会説教(三軒茶屋教会)
12/26-28 中高生キャンプ(奥多摩バイブルシャレー、恐らくカウンセラー)

2011年11月14日月曜日

神学生な日々#10:「YSKカルヴァンの会」

今年からKGK(キリスト者学生会)で主事をしているYくんの支える会の奉仕をしています。
一緒に奉仕をしているメンバーには、僕の他に2人の神学生がいます。
献身者がたくさんいることだし、読書会をしようかという話になり、
カルヴァンの『キリスト教綱要』の読書会が7月から始まりました。
その名も「カルヴァンの会」。
毎回楽しく参加させていただいています。
何より感謝なのは、この交わりが学ぶ意欲を引き出してくれることです。
先輩たちからたくさん教えられます。
そして、勉強の足りなさを痛感させられます。

ナザレン神学校は、とても自由な神学校。
縛りが少ない分、自分がどれだけやるかが、問われる。
つまり、手を抜くことも可能ということ。
良い意味で信頼もされているし、自己管理の仕方を試行錯誤しながら学んでいる。
多分、結構変わった神学校。
そんな環境に置かれて勉強しているからこそ、
学ぶことを励まし合える交わりがあることに、
とっても感謝を覚えるんです。
是非この交わりを続けていきたいなと思わされています。

最後にYくんのブログを紹介。

KGK塚本良樹主事のブログ

*Yくんの名前を伏せて書いたのに、結局ブログタイトルで本名が公開される落とし穴。
ちなみに、(未だに)ブログタイトル募集中(のはず)。

2011年11月13日日曜日

モレノ#8:「APMLC報告」

教会月報『モレノ』(Monthly Report of the church of the Nazarene in Oyama)に掲載した原稿をアップします。

                               

APMLC報告』(教会月報「モレノ」2011年11月号掲載)

いつもお祈り感謝します。10/26(水)~30(日)にフィリピンで行われたAsia-Pacific Missional Leaders’ Conference(ナザレン教団アジア地区宣教指導者カンファレンス、以下MLC)に参加してきました。今回はMLCの報告です。

【祈りとヴィジョン】
今回のカンファレンスでの講演は、毎回スピーカーが変わっていたので強調点はそれぞれ違っていましたが、振り返ってみると、開拓伝道と弟子訓練が大きなテーマとして語られていたように思います。僕自身がそこから受け取ったことをふたつシェアしたいと思います。ひとつはは、広い視野を持って祈るということです。「私たちは自分自身のライフスタイルを変えなければならない。その基礎は祈りである。あなたはクリスチャンでない親戚、友人、協会員の知り合いのために祈っているか?」という問を投げかけられました。実際に今まで過ごしていた場所(日本)から外に出てたくさんの人達と会ったり、集会中に各国の祈祷課題がシェアされたり、スタディツアーに参加(後述)したこともあって、この問を与えられたとき、自分の祈りのリストを見なおそうと思わされました。祈りについてはいつもチャレンジを与えられると思わされています。こうやってチャレンジが与えられ続けないと、祈るべきことがたくさんあるのに忘れたり、「あとで」と思ってしまう怠惰な自分がいるからなのでしょう。
そして、もうひとつはヴィジョンを持つということでした。、神学校に入ってから目の前のことに追われて、忘れていたと思わされました。「日本の教会に仕えたい」という思いがあります。でも、具体的ではない。ぼんやりしている。目の前のことに追われるばかりでなく、神様が僕自身に持っている計画とは何なのかということを、もう少し腰を据えて考える時間を持ちたいなと思わされました。そのための神学校3年間でもあると思うのですが。ゆっくり祈り求めていきたいと思ってます。自分の計画に生きるのでなく、神のヴィジョンを自分のヴィジョンとして受け取って生きる者でありたいです。

【経済格差の現実と子供たちの笑顔】
今回のカンファレンスは、マニラにあるホテルで缶詰状態で行われました。午前中に2本の講演、お昼後に2つの分科会、夜も集会、朝から晩までびっしりのプログラムで、毎日くたくたでした。そのため、はじめてのフィリピンと思って意気込んで行ったはいいがあまりこの国を満喫できたというわけではありませんでした。これは少し残念なでした。しかし、篠澤先生(花園教会牧師)のご配慮により、3日目にスモーキー・マウンテンに行くスタディツアーに参加する機会が与えられました。
スモーキー・マウンテン(ゴミ山、写真の掲載は禁止されているので、掲載は控えます)の周辺は低所得者層の居住地となっています。 スタディツアーでは、現地の方の自宅訪問をし、お話を聞かせて頂く機会が与えられました。話を聞かせてくださった方は、自分の生活は確かに苦しいけども、一番の願いは子供たちの将来が、今よりすこし豊かな生活が遅れることでした。将来ちゃんと働くことができるように、子供たちを大学まで行かせてあげたい。でも、そのためのお金がない。この国の子供達にとって、今、教育支援がどれほど必要なのかということを痛感しました。しかし、社会構造(富裕層の搾取という現実)が変わらない限り、この状況は続くのでしょう。
彼らの声を実際に聞かないと、この現状を知ることができなかった自分の視野の狭さが恥ずかしいです。そして、彼らの現実を見て自分自身を見つめた時、僕たちが会場として宿泊していたホテルは5つ星の高級ホテルでした。経済格差の現実を身をもって知りました。確かにホテルにずっといたら、この国の本当の姿を見ることはできませんでした。フィリピンという国を見るとき、日本についても考えさせられます。現に、日本にも経済格差があるのだから。視野を広げた時、今まで見ていなかったことを通して、自分の今立たされている場所を見つめ直す機会となりました。
しかし、このような悲壮感ばかりがあったわけではありません。寧ろ、街(村)は子供たちの笑顔で溢れていました。 スラム化されている地域なので、気をつけてと言われて参加したスタディツアーでしたが、ある意味で、実際に想像していたものとはまったく違っていました。彼らの笑顔を見た時、日本の子どもたちとどちらが幸せなのかと思わされました。彼らよりも経済的には豊かな日本の子たちですが、本当に彼らより豊かなのだろうか。豊かさについて考えさせられます。

【英語と旅のトラブル】
予想通り、英語でのコミュニケーションが一番苦労しました。英語で会話をする度に思うのですが、彼らの忍耐のある聞く姿勢にはいつも涙モノです。そして、人数が多いせいで名前も顔もすぐに忘れていく...笑 リスニングの勉強もしないとと強く思わされました。
英語を学び続ける上では良い学びの動機となる機会でした。
いくつかトラブル(Szawa先生の体調不良、ShowA先生の失踪、Qme先生の航空券紛失など)もありましたが、日本からの参加者も全員無事に帰って来ました。旅が最後まで守られ本当に感謝。

【お祈りください】
・9月から毎月祈祷会で説教する機会が与えられています。ハバクク書の講解説教をしています。また12月11日に三軒茶屋教会で礼拝説教の奉仕予定です。準備のために。
・今年度も後半戦に入りました。学びと委ねられている奉仕のために。
・冬休みに、2年半ぶりに中高生キャンプの奉仕をしたいと願っています。奉仕の機会が与えられるように。

2011年11月4日

2011年10月26日水曜日

神学生な日々#9:「APMLC」

今日から5日間、ナザレン教団のアジア・パシフィック宣教指導者カンファレンス(Asia Pacific Missional Leaders' Conference)というものに参加するため、フィリピン(マニラ)へ行ってきます。
久しぶりの海外、そして初めてのフィリピンなので、とても楽しみです。
英語はとても苦手ですが、
劣等感を感じながら(笑)、頑張ってコミュニケーションとってきたいと思います。

いってきます!

*10/30(日)まで音信不通になります。

2011年10月24日月曜日

神学生な日々#8:「あっという間」

「気づけば夏の奉仕がすべて終わり、今月から神学校の授業が再開しています。」

ということをブログに書こうとしていたら、
いつのまにか、10月下旬に突入。
もうすぐ10月も終わりです。

先月末は、風邪をひき、
風邪で遅れた分を取り戻そうと10月上旬は頑張り、
先週は礼拝とCSと祈祷会で説教奉仕。
それこそ、あっという間の日々を過ごしています。
自己管理の大切さを実感しつつ、毎日元気に過ごしています。

そして、今週は水曜日からフィリピンへ行ってきます。
体調崩さないようにお祈りお願いします。

*今月はモレノの原稿を書き忘れてしまいました。残念。

2011年10月17日月曜日

説教#8:「キリストの使節として」

昨日、今年の奉仕教会である三軒茶屋教会で、説教の奉仕をさせて頂く機会を与えられました。祈りに覚えてくださったみなさん、感謝します。

『キリストの使節として』
聖書 ネヘミヤ記2:17-20、Ⅱコリント5:19-21
日時 2011年10月16日(日)
場所 日本ナザレン教団・三軒茶屋教会

2011年10月10日月曜日

作曲#1:「今、ここにいます」

「今、ここにいます」という曲を下記URL(こちらからも視聴可能)にアップしました。
2010年のナザレンの中高生キャンプのために書いた曲です。
テーマが「Change」だったので、それに合わせて書いたつもりです。
凝った録音をするのは面倒なので、音源は今年の夏のキャンプでのものをアップしました)

「今、ここにいます」:http://p.tl/Lv1Q

光の子とされた 闇に属してた私が
十字架の贖いによって 今 罪赦されている

罪の中で死んでいた 私に一筋の光が
今 喜びに満たされて 主の愛に生きる

変えられた私が 今、ここにいます
主の愛をこの世に示す者として遣わしてください
変えられた私が 今、ここにいます
主よ この祈りを聞いて 私を用いてください


*最近は曲作りしていませんが、書く機会が与えられたときはアップしたいと思ってます。まぁ、基本的に自己満でしょう。

2011年10月6日木曜日

説教#7:「丘の頂に立って」(たまちゅう合宿#2、日大合宿#4)

#2「丘の頂に立って」(説教音源:たまちゅう合宿日大合宿
聖書 出エジプト記17:8-13、エペソ6:10-18
日時 2011年9月17日(土)
場所 たまちゅう合宿(相原キリスト集会)
*この説教は日大KGK夏合宿での説教(#4「丘の頂で」、ブログ未掲載)に、テーマに合わせて手を加えたものです。

【はじめに】
私たちは今日、合宿を終え、それぞれの家へと帰ります。
そこには日常が待っています。
私たちの日常には、日々多くの戦いがあります。
自分自身の内に、罪との戦いがあります。
多くの誘惑とも出会います。
また、友人関係の中に、信仰と現実との葛藤という戦いがあります。
昨夜、私たちは自分たちが約束の民として召されていることを確認しましたが、
この世に遣わされている私たち、約束の民であるキリスト者が、
問題や試練を免れるという約束は、聖書のどこにもありません。
信仰の決断を迫られるという戦いもあるでしょう。
時に信仰を守るための戦いもあります。
福音のもたらす価値観とは余りにも違う日常がそこにあります。
私たちの日常は戦いで満ちています。
私たちがこの世に生きる限り、絶えず戦いの中に私たちは身を置いているのです。
戦いは、内にも外にもあります。
このような日常に私たちはこれから遣わされていくのです。
その上で、合宿最終日の今日、私たちはイスラエルとアマレクの戦いの記事を通して、神の派遣について共に教えられたいと思います。

2011年10月2日日曜日

10月ですね

水曜の祈祷会後から金曜まで、風邪で寝込んでいました。
天候の変化と夏の奉仕疲れが出たようです。
体調悪い時には、食事に気を遣わなければいけないのに、
金曜日は、冷蔵庫の中身がほぼ空になってしまい絶望しましたが、何とか乗り切れました。
(いつ寝込んでもいいように、今日、玉子がゆを常備品として買って来ました。)

で、昨日ようやく回復。
まだ本調子ではありませんが、今日は無事に礼拝に出席できます。
感謝。

今月は礼拝と祈祷会で説教が1本ずつあって、
月末にはフィリピンへ行くので、
体調管理に気をつけて過ごしたいと思います。

*神学生になって半年が経ちました

2011年9月29日木曜日

説教#6:「約束の民」(たまちゅう合宿#1)

9月16〜17日にKGKの多摩ブロックと中央線ブロックの合同合宿(略して「たまちゅう合宿」だそうだ)に、講師として参加してきました。「派遣意識」というテーマとエフェソ4:1がテーマ聖句として与えられ、当日は2回語る機会を与えられました。祈りに覚えてくださった皆さん、感謝します。日大合宿同様、合宿でした説教を少しずつ公開していきます。

#1「約束の民」こちらで説教が聞けます)
聖書 出エジ1:22〜2:10、エフェソ4:1〜4
日時 2011年9月16日(金)
場所 KGK たまちゅう合宿(大沢地青少年センター)

【はじめに:派遣意識】
今回、派遣意識というテーマについて、共に合宿を通して考える機会が与えられています。
KGKでは、そのスピリットとして、派遣意識を掲げ、
「神があなたを今いるその学校へと遣わしているんだ」と言っていますが、
実際問題、私たちはこの神の派遣を、神の召しをどのように考え、受け取ればいいのでしょうか。

今回、エペソ4:1の「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい」(新改訳)というテーマ聖句が与えられました。
私たちに与えられた召しとは何なのでしょうか。
今、この時代に生かされ、この場所にいる。
学生として、大学や短大、専門学校などで学んでいる。
それぞれに帰る家庭や教会があり、
多くの人々との輪の中で、私たちは生きています。
私たちが今、この場所で生かされていることにどのような意味があるのでしょうか。
今回の多摩・中央線ブロック合同合宿では、
モーセというひとりの信仰者と、彼の属していたイスラエルという共同体を通して、
自分たちの召しについて共に考えていきたいと思います。

2011年9月26日月曜日

Macじゃないよ、アルバムだよ

先週の土曜日、久しぶりにshine(以前僕がやっていたバンド)のメンバーで集まりました。
僕ら、練習が終わるとみんなでよくラーメンを食べに行っていたので、
久しぶりにみんなでラーメンを食べに行きました。
学生時代よく行っていたラーメン屋だったこともあり、とても懐かしく感じるときでした。

そこでこんなものを手に入れました。

MacBook?

一瞬、MacBookに見えますが、アルバムです。
実は今回の集まり、ライブやCDなどの売上で余ったお金を使って作成したアルバムを受け取るのが目的でした。(頑張ってつくってくれたリーダーSに感謝)


アルバム表紙
早いもので、活動休止から1年半。
アルバムを見ていると、自分自身を成長させてくれたのはこの交わりだったなと改めて気づかせてくれます。
そして、「青春だね」って言いたくなる。
それなりに照れくさいんです。
アルバムもそうだけど、「shine」は一生の宝物です。

懐かしのレコーディング合宿
最後はみんなでお互いのアルバムに寄せ書きして、解散しました。

許されるなら、また同じメンバーで一緒に演奏したいものです。

*見たい人は僕かメンバーまで。自慢しますw

2011年9月20日火曜日

説教#5:「愛のとりなし手」(日大KGK夏合宿#3)

#3「愛のとりなし手」こちらで説教が聞けます)
聖書 創世記18:16-33、Ⅰコリント13:1-13
日時 2011年9月2日(金)
場所 日大KGK夏合宿(津田沼保守バプテスト教会)

【はじめに:ソドムとゴモラ】
私たちは日々、この世界の罪や悪の現実を目の当たりにしています。
私たちの生きるこの世界は、モラルが低下し、不義で溢れています。
人々の罪で溢れ、不正や争いごとが絶えません。
今日のこのテキストに出てくるソドムとゴモラという町は、
聖書において、罪に溢れた世界、堕落の象徴として頻繁に出てくる町です。
そこは不正や悪がはびこりる、不道徳な町でした。
このソドムとゴモラについて、エレミヤ書にはこのように書かれています。
エルサレムの預言者たちの中にも、恐ろしい事をわたしは見た。彼らは姦通し、うそをついて歩き、悪を行う者どもの手を強くして、その悪からだれをも戻らせない。彼らはみな、わたしには、ソドムのようであり、その住民はゴモラのようである。(エレミヤ23:14)
ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、その罪はきわめて重かったのです。

2011年9月18日日曜日

モレノ#7:「初の合宿講師」

教会月報『モレノ』(Monthly Report of the church of the Nazarene in Oyama)に掲載した原稿をアップします。

                               

初の合宿講師』(教会月報「モレノ」2011年10月号掲載)

いつもお祈り感謝します。夏の奉仕報告第二弾として、今回は日大合宿の報告を短くしたいと思います。

【夢】
9月1~3日、日大KGK(キリスト者学生会)合宿に講師として参加してきました。卒業してからこんなにも早く講師として合宿に呼ばれるとは思ってもいなかったので、正直、驚きでした。しかし、これは僕がこっそり抱いていた夢でもありました。卒業後、合宿の講師としてこの交わりに帰ってくる。予想以上に早い夢の実現でした。説教者としてまだまだ未熟な僕を、彼らが呼んでくれたことに心から感謝しています。

【関係の中で】
日大合宿では「祈り」をテーマに4回の説教を依頼されました。今回の合宿は、「関係」という言葉をキーワードに説教を準備しました。祈りは、神との「関係」、隣人との「関係」という視点で聖書箇所を選び、合宿へと臨みました。
合宿当日、説教をしていて気付かされたのは、僕自身が日大KGKのメンバーとの「関係」の中で説教をしていることでした。夏季派遣中にした説教とは、まったく違う印象を覚えながらの説教でした。夏季派遣では、はじめて会う人たちに対しての説教だったので、準備の段階からとても難しさを感じていました。しかし、この合宿での説教奉仕は、これまで一緒にKGKで活動してきた、気心知れたメンバーに対してのものだったので、とても語りやすさを感じました。それだけではなく、今回の奉仕は、彼らとの「関係」の中で言葉を紡いで語ることのできた奉仕の時でした。交わりの中で言葉が深められていくことを強く感じました。

【学びの意味】
今回、合宿に講師として呼ばれたのは、僕自身にとってとても大きな意味がありました。神学校で学んでいる意味を再確認できたからです。自分が今学んでいることが、ナザレン教団以外の人たちにも意味があることだという事を実感できました。小山教会や三軒茶屋教会、ナザレン教団の人たちだけでなく、今まで関わってきた一人ひとりの顔を思い浮かべながら、後期からの神学校での学びがスタート出来ることをとても嬉しく思っています。

2011年9月1-3日 日大KGK夏合宿

【お祈りください】
・10月26~30日にフィリピンへ行くことになりました。ナザレン教団のアジア・パシフィック宣教指導者カンファレンスに参加予定です。準備、及び、期間中の学びや生活が守られるように。
・後期授業は10月4日から開始予定です。神学校での学びのために。

2011年9月16日金曜日

夏休み最後の奉仕

いよいよ夏休み最後の奉仕です。
ここまで体調を崩さずにやってこれて本当に感謝しています。
今日から1泊2日、KGKの中央線・多摩ブロック合同合宿に参加します。
講師として2回の説教予定です。
学生時代、あまり関わることのなかったブロックなので、
卒業後こうして交わりが許されたことに驚いています。
出会うひとりひとりとの交わりを感謝し、楽しみにしつつ、臨みたいと思います。

お祈りください。

*これから荷造りして、1時間半後に出発です。

2011年9月13日火曜日

説教#4:「ひとり、神の前に進み出る」(日大KGK夏合宿#2)

#2「ひとり、神の前に進み出る」こちらで説教が聞けます)
聖書 創世記32:22-32、コロサイ4:2
日時 2011年9月2日(金)
場所 日大KGK夏合宿(津田沼保守バプテスト教会)

【はじめに:祈りは生き方と結びついている】
昨夜、“lex orandi, lex credendi”(レークス・オランディ、レークス・クレデンディ) という言葉を紹介しました。
「祈りの法則は信仰の法則」という意味のこの言葉は、
時に”lex vivendi”(レークス・ヴィヴェンディ)、「生活の法則」という意味の言葉が後に付けられて語られます。
祈りの法則は信仰の法則、信仰の法則は生活の法則なのです。
私たちの祈りが私たちの信仰と結びついているならば、
生活、つまり生き方と結びつかないわけがありません。
今朝私たちに与えられたテキスト、創世記32:22-32は、
ヤコブの人生の転換点と言える、とても重要な場面です。
ヤコブが神に向かっていく姿から、私たちは祈りについて教えられたいと思います。

2011年9月10日土曜日

10月にフィリピンへ行きます

10月末にフィリピンで開催される、ナザレン教団のアジア・パシフィック宣教指導者カンファレンスというものに急遽参加することになりました。

約10年ぶりの海外になるので、パスポートの申請をしなければなりません。
多分間に合うと思いますが、
出来る限り早くパスポートが取得できるようにお祈りください。

2011年9月6日火曜日

説教#3:「神の約束を見つめて」(日大KGK夏合宿#1)

9月1〜3日に日大KGK夏合宿に、講師として参加してきました。
"Let's pray"というテーマと、テーマ聖句としてコロサイ4:2が与えられ、
当日は4回、語らせて頂きました。
祈りに覚えてくださったみなさん、感謝します。
合宿でした説教を、少しずつ公開していきたいと思います。
*普段は新共同訳聖書を使っていますが、今回の日大合宿では、参加者全員が新改訳聖書を使用していたので、新改訳聖書第三版から説教準備しました。

#1「神の約束を見つめて」こちらで説教が聞けます)
聖書 創世記32:3-12、ヨハネ3:16
日時 2011年9月1日(木)
場所 日大KGK夏合宿(津田沼保守バプテスト教会)

【はじめに:信じているようにしか、祈れない】
今回の日大合宿は、「祈り」というテーマが与えられました。
私が大学に入学し、この交わりに加えられる前から、日大KGKは祈りを大切にしている学内グループでした。
そんな日大KGKに集う私たちにとって、
そして何より、キリスト者である私たちにとって、
祈りというものはどのようなものなのでしょうか。
毎日のディボーションのとき、
困難に遭うとき、
喜びのとき、
周囲の人々をとりなす必要を覚えたとき、
病気のとき、
礼拝のとき、
食事のとき、
寝静まるとき、
学内聖研のとき、
祈り会のとき、
何か行動を起こそうとするときなど、
様々な時に、様々な場所で、様々な状況下で、私たちは神の前に祈りを捧げています。
祈りというものは、私たちクリスチャンにとって実に日常的なものです。
そんな祈りについて考える上で、その導入として、ケレスティヌス1世という5世紀のローマ教皇の言葉を紹介したいと思います。
“lex orandi, lex credendi”(レークス・オランディ、レークス・クレデンディ)
これは、「祈りの法則は信仰の法則」という意味の言葉です。
この言葉は、私たちの「祈り方が信じている事を決定する」ということを意味しています。
信じているようにしか祈れない、と言い換える事もできるでしょう。
では、私たちは何を信じているのか。
何に祈っているのだろうか。
当然、ここに集う私たちは神を信じている。
そして、神に祈っている、と答えるでしょう。
では、その神とはどのようなお方でしょうか?
改まって聞かれると、とても難しい質問です。
祈りについて考えるとき、私たちは、「神とはどのようなお方なのか?」という問いに出会うのです。
私にとって、神はどのようなお方なのか。
その答えが深まれば深まるほど、自らの祈りが深められていきます。
今晩、私たちは創世記32:9-12のヤコブの祈りを通して、共に祈りについてみことばから聞きたいと思います。

2011年9月3日土曜日

日大合宿、無事に終わりました。

2泊3日の日大KGK夏合宿が無事に終わりました。
今回、初の講師としての奉仕で、不安も覚えたりしましたが、
4回の説教がすべて守られました。
お祈り感謝します。
とにかく今は寝たいです。
なので、報告は後日にし、
今日は明日に備え寝ることにします。
おやすみなさい。

2011年8月26日金曜日

帰省と喜声

8月に予定していた奉仕が無事に終わり、先週末から水曜日まで実家に帰省していました。
久しぶりの我が家は、とてもリラックスできます。
でも、その反面、勉強はまったく手つかず。
神学校に帰ってきて、9月提出予定の宿題の量が思ってたより多くて、びっくりしました。
帰省期間を短めに予定しておいて助かりました。
これからがんばります。

そうそう、両親の支援もあり(感謝)、
帰省中に念願のMacBook Proを購入することができました。
作業のしやすさに驚いています。
ずっと気になっていたevernoteも導入し、
現在、日大合宿の説教準備中です。

さて、そろそろ9月です。
感謝なことに、9月はKGKでの説教奉仕が多く与えられました。
下記の予定です。お祈りください。

9月1-3日 日大KGK夏合宿
9月16-17日 中央線・多摩ブロック合同合宿

2011年8月21日日曜日

モレノ#6:「召しを新たに」

教会月報『モレノ』(Monthly Report of the church of the Nazarene in Oyama)に掲載した原稿をアップします。

                               

召しを新たに』(教会月報「モレノ」2011年9月号掲載)


7月30日(土)~8月8日(月)に山陰地区へ行って来ました。教会のみなさんの祈りに支えられ、無事に10日間の夏季派遣を乗り切ることができました。お祈り感謝します。今回は短く今回の夏季派遣の報告をさせて頂きます。

【自分にとっての「献身の証」】
夏季派遣が終ったからこそ書けることなのですが、正直言うと、今回の派遣はあまり乗り気ではありませんでした。というのは、献身の証(こちらに掲載しています)をする機会が多かったからです。
僕が自分自身の献身を話すとき、召しの御言葉(ヨハネ21:15-19)と共に、教会の転会について語ることを避けることはできません。20歳の時、生まれた頃から通っていた教会から小山教会へ転会しました。その事実は決して変わることがありません。そして、その事は僕の心の内に深く刻まれています。これまで献身の証をする機会が与えられ、その中で教会の転会の話をするたびに僕の心は痛みを感じていました。きっと、この痛みを訪れる教会で毎回感じる。それを思うと、初めて訪れる地、初めて訪れる教会、初めて会う人たちとの交わりを楽しみにしながらも、なかなか今回の夏季派遣に前向きな気持ちで臨む気にはなれませんでした。
7月29日、そのような思いを抱きながら、僕は夜行バスに乗り、山陰地区へと旅立ちました。

【はじめての礼拝説教】
夏季派遣では、礼拝説教の奉仕をさせて頂く機会が与えられました。そのため、説教箇所を決めてから、そのテキストと向き合う日々でした。選んだテキストはⅡコリント12:7-10。パウロは「とげ」を与えられ、そのとげを通して弱さの内に働くキリストの力に気付き、それゆえに自分の弱さを誇るという箇所です。夏季派遣中、このテキストと向き合い続けました。
僕にとっての「とげ」とは、もちろん、教会の転会でした。これが僕に痛みを与え続けていました。この「とげ」が与えられている理由は何なのだろうと、改めて考えなおす日々でした。

【召しを新たにされていく】
今回の夏季派遣は、4つの教会(出雲、松江、久村、米子)で献身の証、2つの教会(出雲南、木次)で証を交えた説教をする機会が与えられました。予想通り、僕は各教会で証をする度、胸が痛みました。「とげ」が今まで以上に深く突き刺さるのを感じました。しかし、証をする毎に、今抱いている痛みを前向きに捉えられるようになっていることにも気付かされました。自分の証の中に書かれている「あなたが痛みを覚える場所に、神様は同じように痛みを覚えていて、そこにあなたを遣わされる」という言葉から励ましを受けたのです。もちろん今も、そしてこれからも痛みは覚えるのでしょう。しかし、この痛みが教会に目を向けさせ、主に喜ばれる教会を建て上げよと僕の背中を押し続けています。主が愛されたように教会を愛せよ、と。御言葉と共に、主はこの「とげ」を通して、僕に語られていました。
このようにして、自分の献身の証と10日間の夏季派遣を通して、自分の召しを再確認し、その召しを新たにされました。「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネ21:17)、「わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:19)という主イエスの言葉を改めて受け取ることが出来ました。日々、自分に与えられている召しを確認しつつ、与えられている務めに喜びをもって励みたいと願います。
献身の証を語る機会が多く与えられていたことを心から感謝しています。主の支えと、教会のみなさんの祈りに感謝しつつ。

涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。(詩編126:5,6)

2011年8月13日土曜日

説教#2:「痛みを伴う歩み」


「痛みを伴う歩み」
聖書 詩編126:5-6、Ⅱコリント12:7-10
日時 2011年8月7日(日)
場所 出雲南教会、木次教会


【はじめに:痛みを伴う歩み】
私たちは毎日、多くの「痛み」を抱えながら生きています。
それは、持病や怪我といった身体的な痛みかもしれません。
身体的な痛みは、私たちの生活に制限を与えます。
今まで出来たことを出来なくしたり、
それによって、諦めなければならないことが出てきたりするなど、
その痛みは、時に私たちの心とも関係してきます。
また、それは友人や家族など、周囲の人たちとの関わりの中で受けた傷による、この心の痛みかもしれません。
人それぞれ抱えている「痛み」は様々ですが、
多かれ少なかれ、確かに私たちの内に痛みというものはあります。
私たちは、ある程度の痛みは、受け入れることが出来るにしても、
それが積み重なってきたり、
予想外のタイミングや、想像以上の痛みだった場合、
困惑し、落胆してしまいます。
そして、次第に問いが生まれてきます。
一体、この痛みにはどのような意味があるのか。
なぜ私に、と。

【パウロの抱えた「痛み」】
今日、私たちに与えられたこの箇所で、著者パウロは「ひとつのとげが与」(12:7)えられたと語っています。
パウロに与えられたこの「とげ」とはどのようなものだったのでしょうか。
パウロのいう「とげ」が何なのかを私たちは正確に知ることは出来ません。
しかし、「身に一つのとげが」という言葉から、肉体的疾患を彼は患っていたと解釈することが出来ます。
実際、パウロに与えられたとげがどのようなものであったにせよ、
このとげが痛みを伴うものであったことは明白です。
彼はこのとげによって痛み苦しんでいました。
パウロは、この痛みにより、多くのストレスを抱えたことでしょう。
眠れぬ夜もあったかもしれません。
肉体の不自由さを覚え、自分自身に苛立ちを感じるときもあったかもしれません。
そして、何より、このとげによって与えられている痛みにより、
自分の宣教が妨げられている、制限されていると感じたかもしれません。
このとげが自分の宣教の枷となっている、と。
それを思うと、「これを私から去らせて」(12:8、新改訳)欲しいと願う、
パウロの三度の祈りの必死さが伝わってきます。
パウロのこの祈りは、十字架に架けられる前夜、イエスがゲツセマネで祈った、
「この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)という三度の祈りを思い起こさせます。
キリストが取りのけて欲しいと神に願った杯、それは十字架でした。
本質的には、類似しているとは言い切れませんが、
パウロの祈りもイエスの祈りと同様に、本気の祈りでした。
自分の与えられた「とげ」について、神のみこころを求める真剣な祈りでした。

【「とげ」の与えられた理由】
では、パウロにはなぜ、この「とげ」が与えられたのでしょうか。
なぜ、彼は苦しまなければいけなかったのか。

この「とげ」はそもそも、「サタンから送られた使い」(12:7)が彼に与えたものだから、そこに意味を見出すことなど不可能なことなのでしょうか。
パウロがあまりにも大胆に福音を語るため、サタンが肉体のとげによって彼の働きを妨げようとしたのかもしれません。
しかし、旧新約聖書を通じて、サタンは神が許された以上のことをする力は持っていないことは明らかです。
ひとつ例を挙げるなら、イエス・キリストの十字架を挙げることができるでしょう。
キリストを十字架に架けたのは、私たちひとりひとりです。
私たちの罪ゆえにキリストは十字架に架けられました。
それとともに、サタンはユダに働きかけ、キリストが十字架に架かるように仕向けました。
神の子が死ねば(神の子が救うべき人間たちによって殺されれば)、人の救いなどありえず、
それは絶望でしかないかのように思えます。
しかし、サタンのこの行いは、キリストの贖いによって罪人を救うという神の目的に奉仕しました。
神の子が十字架上で死んだということは、
私たちひとりひとりの罪を赦すために、まったく罪のないイエス・キリストが私たちひとりひとりの罪をすべて背負って死なれたということを意味していました。
このようにして、サタンの力は神の目的に奉仕しているのです。

このことから、サタンがパウロを「とげ」を通して痛めつけたという出来事は、神が目的をもって許されたことだったと知ることができるでしょう。
そして、その理由をパウロは知っている。
この「とげ」によって与えられた痛みを通して、パウロは神の目的へと導かれたのです。
すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)
パウロはこの痛みを通して、自分自身の弱さを思い知ったことでしょう。
自分の弱さに絶望する中で、神様がパウロに語られた言葉が、
「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中にこそ十分に発揮されるのだ」という言葉でした。
パウロは弱かった。
しかし、神の恵みは、パウロの肉体的疲労に対して十分でした。
彼はこの恵みのゆえに働き続けることが出来ました。
神の恵みは、肉体的・精神的苦痛に対して十分でした。
彼はこの恵みのゆえに、Ⅱコリント11:24以降に記されているような、迫害に屈することなく、宣教のわざに励むことが出来ました。
キリスト・イエスにある神の恵みが、パウロを覆っていたのです。
だから、彼は自分の弱さを誇ることを喜びました。
しかし、それは彼が弱さ自体を喜んだというわけではありません。
パウロが誇ったのは、彼自身の弱さにあって経験したキリストの力でした。
このとげは、パウロが自分自身の力から神の恵み、キリストの力へと目を向けることを可能にさせたのです。

【痛みに目を向けるとき】
パウロに与えられたとげは、自分の弱さを見つめると共に、
他のものにも目を向けさせました。
彼はキリストを拒み、福音に敵対するユダヤ人たちを見つめ、痛みを覚えていました。(ローマ9:2)
彼は、同胞であるユダヤ人たちの救いを切に願っていました。
待ち望んでいたはずのメシアであるキリストがこの世に来られたのに、
彼らはキリストを信じず、寧ろ、信じるキリスト教徒たちを迫害しました。
この事実が、彼の心を痛め、宣教へと導いていきました。

また同様に、異邦人たちに対しても痛みを覚えていました。
宣教旅行で赴く地において、彼が見た現実は悲惨なものでした。
異邦人の使徒として立てられた彼の見つめる先には、痛みがありました。
それは、彼を遣わした神が覚えておられる痛みでもありました。

そして、教会。
パウロは教会の不一致を見つめ、痛みを覚えました。
そこにある争い、裁き、不道徳などに直面しました。

パウロは、これらの痛みを隅に置いておくことはできず、
ユダヤ人たち、そして異邦人たちのもとへ行き、福音を伝えに行ったのです。
そして、教会に対しては多くの手紙を書き、機会が許されれば実際にその場所に足を運びました。

はじめに触れたように、私たちにも多くの痛みが与えられています。
「とげ」という言葉はギリシア語で「スコロプス」という言葉が使われています。
この言葉の元の意味が(地中に打ち込んで目印や支柱にする)「杭」を意味しているように、
このとげを通して与えられる痛みは、杭のように私たちの心を突き刺します。
なぜ、この心に突き刺さるのか。
それは、神様が私たち自身の弱さの内に働かれる、キリストの力を経験させたいからです。
そして、私たちが神様のみこころを求めて、この世界を見るとき、
神様ご自身が心を痛めておられるところに、痛みを覚えることがあります。
「ここに目を向けよ」と、主は私たちに果たすべき務めを教えるために、私たちの内に杭を打たれるのです。

【証】
私にとって、痛みを覚える場所は教会でした。
二十歳の時にそれまで通っていた教会から、小山教会に転会をしました。
以前通っていた教会について、ここで多くを語ることは控えたいと思いますが、
そこで多くの傷を負いました。
教会を変えたという事実は、ずっと変わらない事実として残ります。
常に私の内に、いわば杭のように突き刺さったままでいます。
この痛みが、私に教会とは何かという問いを与え続けています。
そして、直接献身の召しのみことばであるヨハネ21:15-18の言葉と出会ったとき、悩みを覚えながらも、その召しを受け取る者へとされていきました。

【痛みを担い合う共同体】
私たちには主から与えられている務めがそれぞれあります。
そして、その務めの中で、それぞれ痛みを抱えながら生きています。
私たちがこの痛みと向き合うとき、弱さとも直面します。
この弱さの中に、確かに神の恵みが働くことを信じ、日々の務めを果たしていきましょう。
その務めとは、祈りかもしれません。
具体的な働きかもしれません。
そして、それは時に辛く、過酷なものかもしれません。
時に、一人では担いきれないと思えるようなものかもしれません。
そのようなとき、「いいから、やれ」とは神様は言われません。
この痛みを伴う歩みにおいて、
私たちはひとりで歩めとは言われていません。
キリストが私たちと共に痛みを担い、弱い私たちに力を与えてくださいます。(12:10でパウロは力強く宣言している。)
そして、私たちには痛みを共に担い合う事ができる、教会という共同体があります。
祈りによって支え合い、慰め合い、愛し合う共同体です。
この共同体に支えられ、慰められ、私たちはこの世へと出て行きましょう。
痛みによって、私たちは多くの涙を流すことでしょう。
しかし、やがて「束ねた穂を背負い、喜びのうたを歌いながら帰ってくる」(詩編126:6)時が訪れると信じつつ、共に歩み続けていきましょう。

2011年8月11日木曜日

ティーンズキャンプへ行ってきます

先日、無事に夏季派遣を終え、帰ってきました。
2日ゆっくり休み、今日から3日間、ナザレンのティーンズキャンプ(関東地区)に参加してきます。
ギターと賛美リード、証の奉仕予定です。
参加する中高生たちの信仰の成長のためにお祈り頂けたら幸いです。

2011年8月10日水曜日

説教#1:「キリストにある平安を抱いて」

説教原稿を掲載します。
ひとりでも多くの方に福音が届けられるように用いられたら幸いです。

                               

「キリストにある平安を抱いて」こちらで説教が聞けます)
聖書 詩編4:1-9、マタイ8:23-27
日時 2011年8月6日(土)
場所 木次教会 家庭集会

【はじめに:恐れを抱きながら】
私たちは生きる上で、様々な恐怖を抱きます。
幼い頃は、暗闇を恐れました。
夜中、家の中をひとりで歩くのが怖いと思った経験を、恐らく誰もが持っているかと思います。
時が経ち、少しずつ大人になっていくと、私たちは将来のことで悩みだし、ときに恐れを抱きます。
先の見えない、不確かな将来に対する恐れです。
また、人を恐れます。
それは学校の友人、会社の上司、バイト先の同僚、近所のあの人など、
人付き合いの中で、恐怖を覚える時もあります。
そして、未知への遭遇。
テレビや新聞を騒がす大事件、大震災、
そして、死。
私たちが意識するにしても、しないにしても、
私たちに恐れを与えるものはとても多くあります。

【キリストに従った弟子たち】
今日、私たちに与えられたこの箇所では、イエス様の弟子たちが「恐れを抱いた」ということが記されています。

彼らは、イエス様のあとに従って、舟に乗りました。
23節にある、「従った」という言葉は、キリストの後ろを「あちこちついて行く」という意味と、キリストの「弟子である」というふたつの意味があります。
この物語は弟子たちがキリストに「従う」ということから始まりました。
弟子たちにとって、舟に乗ることも「従う」ことでした。
この「舟」という言葉は、弟子たちの群れ、つまり、キリストの教会の象徴として使われる言葉でもあります。
キリストに従い、信仰を持った者たちが舟に乗った。
そのような意味で、この弟子たちの姿を、キリストを信じる私たちと重ね合わせて見ることが出来ます。

【嵐の中で死を見つめる】
舟に乗り込んだ弟子たちは、突然の嵐に襲われます。
このように困難は突然私たちに襲いかかってくるのです。
キリストを信じたから、その後は困難などない、ということはありえません。
私たちは以前と同様に、喜びの時も苦しみの時も経験します。
そして、依然として、私たちは恐怖を覚えます。
嵐という言葉は、本来「震動」と訳すべき言葉で、海が激しく動いたことを意味しています。
波は荒れ、舟を大きく揺らしたということでしょう。
この荒れ狂う波が、弟子たちを脅かしました。
弟子たちは恐怖を覚えます。
弟子たちは次第に、この舟は大丈夫なのだろうか、と心配し出したことでしょう。
この波によって、舟が沈んでしまうかもしれない。
あまりにも激しい嵐のため、舟は壊され、
荒れ狂うこの湖に、自分たちは投げ出されてしまうかもしれない。
舟から投げ出されてしまったら、自分たちは溺れ死んでしまう。
彼らは自分たちの死を見つめました。
死を見つめ、恐れを抱きました。

【主よ、助けてください】
しかし、そこに主イエスはおられた。
弟子たちはそれに気付き、近寄って、
眠っておられる彼を起こし、言いました。
「主よ、助けてください」、と。

これは弟子たちの信仰の言葉です。
弟子たちは知っていました。
主イエスの力を。
主イエス・キリストの父である、全能の神の力を。
詩編89篇9,10節では、こううたわれています。
万軍の神、主よ/誰があなたのような威力を持つでしょう。主よ、あなたの真実は/あなたを取り囲んでいます。あなたは誇り高い海を支配し/波が高く起これば、それを静められます。(詩編89:9,10)
そして、彼は自然を治めただけではありませんでした。
この「死」の問題も解決されました。
それは、十字架によってです。
キリストが私たち一人ひとりの罪を背負い、十字架に架かってくださったことにより、私たちの罪は赦されたのです。
「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23)
しかし、その死からの完全な勝利が、キリストの十字架を通して、宣言されているのです。
「神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです。」(ローマ6:23)

それゆえ、キリストの恵みのわざを喜び、
神の力を知り、神に依り頼む生き方をした、世々の信仰者たちは、
困難に直面した時、確信をもってこう祈ったのです。
「主よ、助けてください」、と。
神が私を絶望の淵から贖い出してくださるはずだという確信です。

「呼び求めるわたしに答えてください/わたしの正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください/憐れんで、祈りを聞いてください。」(詩編4:2)

【なぜ怖がるのか 信仰の薄い者たちよ】
しかし、それと同時に、この言葉は不信仰の言葉でもあります。
彼らはイエス様の力を、神の力を知っていました。
もちろん、信頼もしていました。
しかし、彼らは主イエスが共におられるのを忘れ、
目の前の嵐に恐れ戸惑ってしまいました。
彼らは死の恐怖に晒されているこのような状況下においても、
イエス様の力を信頼することができませんでした。
実際、私たちも目の前の現実にある困難に対して、恐れを覚えてしまうことが数多くあります。
そんな私たちに、主イエスの「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」という言葉が突き刺さります。
しかし、イエス様は、私たちのこの小さな信仰を責めるために、こう言われたのではありません。
この言葉には、愛が満ちあふれています。
なぜ、怖がるのか。
なぜ、恐れるのか。
わたしが共にいるではないか。
怖がることはない。
恐れることはない。
私たちに注がれる、主イエスの優しいまなざしと、この愛に満ちた言葉に、
小さな信仰しか持ち合わせない私たちは多くの慰めを受けるのです。
そして、また主への信頼を新たにされ、
確信と希望を持って、「主よ、助けてください」と願うように変えられていくのです。

【証】
私にとって、突然の嵐とは、20歳の冬に経験した教会の転会でした。
ある日、母が「明日、違う教会に行こう」と言い出したのです。
それは、20年間通っていた教会から離れるということを意味していました。
私の両親は教会の交わりで多くの傷を受けながらも、その教会へ行き続けました。
それは、幼かった私や2歳下の妹が、教会を転々とする親の姿を見て、
不信感を抱くことがないように、ひとつの教会に留まるという両親の信仰の決断でした。
私自身、いつからそれを思い出したかは覚えていませんが、
その教会で講壇から語られる言葉が、本当に御言葉に基づいているものなのか、という疑問をずっと持ち続けていました。

しかし、このことは、私にとって「教会とは何か」ということを考えさせる大きなきっかけとなりました。
この嵐の中、主は私と共にいてくださいました。
クリスチャンの友人の祈りに支えられ、この時を乗り越えることができました。
教会とは何か。
小山教会の交わりの中で、それを教えられ、多くの慰めを受けました。

教会を移ったその少し前に、私は召命のみことばであるヨハネ21:15-18の言葉を受け取ります。
教会の転会があったりするなど、悩みの中で決断し、今に至ります。

献身を決断したその直後、私は恐れに駆られました。
それは、本当にこのまま歩み続けても大丈夫なのだろうか。
自分は、伝道者として、牧師として本当にやっていけるのだろうか。
という不安でした。
しかし、主は言われた。
「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」
神様に信頼しきれていなかった自分に気付かされました。
私があなたを召したのだ。信頼せよと言われる主の声でした。
この言葉によって、私はこの心に平安を与えられました。

【イエスは眠っておられた】
「いったい、この方はどういう方なのだろう。」
主イエスが風と湖とを叱り、嵐を静める姿を目の当たりにした人々のうちに、このような問いが与えられました。
それは、聖書の読者である私たちが抱く問いでもあります。
イエス・キリスト、彼はいったいどういうお方なのか。

この箇所が語るイエス様の姿は、自然を治める権威を持っていることに目が行きがちです。
そしてもうひとつ、私たちの興味を引く、記述があります。
「イエスは眠っておられた」という言葉です。
イエス様は、舟で寝ておられました。
なぜ、寝ていたのだろうか。
これは私たちにとって、大きな疑問に感じます。
イエスは眠っていたのです。
まるで、嵐のない平穏な、いつもの湖の上で舟に乗っているかのように。

きっと、イエス様にとって、嵐は嵐でなかったのだと思います。
嵐の中でさえも、主は平安を覚えておられる。
それも、眠れるほどに。
そして、私たちに平安を与えようと招かれておられるのです。
「なぜ、怖がるのか」、と。
主イエスが共におられるから、私たちは恐れを抱くような状況に置かれても、平安のうちに身を横たえることができるのです。
「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」(詩篇4:8、新改訳聖書第三版)
【キリストにある平安を抱いて】
キリストは今も、私たちの舟におられます。
彼は、私たちの教会のかしらとして、共におられる。
恐れおののく私たちの日常に、平安を与えていてくださる。
恐れを抱くとき、愛をもって「なぜ怖がるのか」と言ってくださる。
愛のまなざしで私たちを見つめ、言われる。
「わたしがあなたと共にいる」(創世記26:24)。
だから、「安心して行きなさい」(マルコ5:34)、と。
キリストにある平安を抱き、希望を携えて、
私たちはこの世へと出ていきましょう。

2011年8月6日土曜日

音楽と僕#3:「バンド」

2002年7月、生涯きっと忘れないであろう2つのことがありました。
ひとつは、キリストを自分の救い主として信じたこと。
毎年夏に参加していた、奥多摩の夏キャンプで、
僕は受洗を決心した。
キリストの十字架の贖いが、自分のためだって実感することができた。

そして、もうひとつ。
その夏のキャンプで出会ったSと、
帰りの電車でした会話をきっかけにバンドを組んだことだ。
(彼にとってもそうだと思うが、)
若干、ノリに任せた(笑)この会話がなかったら、僕は全く違う道を歩んでいたと思う。

S:「クリスチャンでバンドやりたいなー」
僕:「じゃぁ、やるか」

そう、たったこれだけの会話で僕らはバンドを組むことを決めた。
バンドへの憧れと、仲間と一緒に音楽をやれることへの期待で胸はいっぱいだった。

それからメンバーを集め、7年半このバンドは続く。
メンバーの入れ替えがあったけど、最後まで僕らふたりは一緒に演奏することを許された。
Sに言わせれば、僕らは正反対な性格で、一緒にやってこれたのは信じられない、とのこと。

shine(シャイン)。
僕らは自分たちのバンドにこう名付けた。
「光」であるキリストを宣べ伝えるんだ、と。

当時の僕は、「光」という言葉の持つその意味をあまり深く考えていなかった気がする。
クリスチャンは誰もが、福音の光を携えて、キリストを証する者として召されている。
しかし、牧者として、光を証する者になろうとなんて、この頃は考えもしなかった。
この頃を振り返ると、自分が今、献身者として歩んでいるのが不思議でならない。


2011年8月3日水曜日

僕にはひとつの夢がある。
いや、あったという方が正しいだろう。
なぜなら、この夏、その夢が早くも実現するからだ。

僕が抱いていたひとつの夢は、
この春卒業した日大KGKの合宿に講師として足を運ぶ事。
驚いたことに、色々アクシデントが重なった(らしい)ため、
僕のもとに講師依頼の電話が掛かってきた。

驚きと共に、喜び。
卒業してまもなく、こんなにも早く呼んでくれるなんて。

テーマは「祈り」。
正直、どこまで彼らの期待に応えることが出来るかわからないが、
誠実に準備して、当日臨みたいと思います。


*「牧師になったとき、日大KGKの合宿に講師と呼ばれること」に変更しようかな笑

2011年7月29日金曜日

神学生な日々#6:「夏、始まる!」

まだ先の話だと思っていましたが、とうとうこの日が来てしまいました。
夏の奉仕が始まります。
今回はその第一弾、夏季派遣。
今晩、夜行バスに乗って、出雲へ向かいます。
2年ぶりの夜行バス、ちゃんと眠れるだろうか。
(前回、KGKの全国会議で大阪に行った時はほとんど眠れなかった)
そんな些細な不安を抱きながら、
初めて訪れる地に期待を膨らませつつ、出掛けていきたいと思います。

お祈り頂いた、説教準備も無事に終わりました。
8/5(金)か8/6(土)のどちらかにもたれる家庭集会と、
8/7(日)の礼拝(午前:出雲南教会、午後:木次教会)で説教をする予定です。
他の教会では献身の証をしてきます。
それぞれ覚えていただければ幸いです。

それでは、いってきます!


【夏の予定】
7月30日~8月8日 夏季派遣(山陰地区)
8月11~13日 ナザレン・関東地区ティーンズキャンプ(群馬)
8月16~19日 小学生第二キャンプ(OBC)
8月20~31日 日大KGK合宿説教準備
9月1~3日 日大KGK夏合宿(千葉)
9月6~7日 神学校研修会(千葉)
9月18~19日 ナザレン・関東地区聖会(千葉)

2011年7月27日水曜日

神学生な日々#5:「説教作成奮闘中」

先週の水曜に前期授業が無事に終了し、夏休みに入りました。
先週末は細かい用事が色々重なって、十分に時間を取れていませんでしたが、
今週から夏季派遣の準備が始まりました。
主に説教準備。
初めての主日礼拝での説教なので、不安と緊張が渦巻いています。
お祈り頂けたら幸い。

2011年7月17日日曜日

モレノ#5:「前期授業終了」

教会月報『モレノ』(Monthly Report of the church of the Nazarene in Oyama)に掲載した原稿をアップします。

                               

前期授業終了』(教会月報「モレノ」2011年8月号掲載)


【前期授業終了】
あと1日で前期の授業が終わります。ここまで体調も崩すことなく、毎日の生活も守られました。教会のみなさんのお祈りにいつも感謝しています。

【聖書をよく学ぶ者に】
4月は神学というものをどう勉強してよいかわからず、戸惑っていました。学ばければいけないことの量の多さに圧倒されていました。語学(ギリシア語、ヘブライ語、英語、ドイツ語)、聖書、教会史、組織神学、実践神学、何よりも神学の基礎知識を身につけなければいけないと焦りを覚えながら始まった学びだった気がします。
そんな僕にとって、5月の連休で読んだ『説教と説教者』(D.M.ロイドジョンズ)という本との出会いによって、強く励まされました。牧師として、説教者として立てられようとしている自分自身を改めて意識し、力強く背中を押されるには十分な内容でした。何より、聖書から教えられ続け、聖書をよく学ぶ者でありたいと強く思わされました。
そのため、最近は緒論の勉強に力を入れだしました。しかし、特に旧約は日本語で勉強することの限界を覚え、やむを得ず、旧約聖書緒論(学ぶために知っておくべき各書簡の全体像やそこで語られている神学、これまでの研究など)を英語で学ぶことを決心しました。この夏、僕に与えられたひとつのチャレンジです。明確な目標(近年の旧約聖書緒論の把握)があればあるほど、そのための手段(英語)は身につけやすいであろう事を期待しつつ、取り組んでいきたいと思います。英語を学び始めて10年経ち、ようやく火がついてきました。

【祈り】
6月は自分の祈りについて深く反省させられるときでした。東北でのボランティアを通して、如何に祈るべきところに心を注ぎきれていないかを痛感。そして、友人から贈ってもらった『祈りによる力』(E.M.バウンズ)という本を読み、「いのちを奪う説教は祈りを伴わない説教です。祈りがなくては、説教者はいのちではなく、死を生み出すだけです。祈りにおいて力のない説教者は、また人々にいのちを与える力も弱いのです」という言葉と出会う。これはかなりインパクトのある言葉で、自分自身の朝の祈りとみことばに聞く時を見直していくのに、十分な動機付けとなるものでした。

【交わりに支えられ】
神学校での生活は、ある意味で孤独との戦いです。他の神学生たちとも豊かな交わりが与えられているのですが、彼らには家族がいます。ふと気付くのは、自分はひとりであること。これは時に(一人暮らしをする以上に)寂しさを感じる環境です。しかし、これは神の前に一人で歩む訓練なのだと受け止め、生活する日々です。そして、そのような中、教会の交わりや学生時代に出会った友人たちとの交わりに僕は支えられていることに気付かされ、感謝を覚えます。

【そして、夏季派遣へ】
前期の授業が終わるとすぐ、夏季派遣への準備が始まります。夏季派遣では、後半に3回説教する機会が与えられているので、その準備のために夏季派遣の日まで空いた日を使う予定です。今回の説教奉仕は、初の礼拝での説教奉仕になります。正直、三軒茶屋教会での説教が、初だと思っていたので、不意を突かれた感が若干あります。しかし、与えられた機会に感謝して取り組んでいこうと思います。どの聖書箇所から、どのような言葉が与えられ、どのようにして言葉を紡いでいくのか、今からとても楽しみです。

2011年7月14日木曜日

あと3日

しばらく更新をサボっていました。

今日を含めてあと3日(7/14,15,20)で前期の授業が終了します。

レポート2本、小テスト2本、その間にCS説教。

頑張って乗り切ります。

2011年6月25日土曜日

夏の予定

ようやく夏の予定が確定しました。

7月25~29日 夏季派遣準備期間(証や説教の準備をする予定)
7月30日~8月8日 夏季派遣(山陰地区)
8月11~13日 ナザレン関東地区ティーンズキャンプ(群馬のどこか)
8月16~19日 小学生第二キャンプ(OBC)

そして、来週は月曜~金曜にボランティアのため東北へ行ってきます。
こちらも祈りに覚えて頂けたら幸いです。

2011年6月19日日曜日

モレノ#4:「あなたのパンを水の上に投げよ」

教会月報『モレノ』(Monthly Report of the church of the Nazarene in Oyama)に掲載した原稿をアップします。

                               

あなたのパンを水の上に投げよ』(教会月報「モレノ」2011年7月号掲載)

【あなたのパンを水の上に投げよ】
あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。(コヘレト11:1)
僕は毎朝、ディボーションの時として聖書通読をすると共に、最近はC.H.スポルジョンの『主の約束は朝ごとに』を読んでいます。この聖書の言葉は、6/1(水)に読んだものです。ちなみに、新改訳では「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出そう。」と書かれています。
「パンを水の上に投げる」なんてとてもナンセンスなことだと思うかもしれません。でも、実際、僕らは日々、パンを水の上に投げているかのような経験をします。そのようなことがとても多くあります。
しかし、この箇所は、主にあって僕らの日々の労は空しくなるということはないことを教えてくれます。「月日がたってから」、「ずっと後の日になって」、僕らはそのパンを「見出す」という神様の約束が聖書に書かれているのです。

【6年という月日――そこで見出したもの】
5月末に、2人の男子高校生と一緒に夕食を食べに行きました。実はこの2人、僕が高2のとき、奥多摩での小学生キャンプで初めて受け持った子たちなのです。彼らはもう高校3年生。出会った頃は小学6年生だった彼らも、6年という月日が流れた今、当時の僕よりも年上になっていました。
僕が高校生キャンプの奉仕が日程の都合上出来なかったため、彼らと会うのは2年振りでした。そして、キャンプ場以外で、つまりプライベートで彼ら会うのは初めてでした。これは、約6年キャンプ奉仕をしていて初めての経験だったので、とても感慨深いものでした。キャンプ場での「キャンパー」と「スタッフ」という関係で終わることなく、僕は彼らと「友」として会うことを許されたのです。
6年前に投げたキャンプ奉仕というパン。それはすぐに結果を見出すことはなかなかできないし、あったとしてもとても気付きにくいものです。小さな拙い奉仕であったにも関わらず、僕はそのパンを見出すことが許されました。主は、彼らの信仰を日々養ってくださった。
わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。(Ⅰコリント3:6-7)
今後、水の上に投げたパンをどのようにして見出していくのかが楽しみで仕方がありません。

【毎年の夏の楽しみ】
毎年続けて小学生キャンプの奉仕をしていると、「去年も参加した子」に出会う瞬間が嬉しくて仕方がありません。子どもたちと接する中で、彼らの成長を感じたとき、そこに大きな喜びを見出します。
今年の夏は、夏期派遣後に、小学生キャンプ(奥多摩バイブルシャレー)、関東地区ナザレン・ティーンズ・キャンプで奉仕をする予定になっています。祈りに覚えていただけたら幸いです。

2011年6月4日土曜日

神学生な日々#4:「古典に触れること」

最近、クラシックを聴く時間が増えてきました。
理由はいくつかありますが、何より大きいのは、無料で音源を手に入れることができること。
クラシック音楽の著作権が切れている音源が、アップロードされているwebサイトを見つけた(興味のある方は、こちらから)んです。
とりあえず、有名どころを落として、勉強の休憩時間や寝る前に聴いてる日々です。

気付かされるのは、古典に触れることの大切さ。
この曲はどういう背景を持っているのかな、とネットで調べてみると、
僕が普段聴く曲は、その曲が土台となって作られているなんてこともある。
いや、寧ろ、そういうものの積み重ねで今僕らが聴いている音楽は成り立っている。
ロック好きな僕が、プレスリーやビートルズ、ストーンズなどと出会ったように。
今を構成している要素を知るために、古典に触れていくことは意義深い。

どんな学問もそういう積み重ねで今が成り立っている。
だから、古典に触れろと言われるのだろう。
神学もそれと同じで、古典に触れることの大切さを思わされている。
キリスト教神学は、2000年もの歴史が積み重ねって今がある。
聖書の歴史も含めると、人類の歴史そのものを読み解くことになっていく。
神学をするということは、なんて深淵な作業なんだと驚かされます。
正直、3年じゃ足りない。
でも、3年ある。
焦らず、じっくり基礎を固めようと思う。

でも、授業がある学期中は、日々の課題をこなさなきゃいけないので、今、「ツン読」がどんどん増えているんです。
だから、自由に自分の読みたいものが読める夏期休暇が、今、とても待ち遠しい。

2011年5月29日日曜日

神学生な日々#3:「今週楽しみにしていること」

最近、1週間が早く感じるようになってきました。
これは、神学校での生活に慣れてきた証拠でしょう。
最近ブログの更新頻度が落ちてますが、元気にやっています。
(出来る限り、週1更新は守っていきたいと思ってます)

今週は3つ楽しみな事があります。

①キャンパーとの食事
明日、ふたりの男子高校生と一緒に夕飯を食べに行く予定です。
彼らは、僕が高2のときに、奥多摩の小学生キャンプで初めて受け持った子たち。
あれから6年が経っています。当時小6だった彼らは今は高3。
初めて会ったときの僕の年齡を越えている事に気づき、とても驚かされています。
そんな彼らと一緒にプライベートで食事の交わりが持てるのは感慨深いです。
これで元気をもらって、今週も一週間頑張る予定です。

②主事会セミナー
毎月第一金曜日に、KGK事務所へ行き、学び会に出席しています。
前期は、U先生による「学生伝道の歴史」についての学び。
毎回多くの事を教えられる学びのときなのです。
久しぶりに御茶ノ水に行く予定なので、時間があったら、神保町の古本屋さんにでも行こうかな。

③ALL日大
3月に卒業した日大。そこで一緒に学内活動をしていた仲間たちと再会します。
現役生と卒業生の合同祈祷会。
僕が1年生の頃に始まったもので、今年で5年目。
9月に行われるものが、記念すべき10回目だということを後輩たちは把握しているだろうか?笑
まぁ、それは置いといて、
今年は粋の良い新入生がたくさん与えられたようなので、
彼らに会えるのをとても楽しみにしています。
卒業してからも、この愛すべき交わりに戻って行く機会が与えられているのは、感謝なことです。
これを楽しみに、明日からの授業を頑張る予定です。


*報告
6/27(月)-7/1(金)に、東北へボランティアへ行くことになりました。
祈りに覚えて頂けたら幸いです。

2011年5月23日月曜日

モレノ#3:「スーツと聖書」

教会月報『モレノ』(Monthly Report of the church of the Nazarene in Oyama)に掲載した原稿をアップします。

                               

スーツと聖書』(教会月報「モレノ」2011年6月号掲載)

【慌ただしい連休】
今年のゴールデンウィークは、まさかの11連休でした。勉強に時間を割ける!と喜んでいたのですが、急遽葬儀の予定が入ったり、墓前礼拝、帰省、結婚披露パーティに出席するなど、慌ただしい連休になってしまいました。そのため、思うように勉強を進めることが出来なかったのはとても残念だったのですが、とても感謝な出来事がありました。

【破れたスーツ】
5/5(木)、KGKの主事の結婚披露宴パーティに出席し、その帰りに僕は階段を一段踏み外して転んでしまいました。怪我はなかったのですが、スーツのズボンが破けてしまいました。奉仕教会の三軒茶屋教会には毎週スーツで行っているので、急いで何とかする必要があり、予想外の出費と自分の失態に落ち込みながらスーツを買いに、翌日、賑やかな渋谷の街へと僕は出ていきました。
ズボンを修繕、もしくは新調できたらよかったのですが、店員さんに聞いてみたところ、スーツ一式新調する方がコスト的に良いことがわかったので、スーツを新調することになりました。

【備えられていたもの】
神学生になってから、僕はスーツで出掛ける機会が増えたのですが、どのように着こなせばいいのか(主にネクタイ、シャツの組み合わせが)を考えながら毎回スーツを着ていました。折角の機会なので、今回、店員さんに色々聞きながらスーツを選びました。
そのときした質問のひとつが、「僕は今学生で、キリスト教会の牧師になる勉強をしているのですが、日曜日に教会へ行く際、どのようなスーツがいいでしょうか?」という無茶な質問だったのですが、店員さんは真剣に考えてくださると共に、「実は、高校生のときキリスト教系の学校に行っていたんです」と教えてくれました。スーツを選びながら話をしていく中で「実は旧約聖書が好きだったんですけど、卒業するとき聖書を捨ててしまって、今は後悔しているんです」と店員さんは教えて下さり、翌日スーツを受け取りに行くとき、聖書をプレゼントする約束をしました。
どうにか翌日のスーツ受け取りまでに新品の聖書(新旧両約)が手に入らないかと、その日に会った人たちに聞いてみたところ、感謝なことにKGK(キリスト者学生会)の事務所で新改訳聖書第三版を無料で頂くことができました。
そして、翌日、三軒茶屋教会の案内(石川先生がわざわざ作ってくださいました!)を挟んだ聖書を店員さんに渡すことができました。すべてのことが、この店員さんに聖書を届ける働きに繋がっていたのだと気付かされました。
今回、まさかこのようにしてスーツの破れ目が、人と神とをつなぐ事につながるとは思いもしませんでした。「スーツを選ぶことにおいても、神の栄光を現す」ということなのでしょう。直接福音を語ることが許されたわけではありません。今の僕に見えることのみでいうならば、結果として与えられている事は、聖書と教会案内を渡したことのみです。きっと、それすらも神様がスーツの新調を通して用意していた事なのでしょう。すべてのことが備えられていました。聖書を渡すだけに終わらず、この店員さんがいつか教会に足を運ぶ機会が与えられることを心から願い、祈るばかりです。

【渋谷という街に遣わされて】
渋谷の街を歩いていると、この街ですれ違う多くの人々に福音を届けるのはとても困難に感じます。渋谷という街で地域宣教するということの難しさを感じずにはいられません。しかし、今回、地域宣教について深く考えさせられました。街で出会う人々との交わりを通して福音を宣べ伝える。それはどのような場所に置かれても、変わらずに僕らに求められているのでしょう。
だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(Ⅰコリント10:31)

2011年5月16日月曜日

神学生な日々#2:「ギリシア語はじめました」

11連休が終わり、先週から授業が本格的になってきました。
今年はM先生が以前から言っていた通り、ギリシア語と教会史が大変そうです。
なので、そこに力を注いでいく一年になりそうです。
ギリシア語を挫折せずに、この1年で習得できるようにお祈りいただけたら幸いです。

*聖書をギリシャ語で読める日が来るのが楽しみです^^

2011年5月10日火曜日

10年

先日、23歳になりました。

「大学入学して1年目。きっと働いているんだろうな」
と、僕は高校の頃思ってました。
まさかまだ学生だとは当時は思いもしなかった!笑
そんな「まさか」な日々を過ごしています。

ここ数年気付くことは、自分が昔の事を振り返るとき、
「10年前」という感覚が出てきた事です。
少しずつ、少しずつその頻度が増していく。

誕生日の日、twitterで中学時代の友人が、
「もう知り合ってから10年たってるとか、びっくり。」
と言っていて、驚きました。
(そういえば、小学生の頃からの友人たちは16年になるんだね笑)
何だか不思議な感覚を覚えます。

今後、これが「20年前」、「30年前」になってきて、
そうやって懐かしむ頻度が増える度、
また違った驚きを覚えていくんだろうと思います。
そういう意味で、歳を重ねることって楽しみだとも思うんです。
そうやって歳を重ねたとき、今僕の内にからし種程度しかない「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5:22,23)が、豊かな実を結んでいることを心から願う。


*23歳の抱負は、「良い基礎を築くこと」です。

2011年5月5日木曜日

動き出した時計

先日、実家に帰ったとき、かれこれ10年以上止まっていた時計の鐘が鳴っていて驚いた。
未だに続く余震の影響で直ったのだろう。
動き出した時計、その鐘を聞く度に幼少時代を思い出します。
小さい頃、あの鐘が鳴った時、家の中でその音を聞いていた事を。
いや、寧ろ今までこの時計が小さいころ動いていた事さえ忘れていた。
鐘の音で突然思い出した。
何が引き金となって、記憶を呼び戻すかもわからないのだな、と実感。
25年ぶりに東京に戻ってきて、たくさんの事を思い出しているという、
奉仕教会の牧師の言葉を思い出した。
(もちろん、思い出すもの全てが喜べるものではないのだろうけど、)
忘れていた記憶との再会。それはとても心踊らされる出来頃です。

2011年5月3日火曜日

連休前半戦

連休の前半戦が終わった。

連休初日は、教団(関東地区)の墓前礼拝へ出席。
5/1、実家に帰省。
翌日東京へ戻り、葬儀(前夜式、告別式)に出席。

慌ただしい日々だった。
その中で多くの涙と出会った。
僕は、大切な人を失った人たちに掛ける言葉を持ち合わせていない。
それがよくわかった。
しかし、人の無力さを覚える中で、
福音の与える希望は、確かに光り輝いていた。
姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。(ヨハネによる福音書11:3-5) 

2011年4月29日金曜日

最近思うこと#3:「カイロス――我慢と忍耐について」

以前、このブログでこれから考えたいこととして、「我慢と忍耐の違い」について書きましたが、先日、勉強していてなるほどと思うことがあったので、「最近思うこと」としてここに書き記すことにします。
*考察の過程として書くので、間違いもあると思います。
*佐藤敏夫「5章 摂理について」『キリスト教神学概論』を軸に記載します。

カイロス(καιρός)という「時」を意味するギリシア語があります。
類語として挙げられるクロノス(κρόνος)との違いは、クロノスが「線」であることに対して、カイロスは「点」であるということ。つまり、クロノスは「一定の期間」(period of time)を指すののに対し、カイロスは「ふさわしい時」(appointed time)を指します。

カイロスは二つの側面を持っています。
ひとつは「機会」という側面。これについて、佐藤敏夫は『キリスト教神学概論』(「神学概論」のテキスト)において以下のように語っています。
人が何かをするとき、神が定める「正しい時」があるというのが信仰の立場である。そこには、神がよしとするとき、すなわち、「正しい時」(right time)に着手しなければ、決して事はうまく行かないという考え方がある。昔の人は、そういう感覚を今の人よりずっと持っており、それゆえに着手すべき日を気にした。戦いを始める時、結婚をすると時、家を建てる時、大いにそういう感覚に支配された。 (佐藤敏夫『キリスト教神学概論』)
そして、もうひとつは「成就」という側面。
物事はカイロスがこなければ成就しないという感覚も、昔の人ほどもっていた。だから、子どもを教育して、一定の水準まで引き上げようとする際にも、一方では一生懸命そのために努力するが、他方、成就する時を待つという姿勢が生まれてくる。……これが忍耐ということである。(佐藤敏夫『キリスト教神学概論』)
コヘレト(伝道者の書)3章の記述を思い出しますね。
このようなカイロスの概念の喪失が現代の特徴であり、カイロスを「待つ」ことの喪失だと佐藤は書いています。

このカイロスを待つことの喪失を引き起こした原因は、
「時の支配者は誰なのか?」という問いがその答えを教えてくれる気がします。
時の支配者とは、創造主なる神である。
神は時間も創造されました。
人間が時の支配者であるということは決してありません。
しかし、現代人は時間の支配者となっています。
人々は、時間を対象化し、空間化し、計量化し、自由に合理的、計画的に使い、大きな成果を挙げてきたのは事実でしょう。しかし、それと共に、時間に追われ、時間の奴隷となっている状況にあります。現代人は時間の主人になったために、神こそが時間の支配者であることを忘れています。

自分の力で時を支配しようとし、何かを待つことが我慢なのかもしれません。
そして、神こそが時間の支配者であることを知り、耐えつつ待ち、待ちつつ耐えること、それが忍耐なのでしょう。

忍耐とは、神を覚え、「カイロスを待つ」ということ。
我慢と忍耐の違いは「時の理解」。

そんなことを考えさせられながら、日々学んでいます。
心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば 主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。(箴言3:5,6)

2011年4月28日木曜日

まさかの11連休

明日から僕のGWが始まります。
今年はまさかの11連休です。

GWにやりたいこと① 勉強
自由な時間がたくさん取れるので、
M先生が出した、教会史の課題を出来る限り片付けたいと思ってます。
教会史、なかなか楽しく学んでますが、
課題がとっても多いから大変です。
M先生が入学前から言っていた通りでした。
頑張ります。

GWにやりたいこと② 実家に帰省
折角なので、2日間だけ帰省します。
目的は国民年金の諸手続きです。
スムーズに出来たらいいな……
帰省する際に一番気になっているのは、
愛犬ぺろが僕の事をちゃんと覚えているかどうか、です笑

GWにやりたいこと③ ギター
最近弾く時間がなかったので、久しぶりに思いっきり弾きたいな、と思ってます。
出来たら久しぶりに曲もつくろうかな。

2011年4月26日火曜日

日々の感謝

気付けば、入寮から3週間が経ちました。
こっちに来てから、色んな人にお世話になっています。

一人で過ごす僕をいつも気に掛けてくれる神学生とその家族たち、神学校の先生方、
食料をたくさんくださる三軒茶屋教会の方々、
温かく迎えてくれた教団事務のD先生ご夫妻、
国民年金について、しつこく質問したのにも関わらず、丁寧に対応してくれた区役所のお姉さん、
道に迷った時そこにいた郵便配達のお兄さん、
お弁当をつくってくれたS先生、
笑いの絶えない11同期会世話役の交わり、
これなくして僕の生活は成り立たない、ナザレンの方々からの多くの献金、
両親からの宅配便、
祈り支えてくれる小山教会、
……などなど。

たくさんの人達を通して、日々の必要が満たされています。

感謝と喜びを覚えながら、頑張ってます。

2011年4月23日土曜日

音楽と僕#2:「ギター」

ギターとの出会いはいつだったかは覚えていない。
僕が幼い頃から、父がギターを弾いているのを見ていたからだ。
「いつか大きくなったら弾きたいな」と思いながら、彼の姿を見ていた気がする。
もしかしたら父のそんな姿に憧れをもっていたのかもしれない。

ギターを初めて触ったのは、小5の時だった。
当時の担任が学校でよく弾いていて、素直にかっこいいと思ったのが影響した気がする。
しかし、すぐに挫折した(笑)。

あれは小6の頃だったかな。
GLAY、ラルク、Aerosmith、Deep Purpleといったロックバンドの音楽に僕はハマる。
ずっと教会で賛美歌を歌ってきたり、クラシックピアノを弾いてきた僕にとって、
ロックのような「トゲトゲした音楽」は刺激的だった。
いつか自分もバンドを組んで演奏したい!という思いを抱くようになった。

そして中1の夏、僕はギターを始めた。

そういえば、最近ギターを弾いていない
当時、ギターを弾くのがとにかく楽しかった。
楽しすぎて、よく部活をサボっていた笑
(もっと部活を誠実にやればよかったと、少し後悔していたりする)

ギターを始める前後に、奥多摩福音の家主催の夏の中学生キャンプに参加をした。
これまで教会で賛美していたものとは違う賛美の形に対し、驚きと感動と興奮が起こったのを何となく(笑)覚えている。
賛美を通して、
当時、教会に行きながら、何処か毛嫌いしていたキリスト教というものを、
前向きに捉えるきっかけになったのではないかと、今では思っている。
そう、僕は割と単純な男だ。
そうやって、僕は奥多摩キャンプの常連さんになっていった。

そして、2002年7月僕のターニングポイントが訪れる。

(続く)


◇「音楽と僕」◇
#1「ピアノ」

2011年4月21日木曜日

これから考えたいこと#2:「神学すること」

昨日の新約緒論の授業で、聖書批評学について学びました。
様式的批評学であったり、編集史批評学であったり、それぞれ興味深い研究方法だったのですが、
その中でM先生が言っていた言葉が印象的でした。
今の聖書学の問題は、神学者が大学の教授であること。彼らの研究は、教会やその信仰に全く反映されるものでなくなってしまっている。
僕らは学問としての神学の追求にいかに狂酔しやすいことか。
神学は、教会に仕えなければならない。
神学は、信仰をより豊かに養う助けであるべきだ。
この言葉を聞いたとき、奮い立たせられる思いでした。

僕自身、何を自分の専門として、これから深めていきたいか考えている途中なのだが、
やはり、これから僕が自分の内に築きあげていく神学が、
教会形成のためにあるようにと心から願っている。

教会に仕え、教会の信仰を養う助けとなる神学をすること。
(恐らく、すべての牧師に言えることだろうが、)
それはこれからの僕にとってのライフワークだと思ってます。

2011年4月19日火曜日

食材マネジメント

自炊の難しさを痛感しているここ数日です。
何が難しいかって、食材の管理が難しい。

先日、使おうと思って買ったもやしを一度も使わずにダメにしてしまいました。
消費期限が2日切れた豚肉を食べました。(今のところ無事です笑)
水菜も半分くらい使って、ダメになりました。

もうちょっと計画的に買い物しなきゃダメですね…
賞味・消費期限の短いものは少なめに買うように心がけます。

*毎日ちゃんと食べているので、ご安心を笑

2011年4月17日日曜日

モレノ#2:「自己管理」

教会月報『モレノ』(Monthly Report of the church of the Nazarene in Oyama)に掲載した原稿をアップします。

                               

自己管理』(教会月報「モレノ」2011年5月号掲載)

【はじめての一人暮らし】
無事に引越しが終わり、4月4日(月)から日本ナザレン神学校の寮に住み始めました。僕以外の神学生はみんな家族がいるため、僕はひとりで神学校の教授室に住んでいます。神学校での寮生活は、僕のはじめての一人暮らしになりました。
自炊、洗濯、買い物、すべてを一人でやるのはとても大変なのだな、と感じています。自炊の経験はほとんどないので毎日苦戦しています。しかし、積み重ねていくことで、少しずつ少しずつ慣れていくことを信じ、頑張っている日々です。(こういう経験をすると、これまでの生活への感謝がより深く起こされます。)

【家計簿】
僕の神学校での生活は、ナザレン教団のみなさんの献金で成り立っています。そのため、これまで以上にお金を正しく管理しなければいけないと思い、4月から家計簿をつけはじめました。僕ら人間は他の多くのものも神様から管理をゆだねられているのですが、特に金銭管理は目に見えてその結果が見えてくるものだと思っています。削るべきところを削り、必要なもの(主に図書費)にお金を使うために今後も頑張っていきたいと思います。

【そして、事件は起きた】
そんな中、早速事件は起きました。それは自転車を買った日のことでした。
引越し後は、身の回りの生活品を揃えるためによく買い物へ出かけていたため、自転車を買った日も出費は多くありました。その日の家計簿を付けていたら、財布の中身と家計簿の金額が合わなかったのです。何と5,000円も足りなかったのです。もしやと思い、1万円札を出したのに5,000円と勘違いされてしまった可能性のあるお店に電話したところ、「ウチのレジは機械が自ら判断し、自動でお釣りが出てくるのでそのミスはあり得ない」とのことでした。自分は与えられたお金を正しく判断出来なかったと、祈りの中で嘆き、悔い改めるときでした。
結果的に、今回の件は僕の勘違いで家計簿と財布の中身は一致しました。ですが、それでよかったといって終わらせてはいけません。今回のことを通して、「ゆだねられたものを正しく管理する」ということをより強く意識させられました。僕ら人間は、この世界を正しく管理する(神様のつくられたものを正しく治める)事が求められています(創世記1:28、2:15参照)。
これから歳を重ねれば重ねるほど、委ねられるものは多くなっていくと思っています。だからこそ、今自分が委ねられているものひとつひとつを正しく管理する事が出来るように、日々祈り続けていきたいと思います。やがて主が計り知れない大きな計画に僕自身を用い、その働きの一端を委ねようとするとき、それを正しく管理することができないという事がないように、神学校時代の自己管理(金銭管理はもちろん、時間管理、体調管理など)を主の訓練として受けていきたいと思っています。
キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。(Ⅱテモテ1:13,14)
およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。(ヘブライ12:11)
2011年4月9日

2011年4月16日土曜日

神学生な日々#1:「チャペルとピアノ」

先週このブログで、今は人に聴かせられるほど上手くピアノを弾くことは出来ないけど、いつかコード弾きならセンスよく弾けるくらいになりたい(音楽と僕#1:「ピアノ」)と書きましたが、早速そのチャンスが訪れてしまいました。

神学校では、授業がある日はお昼前に礼拝の時間を持っています。
今年はピアノ奏楽が出来る神学生がいないので、少しだけ弾ける僕に出番が回ってきました。
当分弾くつもりはなかったのに、こういう機会が与えられるなんて、不思議なものです。
折角与えられた機会なので、精一杯頑張ってみたいと思います。

高校時代はこんな感じで弾いていた気がする(出典:flickr
高校時代に礼拝奏楽をやっていたおかげで、
賛美歌のレパートリーも何曲かありました。
ずっと弾いていなかったけど、案外指は覚えているものなんです。

ちなみに、これまで弾いた曲は以下の3曲です。

・栄光イエスにあれ
・いつくしみ深き
・歌いつつ歩まん

*やるからには、レパートリーを増やしたいな…

2011年4月11日月曜日

「聖書を中心として聖書に教えられるキリスト者になれ」

先日、KGKの主事会セミナーというものに出席しました。
学生伝道の歴史の学びだったのですが、そこで印象に残った言葉を紹介します。
「聖書を中心として聖書に教えられるキリスト者になれ。神学体系の上に立つキリスト者になってはいけない。(Be Bible Christians, and not system Christians.)」(チャールズ・シメオン)
この言葉を通して、常に「聖書を中心として聖書に教えられる」ことの大切さを改めて教えられました。
僕はこれからの神学の学びの上で、様々な神学体系に出会うと思います。
そんな僕にとって、この言葉と出会ってから、
神学生としての学びを始めることができることにとても感謝しています。

今日は11:00~入学式です。
自分の召しを吟味する3年間が始まります。
これからの学びにも期待しつつ、臨みたいと思います。

2011年4月10日日曜日

明日は入学式です

今日は今年1年間お世話になる、三軒茶屋教会での記念すべき最初の主日でした。
教会員のみなさんが温かく迎えて下さり、本当に感謝でいっぱいの一日でした。
温かな交わりのある良い教会でした。
僕自身まだ不慣れな感じがありますが、少しずつ少しずつ慣れていけたらと思います。
これからの交わりに期待しています。

そして、三茶での奉仕が終わった後、ティーンズキャンプの卒業式に顔を出すため、青葉台教会へ行って来ました。そこでは、まさかの僕の神学校入学を祝って頂けました。
僕は喜びと感謝をもって送り出されるのだな、と実感しました。中高生のみんなにも送り出されて、ナザレン神学校での学びがスタートできることは喜びです。


そして、明日はいよいよ入学式です。
これから3年間の学びのためにお祈り頂けたら幸いです!

*今年1年間のCS奉仕は、元気な男の子たちと分級をすることになります。小山教会ではとっても元気な女の子たちが相手だったので、とても新鮮な気分です。

2011年4月9日土曜日

月曜から授業がスタートします

タイトルにもあるとおり、月曜日から授業がスタートです。
今日は神学生のみんなで勉強部屋(閲覧室)と図書館の整理をしていました。ビフォア・アフターがわかる写真を掲載できたらよかったのですが、写真を撮り忘れてしまったので、断念。
少しずつ、これから始まる学びに向けて備えている今日この頃です。

ひとつ喜びの報告。
どうやら、神学校にいると本を頂く機会が多いみたいです。
今週は8冊も頂きました!譲ってくださった方々に感謝!


*明日は奉仕教会(三軒茶屋)初日です!

2011年4月7日木曜日

音楽と僕#1:「ピアノ」

全5回で「音楽と僕」について書きたいと思ってます。(もしかしたらもっと書くかもしれません)
これまでの自分の歩みを振り返り整理すると共に、今現在、どのような意味を見出しているかを書き綴っていこうと思っています。駄文になる可能性大ですが(苦笑)、どうぞお付き合い下さい。

                       

そんなに知られていませんが、実は僕、ピアノが弾けます。
実は礼拝奏楽もしたことがあります。
今はもう下手すぎて人に聴かせることなんてできませんが…
でも、いつかコード弾きならセンスよく弾けるくらいになりたいな、とこっそり思ってます。
そんな野望はあります。
その「いつか」がいつ来るのかはわかりませんが…笑

さて、そんな僕ですが、ピアノは大嫌いでした。
幼稚園の年中辺りから小6まで約8年間習っていたのですが、
ピアノを弾くのも、習いに行くのも、辛い時間でした。

幼稚園の頃は、ピアノ教室へ行くのが嫌で、
押入れの中に隠れたりしていたのを覚えています。
すぐに見つかって連れて行かれたり、
罪悪感からか、ぎりぎりの時間に渋々出てきたり、
…と、そんな風に当時の僕なりに抵抗していました。

何が嫌だったかというと、
通っていたピアノ教室には、女の子しかいなかったからです。
そういえば、その内のひとりがいじめっ子で、
僕はよく泣かされてたような気がします。
あの頃は泣き虫だった…笑
もしかしたら、ピアノを弾いていた環境が嫌だったのかもしれませんね。

これが僕にとっての音楽でした。
いや、「音を楽しむ」ことが出来ず、苦しんでいた。
だから、「音苦」かもしれない。(「苦音」のが自然な響きですね)

まぁ、そんな嫌いなピアノでしたが、
今の僕は、ピアノを習っていたことに感謝しています。
楽譜を読めるし。
ピアノのお陰なのか、ギターの上達が早かった。
作曲をする上での助けにもなった。

そのような技術的な事にばかり目を留めていましたが、
最近になって気付かされたのは、
これがあったからこそ今の自分が形成されている、という事実です。

ピアノ嫌い(≒音楽嫌い)がギターと出会い、
ギターとの出会いにより、音楽を好きになり、
それを通して、出会った信仰の友との交わりが深められ、
その交わりの中で幼き信仰が少しずつ少しずつ育まれ、
神の言葉への信頼へと結びつきました。
(この辺の事についてはこれから少しずつ書いていく予定です)

恐らく他にも多くのものが、今の僕の信仰形成に影響を与えているのですが、
今の僕自身が見えているものでいうならば、ピアノはその先駆けとなっていました。
神様の計画の奥深さに圧倒されっぱなしです。
わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。(エレミヤ29:11)
(続く)

2011年4月6日水曜日

自転車購入

昨日、無事に自転車を買うことが出来ました。
クロスバイクというタイプの自転車で街乗りするのには、とても良いみたいです。
神学校から三軒茶屋(奉仕教会)、御茶ノ水(KGK事務所)などへ自転車で行くつもりなので、
これからたくさん活躍すると思います。
(早速、明日に御茶ノ水へ行く予定です)
そして、大学はいってからずっと運動不足だった僕に、
自転車が程よい運動の機会をもたらすわけです。

買ってから買い物へ行ったり、諸手続きをしに行ったりしたのですが、とても良い乗り心地です。
彼(自転車)は僕の絶大の信頼を勝ち取りました。
今日も夕飯の買い物時に大いに活躍してくれることでしょう!

最後に、僕の新しい相棒の写真を掲載。


*この調子で「趣味はサイクリングです」とでも言ってみようかな笑

2011年4月5日火曜日

これから考えたいこと#1:「我慢と忍耐の違い」

先日、「健全な信仰をどう育てるか」(丸屋真也著)を読み終わったのだが、そこに我慢と忍耐について書いてあったのが印象的だった。
試練に対処する際の態度として、「我慢」は受動的で、「忍耐」は能動的な姿勢です。この違いは非常に大きなものです。そして、この「忍耐」というのは我慢と違って、一時的なものに終わらず、継続し、習慣化することで生まれるのです。
そう、我慢と忍耐は別物だ。
それらを混同しちゃいけないらしい。
でも、振り返ってみると、自分が「忍耐」と思っていた事が、「我慢」だったと気付いたりもする。

では、我慢と忍耐は具体的にどのような違いがあるのだろうか?
そこをもっと掘り下げ、自分の中で消化したいと思ってます。

*いくつになっても、わかってるようでわかってないことのが多い

2011年4月4日月曜日

新生活に向けて#3:「入寮と今後の予定」

今日、入寮予定です。
次に家に帰ってくるのは5月の連休か9月でしょう。

今日の夕飯について考えながら、出掛けたいと思います(笑)。

今後の予定は以下の通り。

【7日】
KGK11同期会世話役ミーティング

【8日】
神学校オリエンテーション
KGK主事会セミナー(学生伝道の歴史について)

【10日】
三軒茶屋教会で初めての礼拝

【11日】
日本ナザレン神学校入学式&授業スタート


祈りに覚えて頂けたら幸いです。

*明日、明後日は神学校付近を散策します!

2011年4月3日日曜日

最後の礼拝、そして派遣

今日は小山教会での最後の礼拝でした。
小山教会に来てから2年半。
この教会で豊かな交わりが持てたこと、心から感謝しています。

礼拝で最後に賛美した曲は、「神の恵み豊かに受け」。
小山教会らしい賛美だなーと思いながら、この2年半この賛美と祝祷によって派遣されてきました。
今日の礼拝もいつもと同じように、この賛美と祝祷をもって、小山教会から神学校へと派遣されました。いつもと違うのは、これから派遣されていく場所。でも、御国のために働くという本質は変わらない。


「神の恵み豊かに受け」
(Sent forth by God's blessing)

神の恵み 豊かに受け
神の民は 勇み行く。
礼拝は終わった、その実りは
信じるものに 授けられる。
心の中に蒔かれたその種
行動の花を 開かせる。
神は招き、愛は結び、
御国のため 働こう。

神を賛美し、感謝しながら
日々の仕事 果たそうよ。
信仰を分かち 愛しながら
どんな人とも 肩を組もう。
恵みで育て 光で導き
みんなを一つに してください。
すべてのもの 賛美と感謝を
主キリストに ささげよう。

(『賛美歌21』91番より)

夏休みにまた帰れるのをとても楽しみにしつつ、
明日、僕は引っ越します。

*奉仕教会は、三軒茶屋教会に決まりました。

2011年4月2日土曜日

新生活に向けて#2:「チャリ」

入寮したら、自転車を買おうと思っています。
運動不足にならないように、サイクリングを定期的にする予定。
中学入学からこれまでの10年間、喜びも悲しみも共にした(笑)チャリとは当分お別れです。

そういうわけで、誰か、良い自転車の選び方を教えてください。

*関係ないけど、神学校の教室からdoor-to-doorで10秒以内の所に、僕が住む部屋があります。

2011年4月1日金曜日

最近思うこと#2:「待つこと」

最近、「待つ」という事を思うときに、常に心に留めることがある。それは、「この地上で待つことが求められているひとつひとつの事柄は、キリストを待ち望むための訓練」だということ。

僕らは日々、様々なものを待っている。
電車、人(遅刻はしない側でありたい)、宅配便、手紙(メール)の返事、給料日などなど……
そして、それぞれの人生のステージによって、待つものが用意されている。
僕のこれまでの経験から言うならば、試験の結果がすぐに思いつく。
そして、きっとこれからは帰郷(家族との再会)、結婚、子ども、成長、老い、死を待つのだろう。
(ヨセフ、ヤコブ、アブラハムを思い起こしながら書いてみたり)
共通しているのは、自分の思い通りにいかないという事だろうか?

僕ら人間には、このように色んなものを生涯待ち望む。
それは時に試練であり、苦しみだ。
忍耐が伴う。
シンドイ、というのが本音だろう。
決断をするときは興奮と感激があるし、
目的を達成したときには栄光と満足がある。
しかし、待つことが強いられているとき、中途半端に感じる。
だから、それはシンドイことだと思う。
でも、「この地上で待つことを求められている一つ一つの事柄を待つことが出来なくて、どうしてキリストを待ち望むことが出来るのか?」と思わされる。
そして、ローマの信徒への手紙の言葉を思い起こしたい。
……わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ローマ5:3-5)
昨日から「健全な信仰をどう育てるか」(丸屋真也、いのちのことば社)という本を読んでいます。そこに書かれていた言葉に「なるほど」と思わされたので、紹介します。
子どもの特徴は、欲しいと思うものはすぐに手に入れたがるということです。待つことができないのです。つまり、未熟さの特徴は忍耐がないことです。子どもは欲しい物が与えられないと、ところかまわず泣き叫びます。
きっと、忍耐が求められているときって、未熟な霊的子どもから、成熟した霊的大人へと成長するためのものなのだと思います。将来の希望を携え、その時々に求められる「待つ」事柄に忍耐していきたい。

でも、僕らは時に待てず、失敗する。
しかし、それも成長の過程。
その失敗も訓練なのだ。
そうやって、少しずつ少しずつ、待つことを教えられていく。
希望の光を灯し、忍耐することが出来るようになってくる。
そして、祈る。「マラナタ!(主よ、来てください!)」と。
そうやって、天の故郷にあこがれて生きるんだ。


*「最近思うことシリーズ」は、構成が雑な文章になること必死です(笑)。

2011年3月31日木曜日

新生活に向けて#1:「引っ越し準備中」

明日から引越しを始めたいと思っています。
4/4(月)に入寮予定。
ついに22年10ヶ月過ごした我が家を出る日が訪れました。
何だか感慨深いです。


祈祷課題
・新生活のために。正しい生活リズムを作ることができるように。食生活が守られるように。(出来る限り自炊して生活したいと思っています)
・神学校での学びのために。
・奉仕教会での交わりのために。
・必要が満たされるように。


*英語の勉強を始めてから今日で10日目です。(1日だけ出来なかったけど…)

2011年3月30日水曜日

小山教会祈祷会

今日は月1回の小山教会の祈祷会の日。
去年の3月から毎月最終水曜日にやっています。
1年間途絶えることなく続けられたのはとても嬉しいです。

昨年末教会員夫婦が作った「お菓子版小山教会」
教会って、御言葉と祈りによって建て上げられていくものだと思ってます。この教会祈祷会がこれからも続けられていくことを心から願い、祈っていきたいです。

さて、そういうわけで、今日は僕が出席できる最後の小山教会祈祷会です。
行ってきます!

*驚いたことに、10日間連続で更新しています。
徐々に更新頻度は下がっていく予定です(笑)。

2011年3月29日火曜日

書籍紹介#1:『初めに、神が―創造を貫き、堕落を凌ぐ神の愛』(遠藤嘉信著)

僕がこれまで読んできた本を、たまに紹介していきたいと思います。
今回は、故遠藤嘉信先生の『初めに、神が―創造を貫き、堕落を凌ぐ神の愛』を紹介します。
『初めに、神が』(Amazonより)
この本を手に取ったのは、確か大学1年生の頃。
創世記1~3章の講解説教が掲載されている本書。
これまで「知っている」「わかっている」と思い込んでいた天地創造の場面が、
いかに神の愛に満ちているものであったのかに気付かされ、
圧倒させられた記憶があります。

また、僕は本書を薦める際、「あとがき」が素晴らしいから是非読んでくれと伝えています。
ひとりの信仰者が死を目前にしたとき、どのような言葉を紡いでいくのか。
自分は信仰者として、どのような言葉を紡いで、死を迎えるのだろうか。
そんな問いを与えられる内容です。
死を迎えるとき、主への感謝と周りの人々への愛ある配慮、そして主の計画を信じ、受け入れること。信仰者として臨むべき態度を、このあとがきを通して、僕は教えられました。
だからこそ、この一冊を薦めたい。

2011年3月28日月曜日

最近思うこと#1:「ことば」

僕らにとって、言葉というものはとても大きな意味を持つと思います。

親の言葉を聞き、しつけをされました。
学校の授業を聞き、教育を受けました。
神のことばを聴き、それを受け入れ信仰を持ちました。
言葉は僕らの信念、思想、生活など、
様々なものに影響を与えるものだと思います。

では、僕らが生涯生きていく上で一番聞く言葉は、一体、誰の言葉だろうか?
恐らく自分自身の言葉を人は一番聞いているはず...

親でもなく、
兄弟でもなく、
恋人でもなく、
配偶者でもなく、
神様の言葉でもない!

僕らは自分の言葉を一生のうちに一番聞いているはずです。
これってとても恐ろしいことだと思います。

イエス様は、マタイによる福音書15:11で「口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」と言っています。
自分の内にあるものが言葉となり、それが人に影響を与えます。
自分の言葉を自分が一番聞いているのであれば、
その言葉に影響を受け、自分が育っていくのではないでしょうか?

罪人の僕の言葉が、僕自身を育てているのです。

ここで、僕らは何を基盤にして生きるべきかが問われるのだと思います。
僕らクリスチャンは何を基盤とするべきか?
聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。(申命記6:4-9) 
御言葉を心に刻むこと、蓄えることが僕らに求められています。
ただ読むだけではいけないようです。
聖書は、どんなときもそれを唱えなさいと言っています。
そして、ローマの信徒への手紙10:17を読む時に、
御言葉を聞くことが信仰の始まりだということに僕らは気付かされます。
そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマの信徒への手紙10:17)
世に遣わされている僕らが、御言葉を蓄え、それに生かされている時、
より喜びをもって福音を伝えられる者へと変えられていくのではないでしょうか?

自分を、そして人を生かす言葉を発する者になりたいと願います。
そう願う僕は、ますます主のことばを蓄え、心に刻みつけたい。

聖書は神様からのラブレター(出典:flickr


*以前、KGKでした証の一部を掲載しました。

2011年3月27日日曜日

激励会と詩編100篇

今日は礼拝後、教会で激励会をしてもらいました。
小山教会といえば、BBQです笑
とっても美味しいお肉でした。

小山教会名物シュハスコ(ブラジル式BBQ)
そして、BBQ後は教会員のみんなが1曲贈ってくれました。
タイトルは「基嗣、ファイト」だとか、そうじゃないとか...笑
(結局のところ、タイトルは不明ですw)
詩編100篇だと思ったら、後半に自分の名前が出てきてとてもビックリさせられました。
こんな曲まで用意してくれるなんて、本当に嬉しかったです。

今日の礼拝説教はローマ12:3-8より、
「喜びをもって主に仕えよ」という説教題だったのですが、
礼拝説教だけでなく、今日一日の教会での交わりを通して、
「喜びをもって主に仕えてくれ!」という思いをもって、
教会員の方々が僕を送り出そうとしてくれるのがわかって、
本当に感謝なときでした。

    全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
    喜び祝い、主に仕え
    喜び歌って御前に進み出よ。
    知れ、主こそ神であると。
    主はわたしたちを造られた。
    わたしたちは主のもの、その民
    主に養われる羊の群れ。
    感謝の歌をうたって主の門に進み
    賛美の歌をうたって主の庭に入れ。
    感謝をささげ、御名をたたえよ。
    主は恵み深く、慈しみはとこしえに
    主の真実は代々に及ぶ。(詩編100:1-5)

最後に、贈られた曲の歌詞と祈祷課題を掲載します。

    喜び祝い 主に仕えよう
    喜び歌って 御前に行こう
    感謝を歌って 主の門に進み
    賛美を歌って 御国に入ろう

    神様ありがとう
    基嗣に恵みを
    神様ありがとう
    基嗣、ファイト

◇祈祷課題
・今週引越しをします。4/1~4に荷物を運び、翌週から寮生活を始める予定。引越しとその準備のためにお祈り下さい。
・新生活のために。毎日ちゃんと食べていけるように。
・日々の学びのために。神学と英語の勉強。


*お腹も心も満たされています^^

2011年3月26日土曜日

あと2回

明日は3月最終日曜。
早いもので、小山教会での礼拝も残すところあと2回。

喜びを持って神学校へと送り出してくれる
小山教会のメンバーに、僕は心から感謝してます。

さぁ、明日のCS準備に取り掛かろう。


*facebookでおなじみのリアクションボタンを設置しました。「Like」(いいね)と「Praise the Lord!」(主をほめたたえます!)です。「Pray (for you)」(祈ります)を加えるかは現在検討中です。

2011年3月25日金曜日

「基嗣」という名前

このブログのタイトル、「天の故郷にあこがれて」はヘブライの信徒への手紙11:16から付けたものです。
ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。(ヘブライ11:16、新共同訳)
しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 (ヘブル人への手紙11:16、新改訳第三版)
新共同訳聖書だと「天の故郷を熱望して」となっているのですが、新改訳聖書第三版だと「天の故郷にあこがれて」と書かれているんです。個人的に後者の方が、言葉の響き的に好きなので、「天の故郷にあこがれて」をタイトルとして採用しています。

では、なぜこのタイトルを選んだのか?
というのは、自分の「基嗣(もとつぐ)」という名前と関係があるからです。

この光の感じが好き (出典:flickr
小学校低学年の頃、母に僕の名前の意味を尋ねたところ、「『キリストの御国を嗣ぐ』って意味なんだよ」と説明されていましたが、当時の僕にその意味はサッパリでした。寧ろ、「神様の国を自分のモノとするなんて、何ておこがましい名前だ!」なんて思っていました。

この「基嗣」という名前の意味をようやく理解できたのは、それから10年以上経った頃でした。
大学に入学して、僕は信仰書を読もうと思い、故遠藤嘉信先生の『初めに、神が―創造を貫き、堕落を凌ぐ神の愛』を買って読みました。その本は、創世記1-3章の講解説教が収録されているものでした。その内容に感銘を受け、それから僕は1年掛けて遠藤先生の本を買い漁りました(笑)。

その時買った中の一冊、『さあ、天を見上げなさい―神の恩寵とアブラハムの信仰』にヘブライ11:13-16が書かれていたのです。
この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。(ヘブライ11:13-16)
この箇所を読んだ時、僕は「基嗣」という自分の名前の意味に気付くことが出来たのです。
キリストを信じるものは、その罪を赦され義とされるばかりではなく、
神の子どもとされていて、キリストの御国の相続人とされています。
それを受け取る事を熱望する。
天の故郷にあこがれて生きる。
そのような生き方が求められている名前なのだと気付かされたのです。
だから、僕は「基嗣」という名前を誇りに思っています。
これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。(テトスへの手紙3:7、口語訳)
そして、この地上において、天の故郷にあこがれ歩む旅人である、
と生涯告白して生きていきたいと思ってます。

そういうわけで、このブログのタイトルは「天の故郷にあこがれて」


*遠藤先生の説教集に関しては、後日、書籍紹介という形でブログに掲載したいと思います。

2011年3月24日木曜日

いんぐりっしゅ

去年1年間やりたかったのに、思うように出来なかったこと。
それは英語の勉強。
もちろん自分の怠惰ゆえにです。

そして、ここ最近、「やらねば!」とますます思わされていること。
それは、やはり英語の勉強。

神学の勉強をする上でも必須な英語。
逃げ続けてきた英語の勉強をそろそろ本気でやらなければいけないようだ。

英語の勉強を"start"(出典:flickr
そういうわけで、一昨日から英語の勉強を始めています。
今日で3日目突入。
塾で中学英語はずっと教えていたのですが、
勉強していて、高校英語をこんなにも忘れていたのか、と愕然としています。

継続は力なり。
まずは1週間続けることを目標に頑張ります。

お祈り下さい。(切実)

2011年3月23日水曜日

モレノ#1:「手放すということ ~天に宝を積む~」

以前、教会月報『モレノ』(Monthly Report of the church of the Nazarene in Oyama)に掲載した原稿をアップします。

                               

手放すということ ~天に宝を積む』(教会月報『モレノ』2010年4月号掲載)

2010年1月15日(金)、僕が中学2年生の夏からやっているクリスチャンバンドShine(シャイン)の新年会をしました。2009年の夏頃から活動休止状態にあったので、今後のあり方をハッキリさせるために、メンバーを集め、話し合う時間を持ちました。

大学卒業が1年後に控えるこの時期、それぞれが進路選択のために歩み出して行きます。
メンバー全員の話を聞いているとき、ヨハネの福音書に記されているキリストの言葉を思わされました。
はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。(ヨハネによる福音書21:18)
自分の行きたいところへそれぞれが進める、というのがこれまでの一人ひとりの歩みでした。
しかし、少しずつ、少しずつ、それぞれの場所へと向かっていて、その歩みはもう既に始まっていました。
それはやはり、主の御手に引かれているのだと僕は思います。
その中で僕らは、徐々に自分の歩きたい所を歩けなくなっていくのだな、と思わされます。
それぞれが、それぞれのステージへと向かっていると感じました。

僕らは何かを選ぶとき、何かに向かって歩み出すときに、
何かを手放すこと、諦めることを選択する必要があるのだと思わされます。
新年会で話したことの結論を言うと、(表向きは)バンドは「活動停止」をすることになりました。
そう、僕らにとって一度手放さなければいけないものは、このバンド活動でした。
しかし、主のみこころならばまた集まり、共に活動をしたいという思いから、
「解散」ではなく、「活動停止」という選択を僕らはしました。

2002年7月28日に結成。
7年半ずっと共にあったバンドの終わりの時でした。

終わりを迎えることに悲しみを覚えたりもしますが、主にあって失ったのだと心から思っています。
「音楽に生きる」ってことをしていた昔の自分では、手放せなかったと思います。
いつの頃からか忘れてしまったけれど、
僕の中でバンド活動に対する執着はなくなっていて、
僕は「音楽に生きる」ということをしなくなっていました。
自分自身の変化を、最近思い知らされ、驚くばかりです。
この7年半を振り返るとき、まず挙げられる変化の内のひとつだと思います。

中高時代の自分の信仰の支え、
神の言への確かな信頼・確信、
ずっと交わりが続いていくだろう信仰の友たち、
バンドを通してのたくさんの人との出会い、
会衆賛美のあり方、
自分自身の賛美への姿勢、など…

2010年の自分自身の年間聖句(Ⅱコリント4:16-18)ではないけども、
失うものにとらわれるのではなく、そこにとらわれていたら見えない部分に目を向けるとき、
神様がこの7年半を通して与えてくださった恵みの多さに気付くことが出来ます。
神様を感謝できていることに、心から喜びを感じます。

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(Ⅱコリント4:16-18)

こうして、バンド活動の「終わり」を迎えて思うのは、この世だけで終わるものではない、という事実です。
キリストにあって、天に宝を積み、
キリストにあって、天の故郷での交わりへとこれは繋がっていくのだと思います。

終末を生きる僕らキリスト者の歩みの中で、
「終わりのとき」を見つめることはとても大切なことだと思います。
今回の活動停止のことを通して、
信仰によって僕らは終わりまでの行いを、
恵みとして色んな形で気付かされ、
受け取ることが出来るのだなと思いました。
主にあって手放すとき、諦めるとき、
自分で手に入れたのではなく、神にあって与えられた、という事実にも気付かされます。

こうやって、バンドの2728日間という歴史を振り返っていく中で、
喜びと感謝に溢れると共に、今後も音楽を通して主を証したいと願っています。
どのような活動が僕に許されるのか。
主がその場所を備えてくださるように、
そして、主に導かれたその先で、喜びをもって賛美出来るように祈り求めていきたいと思います。


*バンド音源は下記URLで試聴可能です。
http://www.myspace.com/shine02728

*活動期間2728日とURLの最後の数字が同じということがビックリです。
(2002年7月28日結成のため、02728)

2011年3月22日火曜日

東日本大震災祈祷会

昨日は神学校の試験が思いの外早く終わったので、関東地区KGK(キリスト者学生会)で東日本大震災の被災者の方々を覚えて祈る集会があることを思い出したので、他の学生たちと共に祈るために祈祷会へ出席してきました。(気付けば、これが学生時代最後のKGKの集会でした)

30分ほど遅刻しての出席だったが、本当に出席してよかった。
祈祷会には、東北地区の学生が来てくれて、被災地の現状を報告してくれました。

――愛の反対は無関心。
大学へ入学した頃、ある先輩がよく言っていたのを思い出します。

いかに、被災地での生活の困難さを思い巡らして、
その為に祈る力が自分に乏しいのかがよくわかります。
自分の鈍感さがよくわかります。
しかし、それでも隣人の痛みに気付き、
必要な手を差し伸べることが出来る者へと変えられていきたいです。
わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。(ローマ15:1,2)
そして、僕らには今後来るであろうと予想されている地震のことを知り、
被害が最小限で済むために行動し、祈り求めていくことが求められていると思います。
参考までに、下記のサイトを紹介します。
「地震」や「救援」などのカテゴリーをご覧ください。

「小海キリスト教会牧師所感」
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/

最後に、昨日挙げられていた祈祷課題をいくつか載せます。

・食料、水、電気、ガソリンなどの必要が満たされるように。
・寒さの為、体調を崩している方々のために
・福島第一原発の被害が大きくならずに、一日も早くおさまるように。
・東北地区春期学校(中止になりました)を準備してくれた準備委員の心の慰めのために。

2011年3月21日月曜日

4月から神学生です

今日、日本ナザレン神学校の入学試験を受けてきました。
結果は、無事に合格。
祈り支えてくださったみなさん、本当に感謝します。

今回、教会や支えてくださる方々への報告を目的として、新たにブログを立ち上げました。
少ない更新回数になってしまうかもしれませんが、
日々の出来事や学び、祈祷課題などをここで分かち合っていこうと思っています。

今日は献身の証(神学校に提出したものを訂正・加筆)を掲載します。
祈り支えてくださる方々に是非読んで欲しいと思っています。

                           

召命の証

直接献身を考え始めるきっかけとなった出来事がふたつあります。ひとつは、2007年の春、日本大学に入学したての頃でした。入学した頃から、音大に入ることを断念して経済学部に進学したこともあって、将来の進路について考えていました。そんな時、当時KGK(キリスト者学生会)の主事をしていた方に「学生時代に進路を考えるときに直接献身の召しについても祈っておくといいよ」と言われ、私はたまに献身のためにも祈るようになりました。

もうひとつのきっかけは、聖書通読を始めたことです。大学に入学するまで、私は聖書を読むことはとても苦手でした。両親がクリスチャンの家庭に生まれ、幼い頃から教会へ通っていた私にとって、これまで聖書を読むことは義務でしかありませんでした。しかしある日曜日の午後、私は急にマタイの福音書が読みたくなり、一気に読んでみたところ、聖書がとても面白いことに気付いたのです。自ら手を取り読み進めていくうちに、これまで教会で聞いてきたひとつひとつの話がひとつの話に繋がっていきました。まるで点がつながって線になっていくような感覚でした。
それから聖書通読を始め、理解が深まるにつれ、「聖書を学びに神学校へ行くのもいいな」と思うようになりました。しかし、当時は「牧師にはなりたくないから」という理由で諦めていたことを思い出します。

召しの御言葉が与えられたのは、それからすぐのことでした。2008年の夏に召しの御言葉としてヨハネ21:15-19が与えらました。それから私は自分自身の召しについて真剣に祈り求め、この召しを吟味するようになりました。
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。(ヨハネの福音書21:17-18、新改訳聖書第三版)
この御言葉が与えられてから、直後のKGKの夏期学校で、私は進路の分科会に出ることにしました。その分科会で、「あなたが痛みを覚える場所に、神様は同じように痛みを覚えていて、そこにあなたを遣わされる」という言葉が語られたとき、「献身して神学校へ行きたい」という思いが起こされました。

私が痛みを覚える場所、それは教会でした。2008年の春期学校(KGK)で聞いたメッセージの中で、その痛みには気付かされていました。春期学校ではネヘミヤ記から講解説教がなされていて、その中で「あなたの再建する場所はどこか?」という問いを投げかけられました。そのとき、私は自分の内にある教会への痛みに気付かされました。それまで、所属教会で御言葉から説教が語られていないという事に対して何処か引っかかる部分がありましたが、それが自分にとって深い痛みとしてあるのだと気付かされました。(教会の問題について詳細にここに記すのは控えます。)

これらの事があった後も、私はすぐに直接献身を決断することはしませんでした。残り2年半という大学生活の中で、直接献身について吟味する時間が多く与えられていることに、きっと意味があるのだろうと思ったからです。
その吟味期間において、ひとつの試練が与えられました。それは、「教会の転会」という出来事でした。直接献身の召しについて悩んでいる中にいる私が直面したのは、やはり教会の問題でした。

ある日、家に帰ると母が「明日は違う教会に行く」と言うのです。それは、私が生まれてから20年間ずっと所属していた教会を離れる、ということを意味していました。母の言葉は、両親のひとつの決断でもありました。そして、その理由は明確でした。当時所属していた教会に様々な問題を見出し、特に両親はその中で葛藤をしていました。両親の苦しむ姿や御言葉から説教が語られていない現実に私も心を痛めていました。私は、大学卒業後は家を出るつもりだったので、家族と共に礼拝に出席出来る残り少ない期間を大切にしたいと思い、両親と共に教会を転会する決断をしました。
この出来事の背後に、両親の祈りとこのことを分かち合った友人たちの祈りとがあったことを心から感謝します。

それから、出席教会を小山教会へと変え、3ヶ月後の2008年12月に私は家族と共に小山教会に籍を移しました。小山教会での交わりの中で、私は教会を愛する者へと変えられていきました。自分の目に映る教会のあり方を変える前に、自分の内にある「教会に対する姿勢」がまず問われ、再建されていく必要があったのだと思います。

それから、私が献身の決意を固め、そしてそれをしようと思っていることを小山教会の総会で公にされたときに、喜んで送り出そうとしてくださっている教会員ひとりひとりの姿を見て、「あぁ、自分はこの教会から献身していいのだな」と思わされました。そして、召しを自分のものとして受け取るだけでなく、教会のものとしても受け取ることが出来ました。

しかし、この決意を固めたときに恐れが私の内に起こりました。2010年は教会役員として奉仕する機会を与えられたこともあり、その責任の重さやこの先の自分自身の歩みについて考えるとき、本当にこのままの自分で大丈夫なのかという不安でした。
このように恐れを覚えていた私でしたが、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」(マタイ8:26)という御言葉が与えられました。この御言葉を通して、様々な恐れが私の内に起きたり、時に忍耐を強いられたり、不安を覚えたりしますが、「すべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8:28) ただ神に信頼して歩めばいいのだという事に気付かされました。

そして、「わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:19) と言われる主イエスからの召しに、私は喜びをもって応答したいと願っています。