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モレノ#9:「1年間の振り返り」

教会月報『モレノ』( Mo nthly  Re port of the church of the  N azarene in  O yama)に掲載した原稿をアップします。                                  『 1年間の振り返り 』(教会月報「モレノ」2011年12月号掲載) いつもお祈り感謝します。年内の授業も終わり、冬休みに入りました。年明けの授業再開に向けて、夏休み明けから出来なかったこと(積ん読してある本を読んだり、友人の家に遊びに行ったり、ヘブライ語の独習をはじめたり、帰省したり…)を色々しようと思ってます。 今回は4月からを振り返っての短い報告です。 【神学校生活】 はじめての一人暮らしを経験している神学校生活です。毎日の食事のこと、勉強のペース、役所に行く用事、買い物へ行くタイミングなど、自己管理は難しいなと思わされています。 他の神学生たちとの交わりも慣れてきて、楽しんでいます。長期休暇のときは、たまに勉強会をしようという話になり、お互いに学ぶことを励まし合える環境が整ってきて感謝を覚えています。 【三軒茶屋教会】 三茶のみなさんにはとてもお世話になっています。神学校は閉鎖的な空間なので、教会に行ってたくさんの方たちと交わりが持てることは、とても大きな励ましになっています。神学生として、教会の働きを助けるというのが僕に求められていることなのですが、それと思うと、正直一番助けられているのは僕だなと思わされています。残り3ヶ月半、この教会での交わりを大切にして過ごしていきたいと思います。 【語学】 英語、ギリシア語、ヘブライ語、どれも大切だなと実感している日々です。 感謝なことに、今年はフィリピンへ行かせて頂けたこともあり、英語を読むことのハードルが少しずつ下がってきた気がします。学生時代もっとちゃんとやっておけばよかったと反省することもあるのですが、今出来る限りのことを積み重ねていこうと思い、ヘブライ語を英語で勉強し始めました。 今月、4月から始めたギリシア語の文法が無事に終わりました。年明けから実際に聖書(ヨハネによる福音書)の講読が始まります。最近、個人的にヨハネの手紙一をゆっくり読み始めたこともあり、 ここまで辿りつけたことに達成感を覚えてます。せっかく身につけたのだから、一生使い

神学生な日々#11:「ハバククはじめました」

9月から祈祷会で、月1回のペースで説教奉仕をさせて頂いています。 せっかく定期的に説教する機会が与えられたので、 ひとつの書簡を連続講解しようと思い立ち、 ハバクク書の連続講解説教をはじめました。 先月の祈祷会で3回目が終わり、次回は2章5節以降を取り扱う予定です。 通読で読むけれども、さらっと読んでしまい、 じっくり読んだことのないのが小預言書。 なので、とても良い勉強にもなっています。 最近気付いたことですが、このハバクク講解が回を重ねる度に、今の奉仕教会、三軒茶屋教会で過ごす時間が残り少なくなっていることに気付かされます。これはなかなか寂しいものです。たった1年の教会派遣ですが、神学生としてがっつり関わらせていただいていることもあり、愛着がとても深くなる。1年でこの教会での奉仕が終わるというのは寂しいな。。。 そんな思いを抱きながら、残りあと4回。 来週の水曜日はハバクク講解、第4弾です。

説教#10:「この人を見よ」

昨日、今年の奉仕教会である三軒茶屋教会で、説教の奉仕をさせて頂く機会を与えられました。祈りに覚えてくださったみなさん、感謝します。 『この人を見よ』 聖書 イザヤ書52:13-53:12、ヨハネ19:4-7 日時 2011年12月11日(日) 場所 日本ナザレン教団・三軒茶屋教会

もうすぐ年内授業終了

もうすぐ年内の授業終了。 早いもので12月。 今年も残り12分の1。 2011年、何だかここまで駆け抜けてきた感覚。 そろそろゆっくりこの1年を振り返りたいぞ。 *明日の午後は、三軒茶屋近隣の教会との合同礼拝です。

説教#9:「旅人よ、何を見つめて歩むのか?」

昨日、青葉台教会のユース礼拝で、説教の奉仕をさせて頂く機会を与えられました。祈りに覚えてくださったみなさん、感謝します。 『旅人よ、何を見つめて歩むのか?』 聖書 ヘブライ11:13〜16 日時 2011年11月27日(日) 場所 日本ナザレン教団・青葉台教会

冬の奉仕予定

すっかり寒くなって来ましたね。 毎日寒さで震えています。(そう、僕は寒がり) 冬休みも近づいてきたので、年内の奉仕予定を掲載します。 お祈りいただけたら幸いです。 11/16 祈祷会説教(三軒茶屋教会) 11/27 ユース礼拝・説教(青葉台教会、15:00〜) 12/11 礼拝説教(三軒茶屋教会) 12/21 祈祷会説教(三軒茶屋教会) 12/26-28 中高生キャンプ(奥多摩バイブルシャレー、恐らくカウンセラー)

神学生な日々#10:「YSKカルヴァンの会」

今年からKGK(キリスト者学生会)で主事をしているYくんの支える会の奉仕をしています。 一緒に奉仕をしているメンバーには、僕の他に2人の神学生がいます。 献身者がたくさんいることだし、読書会をしようかという話になり、 カルヴァンの『キリスト教綱要』の読書会が7月から始まりました。 その名も「カルヴァンの会」。 毎回楽しく参加させていただいています。 何より感謝なのは、この交わりが学ぶ意欲を引き出してくれることです。 先輩たちからたくさん教えられます。 そして、勉強の足りなさを痛感させられます。 ナザレン神学校は、とても自由な神学校。 縛りが少ない分、自分がどれだけやるかが、問われる。 つまり、手を抜くことも可能ということ。 良い意味で信頼もされているし、自己管理の仕方を試行錯誤しながら学んでいる。 多分、結構変わった神学校。 そんな環境に置かれて勉強しているからこそ、 学ぶことを励まし合える交わりがあることに、 とっても感謝を覚えるんです。 是非この交わりを続けていきたいなと思わされています。 最後にYくんのブログを紹介。 KGK塚本良樹主事のブログ *Yくんの名前を伏せて書いたのに、結局ブログタイトルで本名が公開される落とし穴。 ちなみに、(未だに)ブログタイトル募集中(のはず)。

モレノ#8:「APMLC報告」

教会月報『モレノ』( Mo nthly  Re port of the church of the  N azarene in  O yama)に掲載した原稿をアップします。                                  『 APMLC報告 』(教会月報「モレノ」2011年11月号掲載) いつもお祈り感謝します。10/26(水)~30(日)にフィリピンで行われたAsia-Pacific Missional Leaders’ Conference(ナザレン教団アジア地区宣教指導者カンファレンス、以下MLC)に参加してきました。今回はMLCの報告です。 【祈りとヴィジョン】 今回のカンファレンスでの講演は、毎回スピーカーが変わっていたので強調点はそれぞれ違っていましたが、振り返ってみると、開拓伝道と弟子訓練が大きなテーマとして語られていたように思います。僕自身がそこから受け取ったことをふたつシェアしたいと思います。ひとつはは、広い視野を持って祈るということです。「私たちは自分自身のライフスタイルを変えなければならない。その基礎は祈りである。あなたはクリスチャンでない親戚、友人、協会員の知り合いのために祈っているか?」という問を投げかけられました。実際に今まで過ごしていた場所(日本)から外に出てたくさんの人達と会ったり、集会中に各国の祈祷課題がシェアされたり、スタディツアーに参加(後述)したこともあって、この問を与えられたとき、自分の祈りのリストを見なおそうと思わされました。祈りについてはいつもチャレンジを与えられると思わされています。こうやってチャレンジが与えられ続けないと、祈るべきことがたくさんあるのに忘れたり、「あとで」と思ってしまう怠惰な自分がいるからなのでしょう。 そして、もうひとつはヴィジョンを持つということでした。、神学校に入ってから目の前のことに追われて、忘れていたと思わされました。「日本の教会に仕えたい」という思いがあります。でも、具体的ではない。ぼんやりしている。目の前のことに追われるばかりでなく、神様が僕自身に持っている計画とは何なのかということを、もう少し腰を据えて考える時間を持ちたいなと思わされました。そのための神学校3年間でもあると思うのですが。ゆっくり祈り求めていきたいと思ってます。自分の計画に生きるのでなく、神

神学生な日々#9:「APMLC」

今日から5日間、ナザレン教団のアジア・パシフィック宣教指導者カンファレンス(Asia Pacific Missional Leaders' Conference)というものに参加するため、フィリピン(マニラ)へ行ってきます。 久しぶりの海外、そして初めてのフィリピンなので、とても楽しみです。 英語はとても苦手ですが、 劣等感を感じながら(笑)、頑張ってコミュニケーションとってきたいと思います。 いってきます! *10/30(日)まで音信不通になります。

神学生な日々#8:「あっという間」

「気づけば夏の奉仕がすべて終わり、今月から神学校の授業が再開しています。」 ということをブログに書こうとしていたら、 いつのまにか、10月下旬に突入。 もうすぐ10月も終わりです。 先月末は、風邪をひき、 風邪で遅れた分を取り戻そうと10月上旬は頑張り、 先週は礼拝とCSと祈祷会で説教奉仕。 それこそ、あっという間の日々を過ごしています。 自己管理の大切さを実感しつつ、毎日元気に過ごしています。 そして、今週は水曜日からフィリピンへ行ってきます。 体調崩さないようにお祈りお願いします。 *今月はモレノの原稿を書き忘れてしまいました。残念。

説教#8:「キリストの使節として」

昨日、今年の奉仕教会である三軒茶屋教会で、説教の奉仕をさせて頂く機会を与えられました。祈りに覚えてくださったみなさん、感謝します。 『キリストの使節として』 聖書 ネヘミヤ記2:17-20、Ⅱコリント5:19-21 日時 2011年10月16日(日) 場所 日本ナザレン教団・三軒茶屋教会

作曲#1:「今、ここにいます」

「今、ここにいます」という曲を下記URL( こちら からも視聴可能)にアップしました。 2010年のナザレンの中高生キャンプのために書いた曲です。 テーマが「Change」だったので、それに合わせて書いたつもりです。 ( 凝った録音をするのは面倒なので、 音源は今年の夏のキャンプでのものをアップしました) 「今、ここにいます」: http://p.tl/Lv1Q 光の子とされた 闇に属してた私が 十字架の贖いによって 今 罪赦されている 罪の中で死んでいた 私に一筋の光が 今 喜びに満たされて 主の愛に生きる 変えられた私が 今、ここにいます 主の愛をこの世に示す者として遣わしてください 変えられた私が 今、ここにいます 主よ この祈りを聞いて 私を用いてください *最近は曲作りしていませんが、書く機会が与えられたときはアップしたいと思ってます。まぁ、基本的に自己満でしょう。

説教#7:「丘の頂に立って」(たまちゅう合宿#2、日大合宿#4)

#2「丘の頂に立って」 (説教音源: たまちゅう合宿 、 日大合宿 ) 聖書 出エジプト記17:8-13、エペソ6:10-18 日時 2011年9月17日(土) 場所 たまちゅう合宿(相原キリスト集会) *この説教は日大KGK夏合宿での説教(#4「丘の頂で」、ブログ未掲載)に、テーマに合わせて手を加えたものです。 【はじめに】 私たちは今日、合宿を終え、それぞれの家へと帰ります。 そこには日常が待っています。 私たちの日常には、日々多くの戦いがあります。 自分自身の内に、罪との戦いがあります。 多くの誘惑とも出会います。 また、友人関係の中に、信仰と現実との葛藤という戦いがあります。 昨夜、私たちは自分たちが約束の民として召されていることを確認しましたが、 この世に遣わされている私たち、約束の民であるキリスト者が、 問題や試練を免れるという約束は、聖書のどこにもありません。 信仰の決断を迫られるという戦いもあるでしょう。 時に信仰を守るための戦いもあります。 福音のもたらす価値観とは余りにも違う日常がそこにあります。 私たちの日常は戦いで満ちています。 私たちがこの世に生きる限り、絶えず戦いの中に私たちは身を置いているのです。 戦いは、内にも外にもあります。 このような日常に私たちはこれから遣わされていくのです。 その上で、合宿最終日の今日、私たちはイスラエルとアマレクの戦いの記事を通して、神の派遣について共に教えられたいと思います。

10月ですね

水曜の祈祷会後から金曜まで、風邪で寝込んでいました。 天候の変化と夏の奉仕疲れが出たようです。 体調悪い時には、食事に気を遣わなければいけないのに、 金曜日は、冷蔵庫の中身がほぼ空になってしまい絶望しましたが、何とか乗り切れました。 (いつ寝込んでもいいように、今日、玉子がゆを常備品として買って来ました。) で、昨日ようやく回復。 まだ本調子ではありませんが、今日は無事に礼拝に出席できます。 感謝。 今月は礼拝と祈祷会で説教が1本ずつあって、 月末にはフィリピンへ行くので、 体調管理に気をつけて過ごしたいと思います。 *神学生になって半年が経ちました

説教#6:「約束の民」(たまちゅう合宿#1)

9月16〜17日にKGKの多摩ブロックと中央線ブロックの合同合宿(略して「たまちゅう合宿」だそうだ)に、講師として参加してきました。「派遣意識」というテーマとエフェソ4:1がテーマ聖句として与えられ、当日は2回語る機会を与えられました。祈りに覚えてくださった皆さん、感謝します。日大合宿同様、合宿でした説教を少しずつ公開していきます。 #1「約束の民」 ( こちら で説教が聞けます) 聖書 出エジ1:22〜2:10、エフェソ4:1〜4 日時 2011年9月16日(金) 場所 KGK たまちゅう合宿(大沢地青少年センター) 【はじめに:派遣意識】 今回、派遣意識というテーマについて、共に合宿を通して考える機会が与えられています。 KGKでは、そのスピリットとして、派遣意識を掲げ、 「神があなたを今いるその学校へと遣わしているんだ」と言っていますが、 実際問題、私たちはこの神の派遣を、神の召しをどのように考え、受け取ればいいのでしょうか。 今回、エペソ4:1の「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい」(新改訳)というテーマ聖句が与えられました。 私たちに与えられた召しとは何なのでしょうか。 今、この時代に生かされ、この場所にいる。 学生として、大学や短大、専門学校などで学んでいる。 それぞれに帰る家庭や教会があり、 多くの人々との輪の中で、私たちは生きています。 私たちが今、この場所で生かされていることにどのような意味があるのでしょうか。 今回の多摩・中央線ブロック合同合宿では、 モーセというひとりの信仰者と、彼の属していたイスラエルという共同体を通して、 自分たちの召しについて共に考えていきたいと思います。

Macじゃないよ、アルバムだよ

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先週の土曜日、久しぶりにshine(以前僕がやっていたバンド)のメンバーで集まりました。 僕ら、練習が終わるとみんなでよくラーメンを食べに行っていたので、 久しぶりにみんなでラーメンを食べに行きました。 学生時代よく行っていたラーメン屋だったこともあり、とても懐かしく感じるときでした。 そこでこんなものを手に入れました。 MacBook? 一瞬、MacBookに見えますが、アルバムです。 実は今回の集まり、ライブやCDなどの売上で余ったお金を使って作成したアルバムを受け取るのが目的でした。(頑張ってつくってくれたリーダーSに感謝) アルバム表紙 早いもので、活動休止から1年半。 アルバムを見ていると、自分自身を成長させてくれたのはこの交わりだったなと改めて気づかせてくれます。 そして、「青春だね」って言いたくなる。 それなりに照れくさいんです。 アルバムもそうだけど、「shine」は一生の宝物です。 懐かしのレコーディング合宿 最後はみんなでお互いのアルバムに寄せ書きして、解散しました。 許されるなら、また同じメンバーで一緒に演奏したいものです。 *見たい人は僕かメンバーまで。自慢しますw

説教#5:「愛のとりなし手」(日大KGK夏合宿#3)

#3「愛のとりなし手」 ( こちら で説教が聞けます) 聖書 創世記18:16-33、Ⅰコリント13:1-13 日時 2011年9月2日(金) 場所 日大KGK夏合宿(津田沼保守バプテスト教会) 【はじめに:ソドムとゴモラ】 私たちは日々、この世界の罪や悪の現実を目の当たりにしています。 私たちの生きるこの世界は、モラルが低下し、不義で溢れています。 人々の罪で溢れ、不正や争いごとが絶えません。 今日のこのテキストに出てくるソドムとゴモラという町は、 聖書において、罪に溢れた世界、堕落の象徴として頻繁に出てくる町です。 そこは不正や悪がはびこりる、不道徳な町でした。 このソドムとゴモラについて、エレミヤ書にはこのように書かれています。 エルサレムの預言者たちの中にも、 恐ろしい事をわたしは見た。彼らは姦通し、うそをついて歩き、悪を行う者どもの手を強くして、その悪からだれをも戻らせない。彼らはみな、わたしには、ソドムのようであり、その住民はゴモラのようである。(エレミヤ23:14) ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、その罪はきわめて重かったのです。

モレノ#7:「初の合宿講師」

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教会月報『モレノ』( Mo nthly  Re port of the church of the  N azarene in  O yama)に掲載した原稿をアップします。                                  『 初の合宿講師 』(教会月報「モレノ」2011年10月号掲載) いつもお祈り感謝します。夏の奉仕報告第二弾として、今回は日大合宿の報告を短くしたいと思います。 【夢】 9月1~3日、日大KGK(キリスト者学生会)合宿に講師として参加してきました。卒業してからこんなにも早く講師として合宿に呼ばれるとは思ってもいなかったので、正直、驚きでした。しかし、これは僕がこっそり抱いていた夢でもありました。卒業後、合宿の講師としてこの交わりに帰ってくる。予想以上に早い夢の実現でした。説教者としてまだまだ未熟な僕を、彼らが呼んでくれたことに心から感謝しています。 【関係の中で】 日大合宿では「祈り」をテーマに4回の説教を依頼されました。今回の合宿は、「関係」という言葉をキーワードに説教を準備しました。祈りは、神との「関係」、隣人との「関係」という視点で聖書箇所を選び、合宿へと臨みました。 合宿当日、説教をしていて気付かされたのは、僕自身が日大KGKのメンバーとの「関係」の中で説教をしていることでした。夏季派遣中にした説教とは、まったく違う印象を覚えながらの説教でした。夏季派遣では、はじめて会う人たちに対しての説教だったので、準備の段階からとても難しさを感じていました。しかし、この合宿での説教奉仕は、これまで一緒にKGKで活動してきた、気心知れたメンバーに対してのものだったので、とても語りやすさを感じました。それだけではなく、今回の奉仕は、彼らとの「関係」の中で言葉を紡いで語ることのできた奉仕の時でした。交わりの中で言葉が深められていくことを強く感じました。 【学びの意味】 今回、合宿に講師として呼ばれたのは、僕自身にとってとても大きな意味がありました。神学校で学んでいる意味を再確認できたからです。自分が今学んでいることが、ナザレン教団以外の人たちにも意味があることだという事を実感できました。小山教会や三軒茶屋教会、ナザレン教団の人たちだけでなく、今まで関わってきた一人ひとりの顔を思い浮かべながら、後期からの神学校で

夏休み最後の奉仕

いよいよ夏休み最後の奉仕です。 ここまで体調を崩さずにやってこれて本当に感謝しています。 今日から1泊2日、KGKの中央線・多摩ブロック合同合宿に参加します。 講師として2回の説教予定です。 学生時代、あまり関わることのなかったブロックなので、 卒業後こうして交わりが許されたことに驚いています。 出会うひとりひとりとの交わりを感謝し、楽しみにしつつ、臨みたいと思います。 お祈りください。 *これから荷造りして、1時間半後に出発です。

説教#4:「ひとり、神の前に進み出る」(日大KGK夏合宿#2)

#2「ひとり、神の前に進み出る」 ( こちら で説教が聞けます) 聖書 創世記32:22-32、コロサイ4:2 日時 2011年9月2日(金) 場所 日大KGK夏合宿(津田沼保守バプテスト教会) 【はじめに:祈りは生き方と結びついている】 昨夜、“lex orandi, lex credendi”(レークス・オランディ、レークス・クレデンディ) という言葉を紹介しました。 「祈りの法則は信仰の法則」という意味のこの言葉は、 時に”lex vivendi”(レークス・ヴィヴェンディ)、「生活の法則」という意味の言葉が後に付けられて語られます。 祈りの法則は信仰の法則、信仰の法則は生活の法則なのです。 私たちの祈りが私たちの信仰と結びついているならば、 生活、つまり生き方と結びつかないわけがありません。 今朝私たちに与えられたテキスト、創世記32:22-32は、 ヤコブの人生の転換点と言える、とても重要な場面です。 ヤコブが神に向かっていく姿から、私たちは祈りについて教えられたいと思います。

10月にフィリピンへ行きます

10月末にフィリピンで開催される、ナザレン教団のアジア・パシフィック宣教指導者カンファレンスというものに急遽参加することになりました。 約10年ぶりの海外になるので、パスポートの申請をしなければなりません。 多分間に合うと思いますが、 出来る限り早くパスポートが取得できるようにお祈りください。

説教#3:「神の約束を見つめて」(日大KGK夏合宿#1)

9月1〜3日に日大KGK夏合宿に、講師として参加してきました。 "Let's pray"というテーマと、テーマ聖句としてコロサイ4:2が与えられ、 当日は4回、語らせて頂きました。 祈りに覚えてくださったみなさん、感謝します。 合宿でした説教を、少しずつ公開していきたいと思います。 *普段は新共同訳聖書を使っていますが、今回の日大合宿では、参加者全員が新改訳聖書を使用していたので、新改訳聖書第三版から説教準備しました。 #1「神の約束を見つめて」 ( こちら で説教が聞けます) 聖書 創世記32:3-12、ヨハネ3:16 日時 2011年9月1日(木) 場所 日大KGK夏合宿(津田沼保守バプテスト教会) 【はじめに:信じているようにしか、祈れない】 今回の日大合宿は、「祈り」というテーマが与えられました。 私が大学に入学し、この交わりに加えられる前から、日大KGKは祈りを大切にしている学内グループでした。 そんな日大KGKに集う私たちにとって、 そして何より、キリスト者である私たちにとって、 祈りというものはどのようなものなのでしょうか。 毎日のディボーションのとき、 困難に遭うとき、 喜びのとき、 周囲の人々をとりなす必要を覚えたとき、 病気のとき、 礼拝のとき、 食事のとき、 寝静まるとき、 学内聖研のとき、 祈り会のとき、 何か行動を起こそうとするときなど、 様々な時に、様々な場所で、様々な状況下で、私たちは神の前に祈りを捧げています。 祈りというものは、私たちクリスチャンにとって実に日常的なものです。 そんな祈りについて考える上で、その導入として、ケレスティヌス1世という5世紀のローマ教皇の言葉を紹介したいと思います。 “lex orandi, lex credendi”(レークス・オランディ、レークス・クレデンディ) これは、「祈りの法則は信仰の法則」という意味の言葉です。 この言葉は、私たちの「祈り方が信じている事を決定する」ということを意味しています。 信じているようにしか祈れない、と言い換える事もできるでしょう。 では、私たちは何を信じているのか。 何に祈っているのだろうか。 当然、ここに集う私たちは神を信じている。 そして、神に祈っている、と答えるでしょう。 では、その神とはどのような

日大合宿、無事に終わりました。

2泊3日の日大KGK夏合宿が無事に終わりました。 今回、初の講師としての奉仕で、不安も覚えたりしましたが、 4回の説教がすべて守られました。 お祈り感謝します。 とにかく今は寝たいです。 なので、報告は後日にし、 今日は明日に備え寝ることにします。 おやすみなさい。

帰省と喜声

8月に予定していた奉仕が無事に終わり、先週末から水曜日まで実家に帰省していました。 久しぶりの我が家は、とてもリラックスできます。 でも、その反面、勉強はまったく手つかず。 神学校に帰ってきて、9月提出予定の宿題の量が思ってたより多くて、びっくりしました。 帰省期間を短めに予定しておいて助かりました。 これからがんばります。 そうそう、両親の支援もあり(感謝)、 帰省中に念願のMacBook Proを購入することができました。 作業のしやすさに驚いています。 ずっと気になっていたevernoteも導入し、 現在、日大合宿の説教準備中です。 さて、そろそろ9月です。 感謝なことに、9月はKGKでの説教奉仕が多く与えられました。 下記の予定です。お祈りください。 9月1-3日 日大KGK夏合宿 9月16-17日 中央線・多摩ブロック合同合宿

モレノ#6:「召しを新たに」

教会月報『モレノ』( Mo nthly  Re port of the church of the  N azarene in  O yama)に掲載した原稿をアップします。                                  『 召しを新たに 』(教会月報「モレノ」2011年9月号掲載) 7月30日(土)~8月8日(月)に山陰地区へ行って来ました。教会のみなさんの祈りに支えられ、無事に10日間の夏季派遣を乗り切ることができました。お祈り感謝します。今回は短く今回の夏季派遣の報告をさせて頂きます。 【自分にとっての「献身の証」】 夏季派遣が終ったからこそ書けることなのですが、正直言うと、今回の派遣はあまり乗り気ではありませんでした。というのは、献身の証( こちら に掲載しています)をする機会が多かったからです。 僕が自分自身の献身を話すとき、召しの御言葉(ヨハネ21:15-19)と共に、教会の転会について語ることを避けることはできません。20歳の時、生まれた頃から通っていた教会から小山教会へ転会しました。その事実は決して変わることがありません。そして、その事は僕の心の内に深く刻まれています。これまで献身の証をする機会が与えられ、その中で教会の転会の話をするたびに僕の心は痛みを感じていました。きっと、この痛みを訪れる教会で毎回感じる。それを思うと、初めて訪れる地、初めて訪れる教会、初めて会う人たちとの交わりを楽しみにしながらも、なかなか今回の夏季派遣に前向きな気持ちで臨む気にはなれませんでした。 7月29日、そのような思いを抱きながら、僕は夜行バスに乗り、山陰地区へと旅立ちました。 【はじめての礼拝説教】 夏季派遣では、礼拝説教の奉仕をさせて頂く機会が与えられました。そのため、説教箇所を決めてから、そのテキストと向き合う日々でした。選んだテキストはⅡコリント12:7-10。パウロは「とげ」を与えられ、そのとげを通して弱さの内に働くキリストの力に気付き、それゆえに自分の弱さを誇るという箇所です。夏季派遣中、このテキストと向き合い続けました。 僕にとっての「とげ」とは、もちろん、教会の転会でした。これが僕に痛みを与え続けていました。この「とげ」が与えられている理由は何なのだろうと、改めて考えなおす日々でした。 【召しを新たにさ

説教#2:「痛みを伴う歩み」

「痛みを伴う歩み」 聖書 詩編126:5-6、Ⅱコリント12:7-10 日時 2011年8月7日(日) 場所 出雲南教会、木次教会 【はじめに:痛みを伴う歩み】 私たちは毎日、多くの「痛み」を抱えながら生きています。 それは、持病や怪我といった身体的な痛みかもしれません。 身体的な痛みは、私たちの生活に制限を与えます。 今まで出来たことを出来なくしたり、 それによって、諦めなければならないことが出てきたりするなど、 その痛みは、時に私たちの心とも関係してきます。 また、それは友人や家族など、周囲の人たちとの関わりの中で受けた傷による、この心の痛みかもしれません。 人それぞれ抱えている「痛み」は様々ですが、 多かれ少なかれ、確かに私たちの内に痛みというものはあります。 私たちは、ある程度の痛みは、受け入れることが出来るにしても、 それが積み重なってきたり、 予想外のタイミングや、想像以上の痛みだった場合、 困惑し、落胆してしまいます。 そして、次第に問いが生まれてきます。 一体、この痛みにはどのような意味があるのか。 なぜ私に、と。 【パウロの抱えた「痛み」】 今日、私たちに与えられたこの箇所で、著者パウロは「ひとつのとげが与」(12:7)えられたと語っています。 パウロに与えられたこの「とげ」とはどのようなものだったのでしょうか。 パウロのいう「とげ」が何なのかを私たちは正確に知ることは出来ません。 しかし、「身に一つのとげが」という言葉から、肉体的疾患を彼は患っていたと解釈することが出来ます。 実際、パウロに与えられたとげがどのようなものであったにせよ、 このとげが痛みを伴うものであったことは明白です。 彼はこのとげによって痛み苦しんでいました。 パウロは、この痛みにより、多くのストレスを抱えたことでしょう。 眠れぬ夜もあったかもしれません。 肉体の不自由さを覚え、自分自身に苛立ちを感じるときもあったかもしれません。 そして、何より、このとげによって与えられている痛みにより、 自分の宣教が妨げられている、制限されていると感じたかもしれません。 このとげが自分の宣教の枷となっている、と。 それを思うと、「これを私から去らせて」(12:8、新改訳)欲しいと願う、 パウロの三度の祈りの必死さ

ティーンズキャンプへ行ってきます

先日、無事に夏季派遣を終え、帰ってきました。 2日ゆっくり休み、今日から3日間、ナザレンのティーンズキャンプ(関東地区)に参加してきます。 ギターと賛美リード、証の奉仕予定です。 参加する中高生たちの信仰の成長のためにお祈り頂けたら幸いです。

説教#1:「キリストにある平安を抱いて」

説教原稿を掲載します。 ひとりでも多くの方に福音が届けられるように用いられたら幸いです。                                  「キリストにある平安を抱いて」 ( こちら で説教が聞けます) 聖書 詩編4:1-9、マタイ8:23-27 日時 2011年8月6日(土) 場所 木次教会 家庭集会 【はじめに:恐れを抱きながら】 私たちは生きる上で、様々な恐怖を抱きます。 幼い頃は、暗闇を恐れました。 夜中、家の中をひとりで歩くのが怖いと思った経験を、恐らく誰もが持っているかと思います。 時が経ち、少しずつ大人になっていくと、私たちは将来のことで悩みだし、ときに恐れを抱きます。 先の見えない、不確かな将来に対する恐れです。 また、人を恐れます。 それは学校の友人、会社の上司、バイト先の同僚、近所のあの人など、 人付き合いの中で、恐怖を覚える時もあります。 そして、未知への遭遇。 テレビや新聞を騒がす大事件、大震災、 そして、死。 私たちが意識するにしても、しないにしても、 私たちに恐れを与えるものはとても多くあります。 【キリストに従った弟子たち】 今日、私たちに与えられたこの箇所では、イエス様の弟子たちが「恐れを抱いた」ということが記されています。 彼らは、イエス様のあとに従って、舟に乗りました。 23節にある、「従った」という言葉は、キリストの後ろを「あちこちついて行く」という意味と、キリストの「弟子である」というふたつの意味があります。 この物語は弟子たちがキリストに「従う」ということから始まりました。 弟子たちにとって、舟に乗ることも「従う」ことでした。 この「舟」という言葉は、弟子たちの群れ、つまり、キリストの教会の象徴として使われる言葉でもあります。 キリストに従い、信仰を持った者たちが舟に乗った。 そのような意味で、この弟子たちの姿を、キリストを信じる私たちと重ね合わせて見ることが出来ます。 【嵐の中で死を見つめる】 舟に乗り込んだ弟子たちは、突然の嵐に襲われます。 このように困難は突然私たちに襲いかかってくるのです。 キリストを信じたから、その後は困難などない、ということはありえません。 私たちは以前と同様に、喜びの時も苦しみの時も経験します。 そし

音楽と僕#3:「バンド」

2002年7月、生涯きっと忘れないであろう2つのことがありました。 ひとつは、キリストを自分の救い主として信じたこと。 毎年夏に参加していた、奥多摩の夏キャンプで、 僕は受洗を決心した。 キリストの十字架の贖いが、自分のためだって実感することができた。 そして、もうひとつ。 その夏のキャンプで出会ったSと、 帰りの電車でした会話をきっかけにバンドを組んだことだ。 (彼にとってもそうだと思うが、) 若干、ノリに任せた(笑) この会話がなかったら、僕は全く違う道を歩んでいたと思う。 S:「クリスチャンでバンドやりたいなー」 僕:「じゃぁ、やるか」 そう、たったこれだけの会話で僕らはバンドを組むことを決めた。 バンドへの憧れと、仲間と一緒に音楽をやれることへの期待で胸はいっぱいだった。 それからメンバーを集め、7年半このバンドは続く。 メンバーの入れ替えがあったけど、最後まで僕らふたりは一緒に演奏することを許された。 Sに言わせれば、僕らは正反対な性格で、一緒にやってこれたのは信じられない、とのこと。 shine(シャイン)。 僕らは自分たちのバンドにこう名付けた。 「光」であるキリストを宣べ伝えるんだ、と。 当時の僕は、「光」という言葉の持つその意味をあまり深く考えていなかった気がする。 クリスチャンは誰もが、福音の光を携えて、キリストを証する者として召されている。 しかし、牧者として、光を証する者になろうとなんて、この頃は考えもしなかった。 この頃を振り返ると、自分が今、献身者として歩んでいるのが不思議でならない。 #1「ピアノ」 #2「ギター」

僕にはひとつの夢がある。 いや、あったという方が正しいだろう。 なぜなら、この夏、その夢が早くも実現するからだ。 僕が抱いていたひとつの夢は、 この春卒業した日大KGKの合宿に講師として足を運ぶ事。 驚いたことに、色々アクシデントが重なった(らしい)ため、 僕のもとに講師依頼の電話が掛かってきた。 驚きと共に、喜び。 卒業してまもなく、こんなにも早く呼んでくれるなんて。 テーマは「祈り」。 正直、どこまで彼らの期待に応えることが出来るかわからないが、 誠実に準備して、当日臨みたいと思います。 *「牧師になったとき、日大KGKの合宿に講師と呼ばれること」に変更しようかな笑

神学生な日々#6:「夏、始まる!」

まだ先の話だと思っていましたが、とうとうこの日が来てしまいました。 夏の奉仕が始まります。 今回はその第一弾、夏季派遣。 今晩、夜行バスに乗って、出雲へ向かいます。 2年ぶりの夜行バス、ちゃんと眠れるだろうか。 (前回、KGKの全国会議で大阪に行った時はほとんど眠れなかった) そんな些細な不安を抱きながら、 初めて訪れる地に期待を膨らませつつ、出掛けていきたいと思います。 お祈り頂いた、説教準備も無事に終わりました。 8/5(金)か8/6(土)のどちらかにもたれる家庭集会と、 8/7(日)の礼拝(午前:出雲南教会、午後:木次教会)で説教をする予定です。 他の教会では献身の証をしてきます。 それぞれ覚えていただければ幸いです。 それでは、いってきます! 【夏の予定】 7月30日~8月8日 夏季派遣(山陰地区) 8月11~13日 ナザレン・関東地区ティーンズキャンプ(群馬) 8月16~19日 小学生第二キャンプ(OBC) 8月20~31日 日大KGK合宿説教準備 9月1~3日 日大KGK夏合宿(千葉) 9月6~7日 神学校研修会(千葉) 9月18~19日 ナザレン・関東地区聖会(千葉)

神学生な日々#5:「説教作成奮闘中」

先週の水曜に前期授業が無事に終了し、夏休みに入りました。 先週末は細かい用事が色々重なって、十分に時間を取れていませんでしたが、 今週から夏季派遣の準備が始まりました。 主に説教準備。 初めての主日礼拝での説教なので、不安と緊張が渦巻いています。 お祈り頂けたら幸い。

モレノ#5:「前期授業終了」

教会月報『モレノ』( Mo nthly  Re port of the church of the  N azarene in  O yama)に掲載した原稿をアップします。                                  『 前期授業終了 』(教会月報「モレノ」2011年8月号掲載) 【前期授業終了】 あと1日で前期の授業が終わります。ここまで体調も崩すことなく、毎日の生活も守られました。教会のみなさんのお祈りにいつも感謝しています。 【聖書をよく学ぶ者に】 4月は神学というものをどう勉強してよいかわからず、戸惑っていました。学ばければいけないことの量の多さに圧倒されていました。語学(ギリシア語、ヘブライ語、英語、ドイツ語)、聖書、教会史、組織神学、実践神学、何よりも神学の基礎知識を身につけなければいけないと焦りを覚えながら始まった学びだった気がします。 そんな僕にとって、5月の連休で読んだ『説教と説教者』(D.M.ロイドジョンズ)という本との出会いによって、強く励まされました。牧師として、説教者として立てられようとしている自分自身を改めて意識し、力強く背中を押されるには十分な内容でした。何より、聖書から教えられ続け、聖書をよく学ぶ者でありたいと強く思わされました。 そのため、最近は緒論の勉強に力を入れだしました。しかし、特に旧約は日本語で勉強することの限界を覚え、やむを得ず、旧約聖書緒論(学ぶために知っておくべき各書簡の全体像やそこで語られている神学、これまでの研究など)を英語で学ぶことを決心しました。この夏、僕に与えられたひとつのチャレンジです。明確な目標(近年の旧約聖書緒論の把握)があればあるほど、そのための手段(英語)は身につけやすいであろう事を期待しつつ、取り組んでいきたいと思います。英語を学び始めて10年経ち、ようやく火がついてきました。 【祈り】 6月は自分の祈りについて深く反省させられるときでした。東北でのボランティアを通して、如何に祈るべきところに心を注ぎきれていないかを痛感。そして、友人から贈ってもらった『祈りによる力』(E.M.バウンズ)という本を読み、「いのちを奪う説教は祈りを伴わない説教です。祈りがなくては、説教者はいのちではなく、死を生み出すだけです。祈りにおいて力のない説教者は、また人々にい

あと3日

しばらく更新をサボっていました。 今日を含めてあと3日(7/14,15,20)で前期の授業が終了します。 レポート2本、小テスト2本、その間にCS説教。 頑張って乗り切ります。

夏の予定

ようやく夏の予定が確定しました。 7月25~29日 夏季派遣準備期間(証や説教の準備をする予定) 7月30日~8月8日 夏季派遣(山陰地区) 8月11~13日 ナザレン関東地区ティーンズキャンプ(群馬のどこか) 8月16~19日 小学生第二キャンプ(OBC) そして、来週は月曜~金曜にボランティアのため東北へ行ってきます。 こちらも祈りに覚えて頂けたら幸いです。

モレノ#4:「あなたのパンを水の上に投げよ」

教会月報『モレノ』( Mo nthly  Re port of the church of the  N azarene in  O yama)に掲載した原稿をアップします。                                  『 あなたのパンを水の上に投げよ 』(教会月報「モレノ」2011年7月号掲載) 【あなたのパンを水の上に投げよ】 あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。(コヘレト11:1) 僕は毎朝、ディボーションの時として聖書通読をすると共に、最近はC.H.スポルジョンの『主の約束は朝ごとに』を読んでいます。この聖書の言葉は、6/1(水)に読んだものです。ちなみに、新改訳では「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出そう。」と書かれています。 「パンを水の上に投げる」なんてとてもナンセンスなことだと思うかもしれません。でも、実際、僕らは日々、パンを水の上に投げているかのような経験をします。そのようなことがとても多くあります。 しかし、この箇所は、主にあって僕らの日々の労は空しくなるということはないことを教えてくれます。「月日がたってから」、「ずっと後の日になって」、僕らはそのパンを「見出す」という神様の約束が聖書に書かれているのです。 【6年という月日――そこで見出したもの】 5月末に、2人の男子高校生と一緒に夕食を食べに行きました。実はこの2人、僕が高2のとき、奥多摩での小学生キャンプで初めて受け持った子たちなのです。彼らはもう高校3年生。出会った頃は小学6年生だった彼らも、6年という月日が流れた今、当時の僕よりも年上になっていました。 僕が高校生キャンプの奉仕が日程の都合上出来なかったため、彼らと会うのは2年振りでした。そして、キャンプ場以外で、つまりプライベートで彼ら会うのは初めてでした。これは、約6年キャンプ奉仕をしていて初めての経験だったので、とても感慨深いものでした。キャンプ場での「キャンパー」と「スタッフ」という関係で終わることなく、僕は彼らと「友」として会うことを許されたのです。 6年前に投げたキャンプ奉仕というパン。それはすぐに結果を見出すことはなかなかできないし、あったとしてもとても気付きにくいものです。小さな拙い奉仕であったにも関わらず、僕はそ

神学生な日々#4:「古典に触れること」

最近、クラシックを聴く時間が増えてきました。 理由はいくつかありますが、何より大きいのは、無料で音源を手に入れることができること。 クラシック音楽の著作権が切れている音源が、アップロードされているwebサイトを見つけた(興味のある方は、 こちら から)んです。 とりあえず、有名どころを落として、勉強の休憩時間や寝る前に聴いてる日々です。 気付かされるのは、古典に触れることの大切さ。 この曲はどういう背景を持っているのかな、とネットで調べてみると、 僕が普段聴く曲は、その曲が土台となって作られているなんてこともある。 いや、寧ろ、そういうものの積み重ねで今僕らが聴いている音楽は成り立っている。 ロック好きな僕が、プレスリーやビートルズ、ストーンズなどと出会ったように。 今を構成している要素を知るために、古典に触れていくことは意義深い。 どんな学問もそういう積み重ねで今が成り立っている。 だから、古典に触れろと言われるのだろう。 神学もそれと同じで、古典に触れることの大切さを思わされている。 キリスト教神学は、2000年もの歴史が積み重ねって今がある。 聖書の歴史も含めると、人類の歴史そのものを読み解くことになっていく。 神学をするということは、なんて深淵な作業なんだと驚かされます。 正直、3年じゃ足りない。 でも、3年ある。 焦らず、じっくり基礎を固めようと思う。 でも、授業がある学期中は、日々の課題をこなさなきゃいけないので、今、「ツン読」がどんどん増えているんです。 だから、自由に自分の読みたいものが読める夏期休暇が、今、とても待ち遠しい。

神学生な日々#3:「今週楽しみにしていること」

最近、1週間が早く感じるようになってきました。 これは、神学校での生活に慣れてきた証拠でしょう。 最近ブログの更新頻度が落ちてますが、元気にやっています。 (出来る限り、週1更新は守っていきたいと思ってます) 今週は3つ楽しみな事があります。 ①キャンパーとの食事 明日、ふたりの男子高校生と一緒に夕飯を食べに行く予定です。 彼らは、僕が高2のときに、奥多摩の小学生キャンプで初めて受け持った子たち。 あれから6年が経っています。当時小6だった彼らは今は高3。 初めて会ったときの僕の年齡を越えている事に気づき、とても驚かされています。 そんな彼らと一緒にプライベートで食事の交わりが持てるのは感慨深いです。 これで元気をもらって、今週も一週間頑張る予定です。 ②主事会セミナー 毎月第一金曜日に、KGK事務所へ行き、学び会に出席しています。 前期は、U先生による「学生伝道の歴史」についての学び。 毎回多くの事を教えられる学びのときなのです。 久しぶりに御茶ノ水に行く予定なので、時間があったら、神保町の古本屋さんにでも行こうかな。 ③ALL日大 3月に卒業した日大。そこで一緒に学内活動をしていた仲間たちと再会します。 現役生と卒業生の合同祈祷会。 僕が1年生の頃に始まったもので、今年で5年目。 9月に行われるものが、記念すべき10回目だということを後輩たちは把握しているだろうか?笑 まぁ、それは置いといて、 今年は粋の良い新入生がたくさん与えられたようなので、 彼らに会えるのをとても楽しみにしています。 卒業してからも、この愛すべき交わりに戻って行く機会が与えられているのは、感謝なことです。 これを楽しみに、明日からの授業を頑張る予定です。 *報告 6/27(月)-7/1(金)に、東北へボランティアへ行くことになりました。 祈りに覚えて頂けたら幸いです。

モレノ#3:「スーツと聖書」

教会月報『モレノ』( Mo nthly  Re port of the church of the  N azarene in  O yama)に掲載した原稿をアップします。                                  『 スーツと聖書 』(教会月報「モレノ」2011年6月号掲載) 【慌ただしい連休】 今年のゴールデンウィークは、まさかの11連休でした。勉強に時間を割ける!と喜んでいたのですが、急遽葬儀の予定が入ったり、墓前礼拝、帰省、結婚披露パーティに出席するなど、慌ただしい連休になってしまいました。そのため、思うように勉強を進めることが出来なかったのはとても残念だったのですが、とても感謝な出来事がありました。 【破れたスーツ】 5/5(木)、KGKの主事の結婚披露宴パーティに出席し、その帰りに僕は階段を一段踏み外して転んでしまいました。怪我はなかったのですが、スーツのズボンが破けてしまいました。奉仕教会の三軒茶屋教会には毎週スーツで行っているので、急いで何とかする必要があり、予想外の出費と自分の失態に落ち込みながらスーツを買いに、翌日、賑やかな渋谷の街へと僕は出ていきました。 ズボンを修繕、もしくは新調できたらよかったのですが、店員さんに聞いてみたところ、スーツ一式新調する方がコスト的に良いことがわかったので、スーツを新調することになりました。 【備えられていたもの】 神学生になってから、僕はスーツで出掛ける機会が増えたのですが、どのように着こなせばいいのか(主にネクタイ、シャツの組み合わせが)を考えながら毎回スーツを着ていました。折角の機会なので、今回、店員さんに色々聞きながらスーツを選びました。 そのときした質問のひとつが、「僕は今学生で、キリスト教会の牧師になる勉強をしているのですが、日曜日に教会へ行く際、どのようなスーツがいいでしょうか?」という無茶な質問だったのですが、店員さんは真剣に考えてくださると共に、「実は、高校生のときキリスト教系の学校に行っていたんです」と教えてくれました。スーツを選びながら話をしていく中で「実は旧約聖書が好きだったんですけど、卒業するとき聖書を捨ててしまって、今は後悔しているんです」と店員さんは教えて下さり、翌日スーツを受け取りに行くとき、聖書をプレゼントする約束をしました。 どうにか翌日のス

神学生な日々#2:「ギリシア語はじめました」

11連休が終わり、先週から授業が本格的になってきました。 今年はM先生が以前から言っていた通り、ギリシア語と教会史が大変そうです。 なので、そこに力を注いでいく一年になりそうです。 ギリシア語を挫折せずに、この1年で習得できるようにお祈りいただけたら幸いです。 *聖書をギリシャ語で読める日が来るのが楽しみです^^

10年

先日、23歳になりました。 「大学入学して1年目。きっと働いているんだろうな」 と、僕は高校の頃思ってました。 まさかまだ学生だとは当時は思いもしなかった!笑 そんな「まさか」な日々を過ごしています。 ここ数年気付くことは、自分が昔の事を振り返るとき、 「10年前」という感覚が出てきた事です。 少しずつ、少しずつその頻度が増していく。 誕生日の日、twitterで中学時代の友人が、 「もう知り合ってから10年たってるとか、びっくり。」 と言っていて、驚きました。 (そういえば、小学生の頃からの友人たちは16年になるんだね笑) 何だか不思議な感覚を覚えます。 今後、これが「20年前」、「30年前」になってきて、 そうやって懐かしむ頻度が増える度、 また違った驚きを覚えていくんだろうと思います。 そういう意味で、歳を重ねることって楽しみだとも思うんです。 そうやって歳を重ねたとき、今僕の内にからし種程度しかない「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5:22,23)が、豊かな実を結んでいることを心から願う。 *23歳の抱負は、「良い基礎を築くこと」です。

動き出した時計

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先日、実家に帰ったとき、かれこれ10年以上止まっていた時計の鐘が鳴っていて驚いた。 未だに続く余震の影響で直ったのだろう。 動き出した時計、その鐘を聞く度に幼少時代を思い出します。 小さい頃、あの鐘が鳴った時、家の中でその音を聞いていた事を。 いや、寧ろ今までこの時計が小さいころ動いていた事さえ忘れていた。 鐘の音で突然思い出した。 何が引き金となって、記憶を呼び戻すかもわからないのだな、と実感。 25年ぶりに東京に戻ってきて、たくさんの事を思い出しているという、 奉仕教会の牧師の言葉を思い出した。 (もちろん、思い出すもの全てが喜べるものではないのだろうけど、) 忘れていた記憶との再会。それはとても心踊らされる出来頃です。

連休前半戦

連休の前半戦が終わった。 連休初日は、教団(関東地区)の墓前礼拝へ出席。 5/1、実家に帰省。 翌日東京へ戻り、葬儀(前夜式、告別式)に出席。 慌ただしい日々だった。 その中で多くの涙と出会った。 僕は、大切な人を失った人たちに掛ける言葉を持ち合わせていない。 それがよくわかった。 しかし、人の無力さを覚える中で、 福音の与える希望は、確かに光り輝いていた。 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。(ヨハネによる福音書11:3-5) 

最近思うこと#3:「カイロス――我慢と忍耐について」

以前、このブログでこれから考えたいこととして、 「我慢と忍耐の違い」 について書きましたが、先日、勉強していてなるほどと思うことがあったので、「最近思うこと」としてここに書き記すことにします。 *考察の過程として書くので、間違いもあると思います。 *佐藤敏夫「5章 摂理について」『キリスト教神学概論』を軸に記載します。 カイロス(καιρός)という「時」を意味するギリシア語があります。 類語として挙げられるクロノス(κρόνος)との違いは、クロノスが「線」であることに対して、カイロスは「点」であるということ。つまり、クロノスは「一定の期間」(period of time)を指すののに対し、カイロスは「ふさわしい時」(appointed time)を指します。 カイロスは二つの側面を持っています。 ひとつは「機会」という側面。これについて、佐藤敏夫は『キリスト教神学概論』(「神学概論」のテキスト)において以下のように語っています。 人が何かをするとき、神が定める「正しい時」があるというのが信仰の立場である。そこには、神がよしとするとき、すなわち、「正しい時」(right time)に着手しなければ、決して事はうまく行かないという考え方がある。昔の人は、そういう感覚を今の人よりずっと持っており、それゆえに着手すべき日を気にした。戦いを始める時、結婚をすると時、家を建てる時、大いにそういう感覚に支配された。 (佐藤敏夫『キリスト教神学概論』) そして、もうひとつは「成就」という側面。 物事はカイロスがこなければ成就しないという感覚も、昔の人ほどもっていた。だから、子どもを教育して、一定の水準まで引き上げようとする際にも、一方では一生懸命そのために努力するが、他方、成就する時を待つという姿勢が生まれてくる。……これが忍耐ということである。(佐藤敏夫『キリスト教神学概論』) コヘレト(伝道者の書)3章の記述を思い出しますね。 このようなカイロスの概念の喪失が現代の特徴であり、 カイロスを「待つ」ことの喪失 だと佐藤は書いています。 この カイロスを待つことの喪失 を引き起こした原因は、 「時の支配者は誰なのか?」という問いがその答えを教えてくれる気がします。 時の支配者とは、創造主なる神である。 神は時間も創造されました。 人間が時の支配

まさかの11連休

明日から僕のGWが始まります。 今年はまさかの11連休です。 GWにやりたいこと① 勉強 自由な時間がたくさん取れるので、 M先生が出した、教会史の課題を出来る限り片付けたいと思ってます。 教会史、なかなか楽しく学んでますが、 課題がとっても多いから大変です。 M先生が入学前から言っていた通りでした。 頑張ります。 GWにやりたいこと② 実家に帰省 折角なので、2日間だけ帰省します。 目的は国民年金の諸手続きです。 スムーズに出来たらいいな…… 帰省する際に一番気になっているのは、 愛犬ぺろが僕の事をちゃんと覚えているかどうか、です笑 GWにやりたいこと③ ギター 最近弾く時間がなかったので、久しぶりに思いっきり弾きたいな、と思ってます。 出来たら久しぶりに曲もつくろうかな。

日々の感謝

気付けば、入寮から3週間が経ちました。 こっちに来てから、色んな人にお世話になっています。 一人で過ごす僕をいつも気に掛けてくれる神学生とその家族たち、神学校の先生方、 食料をたくさんくださる三軒茶屋教会の方々、 温かく迎えてくれた教団事務のD先生ご夫妻、 国民年金について、しつこく質問したのにも関わらず、丁寧に対応してくれた区役所のお姉さん、 道に迷った時そこにいた郵便配達のお兄さん、 お弁当をつくってくれたS先生、 笑いの絶えない11同期会世話役の交わり、 これなくして僕の生活は成り立たない、ナザレンの方々からの多くの献金、 両親からの宅配便、 祈り支えてくれる小山教会、 ……などなど。 たくさんの人達を通して、日々の必要が満たされています。 感謝と喜びを覚えながら、頑張ってます。

音楽と僕#2:「ギター」

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ギターとの出会いはいつだったかは覚えていない。 僕が幼い頃から、父がギターを弾いているのを見ていたからだ。 「いつか大きくなったら弾きたいな」と思いながら、彼の姿を見ていた気がする。 もしかしたら父のそんな姿に憧れをもっていたのかもしれない。 ギターを初めて触ったのは、小5の時だった。 当時の担任が学校でよく弾いていて、素直にかっこいいと思ったのが影響した気がする。 しかし、すぐに挫折した(笑)。 あれは小6の頃だったかな。 GLAY、ラルク、Aerosmith、Deep Purpleといったロックバンドの音楽に僕はハマる。 ずっと教会で賛美歌を歌ってきたり、クラシックピアノを弾いてきた僕にとって、 ロックのような「トゲトゲした音楽」は刺激的だった。 いつか自分もバンドを組んで演奏したい!という思いを抱くようになった。 そして中1の夏、僕はギターを始めた。 そういえば、最近ギターを弾いていない 当時、ギターを弾くのがとにかく楽しかった。 楽しすぎて、よく部活をサボっていた笑 (もっと部活を誠実にやればよかったと、少し後悔していたりする) ギターを始める前後に、奥多摩福音の家主催の夏の中学生キャンプに参加をした。 これまで教会で賛美していたものとは違う賛美の形に対し、驚きと感動と興奮が起こったのを何となく(笑)覚えている。 賛美を通して、 当時、教会に行きながら、何処か毛嫌いしていたキリスト教というものを、 前向きに捉えるきっかけになったのではないかと、今では思っている。 そう、僕は割と単純な男だ。 そうやって、僕は奥多摩キャンプの常連さんになっていった。 そして、2002年7月僕のターニングポイントが訪れる。 (続く) ◇「音楽と僕」◇ #1「ピアノ」

これから考えたいこと#2:「神学すること」

昨日の新約緒論の授業で、聖書批評学について学びました。 様式的批評学であったり、編集史批評学であったり、それぞれ興味深い研究方法だったのですが、 その中でM先生が言っていた言葉が印象的でした。 今の聖書学の問題は、神学者が大学の教授であること。彼らの研究は、教会やその信仰に全く反映されるものでなくなってしまっている。 僕らは学問としての神学の追求にいかに狂酔しやすいことか。 神学は、教会に仕えなければならない。 神学は、信仰をより豊かに養う助けであるべきだ。 この言葉を聞いたとき、奮い立たせられる思いでした。 僕自身、何を自分の専門として、これから深めていきたいか考えている途中なのだが、 やはり、これから僕が自分の内に築きあげていく神学が、 教会形成のためにあるようにと心から願っている。 教会に仕え、教会の信仰を養う助けとなる神学をすること。 (恐らく、すべての牧師に言えることだろうが、) それはこれからの僕にとってのライフワークだと思ってます。

食材マネジメント

自炊の難しさを痛感しているここ数日です。 何が難しいかって、食材の管理が難しい。 先日、使おうと思って買ったもやしを一度も使わずにダメにしてしまいました。 消費期限が2日切れた豚肉を食べました。(今のところ無事です笑) 水菜も半分くらい使って、ダメになりました。 もうちょっと計画的に買い物しなきゃダメですね… 賞味・消費期限の短いものは少なめに買うように心がけます。 *毎日ちゃんと食べているので、ご安心を笑

モレノ#2:「自己管理」

教会月報『モレノ』( Mo nthly  Re port of the church of the  N azarene in  O yama)に掲載した原稿をアップします。                                  『 自己管理 』(教会月報「モレノ」2011年5月号掲載) 【はじめての一人暮らし】 無事に引越しが終わり、4月4日(月)から日本ナザレン神学校の寮に住み始めました。僕以外の神学生はみんな家族がいるため、僕はひとりで神学校の教授室に住んでいます。神学校での寮生活は、僕のはじめての一人暮らしになりました。 自炊、洗濯、買い物、すべてを一人でやるのはとても大変なのだな、と感じています。自炊の経験はほとんどないので毎日苦戦しています。しかし、積み重ねていくことで、少しずつ少しずつ慣れていくことを信じ、頑張っている日々です。(こういう経験をすると、これまでの生活への感謝がより深く起こされます。) 【家計簿】 僕の神学校での生活は、ナザレン教団のみなさんの献金で成り立っています。そのため、これまで以上にお金を正しく管理しなければいけないと思い、4月から家計簿をつけはじめました。僕ら人間は他の多くのものも神様から管理をゆだねられているのですが、特に金銭管理は目に見えてその結果が見えてくるものだと思っています。削るべきところを削り、必要なもの(主に図書費)にお金を使うために今後も頑張っていきたいと思います。 【そして、事件は起きた】 そんな中、早速事件は起きました。それは自転車を買った日のことでした。 引越し後は、身の回りの生活品を揃えるためによく買い物へ出かけていたため、自転車を買った日も出費は多くありました。その日の家計簿を付けていたら、財布の中身と家計簿の金額が合わなかったのです。何と5,000円も足りなかったのです。もしやと思い、1万円札を出したのに5,000円と勘違いされてしまった可能性のあるお店に電話したところ、「ウチのレジは機械が自ら判断し、自動でお釣りが出てくるのでそのミスはあり得ない」とのことでした。自分は与えられたお金を正しく判断出来なかったと、祈りの中で嘆き、悔い改めるときでした。 結果的に、今回の件は僕の勘違いで家計簿と財布の中身は一致しました。ですが、それでよかったといって終わらせてはい

神学生な日々#1:「チャペルとピアノ」

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先週このブログで、今は人に聴かせられるほど上手くピアノを弾くことは出来ないけど、いつかコード弾きならセンスよく弾けるくらいになりたい( 音楽と僕#1:「ピアノ」 )と書きましたが、早速そのチャンスが訪れてしまいました。 神学校では、授業がある日はお昼前に礼拝の時間を持っています。 今年はピアノ奏楽が出来る神学生がいないので、少しだけ弾ける僕に出番が回ってきました。 当分弾くつもりはなかったのに、こういう機会が与えられるなんて、不思議なものです。 折角与えられた機会なので、精一杯頑張ってみたいと思います。 高校時代はこんな感じで弾いていた気がする(出典: flickr ) 高校時代に礼拝奏楽をやっていたおかげで、 賛美歌のレパートリーも何曲かありました。 ずっと弾いていなかったけど、案外指は覚えているものなんです。 ちなみに、これまで弾いた曲は以下の3曲です。 ・栄光イエスにあれ ・いつくしみ深き ・歌いつつ歩まん *やるからには、レパートリーを増やしたいな…

「聖書を中心として聖書に教えられるキリスト者になれ」

先日、KGKの主事会セミナーというものに出席しました。 学生伝道の歴史の学びだったのですが、そこで印象に残った言葉を紹介します。 「聖書を中心として聖書に教えられるキリスト者になれ。神学体系の上に立つキリスト者になってはいけない。(Be Bible Christians, and not system Christians.)」(チャールズ・シメオン) この言葉を通して、常に「 聖書を中心として聖書に教えられる 」ことの大切さを改めて教えられました。 僕はこれからの神学の学びの上で、様々な神学体系に出会うと思います。 そんな僕にとって、この言葉と出会ってから、 神学生としての学びを始めることができることにとても感謝しています。 今日は11:00~入学式です。 自分の召しを吟味する3年間が始まります。 これからの学びにも期待しつつ、臨みたいと思います。

明日は入学式です

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今日は今年1年間お世話になる、三軒茶屋教会での記念すべき最初の主日でした。 教会員のみなさんが温かく迎えて下さり、本当に感謝でいっぱいの一日でした。 温かな交わりのある良い教会でした。 僕自身まだ不慣れな感じがありますが、少しずつ少しずつ慣れていけたらと思います。 これからの交わりに期待しています。 そして、三茶での奉仕が終わった後、ティーンズキャンプの卒業式に顔を出すため、青葉台教会へ行って来ました。そこでは、まさかの僕の神学校入学を祝って頂けました。 僕は喜びと感謝をもって送り出されるのだな、と実感しました。中高生のみんなにも送り出されて、ナザレン神学校での学びがスタートできることは喜びです。 そして、明日はいよいよ入学式です。 これから3年間の学びのためにお祈り頂けたら幸いです! *今年1年間のCS奉仕は、元気な男の子たちと分級をすることになります。小山教会ではとっても元気な女の子たちが相手だったので、とても新鮮な気分です。

月曜から授業がスタートします

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タイトルにもあるとおり、月曜日から授業がスタートです。 今日は神学生のみんなで勉強部屋(閲覧室)と図書館の整理をしていました。ビフォア・アフターがわかる写真を掲載できたらよかったのですが、写真を撮り忘れてしまったので、断念。 少しずつ、これから始まる学びに向けて備えている今日この頃です。 ひとつ喜びの報告。 どうやら、神学校にいると本を頂く機会が多いみたいです。 今週は8冊も頂きました!譲ってくださった方々に感謝! *明日は奉仕教会(三軒茶屋)初日です!

音楽と僕#1:「ピアノ」

全5回で「音楽と僕」について書きたいと思ってます。(もしかしたらもっと書くかもしれません) これまでの自分の歩みを振り返り整理すると共に、今現在、どのような意味を見出しているかを書き綴っていこうと思っています。駄文になる可能性大ですが(苦笑)、どうぞお付き合い下さい。                         そんなに知られていませんが、実は僕、ピアノが弾けます。 実は礼拝奏楽もしたことがあります。 今はもう下手すぎて人に聴かせることなんてできませんが… でも、いつかコード弾きならセンスよく弾けるくらいになりたいな、とこっそり思ってます。 そんな野望はあります。 その「いつか」がいつ来るのかはわかりませんが…笑 さて、そんな僕ですが、ピアノは大嫌いでした。 幼稚園の年中辺りから小6まで約8年間習っていたのですが、 ピアノを弾くのも、習いに行くのも、辛い時間でした。 幼稚園の頃は、ピアノ教室へ行くのが嫌で、 押入れの中に隠れたりしていたのを覚えています。 すぐに見つかって連れて行かれたり、 罪悪感からか、ぎりぎりの時間に渋々出てきたり、 …と、そんな風に当時の僕なりに抵抗していました。 何が嫌だったかというと、 通っていたピアノ教室には、女の子しかいなかったからです。 そういえば、その内のひとりがいじめっ子で、 僕はよく泣かされてたような気がします。 あの頃は泣き虫だった…笑 もしかしたら、ピアノを弾いていた環境が嫌だったのかもしれませんね。 これが僕にとっての音楽でした。 いや、「音を楽しむ」ことが出来ず、苦しんでいた。 だから、「音苦」かもしれない。(「苦音」のが自然な響きですね) まぁ、そんな嫌いなピアノでしたが、 今の僕は、ピアノを習っていたことに感謝しています。 楽譜を読めるし。 ピアノのお陰なのか、ギターの上達が早かった。 作曲をする上での助けにもなった。 そのような技術的な事にばかり目を留めていましたが、 最近になって気付かされたのは、 これがあったからこそ今の自分が形成されている、という事実です。 ピアノ嫌い(≒音楽嫌い)がギターと出会い、 ギターとの出会いにより、音楽を好きになり、 それを通して、出会った信仰の友との交わりが深められ、 その交わりの中で幼

自転車購入

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昨日、無事に自転車を買うことが出来ました。 クロスバイクというタイプの自転車で街乗りするのには、とても良いみたいです。 神学校から三軒茶屋(奉仕教会)、御茶ノ水(KGK事務所)などへ自転車で行くつもりなので、 これからたくさん活躍すると思います。 (早速、明日に御茶ノ水へ行く予定です) そして、大学はいってからずっと運動不足だった僕に、 自転車が程よい運動の機会をもたらすわけです。 買ってから買い物へ行ったり、諸手続きをしに行ったりしたのですが、とても良い乗り心地です。 彼(自転車)は僕の絶大の信頼を勝ち取りました。 今日も夕飯の買い物時に大いに活躍してくれることでしょう! 最後に、僕の新しい相棒の写真を掲載。 *この調子で「趣味はサイクリングです」とでも言ってみようかな笑

これから考えたいこと#1:「我慢と忍耐の違い」

先日、 「健全な信仰をどう育てるか」(丸屋真也著) を読み終わったのだが、そこに我慢と忍耐について書いてあったのが印象的だった。 試練に対処する際の態度として、「我慢」は受動的で、「忍耐」は能動的な姿勢です。この違いは非常に大きなものです。そして、この「忍耐」というのは我慢と違って、一時的なものに終わらず、継続し、習慣化することで生まれるのです。 そう、我慢と忍耐は別物だ。 それらを混同しちゃいけないらしい。 でも、振り返ってみると、自分が「忍耐」と思っていた事が、「我慢」だったと気付いたりもする。 では、我慢と忍耐は具体的にどのような違いがあるのだろうか? そこをもっと掘り下げ、自分の中で消化したいと思ってます。 *いくつになっても、わかってるようでわかってないことのが多い

新生活に向けて#3:「入寮と今後の予定」

今日、入寮予定です。 次に家に帰ってくるのは5月の連休か9月でしょう。 今日の夕飯について考えながら、出掛けたいと思います(笑)。 今後の予定は以下の通り。 【7日】 KGK11同期会世話役ミーティング 【8日】 神学校オリエンテーション KGK主事会セミナー(学生伝道の歴史について) 【10日】 三軒茶屋教会で初めての礼拝 【11日】 日本ナザレン神学校入学式&授業スタート 祈りに覚えて頂けたら幸いです。 *明日、明後日は神学校付近を散策します!

最後の礼拝、そして派遣

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今日は小山教会での最後の礼拝でした。 小山教会に来てから2年半。 この教会で豊かな交わりが持てたこと、心から感謝しています。 礼拝で最後に賛美した曲は、「神の恵み豊かに受け」。 小山教会らしい賛美だなーと思いながら、この2年半この賛美と祝祷によって派遣されてきました。 今日の礼拝もいつもと同じように、この賛美と祝祷をもって、小山教会から神学校へと派遣されました。いつもと違うのは、これから派遣されていく場所。でも、御国のために働くという本質は変わらない。 「神の恵み豊かに受け」 (Sent forth by God's blessing) 神の恵み 豊かに受け 神の民は 勇み行く。 礼拝は終わった、その実りは 信じるものに 授けられる。 心の中に蒔かれたその種 行動の花を 開かせる。 神は招き、愛は結び、 御国のため 働こう。 神を賛美し、感謝しながら 日々の仕事 果たそうよ。 信仰を分かち 愛しながら どんな人とも 肩を組もう。 恵みで育て 光で導き みんなを一つに してください。 すべてのもの 賛美と感謝を 主キリストに ささげよう。 (『賛美歌21』91番より) 夏休みにまた帰れるのをとても楽しみにしつつ、 明日、僕は引っ越します。 *奉仕教会は、三軒茶屋教会に決まりました。

新生活に向けて#2:「チャリ」

入寮したら、自転車を買おうと思っています。 運動不足にならないように、サイクリングを定期的にする予定。 中学入学からこれまでの10年間、喜びも悲しみも共にした(笑)チャリとは当分お別れです。 そういうわけで、誰か、良い自転車の選び方を教えてください。 *関係ないけど、神学校の教室からdoor-to-doorで10秒以内の所に、僕が住む部屋があります。

最近思うこと#2:「待つこと」

最近、「待つ」という事を思うときに、常に心に留めることがある。それは、「 この地上で待つことが求められているひとつひとつの事柄は、キリストを待ち望むための訓練 」だということ。 僕らは日々、様々なものを待っている。 電車、人(遅刻はしない側でありたい)、宅配便、手紙(メール)の返事、給料日などなど…… そして、それぞれの人生のステージによって、待つものが用意されている。 僕のこれまでの経験から言うならば、試験の結果がすぐに思いつく。 そして、きっとこれからは帰郷(家族との再会)、結婚、子ども、成長、老い、死を待つのだろう。 (ヨセフ、ヤコブ、アブラハムを思い起こしながら書いてみたり) 共通しているのは、自分の思い通りにいかないという事だろうか? 僕ら人間には、このように色んなものを生涯待ち望む。 それは時に試練であり、苦しみだ。 忍耐が伴う。 シンドイ、というのが本音だろう。 決断をするときは興奮と感激があるし、 目的を達成したときには栄光と満足がある。 しかし、待つことが強いられているとき、中途半端に感じる。 だから、それはシンドイことだと思う。 でも、「 この地上で待つことを求められている一つ一つの事柄を待つことが出来なくて、どうしてキリストを待ち望むことが出来るのか? 」と思わされる。 そして、ローマの信徒への手紙の言葉を思い起こしたい。 ……わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ローマ5:3-5) 昨日から 「健全な信仰をどう育てるか」(丸屋真也、いのちのことば社) という本を読んでいます。そこに書かれていた言葉に「なるほど」と思わされたので、紹介します。 子どもの特徴は、欲しいと思うものはすぐに手に入れたがるということです。待つことができないのです。つまり、 未熟さの特徴は忍耐がないこと です。子どもは欲しい物が与えられないと、ところかまわず泣き叫びます。 きっと、忍耐が求められているときって、未熟な霊的子どもから、成熟した霊的大人へと成長するためのものなのだと思います。将来の希望を携え、その時々に求められる「待つ」事柄に忍耐していきたい。

新生活に向けて#1:「引っ越し準備中」

明日から引越しを始めたいと思っています。 4/4(月)に入寮予定。 ついに22年10ヶ月過ごした我が家を出る日が訪れました。 何だか感慨深いです。 祈祷課題 ・新生活のために。正しい生活リズムを作ることができるように。食生活が守られるように。(出来る限り自炊して生活したいと思っています) ・神学校での学びのために。 ・奉仕教会での交わりのために。 ・必要が満たされるように。 *英語の勉強を始めてから今日で10日目です。(1日だけ出来なかったけど…)

小山教会祈祷会

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今日は月1回の小山教会の祈祷会の日。 去年の3月から毎月最終水曜日にやっています。 1年間途絶えることなく続けられたのはとても嬉しいです。 昨年末教会員夫婦が作った「お菓子版小山教会」 教会って、御言葉と祈りによって建て上げられていくものだと思ってます。この教会祈祷会がこれからも続けられていくことを心から願い、祈っていきたいです。 さて、そういうわけで、今日は僕が出席できる最後の小山教会祈祷会です。 行ってきます! *驚いたことに、10日間連続で更新しています。 徐々に更新頻度は下がっていく予定です(笑)。

書籍紹介#1:『初めに、神が―創造を貫き、堕落を凌ぐ神の愛』(遠藤嘉信著)

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僕がこれまで読んできた本を、たまに紹介していきたいと思います。 今回は、故遠藤嘉信先生の『初めに、神が―創造を貫き、堕落を凌ぐ神の愛』(いのちのことば社、2007年)をご紹介します。 この本を手に取ったのは、確か大学1年生の頃。 創世記1~3章の講解説教が掲載されている本書。 これまで「知っている」「わかっている」と思い込んでいた天地創造の場面が、 いかに神の愛に満ちているものであったのかに気付かされ、 圧倒させられた記憶があります。 また、僕は本書をすすめる際、 「あとがき」が素晴らしいから是非読んでくれと伝えています。 ひとりの信仰者が死を目前にしたとき、どのような言葉を紡いでいくのか。 自分は信仰者として、どのような言葉を紡いで、死を迎えるのだろうか。 そんな問いを与えられる内容です。 死を迎えるとき、主への感謝と周りの人々への愛ある配慮、 そして神さまの計画を信じ、受け入れること。 信仰者として臨むべき態度。 これらのことをこの書籍のあとがきを通して、僕は教えられました。 だからこそ、この一冊を薦めたい!

最近思うこと#1:「ことば」

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僕らにとって、言葉というものはとても大きな意味を持つと思います。 親の言葉を聞き、しつけをされました。 学校の授業を聞き、教育を受けました。 神のことばを聴き、それを受け入れ信仰を持ちました。 言葉は僕らの信念、思想、生活など、 様々なものに影響を与えるものだと思います。 では、僕らが生涯生きていく上で一番聞く言葉は、一体、誰の言葉だろうか? 恐らく自分自身の言葉を人は一番聞いているはず... 親でもなく、 兄弟でもなく、 恋人でもなく、 配偶者でもなく、 神様の言葉でもない! 僕らは自分の言葉を一生のうちに一番聞いているはずです。 これってとても恐ろしいことだと思います。 イエス様は、マタイによる福音書15:11で「口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」と言っています。 自分の内にあるものが言葉となり、それが人に影響を与えます。 自分の言葉を自分が一番聞いているのであれば、 その言葉に影響を受け、自分が育っていくのではないでしょうか? 罪人の僕の言葉が、僕自身を育てているのです。 ここで、僕らは何を基盤にして生きるべきかが問われるのだと思います。 僕らクリスチャンは何を基盤とするべきか? 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。(申命記6:4-9)  御言葉を心に刻むこと、蓄えることが僕らに求められています。 ただ読むだけではいけないようです。 聖書は、どんなときもそれを唱えなさいと言っています。 そして、ローマの信徒への手紙10:17を読む時に、 御言葉を聞くことが信仰の始まりだということに僕らは気付かされます。 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマの信徒への手紙10:17) 世に遣わされている

激励会と詩編100篇

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今日は礼拝後、教会で激励会をしてもらいました。 小山教会といえば、BBQです笑 とっても美味しいお肉でした。 小山教会名物シュハスコ(ブラジル式BBQ) そして、BBQ後は教会員のみんなが1曲贈ってくれました。 タイトルは「基嗣、ファイト」だとか、そうじゃないとか...笑 (結局のところ、タイトルは不明ですw) 詩編100篇だと思ったら、後半に自分の名前が出てきてとてもビックリさせられました。 こんな曲まで用意してくれるなんて、本当に嬉しかったです。 今日の礼拝説教はローマ12:3-8より、 「喜びをもって主に仕えよ」という説教題だったのですが、 礼拝説教だけでなく、今日一日の教会での交わりを通して、 「喜びをもって主に仕えてくれ!」という思いをもって、 教会員の方々が僕を送り出そうとしてくれるのがわかって、 本当に感謝なときでした。     全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。     喜び祝い、主に仕え     喜び歌って御前に進み出よ。     知れ、主こそ神であると。     主はわたしたちを造られた。     わたしたちは主のもの、その民     主に養われる羊の群れ。     感謝の歌をうたって主の門に進み     賛美の歌をうたって主の庭に入れ。     感謝をささげ、御名をたたえよ。     主は恵み深く、慈しみはとこしえに     主の真実は代々に及ぶ。(詩編100:1-5) 最後に、贈られた曲の歌詞と祈祷課題を掲載します。     喜び祝い 主に仕えよう     喜び歌って 御前に行こう     感謝を歌って 主の門に進み     賛美を歌って 御国に入ろう     神様ありがとう     基嗣に恵みを     神様ありがとう     基嗣、ファイト ◇祈祷課題 ・今週引越しをします。4/1~4に荷物を運び、翌週から寮生活を始める予定。引越しとその準備のためにお祈り下さい。 ・新生活のために。毎日ちゃんと食べていけるように。 ・日々の学びのために。神学と英語の勉強。 *お腹も心も満たされています^^

あと2回

明日は3月最終日曜。 早いもので、小山教会での礼拝も残すところあと2回。 喜びを持って神学校へと送り出してくれる 小山教会のメンバーに、僕は心から感謝してます。 さぁ、明日のCS準備に取り掛かろう。 *facebookでおなじみのリアクションボタンを設置しました。「Like」(いいね)と「Praise the Lord!」(主をほめたたえます!)です。「Pray (for you)」(祈ります)を加えるかは現在検討中です。

「基嗣」という名前

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このブログのタイトル、「天の故郷にあこがれて」はヘブライの信徒への手紙11:16から付けたものです。 ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち 天の故郷を熱望して いたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。(ヘブライ11:16、新共同訳) しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち 天の故郷にあこがれて いたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 (ヘブル人への手紙11:16、新改訳第三版) 新共同訳聖書だと「天の故郷を熱望して」となっているのですが、新改訳聖書第三版だと「天の故郷にあこがれて」と書かれているんです。個人的に後者の方が、言葉の響き的に好きなので、「天の故郷にあこがれて」をタイトルとして採用しています。 では、なぜこのタイトルを選んだのか? というのは、自分の「基嗣(もとつぐ)」という名前と関係があるからです。 この光の感じが好き (出典: flickr ) 小学校低学年の頃、母に僕の名前の意味を尋ねたところ、「『キリストの御国を嗣ぐ』って意味なんだよ」と説明されていましたが、当時の僕にその意味はサッパリでした。寧ろ、「神様の国を自分のモノとするなんて、何ておこがましい名前だ!」なんて思っていました。 この「基嗣」という名前の意味をようやく理解できたのは、それから10年以上経った頃でした。 大学に入学して、僕は信仰書を読もうと思い、故遠藤嘉信先生の 『初めに、神が―創造を貫き、堕落を凌ぐ神の愛』 を買って読みました。その本は、創世記1-3章の講解説教が収録されているものでした。その内容に感銘を受け、それから僕は1年掛けて遠藤先生の本を買い漁りました(笑)。 その時買った中の一冊、 『さあ、天を見上げなさい―神の恩寵とアブラハムの信仰』 にヘブライ11:13-16が書かれていたのです。 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て

いんぐりっしゅ

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去年1年間やりたかったのに、思うように出来なかったこと。 それは英語の勉強。 もちろん自分の怠惰ゆえにです。 そして、ここ最近、「やらねば!」とますます思わされていること。 それは、やはり英語の勉強。 神学の勉強をする上でも必須な英語。 逃げ続けてきた英語の勉強をそろそろ本気でやらなければいけないようだ。 英語の勉強を"start"(出典: flickr ) そういうわけで、一昨日から英語の勉強を始めています。 今日で3日目突入。 塾で中学英語はずっと教えていたのですが、 勉強していて、高校英語をこんなにも忘れていたのか、と愕然としています。 継続は力なり。 まずは1週間続けることを目標に頑張ります。 お祈り下さい。(切実)

モレノ#1:「手放すということ ~天に宝を積む~」

以前、教会月報『モレノ』( Mo nthly Re port of the church of the N azarene in O yama)に掲載した原稿をアップします。                                  『 手放すということ ~天に宝を積む 』(教会月報『モレノ』2010年4月号掲載) 2010年1月15日(金)、僕が中学2年生の夏からやっているクリスチャンバンドShine(シャイン)の新年会をしました。2009年の夏頃から活動休止状態にあったので、今後のあり方をハッキリさせるために、メンバーを集め、話し合う時間を持ちました。 大学卒業が1年後に控えるこの時期、それぞれが進路選択のために歩み出して行きます。 メンバー全員の話を聞いているとき、ヨハネの福音書に記されているキリストの言葉を思わされました。 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。(ヨハネによる福音書21:18) 自分の行きたいところへそれぞれが進める、というのがこれまでの一人ひとりの歩みでした。 しかし、少しずつ、少しずつ、それぞれの場所へと向かっていて、その歩みはもう既に始まっていました。 それはやはり、主の御手に引かれているのだと僕は思います。 その中で僕らは、徐々に自分の歩きたい所を歩けなくなっていくのだな、と思わされます。 それぞれが、それぞれのステージへと向かっていると感じました。 僕らは何かを選ぶとき、何かに向かって歩み出すときに、 何かを手放すこと、諦めることを選択する必要があるのだと思わされます。 新年会で話したことの結論を言うと、(表向きは)バンドは「活動停止」をすることになりました。 そう、僕らにとって一度手放さなければいけないものは、このバンド活動でした。 しかし、主のみこころならばまた集まり、共に活動をしたいという思いから、 「解散」ではなく、「活動停止」という選択を僕らはしました。 2002年7月28日に結成。 7年半ずっと共にあったバンドの終わりの時でした。 終わりを迎えることに悲しみを覚えたりもしますが、主にあって失ったのだと心から思っています。

東日本大震災祈祷会

昨日は神学校の試験が思いの外早く終わったので、関東地区KGK(キリスト者学生会)で東日本大震災の被災者の方々を覚えて祈る集会があることを思い出したので、他の学生たちと共に祈るために祈祷会へ出席してきました。(気付けば、これが学生時代最後のKGKの集会でした) 30分ほど遅刻しての出席だったが、本当に出席してよかった。 祈祷会には、東北地区の学生が来てくれて、被災地の現状を報告してくれました。 ――愛の反対は無関心。 大学へ入学した頃、ある先輩がよく言っていたのを思い出します。 いかに、被災地での生活の困難さを思い巡らして、 その為に祈る力が自分に乏しいのかがよくわかります。 自分の鈍感さがよくわかります。 しかし、それでも隣人の痛みに気付き、 必要な手を差し伸べることが出来る者へと変えられていきたいです。 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。(ローマ15:1,2) そして、僕らには今後来るであろうと予想されている地震のことを知り、 被害が最小限で済むために行動し、祈り求めていくことが求められていると思います。 参考までに、下記のサイトを紹介します。 「地震」や「救援」などのカテゴリーをご覧ください。 「小海キリスト教会牧師所感」 http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/ 最後に、昨日挙げられていた祈祷課題をいくつか載せます。 ・食料、水、電気、ガソリンなどの必要が満たされるように。 ・寒さの為、体調を崩している方々のために ・福島第一原発の被害が大きくならずに、一日も早くおさまるように。 ・東北地区春期学校(中止になりました)を準備してくれた準備委員の心の慰めのために。