しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2011年3月25日金曜日

「基嗣」という名前

このブログのタイトル、「天の故郷にあこがれて」はヘブライの信徒への手紙11:16から付けたものです。
ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。(ヘブライ11:16、新共同訳)
しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 (ヘブル人への手紙11:16、新改訳第三版)
新共同訳聖書だと「天の故郷を熱望して」となっているのですが、新改訳聖書第三版だと「天の故郷にあこがれて」と書かれているんです。個人的に後者の方が、言葉の響き的に好きなので、「天の故郷にあこがれて」をタイトルとして採用しています。

では、なぜこのタイトルを選んだのか?
というのは、自分の「基嗣(もとつぐ)」という名前と関係があるからです。

この光の感じが好き (出典:flickr
小学校低学年の頃、母に僕の名前の意味を尋ねたところ、「『キリストの御国を嗣ぐ』って意味なんだよ」と説明されていましたが、当時の僕にその意味はサッパリでした。寧ろ、「神様の国を自分のモノとするなんて、何ておこがましい名前だ!」なんて思っていました。

この「基嗣」という名前の意味をようやく理解できたのは、それから10年以上経った頃でした。
大学に入学して、僕は信仰書を読もうと思い、故遠藤嘉信先生の『初めに、神が―創造を貫き、堕落を凌ぐ神の愛』を買って読みました。その本は、創世記1-3章の講解説教が収録されているものでした。その内容に感銘を受け、それから僕は1年掛けて遠藤先生の本を買い漁りました(笑)。

その時買った中の一冊、『さあ、天を見上げなさい―神の恩寵とアブラハムの信仰』にヘブライ11:13-16が書かれていたのです。
この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。(ヘブライ11:13-16)
この箇所を読んだ時、僕は「基嗣」という自分の名前の意味に気付くことが出来たのです。
キリストを信じるものは、その罪を赦され義とされるばかりではなく、
神の子どもとされていて、キリストの御国の相続人とされています。
それを受け取る事を熱望する。
天の故郷にあこがれて生きる。
そのような生き方が求められている名前なのだと気付かされたのです。
だから、僕は「基嗣」という名前を誇りに思っています。
これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。(テトスへの手紙3:7、口語訳)
そして、この地上において、天の故郷にあこがれ歩む旅人である、
と生涯告白して生きていきたいと思ってます。

そういうわけで、このブログのタイトルは「天の故郷にあこがれて」


*遠藤先生の説教集に関しては、後日、書籍紹介という形でブログに掲載したいと思います。