説教#1:「キリストにある平安を抱いて」

説教原稿を掲載します。
ひとりでも多くの方に福音が届けられるように用いられたら幸いです。

                               

「キリストにある平安を抱いて」こちらで説教が聞けます)
聖書 詩編4:1-9、マタイ8:23-27
日時 2011年8月6日(土)
場所 木次教会 家庭集会

【はじめに:恐れを抱きながら】
私たちは生きる上で、様々な恐怖を抱きます。
幼い頃は、暗闇を恐れました。
夜中、家の中をひとりで歩くのが怖いと思った経験を、恐らく誰もが持っているかと思います。
時が経ち、少しずつ大人になっていくと、私たちは将来のことで悩みだし、ときに恐れを抱きます。
先の見えない、不確かな将来に対する恐れです。
また、人を恐れます。
それは学校の友人、会社の上司、バイト先の同僚、近所のあの人など、
人付き合いの中で、恐怖を覚える時もあります。
そして、未知への遭遇。
テレビや新聞を騒がす大事件、大震災、
そして、死。
私たちが意識するにしても、しないにしても、
私たちに恐れを与えるものはとても多くあります。

【キリストに従った弟子たち】
今日、私たちに与えられたこの箇所では、イエス様の弟子たちが「恐れを抱いた」ということが記されています。

彼らは、イエス様のあとに従って、舟に乗りました。
23節にある、「従った」という言葉は、キリストの後ろを「あちこちついて行く」という意味と、キリストの「弟子である」というふたつの意味があります。
この物語は弟子たちがキリストに「従う」ということから始まりました。
弟子たちにとって、舟に乗ることも「従う」ことでした。
この「舟」という言葉は、弟子たちの群れ、つまり、キリストの教会の象徴として使われる言葉でもあります。
キリストに従い、信仰を持った者たちが舟に乗った。
そのような意味で、この弟子たちの姿を、キリストを信じる私たちと重ね合わせて見ることが出来ます。

【嵐の中で死を見つめる】
舟に乗り込んだ弟子たちは、突然の嵐に襲われます。
このように困難は突然私たちに襲いかかってくるのです。
キリストを信じたから、その後は困難などない、ということはありえません。
私たちは以前と同様に、喜びの時も苦しみの時も経験します。
そして、依然として、私たちは恐怖を覚えます。
嵐という言葉は、本来「震動」と訳すべき言葉で、海が激しく動いたことを意味しています。
波は荒れ、舟を大きく揺らしたということでしょう。
この荒れ狂う波が、弟子たちを脅かしました。
弟子たちは恐怖を覚えます。
弟子たちは次第に、この舟は大丈夫なのだろうか、と心配し出したことでしょう。
この波によって、舟が沈んでしまうかもしれない。
あまりにも激しい嵐のため、舟は壊され、
荒れ狂うこの湖に、自分たちは投げ出されてしまうかもしれない。
舟から投げ出されてしまったら、自分たちは溺れ死んでしまう。
彼らは自分たちの死を見つめました。
死を見つめ、恐れを抱きました。

【主よ、助けてください】
しかし、そこに主イエスはおられた。
弟子たちはそれに気付き、近寄って、
眠っておられる彼を起こし、言いました。
「主よ、助けてください」、と。

これは弟子たちの信仰の言葉です。
弟子たちは知っていました。
主イエスの力を。
主イエス・キリストの父である、全能の神の力を。
詩編89篇9,10節では、こううたわれています。
万軍の神、主よ/誰があなたのような威力を持つでしょう。主よ、あなたの真実は/あなたを取り囲んでいます。あなたは誇り高い海を支配し/波が高く起これば、それを静められます。(詩編89:9,10)
そして、彼は自然を治めただけではありませんでした。
この「死」の問題も解決されました。
それは、十字架によってです。
キリストが私たち一人ひとりの罪を背負い、十字架に架かってくださったことにより、私たちの罪は赦されたのです。
「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23)
しかし、その死からの完全な勝利が、キリストの十字架を通して、宣言されているのです。
「神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです。」(ローマ6:23)

それゆえ、キリストの恵みのわざを喜び、
神の力を知り、神に依り頼む生き方をした、世々の信仰者たちは、
困難に直面した時、確信をもってこう祈ったのです。
「主よ、助けてください」、と。
神が私を絶望の淵から贖い出してくださるはずだという確信です。

「呼び求めるわたしに答えてください/わたしの正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください/憐れんで、祈りを聞いてください。」(詩編4:2)

【なぜ怖がるのか 信仰の薄い者たちよ】
しかし、それと同時に、この言葉は不信仰の言葉でもあります。
彼らはイエス様の力を、神の力を知っていました。
もちろん、信頼もしていました。
しかし、彼らは主イエスが共におられるのを忘れ、
目の前の嵐に恐れ戸惑ってしまいました。
彼らは死の恐怖に晒されているこのような状況下においても、
イエス様の力を信頼することができませんでした。
実際、私たちも目の前の現実にある困難に対して、恐れを覚えてしまうことが数多くあります。
そんな私たちに、主イエスの「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」という言葉が突き刺さります。
しかし、イエス様は、私たちのこの小さな信仰を責めるために、こう言われたのではありません。
この言葉には、愛が満ちあふれています。
なぜ、怖がるのか。
なぜ、恐れるのか。
わたしが共にいるではないか。
怖がることはない。
恐れることはない。
私たちに注がれる、主イエスの優しいまなざしと、この愛に満ちた言葉に、
小さな信仰しか持ち合わせない私たちは多くの慰めを受けるのです。
そして、また主への信頼を新たにされ、
確信と希望を持って、「主よ、助けてください」と願うように変えられていくのです。

【証】
私にとって、突然の嵐とは、20歳の冬に経験した教会の転会でした。
ある日、母が「明日、違う教会に行こう」と言い出したのです。
それは、20年間通っていた教会から離れるということを意味していました。
私の両親は教会の交わりで多くの傷を受けながらも、その教会へ行き続けました。
それは、幼かった私や2歳下の妹が、教会を転々とする親の姿を見て、
不信感を抱くことがないように、ひとつの教会に留まるという両親の信仰の決断でした。
私自身、いつからそれを思い出したかは覚えていませんが、
その教会で講壇から語られる言葉が、本当に御言葉に基づいているものなのか、という疑問をずっと持ち続けていました。

しかし、このことは、私にとって「教会とは何か」ということを考えさせる大きなきっかけとなりました。
この嵐の中、主は私と共にいてくださいました。
クリスチャンの友人の祈りに支えられ、この時を乗り越えることができました。
教会とは何か。
小山教会の交わりの中で、それを教えられ、多くの慰めを受けました。

教会を移ったその少し前に、私は召命のみことばであるヨハネ21:15-18の言葉を受け取ります。
教会の転会があったりするなど、悩みの中で決断し、今に至ります。

献身を決断したその直後、私は恐れに駆られました。
それは、本当にこのまま歩み続けても大丈夫なのだろうか。
自分は、伝道者として、牧師として本当にやっていけるのだろうか。
という不安でした。
しかし、主は言われた。
「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」
神様に信頼しきれていなかった自分に気付かされました。
私があなたを召したのだ。信頼せよと言われる主の声でした。
この言葉によって、私はこの心に平安を与えられました。

【イエスは眠っておられた】
「いったい、この方はどういう方なのだろう。」
主イエスが風と湖とを叱り、嵐を静める姿を目の当たりにした人々のうちに、このような問いが与えられました。
それは、聖書の読者である私たちが抱く問いでもあります。
イエス・キリスト、彼はいったいどういうお方なのか。

この箇所が語るイエス様の姿は、自然を治める権威を持っていることに目が行きがちです。
そしてもうひとつ、私たちの興味を引く、記述があります。
「イエスは眠っておられた」という言葉です。
イエス様は、舟で寝ておられました。
なぜ、寝ていたのだろうか。
これは私たちにとって、大きな疑問に感じます。
イエスは眠っていたのです。
まるで、嵐のない平穏な、いつもの湖の上で舟に乗っているかのように。

きっと、イエス様にとって、嵐は嵐でなかったのだと思います。
嵐の中でさえも、主は平安を覚えておられる。
それも、眠れるほどに。
そして、私たちに平安を与えようと招かれておられるのです。
「なぜ、怖がるのか」、と。
主イエスが共におられるから、私たちは恐れを抱くような状況に置かれても、平安のうちに身を横たえることができるのです。
「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」(詩篇4:8、新改訳聖書第三版)
【キリストにある平安を抱いて】
キリストは今も、私たちの舟におられます。
彼は、私たちの教会のかしらとして、共におられる。
恐れおののく私たちの日常に、平安を与えていてくださる。
恐れを抱くとき、愛をもって「なぜ怖がるのか」と言ってくださる。
愛のまなざしで私たちを見つめ、言われる。
「わたしがあなたと共にいる」(創世記26:24)。
だから、「安心して行きなさい」(マルコ5:34)、と。
キリストにある平安を抱き、希望を携えて、
私たちはこの世へと出ていきましょう。

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