しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2011年8月13日土曜日

説教#2:「痛みを伴う歩み」


「痛みを伴う歩み」
聖書 詩編126:5-6、Ⅱコリント12:7-10
日時 2011年8月7日(日)
場所 出雲南教会、木次教会


【はじめに:痛みを伴う歩み】
私たちは毎日、多くの「痛み」を抱えながら生きています。
それは、持病や怪我といった身体的な痛みかもしれません。
身体的な痛みは、私たちの生活に制限を与えます。
今まで出来たことを出来なくしたり、
それによって、諦めなければならないことが出てきたりするなど、
その痛みは、時に私たちの心とも関係してきます。
また、それは友人や家族など、周囲の人たちとの関わりの中で受けた傷による、この心の痛みかもしれません。
人それぞれ抱えている「痛み」は様々ですが、
多かれ少なかれ、確かに私たちの内に痛みというものはあります。
私たちは、ある程度の痛みは、受け入れることが出来るにしても、
それが積み重なってきたり、
予想外のタイミングや、想像以上の痛みだった場合、
困惑し、落胆してしまいます。
そして、次第に問いが生まれてきます。
一体、この痛みにはどのような意味があるのか。
なぜ私に、と。

【パウロの抱えた「痛み」】
今日、私たちに与えられたこの箇所で、著者パウロは「ひとつのとげが与」(12:7)えられたと語っています。
パウロに与えられたこの「とげ」とはどのようなものだったのでしょうか。
パウロのいう「とげ」が何なのかを私たちは正確に知ることは出来ません。
しかし、「身に一つのとげが」という言葉から、肉体的疾患を彼は患っていたと解釈することが出来ます。
実際、パウロに与えられたとげがどのようなものであったにせよ、
このとげが痛みを伴うものであったことは明白です。
彼はこのとげによって痛み苦しんでいました。
パウロは、この痛みにより、多くのストレスを抱えたことでしょう。
眠れぬ夜もあったかもしれません。
肉体の不自由さを覚え、自分自身に苛立ちを感じるときもあったかもしれません。
そして、何より、このとげによって与えられている痛みにより、
自分の宣教が妨げられている、制限されていると感じたかもしれません。
このとげが自分の宣教の枷となっている、と。
それを思うと、「これを私から去らせて」(12:8、新改訳)欲しいと願う、
パウロの三度の祈りの必死さが伝わってきます。
パウロのこの祈りは、十字架に架けられる前夜、イエスがゲツセマネで祈った、
「この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)という三度の祈りを思い起こさせます。
キリストが取りのけて欲しいと神に願った杯、それは十字架でした。
本質的には、類似しているとは言い切れませんが、
パウロの祈りもイエスの祈りと同様に、本気の祈りでした。
自分の与えられた「とげ」について、神のみこころを求める真剣な祈りでした。

【「とげ」の与えられた理由】
では、パウロにはなぜ、この「とげ」が与えられたのでしょうか。
なぜ、彼は苦しまなければいけなかったのか。

この「とげ」はそもそも、「サタンから送られた使い」(12:7)が彼に与えたものだから、そこに意味を見出すことなど不可能なことなのでしょうか。
パウロがあまりにも大胆に福音を語るため、サタンが肉体のとげによって彼の働きを妨げようとしたのかもしれません。
しかし、旧新約聖書を通じて、サタンは神が許された以上のことをする力は持っていないことは明らかです。
ひとつ例を挙げるなら、イエス・キリストの十字架を挙げることができるでしょう。
キリストを十字架に架けたのは、私たちひとりひとりです。
私たちの罪ゆえにキリストは十字架に架けられました。
それとともに、サタンはユダに働きかけ、キリストが十字架に架かるように仕向けました。
神の子が死ねば(神の子が救うべき人間たちによって殺されれば)、人の救いなどありえず、
それは絶望でしかないかのように思えます。
しかし、サタンのこの行いは、キリストの贖いによって罪人を救うという神の目的に奉仕しました。
神の子が十字架上で死んだということは、
私たちひとりひとりの罪を赦すために、まったく罪のないイエス・キリストが私たちひとりひとりの罪をすべて背負って死なれたということを意味していました。
このようにして、サタンの力は神の目的に奉仕しているのです。

このことから、サタンがパウロを「とげ」を通して痛めつけたという出来事は、神が目的をもって許されたことだったと知ることができるでしょう。
そして、その理由をパウロは知っている。
この「とげ」によって与えられた痛みを通して、パウロは神の目的へと導かれたのです。
すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)
パウロはこの痛みを通して、自分自身の弱さを思い知ったことでしょう。
自分の弱さに絶望する中で、神様がパウロに語られた言葉が、
「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中にこそ十分に発揮されるのだ」という言葉でした。
パウロは弱かった。
しかし、神の恵みは、パウロの肉体的疲労に対して十分でした。
彼はこの恵みのゆえに働き続けることが出来ました。
神の恵みは、肉体的・精神的苦痛に対して十分でした。
彼はこの恵みのゆえに、Ⅱコリント11:24以降に記されているような、迫害に屈することなく、宣教のわざに励むことが出来ました。
キリスト・イエスにある神の恵みが、パウロを覆っていたのです。
だから、彼は自分の弱さを誇ることを喜びました。
しかし、それは彼が弱さ自体を喜んだというわけではありません。
パウロが誇ったのは、彼自身の弱さにあって経験したキリストの力でした。
このとげは、パウロが自分自身の力から神の恵み、キリストの力へと目を向けることを可能にさせたのです。

【痛みに目を向けるとき】
パウロに与えられたとげは、自分の弱さを見つめると共に、
他のものにも目を向けさせました。
彼はキリストを拒み、福音に敵対するユダヤ人たちを見つめ、痛みを覚えていました。(ローマ9:2)
彼は、同胞であるユダヤ人たちの救いを切に願っていました。
待ち望んでいたはずのメシアであるキリストがこの世に来られたのに、
彼らはキリストを信じず、寧ろ、信じるキリスト教徒たちを迫害しました。
この事実が、彼の心を痛め、宣教へと導いていきました。

また同様に、異邦人たちに対しても痛みを覚えていました。
宣教旅行で赴く地において、彼が見た現実は悲惨なものでした。
異邦人の使徒として立てられた彼の見つめる先には、痛みがありました。
それは、彼を遣わした神が覚えておられる痛みでもありました。

そして、教会。
パウロは教会の不一致を見つめ、痛みを覚えました。
そこにある争い、裁き、不道徳などに直面しました。

パウロは、これらの痛みを隅に置いておくことはできず、
ユダヤ人たち、そして異邦人たちのもとへ行き、福音を伝えに行ったのです。
そして、教会に対しては多くの手紙を書き、機会が許されれば実際にその場所に足を運びました。

はじめに触れたように、私たちにも多くの痛みが与えられています。
「とげ」という言葉はギリシア語で「スコロプス」という言葉が使われています。
この言葉の元の意味が(地中に打ち込んで目印や支柱にする)「杭」を意味しているように、
このとげを通して与えられる痛みは、杭のように私たちの心を突き刺します。
なぜ、この心に突き刺さるのか。
それは、神様が私たち自身の弱さの内に働かれる、キリストの力を経験させたいからです。
そして、私たちが神様のみこころを求めて、この世界を見るとき、
神様ご自身が心を痛めておられるところに、痛みを覚えることがあります。
「ここに目を向けよ」と、主は私たちに果たすべき務めを教えるために、私たちの内に杭を打たれるのです。

【証】
私にとって、痛みを覚える場所は教会でした。
二十歳の時にそれまで通っていた教会から、小山教会に転会をしました。
以前通っていた教会について、ここで多くを語ることは控えたいと思いますが、
そこで多くの傷を負いました。
教会を変えたという事実は、ずっと変わらない事実として残ります。
常に私の内に、いわば杭のように突き刺さったままでいます。
この痛みが、私に教会とは何かという問いを与え続けています。
そして、直接献身の召しのみことばであるヨハネ21:15-18の言葉と出会ったとき、悩みを覚えながらも、その召しを受け取る者へとされていきました。

【痛みを担い合う共同体】
私たちには主から与えられている務めがそれぞれあります。
そして、その務めの中で、それぞれ痛みを抱えながら生きています。
私たちがこの痛みと向き合うとき、弱さとも直面します。
この弱さの中に、確かに神の恵みが働くことを信じ、日々の務めを果たしていきましょう。
その務めとは、祈りかもしれません。
具体的な働きかもしれません。
そして、それは時に辛く、過酷なものかもしれません。
時に、一人では担いきれないと思えるようなものかもしれません。
そのようなとき、「いいから、やれ」とは神様は言われません。
この痛みを伴う歩みにおいて、
私たちはひとりで歩めとは言われていません。
キリストが私たちと共に痛みを担い、弱い私たちに力を与えてくださいます。(12:10でパウロは力強く宣言している。)
そして、私たちには痛みを共に担い合う事ができる、教会という共同体があります。
祈りによって支え合い、慰め合い、愛し合う共同体です。
この共同体に支えられ、慰められ、私たちはこの世へと出て行きましょう。
痛みによって、私たちは多くの涙を流すことでしょう。
しかし、やがて「束ねた穂を背負い、喜びのうたを歌いながら帰ってくる」(詩編126:6)時が訪れると信じつつ、共に歩み続けていきましょう。