説教#6:「約束の民」(たまちゅう合宿#1)

9月16〜17日にKGKの多摩ブロックと中央線ブロックの合同合宿(略して「たまちゅう合宿」だそうだ)に、講師として参加してきました。「派遣意識」というテーマとエフェソ4:1がテーマ聖句として与えられ、当日は2回語る機会を与えられました。祈りに覚えてくださった皆さん、感謝します。日大合宿同様、合宿でした説教を少しずつ公開していきます。

#1「約束の民」こちらで説教が聞けます)
聖書 出エジ1:22〜2:10、エフェソ4:1〜4
日時 2011年9月16日(金)
場所 KGK たまちゅう合宿(大沢地青少年センター)

【はじめに:派遣意識】
今回、派遣意識というテーマについて、共に合宿を通して考える機会が与えられています。
KGKでは、そのスピリットとして、派遣意識を掲げ、
「神があなたを今いるその学校へと遣わしているんだ」と言っていますが、
実際問題、私たちはこの神の派遣を、神の召しをどのように考え、受け取ればいいのでしょうか。

今回、エペソ4:1の「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい」(新改訳)というテーマ聖句が与えられました。
私たちに与えられた召しとは何なのでしょうか。
今、この時代に生かされ、この場所にいる。
学生として、大学や短大、専門学校などで学んでいる。
それぞれに帰る家庭や教会があり、
多くの人々との輪の中で、私たちは生きています。
私たちが今、この場所で生かされていることにどのような意味があるのでしょうか。
今回の多摩・中央線ブロック合同合宿では、
モーセというひとりの信仰者と、彼の属していたイスラエルという共同体を通して、
自分たちの召しについて共に考えていきたいと思います。

【約束の民の危機】
モーセはエジプトで、レビの家系に生まれたイスラエル人です。
彼は、その生涯の初めに命の危機に立たされました。
それは、エジプトの王ファラオの命令によってです。
その命令とは、このようなものでした。
「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」(出エジプト1:22)
ファラオはなぜ、このような残酷な命令を出したのでしょうか。
それは、増えていくイスラエル人を恐れたからです。
ファラオは、ヨセフの時代に築いたイスラエルとの関係を知らず、
増えていくイスラエルを見たときに、彼らの反逆を恐れ、奴隷にして苦しめました。
しかし、イスラエルの人々を苦しめれば苦しめるほど、彼らは増えていったのです。
そのような背景があって、この命令が出されたのです。
「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」(出エジプト1:22)と。

実際、この命令にイスラエルの人々がどこまで従ったかはわかりません。
しかし、もしこの命令がファラオの意図していた計画通りにすべてうまくいっていたら、
生まれた男の子は、ナイル川で溺死によって処刑され、
女の子は、恐らく奴隷のままエジプト人の妻とされたことでしょう。
そして、やがて一世代のうちにイスラエル人はエジプト人と同化するに違いありません。
そう、この命令はイスラエル人をエジプト人と同化する計画だったのです。
ファラオの命令は、神の民を滅ぼすものだったのです。
イスラエルは、民族存続の危機に直面していたのです。
当然、このファラオの計画は、神の計画と相反するものでした。

【神の計画】
さて、神の計画とは何でしょうか。
それは、聖書に記されている神の約束に基づくものです。
神の約束は、契約として神の側から一方的な恵みによって、世々の信仰者たちとの間に結ばれてきました。
この時代の人々に関して言うならば、アブラハム契約です。
その契約内容は、
第一に、アブラハムの子孫が祝福される。
第二に、アブラハムの子孫に土地が与えられる。
そして、アブラハムを通して、異邦人も祝福を受けるようになる。
というものでした。
この契約は、アブラハム、イサク、ヤコブと受け継がれ、このモーセの時代の人々との間にも結ばれているものでした。
そして、この契約は神から一方的な恵みにより結ばれ、受け継がれてきた約束なのです。
イスラエルの民は、神と契約を結んだ約束の民なのです。
つまり、アブラハムの子孫である自分たち、イスラエルが祝福されること、
アブラハムの子孫である自分たち、イスラエルに土地が与えられること、
アブラハムの子孫である自分たち、イスラエルを通して、異邦人も祝福を受けること、
この3つが神によって、彼らに約束されていたのです。
いや、この契約は彼らだけのものではありません。
この契約はアブラハム、イサク、ヤコブと、それ以降の時代に受け継がれていきました。
それだけではなく、この契約を基盤として、シナイ契約(出エジ19:6)、ダビデ契約(サム上7:11〜17)などの契約があり、後の時代へと受け継がれていくのです。
そして、契約はキリストによって成就されるのです。
キリストによって、罪赦され、救いを受け、
キリストによって、神の子とされ、約束の地である神の御国の相続者とされ、
キリストによって、異邦人も救いへと招かれたのです。
そして、この契約は、今を生きる私たち、キリストを信じる者にも結ばれているものなのです。
キリストによって、罪赦され、救いを受け、
キリストによって、神の子とされ、約束の地である神の御国の相続者とされました。
そして、キリストによって、まだ神を信じていない者に福音を宣べ伝える者とされました。
そう、この約束は神が私たちと共にいてくださるという約束です。
神との関係が回復し、神との親しき交わりに私たちは招かれているのです。
私たちは、このような約束を携えて、生きる神の民、約束の民なのです。
私たちはこの約束に希望を見出しています。
この一つの希望にあずかるように招かれているのです。
イスラエルはアブラハム契約という、これらの約束を携えて生きる約束の民でした。
そのようなイスラエルに与えた契約の成就こそ、神の計画だったのです。
しかし、どうでしょうか。
現実は、イスラエルはエジプトで奴隷状態にされ、
今やファラオの命令によって、存続の危機に直面している。
イスラエルの民を通して、神はこの世界のすべての人々を祝福しようとしておられました。
だからこそ、彼らはエジプトから救い出される必要があったのです。
神の計画の成就のために、救いだされる必要がありました。
そう、そのために指導者として用いられたのが、モーセだったのです。
モーセは神の約束の成就のために選ばれたのです。
神の偉大な計画の一端を担うためです。

【名前の意味①〜モーセの出生】
さて、聖書において、名前はその人自身を表すものです。
モーセという名前は、「引き上げる」という意味です。
彼は3ヶ月の間、両親によって隠されていましたが、
これ以上隠しきれないと判断した両親の手によって、
ファラオの命令通りに、ナイル川に放り込まれました。
しかし、両親の知恵によって、 アスファルトとピッチで防水された パピルスの籠の中にモーセは入れられ、ナイル川の葦の茂みの間に置かれたのです。
両親の知恵によって、ファラオの命令通りナイル川に入れられても、溺れ死ぬことはありませんでしたが、
そのまま放置していたら、やがては死んでしまったことでしょう。
彼の両親のできたことは、モーセの命をほんの少しだけ引き延ばすことに過ぎませんでした。
それが人の力で出来る抵抗の限界でした。
しかし、そこに神は働かれた。
神の計画によって、モーセはファラオの娘によってナイル川から「引き上げられた」のです。
その名の通り、引き上げられ、モーセは命の危機から救い出されたのです。
そして、命の危機から救い出されたのはモーセだけではなかったでしょう。
これは想像の範疇でしかありませんが、
モーセがエジプトの王ファラオの娘の子とされたことにより、王の命令が効力を失った可能性も十分にあります。
モーセを通して、ファラオの計画が挫かれていったのです。
人の計画ではなく、神の計画がなることを私たちは思い知らなければなりません。
人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。(箴言19:21)
ファラオの計画は自分たちの脅威であるイスラエル人を減らすことにありました。
しかし、神の前では、ファラオの計画は無力でした。
ファラオの計画通りにいくどころか、イスラエル人の子を養子として迎え、
王族の教育を受けさせることになりました。
この王族としての最高の教育を受けたことは、モーセがイスラエルを導くことに大いに役立ったことでしょう。
神の計画は深淵です。
モーセを通して、イスラエルの民をエジプトから救い出すことを計画した神は、
モーセを具体的に召し出す前から、彼を遣わしていたのです。
モーセの召しは、(聖研で開いた)出エジプト記3章の燃える柴の場面での神の招きから始まったわけではありません。
彼が生まれた時から始まっていたのです。
神の計画の内に、彼の派遣がありました。
もしもモーセがこの時代に生まれ、命の危機に晒されなかったら、
彼はイスラエルの存続に危機感を覚えなかったでしょう。
もしもモーセを拾ったのが、一般のエジプト人だったら、
彼はファラオの命令通り、そのまま殺されてしまったことでしょう。
無事に拾われ生かされたとしても、エジプトの王族としての教育を受けることはできません。
モーセはファラオの娘に拾われたからこそ、指導者として民を導く力を王家の教育によって得ることができたのです。
もしも姉が遠くに立って、モーセの入れられた籠を見つめていなかったら、
母を乳母として連れてくることはできなかったでしょう。
これによって、モーセはエジプト人のもとでエジプト人としての教育を受けながらも、
神の民としての教育を受け、約束を自分のものとして受け取ることができたのです。
これらひとつひとつは、決して偶然ではありません。
モーセは神の計画の中で、意味を持って、あの時代、あの場所に、生まれたのです。
モーセの召しを思う時、それまでの歩みが問われることに気づきます。
これまで、このような経験をしてきたからこそ、この召しがあり、
今、ここに置かれているということに。
私たちも神の計画の内に、意味を持って、この時代、この場所に生かされています。
すべて同じ条件の人なんていません。
生まれた場所も違えば、歳も、家族構成も、それまでの経験も、何もかも違います。
失敗も、成功も、挫折も、何もかも今の自分を構成しているのです。
神の目に全く同じ人なんているはずありません。
私という一人の人間だからこそ、神は意味を持って、この時代に、この場所に生かしているのです。
この神の召しを知り、 今与えられている状況、時間、賜物、すべてを最大限に生かし、
今、主に仕える、それが神に遣わされた者の生き方なのです。
失敗も、成功も、挫折も、何もかも今の自分を構成しているのです。
そのような自分が神に用いられてる。
そのような自分だからこそ、すべき勤めがあるのです。
そして、私たちが主に応答する時、神によって生涯が取り扱われていくのです。
出エジプト3章以降、モーセがこれまでの自分の歩みに意味を見出してきたように。
「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい」(エペソ4:1、新改訳)
【名前の意味②〜イスラエルの出エジプト】
さて、「引き上げる」という意味のモーセの名前は、彼の出生のみを意味していたわけではありません。
先に触れたように、聖書において、名前はその人自身を表すものです。
モーセはイスラエルの民をエジプトから救い出す指導者として立てられました。
神の計画によって、紅海(葦の海)から引き上げられたと共に、
紅海(葦の海)から、イスラエルの民を引き上げたのです。
そうやって、イスラエルをエジプトから救い出したのです。
奴隷から約束の地の民として、神の民として引き上げるため、
40年間イスラエルの指導者として、約束の地を目指して荒野を導いたのです。
私たちはモーセの内にキリストの姿を見ます。
モーセがナイル川から引き上げられたように、私たちもキリストによって罪赦され、引き上げられました。
エジプトから救い出され、紅海から引き上げられたように、私たちも罪の現実、罪の支配から救い出されました。
そして、天の故郷(約束の地、神の御国)を目指し、この地上での生涯を歩んでいます。
モーセがイスラエルにとってそうだったように、キリストが私たちと共にいて、私たちの日々の歩みを導いてくださるのです。

【約束の民として】
モーセは個人として召されると同時に、イスラエルの民として召されているのです。
彼の召しは個人的なものだけでなく、共同体のものとして考えなければなりません。
イスラエルの民として召され、この群れを愛したからこそ、この群れのため、この群れを率いて約束の地を目指したのです。
私たちも、教会の一員として召され、そこから遣わされてそれぞれに担うべき働きがあるのです。
そう、学内へと遣わされているのです。(遣わされるのは学内だけではない)
そして、モーセは約束の民の一員として召されていました。
彼がイスラエルの民、約束の民であることを抜きにして、彼の召しというものを考えてはいけません。
約束の民として召されているからこそ、神の約束を信じ、神の契約の成就に向かって、今求められている働きを担っていったのです。
彼は与えられている約束を希望を持って見つめ、喜んでいました。
天の故郷にあこがれ、この地上の生涯を全うしたのです。
モーセのこの地上での歩みは、神の国を建て上げる働きでした。
私たちも同様に、神の国を建て上げる働きを担い、今、ここに遣わされているのです。
私たちは神の約束の民です。
この神の約束というひとつの希望を携えています。
この約束を携え、私たちはこの地上を歩んでいるのです。

コメント

このブログの人気の投稿

Macじゃないよ、アルバムだよ

説教#162:「子ロバでありたい」