しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2011年10月17日月曜日

説教#8:「キリストの使節として」

昨日、今年の奉仕教会である三軒茶屋教会で、説教の奉仕をさせて頂く機会を与えられました。祈りに覚えてくださったみなさん、感謝します。

『キリストの使節として』
聖書 ネヘミヤ記2:17-20、Ⅱコリント5:19-21
日時 2011年10月16日(日)
場所 日本ナザレン教団・三軒茶屋教会

【はじめに:周囲の問題】
私たちは自分たちの周囲を見渡すと、程度は違えど、多くの問題を見出します。
家庭や職場、学校、趣味のサークルなどといった場所で、時として私たちは人間関係の歪みとそこから引き起こされる数々の問題を目の当たりにします。
身近にある多くの問題と出会う中で、 多くの悲しみや苦しみを覚えます。
今日私たちに与えられたテキスト、ネヘミヤ記は、
バビロン捕囚によって、捕囚されたユダヤの人々が、
捕囚から解放され、故郷エルサレムに帰り、民族の復興に取り掛かったことが書かれている書簡です。
このネヘミヤ記に登場するネヘミヤという人は、
自分の故郷であるエルサレムの現状を知ったとき、大きな悲しみを覚えました。

【エルサレムの現状】
ネヘミヤが悲しみを覚える原因となったエルサレムの現状とは、どのようなものだったのでしょうか。
それについて、17節でネヘミヤがこのように語っています。
エルサレムは荒廃し、城門は焼け落ちたままだ。(ネヘミヤ2:17)
ネヘミヤは、単に自分の故郷であるエルサレムが荒廃して、
城門、つまりエルサレムを取り囲む城壁が焼け落ちたままだったから、
というこの事実のみを悲しんだのではありません。
彼が故郷の荒れ果てた様を聞き(cf.ネヘミヤ1章)、その光景を実際に見た時、
彼はこう思ったことでしょう。
神がかつて自分たちの子孫に与えてくださった「約束の地」が、
「この約束の地である自分の故郷が」廃れている。
エルサレムの城壁は崩れ、ボロボロになり、見るに耐えない状態だ。
神の民として召されている自分の故郷がこのような状態では、
神の栄光を他の国々へ証するどころか、かえって嘲りの対象になっているではないだろうか、と。
だからこそ、再建に取り組む必要がありました。
ネヘミヤにとって、神の栄光を現すためという十分な動機があったのです。

【城壁再建の必要性】
さて、ネヘミヤがエルサレムに戻った時、
既に神殿は彼よりも前にエルサレムに戻った人々によって、再建されていました。
礼拝の民である彼ら、ユダヤ人たちが、礼拝の場である神殿を何よりも優先して再建したのは、当然のことでした。
では、なぜその後に城壁を再建しなければいけなかったのでしょうか。
城壁の機能について考える時、それは明らかです。
第一に、城壁は敵や野の獣達から自分たちの命や作物などを守るものです。
この城壁が堅固なものでなければ、エルサレムの復興は望めませんでした。
そして、第二に、城壁は周りの国々から一番目立って見えるものです。
詩編でエルサレムは「大地の喜び…王の都」(詩編48:3)であるとうたわれています。
そう呼ばれるに相応しい城壁があったことでしょう。
ユダヤ人にとって、この城壁は自分たちのいのちを守るものであったと共に、神の栄光を諸国に現すものだったのです。
しかし今はどうでしょうか。
ネヘミヤが見たエルサレムの城壁は、焼け落ち、ボロボロの状態でした。
それだけでなく、崩れている城壁の隙間から荒廃したエルサレムが見えるのです。
この崩れた城壁は、人々を守ることが出来ない、形だけのものでした。
そして、この城壁は神の栄光を現すどころか、諸国の民の笑いものとなっていました。
そして、この城壁の有様は、ネヘミヤにとって、イスラエルの信仰の状態と重ね合わせて見たのです。
神への信仰を固く持って生きることができていない現状がありました。
神の民として、人々に主を証し、異邦人を祝福存在となっていない現状がありました。
これがネヘミヤの抱いた悲しみでもありました。
私たちの内にも、このようにボロボロになっていて、再建の必要がある場所はないでしょうか。
このエルサレムのように荒廃した、荒れ果てた場所が自分自身の内にはないでしょうか。
エルサレムの城壁のように、焼け落ちて、ボロボロになり、再建の必要がある場所はないでしょうかか。

【罪人としての自分を見つめるとき】
第一に、私たちが見つめなければいけないものは、
自分自身の城壁がボロボロになっているという事実です。
私たちの一番の問題は罪の問題です。
日々の生活の中で直面する多くの問題の裏側に、罪という根本的な問題が潜んでいます。
罪によってボロボロになってしまった私自身のこの城壁の穴を埋めるためには、どうすればいいのでしょうか。
時として、私たちはその場しのぎで、この城壁の穴を埋めようとします。
ある人にとって、それは仕事。
ある人にとって、それは飲酒や喫煙。
ある人にとって、それは恋愛。
ある人にとって、それはギャンブル。
ある人にとって、それは趣味。
ある人にとって、それは金銭。
しかし一時的な解決は与えるものの、満たされることはありません。
すぐに朽ち果てて、焼け落ちた城壁に戻ってしまうのです。
私たちは、何によってこの城壁を修復し、この荒廃したエルサレムを潤すべきなのでしょうか。
それは、キリストの愛によってです。
キリストの愛によって、この城壁を再建する必要があるのです。
キリストの愛によって、この荒廃したエルサレムを潤す必要があるのです。
キリストの愛によってのみ、私たちは自分の罪の問題から解決されるのです。
実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ローマ5:6~8)
【キリストの使節として遣わされる】
キリストの愛によって私たちが得るものは、神との和解です。
罪によって断たれた神との関係が、キリストの十字架の血による贖いによって回復されているという事実があるのです。
今日ネヘミヤ記と一緒に開いたコリントの信徒への手紙第二にあるように、
「神はキリストによって世を御自分と和解させ」(2コリ5:19)たのです。
和解の福音を携えて生きる者へと、私たちキリストを信じる者は変えられているのです。
キリストの使者として、私たちは日常へと遣わされています。
この「使者」という言葉は、新改訳聖書では「使節」と訳されています。
「使節」とは、国家や君主の命令を受け、他国に派遣される人のことをいいます。
キリストを受け入れ、神の民とされている私たちの国籍は天にあります。
私たちは神によって、この世へと遣わされている使者、キリストの使節なのです。

【キリストの使節としての務め】
私たちは、自分自身が「キリストの使節」であるという事実に気づく時、
今、自分がいるこの場所ですべき務めがあるということに気付かされます。
家庭、職場、学校、趣味のサークルへと、神は私達を遣わしています。
神の目に誰一人として同じ人はいません。
同じ場所で、同じ状況に置かれている、まったく同じ経験を持つ人はひとりとしていません。
この私だけです。
自分だからこそ、神は私をこの場所においたのだ、ということに私たちは気付かされます。
そして、そのような私達を神は、「務め」を果たすようにと遣わされているのです。
私たちの務めとは何か。
それは、和解の言葉、つまり福音を人々に告げ知らせることです。
また、私たちは 家庭や職場、学校、趣味のサークルなどといった場所で、程度は違えど、多くの問題を見出します。
私たちが遣わされていく場所は、多くの問題があります。
そして、 悲しみや苦しみがあります。
聖書の基準に照らしあわせてこの世界を見れば見るほど、神が喜ばれない状態にある事柄に気付かされるのです。
私たちの務めは、自分が普段、家庭や職場、学校、趣味のサークルなど、日常でしているひとつひとつの事柄によってなされていきます。
そして、私たちは自分が関わる事柄を、神に喜ばれる形にしようと努めていくのです。
それはキリストの愛が根底にあってなされる奉仕なのです。
しかしその一方で、私達は自分に与えられているこの務めを、自分の力でしてしまう誘惑に駆られる弱さをもっています。
自分の栄光のため、自己実現のために、です。
正直、それが一番簡単な手段のように思えます。
しかし、今日の交読文の箇所である詩編127篇ではこう歌われています。
主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい。(詩編127:1)
そう、神が建てるのでなければ、人の労苦は「むなしい」。
決して、私達が与えられている務めによって、家が建たないわけではありません。
城壁が再建されないわけではありません。
しかし、詩人はうたう、「むなしい」と。
私たちは「キリストの」使節として立てられているのですから、
キリストのために、神の栄光のために、自らに委ねられた働きをすべきなのです。

【自らの務めを教会の働きとして受け取る】
私たちは、ネヘミヤが再建に取り掛かろうと民に呼びかけている事に注目したいと思います。
これはこの城壁再建の働きが、ネヘミヤ個人の働きではなかった、ということです。
城壁再建の作業において、一人ひとりの作業は個人的なものと見えたとしても、
全体を通してみたら、ひとつの目標に向かってなされている働きなのです。
同じように、私達に委ねられている務めも、
神の目から見たらすべては、神の国を建て上げるという一つの目的に向かっているものなのです。
だから、教会の働きとして、私たちは自分自身の日々の務めを受け取る必要があります。

【反対者の声】
ところが、ホロニ人サンバラト、アンモン人の僕トビヤ、アラブ人ゲシェムは、それを聞いてわたしたちを嘲笑い、さげすみ、こう言った。「お前たちは何をしようとしているのか。王に反逆しようとしているのか。」 (ネヘミヤ2:19)
さて、キリストの使節として遣わされている私たちは、時に反対者の声と出会います。
反対者たちは、「王に反逆しようとしているのか」と言っていますが、
私達が気にするべきなのは、人の目ではなく、神の目です。
キリストの使節として神に任命された、私たちにはネヘミヤに城壁再建の務めがあったように、それぞれに務めがあるのです。
しかし、ネヘミヤのように逆境の時に出会うときはあります。
だからこそ、私たちは自分の働きを、教会に集う人々に祈られる必要があるのです。
共に祈り合う必要があるのです。

【神の御手が私たちと共に】
城壁の再建という務めを与えられ、エルサレムへと遣わされていったネヘミヤは、ひとつの確信を持っていました。
それは、神の御手が守ってくださる(ネヘミヤ2:18)、
神自ら、自分たちにこの工事を成功させてくださる(ネヘミヤ2:20)、という確信でした。
あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。(フィリピ2:13)
人間の自己中心的、自己実現的な動機によって、
多くのものが営まれているこの世界において、
私たちは神の愛を動機として、福音を携えこの世へと出ていくのです。
多くの困難が私たちを襲うかもしれません。
しかし、神の御手が私たちと共にある。
それが私たちの希望です。
私たちは今週もこの場所からそれぞれの場所へと遣わされていきます。
そう、キリストの使節として、和解の福音を携えて。
この喜びを携えてこの世を旅する旅人である私たちは、
この地上での行いすべてにおいて、神の御手が私たちと共にあることを祈り求めていきましょう。
私たちはこう祈るのです。
御心の天になる如く、地にもなさせたまえ
神の御心が天に行われる通り、この地上でも行われることを祈り求めて、
私たちはこの世へと遣わされて行きましょう。