しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2012年3月15日木曜日

説教#11:「ここへ神が私たちを遣わした」

先日、小田急線ブロックで説教の奉仕をさせて頂く機会を与えられました。祈りに覚えてくださったみなさん、感謝します。

『ここへ神が私たちを遣わした』
聖書 創世記45:3-8、Ⅰコリント15:58
日時 2012年2月23日(木)
場所 小田急線ブロックKickOut合宿 オープニング


【はじめに】
2011年度が終わろうとしています。
それぞれにとって、どのような1年だったでしょうか。
人それぞれ思いは様々でしょう。
今回のkick out合宿、卒業生を送り出す前に、
神はなぜ今いるこの場所へと私たちを遣わしたのか、ということを共に考えたいと思います。
それぞれこの1年の歩みを振り返りながら、
神からの派遣を共に見つめ直すときとなったらと思っています。
神の派遣というkick offがなされ、時が来たら別のフィールドへとkick outされる。
私たちの生涯はこれの連続といえるでしょう。
だからこそ、この合宿を始めるにあたって、
ここへ神が私たちを遣わしたということを、御言葉から思いめぐらしたいと思います。

【ヨセフと兄弟たちの再会】
「わたしはヨセフです」(創世記45:3)
ヨセフの突然の一言に、兄弟たちは驚きのあまり、答えることさえできませんでした。
あのヨセフが生きていたのです。
驚き、戸惑い、そして恐れがヨセフの兄弟たちを支配したことでしょう。
というのも、かつてヨセフの兄弟たちは、
父ヤコブの偏愛を受け、自分たち家族がヨセフを伏し拝む夢を見たと言っているヨセフを憎み、ヨセフを奴隷として売ったという過去があったからです。
そのため、ヨセフと兄弟たちとの再会は、父親が放蕩していた息子と再会するというような感動的な場面では決してありません。
自分たちの目の前にいるエジプトの支配者がヨセフだった。
かつて自分たちがエジプトへと売り払ったヨセフが今、目の前にいる。
彼は自分たちがヨセフにしてしまった過ちを赦してくれるはずはない。
きっと彼は自分たちに復讐するだろう。
彼は今、それだけの権力をもっているのだから。
彼がヨセフだという、その事実がこの場を緊迫した空気で包み込みました。

【ヨセフの反応〜神が私を遣わしたのだから】
しかし、驚いたことにヨセフの反応はまったく予想していたものとは違いました。
ヨセフは復讐ではなく、和解を選んだのです。
エジプトに奴隷として売られてからのヨセフは、どのような思いでその期間を過ごしていたことでしょうか。
愛し、信頼していた兄弟たちから裏切られ、売られてしまったということは、
どれだけ時が過ぎようとも、自分の心を悲しみで支配したことでしょう。
時に憎しみと復讐心で支配されたときもあったに違いありません。
エジプトという自分の見知らぬ地で過ごさなければならず、
故郷を思い、もう二度と帰ることができないと涙を流したことでしょう。
この原因をつくったのが自分の兄弟たちでした。
自分をこんな目にあわせた兄弟たちが目の前にいる。
しかし、ヨセフは彼らを裁くことをせず、愛するという選択をしました。
自分のもとに彼らを近づけて、こう言うのです。
「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。」(創世記45:4〜5)
「わたしはヨセフです」(創世記45:3)と一度名乗るだけでも十分なのにも関わらず、
彼は再び自分がヨセフであることを名乗るのです。
「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです」(創世記45:4)と。
ヨセフは兄弟たちの手によって、エジプトへ売られたという事実を有耶無耶にして、
彼らとの仲を和解しようとは思っていませんでした。
ヨセフは怒りを覚えたり、苦しんだという現実を隠さず、打ち明けているのです。
それは兄たちを責めるためではありませんでした。
彼らとの間に真実の和解をもたらすためでした。
ヨセフは続けてこう言います。
しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。 命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。(創世記45:5)
ヨセフの兄たちは、かつてヨセフにしたことを後悔していました。
そのことを、ヨセフはこれまでの彼らとの会話の中で知っていました。
ヨセフと離れて暮らしている長い時間を掛けて、彼らは自分の罪を問われていました。
しかし、彼らが反省しているから、ヨセフは赦したというような単純なものではないでしょう。
彼の内には戦いがありました。
兄たちを赦したいという思いと、今も傷ついている自分の思いがありました。
どのように兄たちと関わればいいのだろうか。
どうすれば、自分たちは和解をすることができるのだろうか、と。
ヨセフのみの力でここに和解をもたらすことはできませんでした。
しかし、神がここに働かれ、兄弟たちの間に和解がもたらされたのです。
神はヨセフに、ひとつの確信を与えたのです。
命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。(創世記45:5)
ここでヨセフの視点が変えられています。
苦しんでいる自分から、神の計画へと視点が変えられたのです。
神の助けによって、兄たちを赦すことができたのです。
ヨセフは口先だけで兄弟たちを赦したのではありませんでした。
15節を見ると、「ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った。」(創世記45:15)と書かれています。
神にあって、真実な和解がなされたのです。

【神の摂理の中で】
さて、ヨセフはここまで多くのことを経験してきました。
兄弟たちの手によってエジプトへ売られ、
エジプトの王ファラオの宮廷の役人ポティファルに買われ、彼の家で働きました。
ポティファルにその働きを認められ、財産管理を任されるが、彼の妻の偽りの証言により、監獄に入れられます。
監獄に入れられた王の給仕役(「献酌官」新改訳)と料理長の2人が見た夢の意味を、
ヨセフが解き明かしたこともありました。
しかし、助かったら自分を思い出してくれと頼んだのにも関わらず、
助かった給仕役はヨセフのことを忘れてしまいました。

ヨセフ物語の面白いところは、神がヨセフに直接語りかけていないことです。
その時々において、常に神が導いてくれた、とヨセフは証言しています。
これがヨセフの確信でした。
喜べる時も、喜べない時もありました。
苦しい時も、悲しみに沈む時も。
監獄の中、泣き叫ぶ日も。
彼はすべてのことを 神の目的の中で受け取るということを教えてくれます。
わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。(創世記45:8)
確かに、兄たちの罪によって、ヨセフはエジプトに連れてこられました。
しかし、神が遣わしたからこそ、自分はここにいるのだ、とヨセフは考えるのです。
これが聖書の語る、現実主義です。

【派遣意識】
KGKスピリットのひとつに、派遣意識というものがあります。
私たちは主によって、この学校に、この家庭に、そしてこの場所に遣わされている。
自分の今いる場所が、自分の希望通りであっても、そうでなくても、
その場所に自分を遣わされた主を信頼し、その現実を受け止め、そこで主に従うことをこのスピリットは教えてくれます。
しかし、派遣意識で問題としているのは、 私たちが今遣わされている場所だけではありません。
その場所へと遣わされる時期や時代、環境もそうです。
わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。(創世記45:8)
私たちはヨセフのこの言葉をどのように受け取るでしょうか。

【揺るがされず、堅く立ちなさい】
さて、今年度の小田急線ブロックのテーマは「いつも主のわざに励みなさい」だと聞いています。
テーマ聖句のコリントの信徒への手紙第一15:58を読みます。
わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。(Ⅰコリント15:58)
ヨセフこそ、この言葉の通りに生き抜いた者ではないでしょうか。
ここで、著者パウロは「動かされないようにしっかり立ちなさい」と勧めています。
なぜなら、私たちを揺るがすものが多くあるからです。
私たちは自分で思っている以上に、自分自身を信頼しています。
しかし、困難が生じた時、私たちは自分の内に救いを見出すことが出来ないことに気付くのです。
私たちは揺るがぬ土台の上にしっかり立つ必要があります。
神こそ我が救いの岩と告白し続けることこそ、私たちのこの足を強靭にするのです。
主に信頼し、救いを主に置くことによってのみ、
私たちは揺るがされず、堅く立つことができるのです。

【主のわざに溢れて】
そして、「いつも主のわざに励みなさい」と続いています。
この言葉、ギリシア語で見ると面白い発見があります。
「励みなさい」と訳されている言葉は、「豊かにされて」とか「溢れ出て」という意味の言葉です。
「どんな時も主のわざに溢れ出て」、揺るがされず堅く立ちなさいとパウロは言っているのです。
ヨセフはどんな時も主のわざに溢れ出ていました。
与えられている状況に不満を持ち、不貞腐れることはありませんでした。
その時々、相応しい歩みをしたのです。
その時、その場所でした相応しい歩みが、キリストの香りを放ち、周りの人々に証しをし続けました。
監獄に入れられているとき、看守長の信頼を受け、獄中の者たちをすべて取り仕切りました。
奴隷として働いているときでさえ、その家の主人から財産管理を任されたほどでした。
ヨセフは神の派遣を受け取り、遣わされた場所で、主のわざに溢れた働きをしていたのです。

【主と共になされるわざ】
ヨセフ個人の力ではありません。
その働きに主が共にいてくださったからです。
主は、私たちを派遣された場所でひとりにすることはせず、共にいてくださいます。
そして、その場所で主にあってなされる労苦に、無駄なことはないのです。
たとえ、私たちの目にその労苦が虚しく映っていたとしても、
それは無駄ではないとパウロは力強く宣言しています。
私たちは視点を変えていく必要があるのでしょう。
今、自分が遣わされている場所でなされている労苦が、
神の目にどのように映るのかを考えなければなりません。

【ここへ神が私たちを遣わされた】
私たちはここまで、ヨセフを通して派遣意識について考えてきました。
「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」というヨセフの言葉を、
私たちはどのようなものとして受け取るでしょうか。
私たちはどこへ行こうとも、そこが神の遣わされた場所であると受け取ろうではありませんか。
どんな時も主のわざに溢れて、その場所で揺るがされず、堅く立ち続けましょう。
ここへ神が私たちを遣わされたのだから。