しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2012年7月23日月曜日

説教#17:「私たちの確信」


先日、青葉台教会の礼拝で説教奉仕をさせて頂く機会を与えられました。
祈りに覚えてくださったみなさん、感謝します。
*原稿、及び音源は青葉台教会のwebページにも掲載されています

『私たちの確信』
聖書 ヨハネの手紙 一 5:6〜13
日時 2012年7月22日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・青葉台教会



【価値が揺れ動く時代】
様々な物の価値があまりにも簡単に揺れ動く時代に、私たちは生きています。
流行はあっという間に過ぎ去って行き、人々の好みは瞬く間に移り変わっていきます。
私たちが信じて疑わなかったものが、突然信じられなくなる時もあります。
昨日までの非常識が、今日から常識になることも、
今日までの常識が、明日から非常識になることだってあります。
そのような現実の中、私たちは信仰を持って、日々生きています。
度重なる試練、
自分の信仰に対する批判や非難の声、
信仰者としての理想と現実の間にある葛藤などに、私たちは直面します。
この世の中には、あまりにも多様な価値観があり、キリスト者としての価値観を脅かします。
最早、真理は何処にあるのかさえわからなくなるほど、情報が溢れています。
人々は叫びます。
結局何が正しいことなのか、一体何処に真理があるのか、と。
そうやって、私たち自身も揺り動かされていることに気付きます。

【ヨハネの教会の人々の戸惑い】
今日開かれたヨハネの第一の手紙の読者である、著者ヨハネの教会の人々は、
この手紙を受け取った当時、戸惑いを覚えていました。
彼らは信仰の根本である、イエス・キリストへの信仰が揺らいだのです。
その原因となったのが、ヨハネの教会の人々の中に現れた偽教師たちの存在でした。
彼らは言います。
キリストは人となってこの世に来たわけではない、と。
その上、彼らは自分たちは特別な信仰の知識を持っていると言って、
自分たちの理解するような信仰を持たない人たちを見下しました。
最終的に、このような偽教師たちは出て行きましたが、
残された人々は、戸惑いを覚え、信仰が揺れ動かされました。
本当に、今自分たちが信じているようにキリストを信じていいのだろうか、と。
このように戸惑いを覚えている教会に、ヨハネはこの手紙を書いたのです。

【水と血による証し】
ヨハネはこの手紙をもうすぐ終える上で、手紙の読者に確信をもってこう伝えています。
5:6を見てみましょう。
この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。(Ⅰヨハネ5:6)
水と血とは、それぞれキリストのバプテスマ(洗礼)と十字架を指している言葉です。
ここでヨハネは、キリストは「水だけではなく、水と血とによって来られた」(5:6)と言うことによって、キリストの十字架上での死を強調しています。
というのは、偽教師たちがこう考えたからです。
イエスは、ただの人として生まれ、バプテスマの時にキリストの霊を受けた。
そして、十字架に架かって死ぬ前に、そのキリストの霊は彼から離れていった、と。
このような偽教師たちの誤った考えに対して、ヨハネは言うのです。
そうではない。
イエス・キリストは一人の方である。
水によって、洗礼によってイエスはキリストになったわけではない。
彼は生まれた時から、十字架の上で死んで、復活し、そして永遠に至るまで、人であり、神なのである。
彼は確かに洗礼も、十字架上での死も経験されたのだ。
イエスはキリストなのだ、と。
なぜここまで、ヨハネはこの問題にこだわるのでしょうか。
それは、イエス・キリストが人であり、神としてこの地上での生涯を歩まないと、私たちの救いが成り立たないからです。
神であるイエス・キリストは、私たちと同じように肉体をもってこの地上を歩まれることによって、
私たちの弱さ、罪、そこから来るうめき、苦しみを全て担われたのです。
罪に苦しむ人間を救うために、神であるイエス・キリストは、人としてこの地上の生涯を歩まれたのです。
この救いの理解は、決して歪ませてはいけなかったのです。
イエスは死んだ時、ただの人であって、キリストではなかったと考える偽教師たちの考えは、
私たちに与えられている救いをまったく無意味なものにしてしまうものだったのです。
だから、ヨハネは十字架の死においても、イエスはキリストであったと強調するため、
「水だけではなく、水と血とによって来られた」と語ったのです。

【聖霊による証し】
ヨハネは続けてこのように語ります。
そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。(Ⅰヨハネ5:6)
水と血だけでなく、聖霊もキリストを証しするのです。
聖霊はキリストの内にある真理を証します。
ただ、私たちがイエス様の生涯を見るだけでは、その意味はわかりません。
聖霊が私たちに働きかけてくださっているからこそ、私たちは知ることができるのです。
キリストの洗礼の意味を。
彼自身は罪がないのにも関わらず、キリストは私たちに先立って、罪の悔い改めの洗礼を受けられ、模範を示されました。
そして、私たちは十字架を見つめる時、知るのです。
キリストが私たちの罪を背負い、十字架の上で苦しまれたということを。
これらの出来事の内にある真理を、聖霊が私たちに証しするのです。
だから、8節では聖霊、水、血という順序に変わっているのです。
証しするのは三者で、“霊”と水と血です。この三者は一致しています。(Ⅰヨハネ5:7〜8)
聖霊が、私たちの心に水と血を封印するのです。
聖霊がキリストの出来事を私たちの内に書き記しているのです。
聖霊が私たちの目を開き、キリストの真理を見つめさせるのです。
だから私たちは願います。
主よ、聖霊を通して、私たちのこの心の目を開いてください、と。
パウロがエフェソの信徒への手紙で書き記した祈りを、私たちも共に祈りましょう。
どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。(エフェソ1:17〜18)
【キリストの死こそ、神の愛の証し】
さて、この霊と水と血の三者が証しするのはキリストですが、
この三者はキリストの死を指し示しています。
水と血という言葉は、この手紙の読者であるヨハネの教会の人々にヨハネによる福音書19:34を思い起こさせました。
そこにはこう書かれています。
しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。(ヨハネ19:34)
そして、聖霊が与えられたのは、キリストの死後です(ヨハネ7:39)。
そう、霊と水と血の三者は、キリストの死を証しする点で一致しているのです。
しかし、キリストの生涯の中で、なぜ彼の死を一番に示すのでしょうか。
なぜこの三者は口を揃えてキリストの死を証しするにでしょうか。
彼の起こした奇蹟でもなく、彼の語った言葉でも、彼の行いでもなく、
なぜ、彼の十字架上での死を証しているのでしょうか。
この手紙の3:16にはこう書かれています。
イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。(Ⅰヨハネ3:16)
そう、私たちのために、彼は十字架に架けられたのです。
そして、私たちのために死なれたのです。
私たちの抱える罪をすべて背負い、彼は十字架の上で死なれたのです。
愛すべき人たちを愛せず、妬んだり、憎んだりしてしまう、この私の罪のために。
この世界の中で、誰からも愛されていないと思い、孤独を感じているこの私のために。
神に愛されているのに、神に背く生き方しかできない、この私のために。
主イエスは、すべて背負って、十字架の上で死んでくださったのです。
それは、私たちを愛し、この上なく愛されたからです。
このような私たちの抱える罪のために神から受ける裁きを全て、
キリストが負われたのです。
だから、ヨハネは高らかに宣言しています。
ここに愛があります。(Ⅰヨハネ4:10)
十字架上でのキリストの死、そこに示された神の愛が、
私たちの内で響き続けているのです。
たとえ、私たちの心がどれほど揺れ動かされようとも、
十字架に示された神の愛は、変わらず私たちに示されているのです。
神は独り子であるキリストを十字架に架けられる程に、私たちを愛してくださったのです。
神は私たちに語りかけておられるのです。
私はあなたを愛している、と。
十字架を通してなされた、この神の愛の宣言が聞こえてこないでしょうか。

【神による証し】
9節にはこう書かれています。
わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。(Ⅰヨハネ5:9)
そう、十字架に示された愛こそ、ここに愛があるという、神の証しなのです。
私たちの信仰は、この神の証しに基づいているものです。
最早、私たちの信仰は、私たち自身には基づきません。
神が私たちに証をし続けているのです。
霊と水と血によって。
神の愛を。
聖霊は私たちの内にキリストの十字架に示された神の愛を刻むのです。
たとえ、この心が揺れ動こうとも、
神の証しに拠って立つ私たちの信仰は揺るがないのです。
この世界には、あまりにも多様な価値観があり、私たちの価値観を脅かします。
しかし、この世界の価値観は、簡単に移り変わっていきます。
その一方で、神の証しはただひとつの方向を指し示し続けています。
主イエス・キリストです。
だから、パウロがローマの信徒への手紙で書いているように、私たちもこう確信するのです。
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ローマ8:38〜39) 
【神の証しの結果、私たちに与えられたもの】
さて、このような神の証しの結果、私たちに与えられたものがあります。
それは永遠の命です。
その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。 (Ⅰヨハネ5:11)
永遠の命とは、父なる神と子なるイエス・キリストとの交わりに生きることです。
そして、その交わりに加えられた兄弟姉妹と共に生き、愛し合うことです。
この永遠の命を伝えることこそが、この手紙を書いたヨハネの目的でもありました。
神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。(Ⅰヨハネ5:13)
「永遠」という言葉は、来るべき時代に属するという意味があります。
来るべき時代とは、神の御国のことです。
神の御国に属する命が、将来与えられるということではありません。
今、もう既に与えられているのです。

【私たちの確信】
私たちはこのような確信の上に立っているのです。
揺れ動くこの世の中にあって、私たちは確かなものを持っているのです。
だから、喜んで、この永遠の命に生きようではありませんか。
父なる神と子なるイエス・キリストとの交わりに生き、
その交わりに加えられた兄弟姉妹と共に生き、互いに愛し合うのです。
この地上で生きる限り、私たちの理想通りにそれらができるとは限りません。
しかし、それによって失望してはいけません。
私たちは少しずつ、少しずつ、神の御国に近づく歩みをしているのですから。
だから、永遠の命に生きる時、少しずつ、少しずつ、
その交わりが完成へと近づいていくのです。
だから、希望を持って、私たちは神と交わりを持つのです。
兄弟姉妹と愛し合うのです。
たとえ傷つけ合う現実があったとしても、この関係を望み見て、私たちは愛するのです。
主イエスが愛されたように。
この希望が私たちの確信です。
なぜなら、私たちはキリストの十字架上で示された愛という神の証を受け、
永遠の命に生きることを許されているのですから。
喜んで、私たちはこの永遠の命という交わりに生きようではありませんか。