しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2012年12月9日日曜日

説教#19:「共におられる方を待ち望む」


昨日、日大KGKのクリスマス会で説教奉仕をさせて頂く機会を与えられました。祈りに覚えてくださったみなさん、感謝します。

『共におられる方を待ち望む』
聖書 マタイによる福音書1:18〜25
日時 2012年12月8日(土)
場所 日大KGKクリスマス会(JECA聖蹟桜ヶ丘教会)

【待つことの連続】
私たちの人生は、待つことの連続と言えます。
誰もがたくさんのことを待ち続けてきました。
私たちは日々、一体何を待っているでしょうか。
たとえば、友人と待ち合わせをして、友人との再会を待ちます。
ずっと努力してきた物事の成果が出るのを待ちます。
恋愛をしている人は、異性からのメールや電話を待ちます。
受験生や就活生は試験や面接の日とその結果を待ち、
病気や怪我をすると病院へ行き、診察結果を待ちます。
子供の頃はクリスマスの時期になると、サンタやプレゼントを待ちました。
年明けには、日の出を待ちます。新しい年に光が差し込むのを待つのです。
そして、新年度が近づくと、日大KGKは新入生を切望しますね。
このようにして、小さな事から大きな事まで、様々なものを私たちは日々待ち続けています。
そして、これからも待つことは続きます。
私たちが何かを待つ時、この待っている時間は喜び溢れるときもあれば、
待つことが苦痛でしょうがないときも、
また、悲しみでいっぱいのときもあります。
私たちは生きる限り、良いことも悪いことも、待つことを強いられているのです。
たとえ、それを私たちが望んでも、望まなくても、尚、待つことは続くのです。
このように、私たちの生涯は、待つことの連続なのです。

【喜びから絶望へ】
今日私たちに与えられたテキストに登場するヨセフも、私たちと同様に待ち続けた人でした。
彼が待ったのはイエスの誕生です。
しかし、これは彼にとって単純に喜べるような出来事ではありませんでした。
彼は人生における最も喜ばしいイベントのひとつである結婚と出産を通して、ひとつの試練が与えられたのです。
1:18にこのように記されています。
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。(マタイ1:18)
ヨセフとマリアは婚約して、結婚に備える期間を過ごしていました。
この婚約期間は、ふたりにとって、結婚して二人で共に歩み始める時を、一緒に喜び待ち望む時間でした。
その喜び溢れる婚約期間中に、マリアが身ごもったのです。
この事は、とても深刻な現実をヨセフに突きつけました。
ヨセフは、神の前に敬虔に生きた「正しい人」(1:19)で、律法を忠実に守っていました。
そのため、たとえ婚約中といえども、結婚前にマリアと肉体関係をもつことはありませんでした。
しかし、マリアは結婚前に子を宿し、身重になった。
愛するマリアの身に起こったことが、ヨセフには信じ難かったことでしょう。
神が働かれて、聖霊によってマリアが子を宿したことなど、ヨセフにはわかりません。
ルカ1章に記されているマリアへの受胎告知の出来事を、
マリアは一生懸命ヨセフに説明したことでしょう。
しかし、どこまでその言葉を信じられたのでしょうか。
常識的に考えて、身重になったマリアを見たら、自分以外の男性と性交渉を行ったとヨセフが考えるのは当然です。
結婚を待ち望み、喜び溢れていた彼でしたが、
マリアが結婚前に身重になったことを通して、絶望のドン底に突き落とされたのです。
なぜ、なぜこのようなことが起こってしまったのだろうか。
ヨセフの苦悩に満ちた嘆きを私たちは想像することができます。

【ヨセフの決断〜愛と憐れみによる苦悩】
これだけでも、ヨセフにとって心が引き裂かれる程辛く、悲しい出来事なのですが、
それに加えて、ヨセフにはある決断が迫られていました。
彼にはふたつの選択肢がありました。
ひとつめの選択肢は、「マリアのことを表ざたにする」(1:19)というものでした。
「表ざたにする」とは、彼女の罪を公にして、死刑にすることを意味しています。
マリアは他の男性と関係を持ったのではないかと考えたヨセフは、
律法によると1、マリアは死刑に値する罪を犯したと判断しました。
マリアの罪を見逃して、彼女と結婚することも可能だったかもしれません。
しかし、それはヨセフ自身が律法を破り、神に背くことになってしまいます。
神を愛する信仰者であるヨセフにとって、マリアの罪を見逃すというような決断はすることはできませんでした。
しかし、それでもヨセフはマリアを愛しました。
彼は当時することが許されていたもうひとつの選択肢である離婚を、マリアへの愛と憐れみの決断として選びました。
夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。(マタイ1:19)
ヨセフにとって、これが神を愛する一人の信仰者であり、
ひとりの女性を愛する一人の男性として最大限にできることでした。
2つの選択肢はどちらも、マリアを何らかの形で裁かなければいけないものでした。
どちらを選択しても、マリアと自分の関係は引き裂かれる。
どちらも選びたくない。
しかし、どちらかを選ばなければならない。
それしか道が残されていない。
ヨセフにとって、悲しみと苦しみの伴う決断でした。
マリアに対する愛が深ければ深いほど、それは苦しみを伴う決断だったことでしょう。

【聖霊によって身ごもった子】
しかし、ヨセフの決断は、彼が見た夢によって退けられます。
夢の中で、主の使いを通して、ヨセフに神の計画が伝えられたのです。
このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ1:20〜21)
20節の「このように考えていると」という言葉を、
新改訳聖書は「このことを思い巡らしていた時」と訳しています。
ヨセフは決断した後も、当然のようにこの問題を思い巡らし、そして悩みました。
マリアのことをどうにかできないものなのか。
他に手段はないのか。
本当に、自分が下したこの決断は正しいのだろうか。
この決断した通りに、これから行動していいのだろうか。
このように、マリアが身ごもったことについて思い悩んだことでしょう。
そのような時、彼は夢を見たのです。
神はこの夢を通して、ヨセフにこのように伝えました。
マリアのお腹にいる子は、マリアの罪によって身ごもった子ではない。
聖霊によって身ごもった子なのだ。
だから、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」(1:20)と。
「聖霊によって宿った」(1:20)。
ヨセフはこの言葉によって、この出来事に神が介入し、
人間の目には不可能と思えることさえ可能にしてくださる神が、
アブラハムの妻サラに子を与えたように、マリアにも子を宿されたのだと知ります。
絶望していた現状に希望の光が差し込んできたのです。
そう、マリアは他の男性と関係をもって罪を犯したわけではない。
この出来事の内に、神が働いておられるのだ。
神の計画を知り、ヨセフは絶望のドン底から救い出されるのです。

【新たな創造のわざ〜神は救い】
この「聖霊によって宿った」という言葉は、ヨセフのみに救いをもたらす言葉ではありません。
「聖霊によって」という言葉は、神の創造を意味します。
詩編104篇にはこのような言葉があります。
あなたは御自分の息を送って彼らを創造し
地の面を新たにされる。(詩編104:30)
聖霊は、旧約聖書では「息」とも表現されています。
息、つまり聖霊が創造し、地の面を新たにされるのです。
聖霊は、創造をもたらすのです。
その聖霊によって宿った子が、イエス様だったのです。
イエス、彼の名は「神は救い」という意味です。
21節で「この子は自分の民を罪から救う」と、その名前の意味が説明されています。
イエス・キリスト、彼は、罪に塗れる私たちを救い出すためにこの世に来られました。
私たちは、周囲の人達と互いに愛し合って生きることが求められているのはわかっています。
そのような生き方こそ、自分たちの喜びだってことは十分わかっている。
しかしそれなのに、「自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいること」(ローマ7:15)をしてしまう。
神を神として生きるのではなく、自らを神として生きて、自己を絶対化するのが私たちの罪の現実です。
お互いに愛し合うのではなく、自分の利益のために他人を利用し、傷つけ合い、憎しみ合う。
平和を作り出すのではなく、争いを生み出してしまう。
愛や慈しみではなく、憎しみや妬みの原理によって行動してしまう。
パウロは、この罪の現実をこのように書き記しています。
わたしは、自分のしていることが分かりません。(ローマ7:15)
最早、この罪の現実から、自分で自分を救い出すことなどできないのです。
この罪の現実に、神はイエス様を通して救いをもたらしてくださいました。
イエス様は私たちの罪をすべて背負って、十字架に架かり、死なれました。
彼を通して、私たちの罪は赦され、私たちは罪から救い出されたのです。
私たちは罪に塗れる者として生きるのではなく、神の愛に溢れ生きる者へとイエス様を通して変えられたのです。
私たちではどうしようもない現実、そこにイエス様によって救いが与えられたのです。
この方に、救いがあるのです。
このように、聖霊によって与えられた子であるイエス様は、
罪に苦しむ私たちを救い出すことによって、私たちに新しい創造をもたらしたのです。
私たちを罪の奴隷から神の民へとする、新しい創造です。
そして、私たちに救いをもたらすイエスという方が、この世に来られたという事実こそ、インマヌエルなのです。
神が私たちと共におられる。
私たちがどうしようもできず、もがき苦しむ罪の現実の中に、
神は私たちと共におられ、そこに神が救いをもたらされたのです。
これがヨセフに与えられた喜びであり、私たちに与えられた喜びなのです。

【イエスを待ち望むヨセフ】
ヨセフにとって、夢の中でのイエス様の誕生の告知は、絶望的な状況の中で与えられた希望でした。
マリアのお腹の中にいる子は、彼女の罪によって身ごもったのではなく、
神の介入によって身ごもり、神の計画があることがわかったのですから。
そして、愛するマリアを妻として迎えることができるのですから。
そこに希望があったから、ヨセフはイエス様が産まれるのを待ち望みました。
神が夢を通して与えられた約束が果たされるその時を待ち望んだのです。
ヨセフはこのように祈ったことでしょう。
主イエスよ、来てください。(黙示録22:20)
聖書には書かれていませんが、この祈りはヨセフの切実な祈りだっただろうと思います。
彼は神の言葉を信じ、神の言葉が実現するのを願いました。
しかし、本当にそうなのかという疑いや不安も心のどこかにあったかもしれません。
彼の内にある希望と不安と疑い、これらが彼を「主イエスよ、来てください」という祈りへと導いたことでしょう。
マリアが身ごもったという絶望的な状況の中、イエスこそ、救いであるということ、そして、神が共におられるということ。
これこそがヨセフの希望だったのです。

【「主よ、来てください」という祈り】
この「主よ、来てください」(マラナ・タ)という祈りは、
長い歴史を通して、教会が受け継ぎ、特にアドベントのこの時期に祈られる祈りです。
そして、それは同時に私たちの祈りでもあります。
最初に触れたように、私たちの生涯は待つことの連続です。
喜びながら待つときもあれば、苦しみながら待つこともあります。
いや、きっと、心の中で呻き声を上げながら、待つことの方が多いのかもしれません。
自分にはどうしようもできない。
時間が解決してくれるのを待つしかないような状況が数多くあります。
そのような中で私たちは神に祈り求めるのです。
マラナ・タ。主よ、来てください、と。
どのような状況下においても、私たちが祈り求める神は「私たちと共に」いてくださいます。
そのように確信しているから、私たちは祈り続けるのです。
主よ、来てください。
主よ、私たちと共にいてください。
この問題のただ中に、私たちが待ち続けるひとつひとつの事柄に、あなたが介入してください、と。
そのような呻きにも近い祈りをしながら、私たちは待ち続けるのです。

【積極的に待ち望む姿勢】
待つということは、決して受動的なことではありません。
ヨセフの姿勢を見ると、待つことは、神への応答を伴うものだということがわかります。
ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。(マタイ1:24〜25)
眠りから覚めたヨセフは神に命じられた通り、マリアを迎え入れました。
神の言葉を信じて、マリアを受け入れたのです。
たとえ、神の言葉を受け取り、夢から覚めた後も、ヨセフを取り巻く状況は変わりませんでした。
しかし、それでもヨセフは神の言葉を信頼して、イエスに希望を置いたのです。
そして、生まれた子にイエスと名付け、告白しました。
「神は救いである」と。
私たちもヨセフのように、目の前で起こるひとつひとつの出来事を受け入れ、イエスこそ我が救いである、私たちの救いであると告白して生きることが求められています。
この口で「神は救いである」と言うことだけが告白する生き方ではありません。
神の愛とはかけ離れていると思えるようなこの世界において、
神の愛を少しでも実現しようと務める生き方こそが、告白なのです。
だから、決して目を閉ざしてはいけません。
耳を塞いでは行けません。
私たちを取り巻く現実の中で、目を見開き、耳を澄まし祈るのです。
主よ、この場所には神の愛が現される必要があります。「主よ、来てください」と。
そして、「神は救いである」と、私たち自身を通して告白して生きるのです。
私たちの口だけでなく、私たちの生き方すべてを通して。
それこそ、この祈りに相応しい生き方なのです。
私たちはこの祈りと告白へと招かれているのです。
そして、最終的に私たちが待ち望んで「主よ、来てください」と求めるのは、
主イエスが再び来られる日です。
黙示録21:3〜4にはこのように記されています。
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3〜4)
待ち続けている時に私たちが味わった悲しみも、嘆きも、労苦もない。
それらが取り去られ、私たちが喜びで溢れる時が来るのです。
この約束に、私たちは希望を持って生きていきましょう。
私たちが関わるひとつひとつの物事に、「主よ、来てください」と祈り求めていきましょう。