説教#22:「神と共に歩む旅」

KGKの10・11合同同期会で説教奉仕をさせて頂く機会を与えられました。祈りに覚えてくださった皆さん、感謝致します。
*新改訳聖書第三版を使用

『神と共に歩む旅』
聖書 ヨシュア記1:1〜9
日時 2013年5月24日(土) 10・11合同同期会
場所 KGK事務所

【今日までの歩みとこれからの歩み】
卒業してから3年目、もしくは4年目の歩みが始まって、もうすぐ2ヶ月が経とうとしています。
卒業してから、今日という日まで、
何に喜びを覚え、何に苦しみ、そして、何を目指して歩んできたでしょうか。
これまで、私たちは多くの変化を経験してきました。
学生の頃は、学年がひとつ上がるだけで自分を取り巻く環境が少しずつ変っていきました。
学びが一層深まって行ったり、就活を目前に控えたりする中で、
心の持ち方や、その行動のあり方も少しずつ変わって行きました。
卒業後、働いたり、環境を変えて学びを続けたりしてきました。
今日という日まで、様々な変化がありました。
そして、これからもその変化は続いていきます。
昇進、転勤、転職、結婚、出産など、この先訪れるであろう変化は様々です。
この先に訪れるであろうことを考えると不安を覚えます。
私たちはそのような変化に直面する時、
気づいたら、知らない世界に投げ出されたような感覚を覚えたときがあります。
また、環境が一変したことに、戸惑う場合もあります。
必死に、必死に、周りに置いていかれないように、しがみつき、
もがいて、もがいて、何とか後を着いて行く思いのときだってあります。
この先訪れる変化を思う時、自分は本当にやっていけるのだろうか、と不安を抱える自分に出くわすときもあるのです。
私自身、神学校での学びがあと1年となり、
1年後は牧師として牧会の現場に出ているのかと思うと、不安な気持ちもあったりします。
卒業後をこれまで以上に意識しながら、学びや奉仕をしています。
心境の変化も、私たちが経験する変化のひとつです。
そうやって、それぞれが経験するこの変化の中に、まさに多くのチャレンジがあります。
自分を取り巻く環境や置かれた状況の変化と、それに伴う新たな一歩というものは、
私たちが生きていく上で、常に付きまとってくる問題です。
様々な変化を経験し、今日まで歩んできた中で、
今、私たちがそれぞれに抱いているのは、希望でしょうか?
それとも、不安でしょうか?

【ヨシュアの「勇敢さ」】
さて、今日、ヨシュア記の冒頭部分が開かれました。
ここに、新たな一歩を踏み出さなければいけないという状況に立たされた、
一人の男の姿が描かれています。
彼の名は、ヨシュア。
このヨシュアに対して、どのようなイメージを持っているでしょうか。
私が彼に抱くイメージは、「勇敢さ」です。
彼はモーセの後継者としてイスラエル人たちを率いて、
神が約束したカナンの地に入りました。
そして、そこの住民たちと戦って、その場所を自分たちの住む土地にしたのです。
そのような勇敢な指導者としてのイメージが、ヨシュアに対してとても強くあります。
でも、本当に、彼は勇敢な男だったのでしょうか。
もしそうだとしたら、何が彼を勇敢にしたのでしょうか。

【モーセの死とモーセの後継者ヨシュア】
ヨシュア記は、このような言葉で始まります。
主のしもべモーセが死んで後…(1:1)
モーセが死んだ。
そのことを読者に伝えることからヨシュア記は始まるのです。
モーセの死。
一体それはどうことを意味するのでしょうか。
モーセという人は、イスラエル人たちを今まで引っ張ってきたリーダーです。
彼はイスラエル人達を、エジプトから連れ出しました。
彼らが、エジプトで奴隷にされていたからです。
そしてモーセは、荒野で40年間イスラエル人たちを率いて、
約束の地まであと少し、というところまで導いてくれました。
その間、彼はずっと神の言葉をイスラエルの人たちに語り伝えていました。
そんなモーセが死んだのです。
イスラエルの人々に圧倒的なリーダーシップを発揮し、彼らに仕えてきた神の僕モーセが。
約束の地を目前として、彼は死んでしまったのです。
そのようなリーダーの死後、イスラエルのリーダーとして、モーセの後継者として立てられたのが、ヨシュアという人でした。
イスラエルの偉大な指導者であるモーセの後継者になるということは、
彼にとって、とてもプレッシャーの大きなものだったことでしょう。
ヨシュアはモーセの補佐役として、モーセのイスラエルのリーダーとしての働きを十分見ていました。
彼は、モーセが神の言葉をイスラエルの人々に語り伝える姿をそばで見てきました。
そして、イスラエルの指導者としての、モーセの苦悩も目の当たりにしてきました。
ですから、モーセがどのような指導者だったかは、十分知っていました。
しかし、モーセの死後、イスラエルの指導者としてのモーセの働きを思い起こす度に、
モーセの後継者として自分がリーダーシップを取らなければいけないということに、
ヨシュアはとても大きなプレッシャーを感じていたことでしょう。

【ヨシュアの抱える重荷】
続けて、2節を読んでみると、
彼へのプレッシャーが本当に大きなものであったことに気付かされます。
読めば読むほど、ヨシュアにとっての希望よりも、
ヨシュアにとって、不安を掻き立てるものばかりの環境であることに気付かされます。
神はヨシュアにこのように語り掛けられました。
「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。(1:2)
「 あなたとこのすべての民は立って」、
「ヨルダン川を渡り」なさいというのが神からの命令でした。
ヨルダン川を渡ったその先に、神が与えると約束した地があったからです。
しかし、このヨルダン川、実は渡るのは相当過酷な川です。
ヨルダン川は、通常は幅が30メートル、深さが2~3メートルの川でした。
3メートルとか、どう考えても、足が付きませんね。
しかも、ちょうどこの時期は、春だったようで、洪水の時期だったそうです。
通常より川の水量も増え、流れも急になっていました。
どう考えても、渡るのは無理です。
そのような川が目の前にあって、「さぁ、渡りなさい」と言われている。
その命令はヨシュアだけに向けられているのではありません。
すべてのイスラエル人たちと共に、ヨルダン川を渡らなければならない。
下手したら、いや、下手しなくても、多くの死人が出てしまう。
イスラエル人は、力の強い、運動神経のある、泳ぎの得意な男性だけではありません。
女性も、子どもも、老人もいたことでしょう。
今まで荒野で生活をしていたから、舟などもっているはずありません。
それに加えて、もしもヨルダン川を渡れたとしても、
その先にあるのはエリコという町でした。
城壁で囲まれた、いかにも自分たちよりも力のある国です。
そんな敵が、目の前にいる。
ヨルダン川を渡ると、もう引き返すことはできない。
この川を渡ったならば、敵と必ず戦わなければならない。
ヨシュアは、そのような過酷な状況に立たされたリーダーだったのです。
正直、先のことを考えるとヨシュアは不安で、不安で仕方なかったことでしょう。

【神の語り掛けを聞け】
このように不安要素のとても多い状況に立たされるヨシュアに対して、
神はこのように語り掛けるのです。5~6節。
あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。…(1:5~6)
「強く、雄々しくあれ」と、神はヨシュアに対して、3回も繰り返し語っています。
ヨシュアよ、「強く、雄々しくあれ。」と。
この言葉は、ただの激励の言葉ではありません。
神はただ、ヨシュアの背中を押すためにこの言葉を言ったのではありません。
「さぁ、頑張ってこい。ヨシュア、いってらっしゃい!」と、軽く背中を押して、
ヨルダン川を必死に渡らせて、その先にいる敵と戦わせようとしたのではないのです。
神がヨシュアに「強く、雄々しくあれ」と語るのは、
神がヨシュアと共にいるということが理由となっています。
わたしはあなたを決して見放さない。
わたしはあなたを決して見捨てない。
と、神はヨシュアに語りかけるのです。
ヨシュアよ、お前は、これから自分がするべき多くのことに不安を抱えているかもしれない。
しかし、不安を覚えてうろたえ、恐れおののく必要は全くないんだ。
なぜなら、わたしがあなたと共にいるからだ、と。
彼には多くの不安があったことでしょう。
イスラエルの人々をモーセのように導くことが自分にできるのだろうか、という不安。
ヨルダン川を無事に渡ることが出来るのだろうか、という不安。
ヨルダン川を渡った後、敵と戦って勝つことが出来るのだろうか、という不安。
あなたが不安を抱えているそれらすべての事柄において、
わたしはあなたと共にいるのだ。
わたしはあなたを決して見放さい。決して見捨てない。
そのように、神が約束されているのです。
ヨシュアは何もはじめから勇敢な男だったわけではなかったと思います。
「わたしがあなたと共にいる」という神の約束を信じて、
「強く、雄々しくあれ」という神の言葉を彼は受け取ったのではないでしょうか。
神が彼と共にいる、その確信が彼を勇敢にしたのです。

【神があなたを遣わされた場所】
さて、私たちは、
どのような思いを抱いて、今、新しい地に立っているでしょうか。
どのような思いを抱いて、今、慣れ親しんだ地に立っているでしょうか。
どのような思いを抱いて、今、自分が置かれている環境を見つめているでしょうか。
ヨシュアのように不安を覚えているのでしょうか。
今自分が踏み出そうとしているその一歩が、激しく流れるヨルダン川に足を踏み込んでいくようなものだ、という心境の方もいるかもしれません。
様々な変化が訪れ、川の流れのように、私たちを翻弄します。
様々なものが、この心を困惑させ、不安にさせます。
また、どのような思いを抱いて、これから自分が歩もうとしている道を見つめているでしょうか。
私たちは、この時代、この日本という国で、一人のキリスト者として生かされています。
原発問題、高齢化、経済格差、信頼出来ない政治など、
将来のことを考える時、不安ばかり覚えます。
それを思う時、私たちの目の前に流れている川は、
簡単に飛び越えられるようなものだとは決していえないでしょう。
そこに流れる川は、まさに激流。
そこに私たちはこの足を踏み入れて行かなければならないのです。
また、目の前には、エリコ以上に遥かに強固な高い壁を想像せざるを得ません。
その川の流れ、壁の高さに、愕然とさせられます。
このように、目の前の現実に落胆する私たちに、神はこう語り掛けるのです。
わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。(1:9)
神はその上で、「さぁ、行きなさい」と言われるのです。

【私たちは神と共に歩む旅人】
私たちは神から「さぁ、行きなさい」と遣わされて、今この場所にいます。
そして、何処へ遣わされるかわかりませんが、
これから目指すべき場所があって、そこに向かって歩んでいきます。
そして、最終的に、天の御国へと辿り着く旅を続けているのです。
神は確かに私たちを今日まで導いて、今いる場所に私たちを置かれました。
神が私たちを召し出されたのです。
神は、あなたを今いるその場所に遣わされたのです。
たとえ、目の前に映る現実がヨルダン川の激流のような、
乗り越えるのが困難な状況に立たされたとしても、
確かに神は私たちと共におられる。
その激流に足を踏み入れる瞬間も、確かに神は私たちと共におられる。
また、その川の先に、エリコの町があったように、
どう頑張っても乗り越えられそうにない城壁に突き当たるときでさえも、
神は私たちと共におられる。
城壁を崩すために、城壁の周りを7日間周り続けるような経験だってするかもしれません。
なぜこのような意味のなさそうなことをするのだろうか?と思えるような経験です。
そのようなときも、神は共にいてくださるのです。
神はただ、一緒にいるだけではありませんでした。
神は、イスラエル人たちを約束の地へと導くために、ヨルダン川の流れをせきとめ、城壁を崩されました。
同じように、天の御国へと導く旅をしている私たちと共にいてくださる神は、
私たちに対して、意味もなく、激流に足を踏み入れさせたり、城壁に突き当たらせたりはなさいません。
確かに、その問題のただ中にあって、神は私たちと共にいて働かれるのです。
神御自身は私たちに約束してくださっています。
私が、あなたと共にいる。
だから、強くあれ、雄々しくあれ、と。
神が私たちに語り掛けられるこの言葉に信頼して、歩んで行きましょう。
神が私たちと共に歩んでくださるのですから。
そう、天の御国にたどり着くその日まで。

わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。(1:9)

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