しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2014年12月3日水曜日

説教#62:「神が語り、神が行う」

神が語り、神が行う
聖書 マルコによる福音書4:26-34、エゼキエル書17:22-24
日時 2014年11月23日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【どうしてそうなるのか、その人は知らない】
イエス様の語ったこの種蒔きの譬えは、
私たちにとって、とても挑戦的なものです。
イエス様は、このように語りました。
人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。(マルコ4:26-28)
蒔かれた種に対して、種を蒔いた人は一体何が出来るのでしょうか。
この譬えの中で、人がすることといえば、
種を蒔くことと、種の成長を見届けること、そしてその実を収穫することです。
種が成長するために、実を結ぶために決定的なことを、
人は全くしていないのです。
「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する」。
そして、「ひとりでに実を結ばせる」のです。
もちろん、必要であれば、水をやったり、雑草を取り除いたりしたでしょう。
しかし、種が成長するのに決定的なことを、人は出来ないのです。
そして、その成長過程の中で、何が起こっているのかを知らないのです。

【人の努力によらず、神のわざによって成長する】
なぜこの譬えが私たちにとって、とても挑戦的なものだといえるのでしょうか。
それは、私たちは、自分の力で物事を進めたいという思いが強くあるからです。
私たちは、出来る限り知りたいと願います。
自分の把握できる範囲で、物事が進行していたら、とても安心します。
すべての事柄が、自分にとって都合の良いように進むことを願うならば、
出来る限り、その物事に関与して、意見することでしょう。
そうやって、私たちは、自分が関わる物事、計画や予定を進めていくのです。
しかし、イエス様はこの譬えを通して、宣言しているのです。
「神の国は、そのようなものではない。
私たちが努力したから、この地上に築かれるものでは決してない」と。
それは、「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する」のです。
種の成長の多くは、種を蒔いた人が眠りに就いている間、
そして、彼の手を離れている間に起こります。
そう、種蒔きの手を離れているにも関わらず、
種は成長し、実を結ぶのです。
古代の人々は、確信していました。
「種が実を結ぶのは、神の力による」と。
種は、人の努力によらずに、神のわざによって成長するのです。

2014年12月2日火曜日

説教#61:「異質な香りを放つ共同体」

異質な香りを放つ共同体
聖書 エフェソの信徒への手紙5:1-5
日時 2014年11月20日(木)
場所 KGK、御茶ノ水ブロック

【キリスト者の倫理の原則】
あなたたちは「神に倣う者となりなさい」(1節)。
あなたたちは「愛のうちに歩みなさい」(2節、新改訳)。
あなたたちは「みだらなことや色々の汚れたこと、
あるいは貪欲なことを口にしてはなりません」(3節)。
エフェソ5章のはじめの5節は、3つの命令文が中心となって構成されています。
ここで語られている命令には、ひとつの前提があります。
それは、エフェソ書の中でこれまで語られてきたことです。
エフェソ書は、前半、最初の3章を通して、「クリスチャンとはどのような存在なのか」と問題を、教会論を中心に取り扱っています。
自分の過ちと罪のゆえに死んでいた私たちが、
神の豊かな恵みゆえに、キリストによって、神の子どもとされている。
そして、神はキリストにおいて私たちをひとつに結び合わせ、
私たちを教会というひとつの共同体の一員にしてくださった。
キリストの十字架によって地上に建てられた、この教会という群に、私たちは呼び集められた。
キリストによって、憎しみと争いの中に生きていた私たちの内に、
和解と平和がもたらされ、この教会という共同体の内にそれは実現している、と。
このような神の偉大な恵みのわざを語った後に、
著者は、倫理問題へと踏み込んでいくのです。
これは、キリスト者の倫理を考える上で、とても重要な原則です。
キリストを信じる者とは、神の前にどのような存在なのか。
そこから始めることにによってのみ、
「私たちは、クリスチャンとしてどう生きるべきか」と問うことが出来るのです。

【神の子どもであるキリスト者は、神に倣う者となれ】
では、私たちは一体、どのような存在なのでしょうか。
著者は、5章1節でこのように述べています。
あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。(エフェソ5:1)
あなたがたは、神に愛されている子ども。
そう、キリスト者とは、神の子どもなのです。
私たちが、才能があったからでも、
多くの財産をもっていたからでも、
正しい行いをしているからでもなく、
神が、私たちを愛するという決断をしてくださった。
ただ、神の恵みと憐れみによって、私たちは子とされているのです。
キリスト者の倫理は、この事実から始まります。
「神が私たちを愛してくださった」ということが、その根底にあるのです。
あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。(エフェソ5:1)
神に倣う者となる。
それは、このような神の子としての特権が与えられているのだから、
神の愛に応答すべきであるという招きです。
4章からの流れと、エフェソ全体でテーマとなっている「和解」という文脈から考えると、
神に倣うとは、具体的には「人を赦す」ということでしょう。
4:32には、このように記されています。
互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。(エフェソ4:32)
神の子は、神に愛され、罪赦された者なのです。
ですから、神に倣うように、
「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」
と招かれているのです。

2014年12月1日月曜日

説教#60:「神の国の福音に生きる」

神の国の福音に生きる
聖書 マルコによる福音書4:21-25、レビ記19:15-18
日時 2014年11月9日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【神の国が明らかにされる】
イエス様は、「種蒔きのたとえ」を話した後、続けて人々に語りました。
「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」(マルコ4:21-23)
イエス様はこの言葉を、一体どのような意味で語ったのでしょうか。
不正や悪事は、いつか明らかにされるということでしょうか。
すべてのことは、神の前に明らかであるということでしょうか。
そのどちらでもありません。
それは、このテキストの前後関係から明らかです。
イエス様は、4章1節から20節までは、神の国のたとえを語っています。
そして、26節から34節も、神の国についてのたとえです。
この流れを無視して、神の国のたとえ以外のことが語られたとは考えにくいことです。
ですから、ここで露わになり、公にされるものとは、神の国のことです。
たとえ今は、すべての人が神の国がどのようなものなのかがわからなくても、
それは明らかになる。
今、私たちの目の前に広がっている光景は、
神の国が約束するものとは程遠い現実だったとしても、神の国はやがて明らかになる。
イエス様は、ともし火が来るというたとえを通して、その事実を語ったのです。

【主イエスは「来た」】
では、神の国は一体どのような方法で明らかにされていくのでしょうか。
ここで注目すべき重要な言葉があります。
それは、「来る」という言葉です。
この言葉は、マルコによる福音書にとって、とても重要な言葉です。
それは、「神の子であるイエスが来る」という事実を告げ知らせる言葉です。
私たちに救いを与える方が「来る」という希望の言葉です。
そのような「来る」という言葉が、ここではわざと付けられています。
実際、「ともし火は、升の下や寝台の下に置くためにあるだろうか」と言っても、意味は通るでしょう。
しかし、イエス様は敢えて「ともし火を持って来る」と言われたのです。
「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか」と。
そのように語ることによって、
イエス様は、ともし火を持った人が「来る」ということを伝えているのです。
ともし火、それは、暗闇に光を与えるものです。
このともし火を持ってくる人こそ、イエス様自身です。
暗闇に光を差し込むために、イエス様は来た、とここで宣言されているのです。
暗闇に負けることの無い、圧倒的な光をこの世界に灯す方として、
決して消えることのない光を与えてくださる方として、イエス様は「来た」のです。
そして、罪の支配から人々を解放し、神の光の内に生きるようにと、
イエス様は私たちを招いておられるのです。
神の国の福音に生きるようにと。

【神の国は、神の言葉を聞く者たちを通して明らかにされる】
このたとえが、種蒔きのたとえの後に話されたことには、とても重要な意味があります。
それは、種蒔きのたとえは、神の言葉を聞くことの重要性を語るからです。
神の言葉が語られ、
それを受け取り、信じ、従う人々の内に、神の国が広がっていく。
神の言葉が実を結び、
30倍、60倍、100倍にもなる、ということが語られています。
このような種蒔きのたとえを語った後に話した21-25節の言葉の中で、
イエス様は、言われました。
聞く耳のある者は聞きなさい。(マルコ4:23)
イエス様は、私たちが神の言葉を聞くことによって、
神の国が、人々の前に明らかになっていくと語るのです。
そう、イエス様の言葉を聞いた人々によって、
神の国の福音は、明らかにされるのです。
神の言葉を聴き、その言葉を信じ、従う人々の言葉、行動、考え、存在そのものを通して、神の国は告げ知らされていくのです。

【誰もが心の中に「測り」を持つ】
続けてイエス様は、警告を与えます。
それは、神の言葉を聴き、神の福音に生きるべき私たちへの警告です。
「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」(マルコ4:24-25)
イエス様は、21節で語った「升の下」という言葉から連想して、この話を始めました。
21節で「升」と訳されている言葉は、ギリシア語で「モディオス」といいます。
「モディオス」は、一定の数量の穀物を測ることの出来る容器を指す言葉です。
人々は、この容器を用いて、ともし火の火を消したり、
穀物の量を測ったりしていたのです。
ですから、ここで語られている「秤」とは、21節で語られている「升」、
つまり穀物を測る容器である「モディオス」のことを指していると考えるのが自然でしょう。
イエス様は、このたとえを通して、
誰もが持っている、心のなかにある「測り」の用い方について警告をしています。
新共同訳聖書は、24節を、警告の要素を少し弱めた形で訳しています。
しかし、この箇所のギリシア語を読んでみると、
もっと警告に比重が置かれた形で書かれていることに気付きます。
ある聖書学者は、この箇所をこのように訳しています。
「あなた方が測るその測りによって、あなたがた自身も測られることになろう。あなた方に対しては更に付け加えられることにもなろう。」(田川建三訳)
ここで警告されていることは、こうです。
あなたがたが他人を測るその尺度が、あなた方自身に対しても適用される。
そしてそれどころか、他を排除しようとするあなた方は、
もっと厳しい尺度によって測れることになる、とイエス様は言われたのです。
ここでは「他人を測ること」は、「他人を裁くこと」という意味で用いているのです。
それは、人々の前に明らかにされた神の国のあり方とは、程遠いものです。
神の国において、私たちは、互いに愛し合い、助け合い、仕え合う。
そのような約束が与えられています。
ですから、神の国の福音を知らされている者が、
他人を測り、裁き、憎しみに支配され、排除するということがないように、とイエス様は警告しているのです。
それは、人々の前に明らかにされた神の国の福音を、覆い隠すような生き方だからです。

【「モディオス」をどのように用いるべきか?】
このたとえにおいて、イエス様は、私たちが心の中に持っている「升」=「モディオス」の用い方を教えています。
それは、簡単に光を隠すことができるものです。
神の国の福音を告げ知らせる光を。
イエス様が語った言葉を。
ともし火の上に覆いかぶせるように、私たちは自らの持つモディオスによって、
それらのものを、人々から簡単に隠すことができるのです。
また、心の中にある測りを用いることによって、
私たちは、あまりにも簡単に他人を測り、裁くことができます。
批判することも、排除することもできます。
そのような測りを私たちは持っているのです。
私たちは、この測りをどのように用いるべきなのでしょうか。
そもそも相応しい用い方はあるのでしょうか。
「モディオス」という容器は、穀物を測る容器です。
そう、畑から収穫した穀物の量を測るのです。
収穫は、すべて神から与えられます。
それは、穀物だけではありません。
私たちには、日々、様々なものが神から与えられています。
食べるものも、着るものも、それを買うためのお金も、時間も、命も。
すべて、神から与えられている恵みです。
罪の赦しも、救いも、神から与えられています。
神の愛も、復活の希望も、すべて神から与えられています。
私たちは、自らの心のなかにある測りによって、
神から与えられているものを測るべきなのではないでしょうか。
これらのものは、神から、溢れるばかり与えられています。
そのため、私たちが持つ「測り」では、測りきれないでしょう。
溢れるばかりでしょう。
しかし、それで良いのです。
神から、多くのものが溢れるばかり与えられているという事実を確認するためにこそ、
私たちは心の中にある「測り」を用いるべきなのです。

【溢れ出る神の恵みを、分け与える生き方へ】
他人を測り、裁き、憎しみ、争い合い、排除し合うとき、
私たちは、相応しい形で、私たちの持つ「モディオス」を用いているとは言えません。
神の恵みを受け止めることを、やめて、
他の別のことのために、容器を用いているのですから。
そうではなく、私たちは、この「モディオス」を相応しく用いましょう。
神の溢れるばかりの恵みを知るために。
そして、溢れ出る神の恵みを、私たちは互いに分け合っていくのです。
それこそ、神の国の福音に生きる私たちの生き方です。
神の国は、私たちが互いに愛し合い、助け合い、仕え合うことを通して、
この世界に明らかになっていくのです。

2014年11月30日日曜日

説教#59:「神は諦めずに語り続ける」

神は諦めずに語り続ける
聖書 マルコによる福音書4:13-20、申命記30:11-14
日時 2014年11月2日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【あなたは一体どんな土地なのか?】
イエス様は、自分で語った「種蒔きのたとえ」を、ひとつの解釈を加えて説明をしました。
この説明を聞いた人々は、こう思ったことでしょう。
「このたとえにおいて、一体、私はどの土地なのだろうか」と。
与えられた神の言葉を、道端に落ちた種のように扱っていないだろうか。
神の言葉を自分ものとしてしっかりと掴まず、
受け取ったものを放っといて、気付いた時にはなくしてしまっていないだろうか。
それとも、神の言葉を聞いたその時は喜んで受け入れるけども、
家に帰ったら、聞いたことなど忘れてしまうから、自分は「石だらけの土地」なのだろうか。
目の前にある魅力的なことばかりに目が向いてしまってばかりだから、「茨だらけの土地」だろうか。
それとも、神の言葉をしっかり聞く、良い実を結ぶ土地だろうか。
イエス様の語る「種蒔きのたとえ」で、自分は一体どの位置に立っているのだろうか、と人々は自らに問い掛けたことでしょう。

【私たちは、様々な土地の状態を持つ】
しかし、イエス様はこの譬えの解説を通して、
「あなたは実を結ぶ良い土地」、「あなたは実を結ばない悪い土地」
といった具合に、人間の分類分けをしているわけではありません。
どれかひとつに、自分の立ち位置を確定できるほど、人間は単純な存在ではありません。
常にどれかひとつの状態であることなど、あるはずもありません。
私たちは、様々な状態に揺れ動く存在です。
この譬えの中で語られている「道端」のような状態のときも、
「石だらけの土地」のような状態のときも、
茨に囲まれているような状態のときも、
そして、神の言葉が「良い実を結ぶ土地」の状態のときも、十分にあり得ます。
また、様々な状態の土地が、私たちの心や、生活のすべての領域に広がっているともいえるでしょう。
種、つまり神の言葉が、根付きやすい場所もあれば、
神の言葉を拒絶したくなる場所もあります。
一時的になら、神の言葉を聞いて、受け入れることのできる場所もあります。
そういう意味で、イエス様が語った「種蒔きのたとえ」の中で、
どれかひとつが自分を指す土地だと考えるよりは、
ここに広がっている土地すべてが、私たち自身の現実なのだと受け止める必要があるでしょう。
私たちは、様々な土地の状態をもっているのです。
神との関係において、生活のすべての領域において、
神の言葉を聞いて豊かな実を結べる場所もあれば、
神の言葉を排除して、荒れ果てたままの場所もあるのです。

2014年11月29日土曜日

説教#58:「神のわざによって実を結ぶ」

神のわざによって実を結ぶ
聖書 マルコによる福音書4:1-12、イザヤ書6:9-13
日時 2014年10月26日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【主イエスが好んで語った「譬え」】
イエス様は、ご自分のもとに集まって来た人々に、様々な教えを語りました。
中でも、イエス様は、「たとえ」を用いて人々に語ることを好んだようです。
今日私たちに与えられたテキストを見てみると、
この日も、イエス様のもとに多くの人々が集まって来たことがわかります。
場所はガリラヤ湖のほとり。
イエス様は舟に乗って、腰掛け、いつものように人々に教えを語りました。
この日、イエス様が人々に語ったのは、有名な「種蒔きのたとえ」でした。
種蒔き。
それは、この当時の人々にとっては、とても親しみのある、日常的な事柄でした。
そう、イエス様は、人々が教えを聞いて、その意味を理解しやすいように、
彼らが日々の生活の中で使う言葉を用いて、たとえを語ったのです。

【譬えによって秘密にされている?】
しかし、人々に親しみやすい話をしているにも関わらず、
イエス様は、このたとえを話した後、12人の弟子たちに向かってこのように言いました。
あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。(マルコ4:11)
イエス様のこの言葉を通して、
このたとえは、神の国について語っているものだということがわかります。
それと同時に、イエス様は、たとえを用いて語ることによって、
人々に「神の国の秘密」を秘密のままにしているかのように感じます。
人々に親しみのある日常的な言葉を用いて語っているにも関わらず、
なぜ、弟子たち以外の人々には、その意味を伝えることをしなかったのでしょうか。
それは、イエス様は、たとえを解説しないことにこそ意味を見出していたからです。
聴き手に、そこで語られていることの意味を考えさせ、
自分に関係のあることなのだと考えさせることが、イエス様がたとえを用いて語ったことの狙いでした。
そして、たとえの意味を明確にしないことによって、
語られたたとえが何を意味し、何を伝えようとしているかを、
聞いている人々が創造的に考えるようにと招いているのです。

2014年11月28日金曜日

説教#57:「主イエスによって結ばれた共同体」

主イエスによって結ばれた共同体
聖書 マルコによる福音書3:31-35、創世記2:18-25
日時 2014年10月19日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【最も強い絆とは何なのか?】
私たちは、様々な絆によって他の人々と結びついています。
血のつながり、同じ時間や経験の共有、
夫婦や恋人という男女間の愛、
利害関係、地域社会、趣味、出身地、
世代の近さ、学校、職場、インターネットなど、
私たちは様々なものによって、人との結びつきを得ています。
では、そのような結びつきの中で、最も強い絆とは一体何なのでしょうか。
今日開いた聖書の物語を通して、神は私たちに問いかけます。
「あなたにとって、最も強い絆とは一体何なのか」と。

【「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」】
イエス様の母マリアと、彼の兄弟たちはイエス様についての悪い噂を聞きつけて、
彼を取り押さえにやって来ました(3:21参照)。
イエス様がいる家に着いてみると、
家の中は、彼の話を聞く人々でいっぱいだったため、
彼らは家の外に立ち、使いの者を通して、イエス様を呼びました。
「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」(マルコ3:32)
使いの者が、イエス様にこのように報告した時、
その場にいた人々は、イエス様は当然、直ぐに話を打ち切って、
身内の人々に会いに行くと思ったことでしょう。
しかし、この知らせを聞いたイエス様は、このように言われたのです。
「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」(マルコ3:33)
なぜイエス様は、このようなわかりきったことを聞くのか、と思うでしょう。
生まれてからずっと一緒に過ごしてきた家族について、
「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と、尋ねるのはおかしなことです。
その場にいた人々も不思議に思ったことでしょう。

2014年10月21日火曜日

説教#56:「あなたたちが宝の民だから」

あなたたちが宝の民だから
聖書 マラキ書3:16-18、マルコによる福音書3:20-30
日時 2014年10月12日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【悪い噂が広まる】
イエス様が宣教の働きを始めてから、各地にイエス様の噂は広まっていきました。
しかし、どうやら、その噂は良いものばかりではなかったようです。
イエス様の行動を見て、
「あの男は気が変になっている」(マルコ3:21)と言う人々もいたのです。
当時、気が変になっていると思える行動をする人は、
悪霊の支配下にあると人々から考えられていました。
そのため、身内の人たちがイエス様を取り押さえに来た、とマルコは報告しているのです。
この悪い噂がこれ以上広まる前に、
身内の人々は、イエス様の宣教の働きをやめさせようとしたのかもしれません。

【エルサレムから来た律法学者たちの主張】
しかし、身内の人々がイエス様を取り押さえに来るよりも前に、
イエス様についての悪い噂を聞きつけてやって来た人々がいました。
マルコは、彼らを「エルサレムから下って来た律法学者たち」(マルコ3:22)と紹介しています。
エルサレムは、ユダヤ教の中心地です。
そのエルサレムから、宗教的指導者である律法学者たちがやってきたのです。
それは、悪い噂が流れているイエス様について、調査をするためでした。
その調査の結果、彼らはしきりに言うのです。
「あの男はベルゼブルに取りつかれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」(マルコ3:22)
イエス様がこれまで行ってきた、病の癒やしや悪霊追放は、
悪霊の頭であるベルゼブルの力によるものだ、と彼らは言うのです。
イエス様は良い力ではなく、悪の力を用いている、悪の代理人だ、という訴えです。
もちろん、そのようなことは決してありません。
イエス様は、そのような方では決してありません。
しかし、いつものように人々の病を癒し、悪霊を追い出したとしても、
イエス様は、自分が悪の代理人ではないということを証明することはできません。
そのため、イエス様は、たとえを用いることによって、
自分が悪の側にではなく、神の側に立っているということを証明したのです。

2014年10月20日月曜日

説教#55:「境を打ち破る、神の国の福音」

境を打ち破る、神の国の福音
聖書 出エジプト記19:20-25、マルコによる福音書3:13-19
日時 2014年10月5日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【主イエスのもとにやってくる人々】
イエス様のもとには、毎日のように、様々な人々が集まってきました。
祭司やファリサイ派の人々、漁師、徴税人、病を抱えた人、悪霊にとりつかれた人など、
実に様々な人々が、イエス様のもとにやってきたようです。
ある人は、病気を癒してもらうために。
ある人は悪霊を追い払ってもらうために。
ある人は、神から与えられた律法について議論するために。
また、ある人は、その律法についての議論を通して、イエス様を貶めるために。
イエス様のもとに集まった人々は、イエス様の噂を聞いて、集まってきました。
イエスという人が、病を癒やした。
悪霊を追い払った。
律法をこのように解釈した。
イエスの語る教えは、権威ある新しい教えだ、などといったような噂を聞いて、
毎日のように、人々はイエス様のもとにやって来たのです。

2014年10月18日土曜日

説教#54:「あなたにとって、主イエスとは何者か?」

あなたにとって、主イエスとは何者か?
聖書 列王記上5:9-14、マルコによる福音書3:7-12
日時 2014年9月28日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会


【主イエスの宣教に対する様々な反応】
イエス様が行った宣教に対して、人々は様々な形で反応しました。
ある者は喜び、ある者は噂を広め、
ある者は疑いを覚え、
ある者は信じて、イエス様を尋ねて旅立ちました。
当時のユダヤの宗教的指導者であるファリサイ派の人々は、
自分たちの考える基準で律法を守らないイエス様の姿を見て、
次第にイエス様に対する憎しみを覚えるようになってきました。
3:6には、このように記されています。
ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。(マルコ3:6)
2章から3章5節までは、イエス様と人々の間でなされた論争が記されていました。
律法の解釈を巡る論争です。
これらの論争の結果として、ファリサイ派の人々はイエス様を憎み、
イエス様を殺すための相談を始めたのです。
そのような意味で、イエス様の宣教は、ファリサイ派の人々に対しては成功したとはいえませんでした。
彼らの怒りや憎しみを感じ取ったからでしょうか。
イエス様は、弟子たちと一緒にガリラヤ湖の方へと立ち去られた、とマルコは報告しています(マルコ3:7参照)。

2014年10月16日木曜日

説教#53:「安息日が告げる祝福」

安息日が告げる祝福
聖書 出エジプト記20:8-11、マルコによる福音書3:1-6
日時 2014年9月21日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【安息日における生命の保護】
イエス様は、安息日によく人々の病を癒していました。
人々は、イエス様が病人を癒すその姿に驚き、
また、イエス様の語る言葉を権威ある新しい教えだと言って、喜んで聞いていました。
しかし、ファリサイ派の人々は、イエス様のことを快く思わなかったようです。
というのは、イエス様が病人を癒やす行為は、安息日に禁じられている労働に含まれていると彼らは考えたからです。
もちろん、ファリサイ派の人々にとっても、安息日における生命の保護は重要なものと考えられていました。
しかし、医療行為に関しては、命の危機がある時にのみしか、許されていなかったようです。
つまり、命の危険がない病だと判断されたならば、
その病の癒やしは律法違反だから、安息日以外の日にすべきだと言われたのです。
イエス様が安息日に行った癒やしは、命の危険にある人だけが対象ではありませんでした。
ですから、ファリサイ派の人々はイエス様の癒しの行為を非難し、イエス様を敵視するようになっていったのです。

2014年9月20日土曜日

説教#52:「安息日は誰のためのもの?」

安息日は誰のためのもの?
聖書 申命記5:12-15、マルコによる福音書2:23-28
日時 2014年9月14日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【人々の注目が集まる】
イエス様は様々な人々から注目を集めていました。
神の前に敬虔な人として、
そして、聖書をよく知る教師として、イエス様は人々から見られていました。
しかし、イエス様に人々の注目が集まったのには、その他にも理由がありました。
悪霊を追い出し、多くの人の病を癒す。
そして、当時の社会からのけ者にされていた、罪人や徴税人たちと食事をする。
その上、敬虔な人なら当然行うはずの断食を行わない。
このようなイエス様の行動や語る言葉を、人々は見聞きしてたため、
イエス様と彼の弟子たちの行動に注目するようになりました。
そして、ある安息日にも、イエス様と弟子たちの行動に人々の注目が集まったのです。

説教#51:「キリストにある新しい生き方」

キリストにある新しい生き方
聖書 マルコによる福音書2:18-22、ホセア書2:14-25
日時 2014年9月7日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

2014年9月19日金曜日

説教#50:「主イエスを見つめ続けて歩む共同体」(日大KGK夏合宿#3)

主イエスを見つめ続けて歩む共同体(日大KGK夏合宿#3)
聖書 創世記11:1-9、ヘブライ人への手紙12:1-3、13:1-8
日時 2014年9月2日(火) 日大KGK合宿
場所 奥多摩バイブルシャレー

2014年9月18日木曜日

説教#49:「礼拝者として生きる」(日大KGK夏合宿#2)

礼拝者として生きる(日大KGK夏合宿#2)
聖書 創世記16:1-16、ヘブライ人への手紙4:14-16、10:19-25
日時 2014年9月2日(火) 日大KGK合宿
場所 奥多摩バイブルシャレー

2014年9月13日土曜日

説教#48:「きょう、神の言葉に聴き従う」(日大KGK夏合宿#1)

きょう、神の言葉に聴き従う』(日大KGK夏合宿#1)
聖書 創世記1:1-2:3、ヘブライ人への手紙1:1-4, 3:7-15
日時 2014年9月1日(月) 日大KGK合宿
場所 奥多摩バイブルシャレー

2014年9月12日金曜日

説教#47:「喜びの食卓への招き」

喜びの食卓への招き
聖書 マルコによる福音書2:13-17、ホセア書1:1-2:3
日時 2014年8月31日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

2014年9月11日木曜日

説教#46:「子よ、あなたの罪は赦される」

子よ、あなたの罪は赦される
聖書 マルコによる福音書2:1ー12、イザヤ書43:18-25
日時 2014年8月24日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

2014年9月10日水曜日

説教#45:「主イエスが手を触れたところ」

主イエスが手を触れたところ
聖書 マルコによる福音書1:40ー45、列王記下5:1-14
日時 2014年8月3日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

2014年9月9日火曜日

説教#44:「その背後に主イエスの祈り」

『その背後に主イエスの祈り
聖書 マルコによる福音書1:29ー39、イザヤ書55:8ー9
日時 2014年7月27日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

2014年9月8日月曜日

説教#43:「主イエスがもつ権威」

主イエスがもつ権威
聖書 エレミヤ書1:4-8、マルコによる福音書1:16-20
日時 2014年7月20日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

2014年9月7日日曜日

説教#42:「主の弟子たちは、神の言葉に聞き従う」

主の弟子たちは、神の言葉に聞き従う
聖書 エレミヤ書1:4-8、マルコによる福音書1:16-20
日時 2014年7月13日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

2014年9月6日土曜日

説教#41:「神の国は近づいた!」

神の国は近づいた!
聖書 ヨナ書3:1-10、マルコによる福音書1:14-15
日時 2014年7月6日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

2014年6月29日日曜日

説教#40:「聖霊によって導かれる旅」

聖霊によって導かれる旅
聖書 出エジプト記13:17-22、マルコによる福音書1:12-13
日時 2014年6月29日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

2014年6月27日金曜日

説教#39:「あなたは誰?」

あなたは誰?
聖書 イザヤ書63:15−19、マルコによる福音書1:9ー11
日時 2014年6月22日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

2014年6月15日日曜日

説教#38:「聖霊が促す、新しい生き方」

聖霊が促す、新しい生き方
聖書 イザヤ書40:3-8、マルコによる福音書1:1-8
日時 2014年6月15日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

2014年6月13日金曜日

浦和教会のホームページ

ブログでの報告が遅れてしまいましたが、
4月1日から、日本ナザレン教団・浦和キリスト教会の牧師として就任しました。

今後もこのブロクに説教原稿を掲載していく予定ですが、
浦和教会のホームページ(下記URL)にも説教原稿は掲載します。
現在、ホームページで説教音源の掲載も検討中です。

http://urawa-church.wix.com/nazarene

2014年6月12日木曜日

説教#37:「神のわざによって、ひとつとされる」

神のわざによって、ひとつとされる
聖書 創世記11:1-9、使徒言行録2:1-13
日時 2014年6月8日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

2014年6月11日水曜日

説教#36:「あなたは、わたしに従いなさい」

あなたは、わたしに従いなさい
聖書 エレミヤ書13:1-11、ヨハネによる福音書21:15-25
日時 2014年6月1日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

2014年6月10日火曜日

説教#35:「愛することを諦めない」

愛することを諦めない
聖書 申命記7:6-8、ヨハネによる福音書21:15-19
日時 2014年5月25日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

2014年6月9日月曜日

説教#34:「神に養われて歩む旅」

神に養われて歩む旅
聖書 出エジプト記16:1-5、ヨハネによる福音書21:1-14
日時 2014年5月18日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

2014年5月17日土曜日

説教#33:「見えないものを、見つめて歩む」

見えないものを、見つめて歩む』
聖書 創世記12:1-4a、ヨハネによる福音書20:24-31
日時 2014年5月11日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

2014年5月16日金曜日

説教32:「戸を開き、出て行きなさい」

戸を開き、出て行きなさい
聖書 創世記2:7、ヨハネによる福音書20:19-23
日時 2014年5月4日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

2014年5月15日木曜日

説教#31:「私たちが携えるのは、希望の言葉」

私たちが携えるのは、希望の言葉
聖書 イザヤ書25:6-9、ヨハネによる福音書20:11-18
日時 2014年4月27日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

説教#30:「その日、墓から取り去られる」

その日、墓から取り去られる』
聖書 エゼキエル書37:1-14、ヨハネによる福音書20:1-10
日時 2014年4月20日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

2014年5月14日水曜日

説教#29:「死の先に復活を望み見て生きる」

死の先に復活を望み見て生きる
聖書 哀歌3:19-24、ヨハネによる福音書19:38-42
日時 2014年4月13日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

説教#28:「ここにいのちは溢れ出る」

4月から日本ナザレン教団の浦和教会で牧会をしています。
説教原稿は、浦和教会のホームページにも掲載されていますが、
こちらにも投稿しようと思います。

『ここにいのちは溢れ出る』
聖書 出エジプト記12:21-28、ヨハネ福音書19:28-37
日時 2014年4月6日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

2014年3月17日月曜日

説教#27:「主イエスは私たちのために進み行く」

浦和教会の礼拝で説教奉仕をさせて頂く機会を与えられました。
祈りに覚えてくださった皆さん、感謝致します。


『主イエスは私たちのために進み行く』
聖書 イザヤ書52:13〜53:12、ヨハネによる福音書18:1〜11
日時 2014年3月16日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

2014年2月24日月曜日

説教#26:「ここは神の家」

浦和教会の礼拝で説教奉仕をさせて頂く機会を与えられました。
祈りに覚えてくださった皆さん、感謝致します。


『ここは神の家』
聖書 マラキ書3:1〜4、ヨハネによる福音書2:12〜22
日時 2014年2月23日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

2014年1月5日日曜日

説教#25:「主イエスを喜び迎え、歩み続けよ」

浦和教会の礼拝で説教奉仕をさせて頂く機会を与えられました。
祈りに覚えてくださった皆さん、感謝致します。


『主イエスを喜び迎え、歩み続けよ』
聖書 創世記1:1〜5、コロサイの信徒への手紙2:6〜10
日時 2014年1月5日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会