説教#30:「その日、墓から取り去られる」

その日、墓から取り去られる』
聖書 エゼキエル書37:1-14、ヨハネによる福音書20:1-10
日時 2014年4月20日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【「主が墓から取り去られました」】
「主が墓から取り去られました」(ヨハネ20:2)
安息日の翌日、日曜日の朝早くに、イエス様の弟子であるペトロのもとに、
このようなニュースが飛び込んで来たそうです。
このニュースを伝えに来たのは、マグダラのマリアという女性でした。
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。(ヨハネ20:1)
ここで「朝早く」と訳されている言葉は、午前3時から6時頃の時間帯を指す言葉です。
そんなまだ暗く、多くの人たちが眠りについている時間帯に、
マリアはイエス様が葬られている墓にやって来たのです。
当時の墓は、岩を掘って作られ、墓の入り口には石が転がして置かれていたそうです(マルコ15:46参照)。
しかし、この時マリアが見たのは、
イエス様の遺体が納められている墓を塞いでいた石がとりのけられている光景でした。
これを見て、マリアは墓の中が空っぽであることを確認せずに、
急いでペトロとイエス様の愛した弟子のもとへ走って行きました。
当時、墓泥棒は一般的な犯罪だったため、彼女もその可能性を一番に考えたのでしょう。
ですから、マリアは急いでペトロのもとへ行き、このように言ったのです。
「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 (ヨハネ20:2)
【亜麻布が置かれた墓】
これを聞いたペトロともう一人の弟子は、急いで墓へ行き、墓が空っぽであることを確認しに行きます。
墓に到着し、二人は墓の中に亜麻布が置いてあるのを発見します。
この亜麻布は、アリマタヤ出身のヨセフとニコデモが、
イエス様を葬る時に、イエス様の遺体を包んだものでした。
100リトラ、つまりおよそ30kgもの高価な香料を添えて、イエス様は亜麻布に包まれていました。
これはとても豪華な葬りの仕方です。
ですから、もしも墓泥棒が入って、イエス様の遺体を盗んだならば、
亜麻布に包んだまま遺体を持ち出したはずです。
しかし、墓の中には亜麻布が置いてあったのです。
それは、決してイエス様の遺体が盗まれたわけではないということを示していました。
また、墓が荒らされていないことから、嫌がらせでもないことも明らかです。
そうだとすれば、一体誰がイエス様を取り去ったのでしょうか。
これは、マリアだけでなく、弟子たち、そして福音書を読む私たちが抱く問いです。
ですから、私たちはマリアと共にこのように言うのです。
「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 (ヨハネ20:2)
【神が、墓から引き上げる】
主が墓から取り去られて、墓は空っぽなのです。
しかし、新約聖書が書かれた時代に生きた信仰者たちは、
この空っぽの墓にこそ、希望があるのだと確信をもって語ったのです。
この空っぽの墓こそ、イエス様が復活した証だ、と。
ヨハネ福音書だけでなく、すべての福音書が、墓が空っぽだったと証言しています。
では、彼らはイエス様が自ら起き上がって、自分の力で墓をこじ開けて出て行ったと考えたのでしょうか。
そうではありません。
神が、イエス様を起き上がらせ、この墓を開けて、イエス様を墓から引き上げたのです。
旧約聖書のエゼキエル書37:13には、このような言葉があります。
わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げる…(エゼキエル37:13)
エゼキエルを通して、神はこのように約束されたのです。
神が、墓を開き、墓から死んだ者を引き上げる、と。
つまり、神が死者を復活させるという約束を、神は与えられたのです。
この約束は、イエス様によって実現しました。
神が、イエス様を墓から取り去ったのです。よみがえらせたのです。
亜麻布しかない、イエス様のいない墓を見つめる時、
私たちはこの聖書の言葉が実現されたと確信するのです。
わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げる…(エゼキエル37:13)
【私たちも、墓から引き上げられる】
ここで、神は「《お前たちを》墓から引き上げる」と語っています。
ですから、この約束は、イエス様だけでなく、私たちにも及ぶものなのです。
来るべき日、私たちも墓から取り去られる日が来るのです。
その日がいつなのかは、わかりません。
しかし、神が「今日」と決めたその日に、私たちは墓から引き上げられるのです。
その日、墓から取り去られるのです。
私たちが自分の力で死に打ち勝つのではありません。
神が、私たちを墓から引き上げるのです。
これが私たちに与えられている約束です。復活の希望です。

【希望を何処に置くべきか】
この事実は、この世界にのみ希望を置くべきではないということを、
私たちに強く確信させます。
死がすべての終わりではないのです。
もしも死がすべての終わりであれば、「食べたり飲んだりしようではないか。
どうせ明日は死ぬ身ではないか」(Ⅰコリント15:32)と言って、
好き勝手に生きるのを選ぶことでしょう。
しかし、復活の希望をもつ私たちは、死ですべてが終わるわけではないと知っています。
私たちは、死の先に復活を望み見ているのです。
私たちの希望は何処にあるのかと聞かれたら、
私たちの希望は神にあると答えるのです。
やがて神によって導かれる、天の御国にあると答えるのです。

【復活の希望を携え、天の御国を目指して歩む】
神は私たちを天の御国へと導こうとしています。
そこがどのような場所かは、わかりません。
神だけがご存知です。
しかし、私たちはこのように確信することができるはずです。
神は、私たちが互いに争い合うために、私たちを復活させられるのではない。
私たちが互いに憎しみ合うために、私たちを復活させられるのではない、と。
私たちは、互いに愛し合うために、共に神を賛美するために、
墓から引き上げられ、神の御国へと導かれるのです。
教会は、洗礼を通して、既に墓から取り去られた者たちの群れです。
神の前に死んでいるに等しい者が、キリストにあって、いのちを得たからです。
キリストにあって、私たちは復活の希望を携えて生きる者なのです。
今は神の御国へと向かう、旅の途上です。
そうであっても、復活の希望にあずかっているのですから、
私たちは互いに愛し合って生きようではありませんか。

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