しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2014年5月16日金曜日

説教32:「戸を開き、出て行きなさい」

戸を開き、出て行きなさい
聖書 創世記2:7、ヨハネによる福音書20:19-23
日時 2014年5月4日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【家に閉じこもる弟子たち】
イエス様の弟子たちは、ユダヤ人に対して恐れを抱き、家に閉じこもっていたようです。
その様子をヨハネはこのように記しています。

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。(ヨハネ20:19)

「週の初めの日の夕方」とヨハネは記しています。
それは安息日の翌日、つまり日曜日の夕方のことでした。
この日は、イエス様が葬られていた墓の入り口にあった石が取りのけてあるのを、マグダラのマリアが見た日。
そして、彼女が復活したイエス様と出会った日でした。
イエス様と出会ったマリアは、直ちに弟子たちにイエス様が復活したことを伝えに行きました。
しかし、彼らは彼女の言うことを信じることができず、家の中に閉じこもっていたのです。
墓の穴は開き、十字架の上で死んだイエス様は復活しました。
しかしそれとは対照的に、弟子たちは、他の人々との接触を断ち、
戸を閉めて、家の中に閉じこもっていたのです。

【ユダヤ人たちを恐れて、戸を閉じた弟子たち】
彼らが家の中に閉じこもっていたその理由は、ユダヤ人を恐れたからでした。
イエス様の弟子である自分たちも、イエス様と同じように、ユダヤ人に捕らえられるのではないかと彼らは考えたのです。
家の外に出れば、ユダヤ人がいます。
全てのユダヤ人がイエス様に敵対的であったわけではないでしょうが、
誰がそうであるのかはわかりません。
誰が自分たちのことを、イエス様の弟子だと言い出すかわかりません。
誰が自分たちを捕らえに来るかもわかりません。
家の外に出るのを恐れ、彼らは家の中に閉じこもっていました。
しかしどうでしょうか。
家の中に閉じこもれば、恐れや不安が消えるというわけではなかったのです。
家の外から聞こえてくる人々の足音や、話し声が聞こえる度に、
彼らは怯えたことでしょう。
足音や話し声が近づいてくる度、
ユダヤ人たちが自分たちを捕らえに来たのではないかと考え、彼らは怯えたのです。
そして、彼らはユダヤ人を恐れて、家の戸に鍵をかけたのです。

【弟子たちの真ん中に立たれたイエス】
このように恐れを抱き、怯えている弟子たちの真ん中に、イエス様が立たれたのです。
家の戸に鍵をかけているのですから、誰も入って来れるはずありません。
しかし、弟子たちが恐れを抱き閉じこもっている家の中に、イエス様は入ってきたのです。
復活されたイエス様の身体は、触れることのできるものでしたが、
復活する前の身体とは、少し違うものだったようです。
物理的に入ることのできない家の中に入って来たのですから。
しかし、どのようにしてイエス様がこの部屋の中に入ってきたかは、
この物語を書き記したヨハネの関心ではありません。
ですから私たちも、この物語が最も伝えたいことに注目すべきです。
重要な事は、恐れを抱き、怯え、閉じこもっている弟子たちの真ん中に、イエス様が来てくださったということです。
そして、イエス様は彼らに言われました。

「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19)

平和。これは、平安とも訳せる言葉です。
何かに恐れを抱く時、私たちの心に平安はありません。
恐れている物事に心は支配され、悪いことばかり考えてしまいます。
しかし、恐れを抱き、怯える弟子たちに対して、イエス様は「平和があるように」と語られたのです。
私があなたたちと共にいる。
だから、あなたたちは恐れる必要がないんだ。
私と共にいることによって、あなたたちは平和を得るのだ、と。
イエス様は恐れを抱いている弟子たちに、語り掛けているのです。

「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19)

【復活の主イエスが「平和があるように」と言われる】
これは単なる挨拶の言葉ではありません。
また、弟子たちを安心させて、彼らに一時的な慰めを与えるために、
イエス様はこの言葉を語ったのでもありません。
イエス様はこの言葉を語った後、弟子たちに御自分の身体を見せるのです。
釘を打たれ、傷ついた両手と、
槍を刺され、傷ついた脇腹を、イエス様は弟子たちに見せたのです。
直接この傷を付けたのは、ローマの兵士たちですが、
イエス様を十字架に架けるように仕向けたのは、ユダヤ人たちです。
ですから、この傷は、弟子たちが恐れているユダヤ人によって付けられた傷でした。
しかしその傷は、イエス様が十字架の上で死んだという敗北のしるしではありません。
この傷は、十字架の上で死んだイエス様が復活して、弟子たちの目の前にいるというしるしなのです。
敗北のしるしが、復活を通して勝利のしるしとなったのです。
イエス様は、この傷を通して語り掛けます。
私があなたたちのために十字架に架かって死んだ。
あなたたちのすべての罪を引き受けた。
私は十字架に架かって死んだが、復活して、今あなたたちの目の前にいる。
私は死に勝利したのだ。
私たちが最も恐れを覚える死に対して、勝利したのだ、と。
イエス様は傷ついた両手と脇腹を見せることによって、弟子たちに伝えるのです。

「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19)

【戸を開き、出て行きなさい】
そして、イエス様は続けてこう言われました。

「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(ヨハネ20:21)

それは、今閉じこもっている家の戸を開いて、ここから出て行けという招きでした。
戸を開き、出て行きなさい、という招きです。
しかし、家の戸には鍵がかかっていました。
鍵といっても、当時の鍵は、「かんぬき」によって掛けられていました。
かんぬきとは、家の中から扉を閉ざすための横木です。
その横木をかけて、外からは決して戸を開くことのできないようにしたのです。
つまり、家の中からでないと、この戸を開くことはできなかったのです。
家の中にいる弟子たち自身が戸を開かなければ、ここから出て行くことができなかったのです。
ですから、イエス様は、戸を開いて「さぁ行って来い」と言って、強制的に弟子たちを送り出しているのではありません。
イエス様は弟子たちに励ましを与えているのです。
あなたたちには平和が与えられている。
恐れて部屋に閉じこもる必要はない。
死に勝利した私が、あなたたちと共にいるのだから、と。
弟子たちが自らの力でこの戸を開いて、出て行くことができるように、
イエス様は弟子たちに語り掛け、励ましを与えたのです。

【和解の使者として、遣わされていく】
弟子たちと同じように、私たちもイエス様からそれぞれの場所へと遣わされています。
毎日生活をする様々な場所へと、イエス様は私たちを遣わしています。
家庭へ、
職場へ、
学校へ、
趣味のサークルへ、
近所付き合いへ。
私たちは様々な場所に遣わされていきます。
しかし、時として、私たちは人と関わる時、恐れを抱いてしまうのです。
仲良くすることの出来ない人。
どうも好きになれない人。
権力に物を言わせて人を押さえつけようとしてくる、高圧的な人。
理由はわからないけど、自分のことを嫌っている人。
喧嘩したばかりの人。
敵意を向けてくる人、など。
私たちは遣わされて行く先で、様々な人々と出会い、時に恐れを抱きます。
そうとわかっていながらも、なぜ出て行かなければならないのでしょうか。
イエス様はこう言われます。

そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20:22-23)

「あなたたちを遣わす理由は、あなたたちが和解の使者だからだ」と、
イエス様は伝えているのです。
罪の赦しを、私たちは神から与えられています。
その赦しを確信しています。
しかし、この罪が赦されているという喜びの知らせを、自分の内で留めるべきではない、とイエス様は言われているのです。
「あなたは神に赦されている」と伝えに行きなさい、と。
私たちは、神の赦しを宣言する使命を与えられているのです。
ここに赦しがあることを。ここに喜びがあることを。
そして、ここに真実の平和があることを、人々に伝える必要があるのです。
使徒パウロは言います。

……神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。(Ⅱコリント5:19-20)

パウロが語っているように、和解の言葉が私たちに委ねられているのです。
和解の使者として、私たちはこの世へと遣わされているのです。
家庭へ、
職場へ、
学校へ、
趣味のサークルへ、
近所付き合いへ、
私たちは様々な場所に和解の使者として遣わされているのです。

【私たちは、赦しの言葉を携えて出て行く】
しかし、「神があなたを赦している」と宣言するだけでは不十分です。
この私自身が、人を赦す必要があるのです
イエス様はこう言われます。

だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。(ヨハネ20:23)

神が目の前にいる人を赦しているのに、
自分は今目の前にいる人を赦すことができない。
愛することができないという時が、私たちには何と多いことでしょうか。
私たちが赦すことができなければ、その人の罪は残ってしまうとイエス様は言うのです。
目の前にいる人の罪は、神に赦されているにも関わらず、です。
私たちは、神の赦しを与えられて生きています。
人を心から愛することができないのに。
神のみ心に背く生き方を好み、自分勝手な生き方をしてしまうのに。
それでも、神は私たちを赦し、私たちを愛してくださっています。
ですから、私たちも神に愛されたように、
出会う一人ひとりの人たちを愛そうではありませんか。
赦しが必要な場面に遭遇したとき、心から相手を赦そうではありませんか。
神が私たちを赦してくださったのですから。
正直、すぐに赦すことは難しいことかもしれません。
しかし、「それでも赦したい。それでも愛したい」と願いながら、
私たちは神に遣わされた和解の使者として生きていこうではありませんか。
人との間に壁をつくり、家の中に閉じこもるのではなく、戸を開いて出て行きましょう。
神から与えられる赦しこそが、私たちの間に平和をつくりだすのですから。

キリストが与えてくださった平和を携えて、この世へと出て行きましょう。