しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2014年6月10日火曜日

説教#35:「愛することを諦めない」

愛することを諦めない
聖書 申命記7:6-8、ヨハネによる福音書21:15-19
日時 2014年5月25日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【愛について考えてみる】
愛には、様々な形があります。
夫婦や恋人同士の愛。親子愛。
兄弟愛。友人との愛。
そして、自分を愛する、自己愛。
その大きさや質はともかく、人との関係があるところには、
何らかの形で、愛があるはずです。
愛。それは世界中で毎日のように響いている言葉でしょう。
テレビやラジオをつければ、愛を歌い出す人々がいます。
書店にある本を手にとって読んでみると、愛は私たち人間が生きる上で重要なテーマとして取り扱われます。
また、私たちは人以外のものも愛します。
それは動物や虫、植物、そして自然。
また、お金やコレクションなどのモノを愛します。
そういう意味で、愛というものはとても日常的な事柄です。
何より、私たちがひとりひとりが、今ここに生きているということこそ、
両親や周囲の人々の愛の結果、ともいえます。
私たちが自分一人では、何も出来ない幼い頃、
私たちを世話してくれた人々がいたのですから。
しかし、その一方で、私たちは愛とは反対の感情を抱きます。
憎しみや妬み、そして無関心。
そう、「愛せない」という問題です。
私たちの内にこのような感情があるという事実に目を背けて、愛について考えることはできないでしょう。
私たちは、人を愛することができます。
しかし、その一方で、人を愛することのできない私たち自身もいるのです。

【主イエスからの問い掛け~「あなたは私を愛しているか」】
今日与えられたテキストで、シモン・ペトロはイエス様からこのように問い掛けられました。
「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」(ヨハネ21:16)
「あなたは私を愛していますか」と他人から問い掛けられる機会は、
正直、殆ど無いでしょう。
「いいえ、私はあなたを愛していません」と言われるのは、
それを言った側も、言われた側も、お互いに辛いことです。
そのため、軽い気持ちで聞けることではないでしょう。
それに、「うん、愛してる、愛してる」と、上の空で返事される可能性だってあります。
ですから、本当に愛し合い、信頼し合う関係でないと、聞くことのできない質問だと思います。
そのような質問を、ペトロはイエス様から受けたのです。
「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」(ヨハネ21:16)
もしも、このような質問を投げ掛けられたら、正直、戸惑うでしょう。
しかし、この問い掛けを真剣に受け止めるならば、きっと、
自分自身に向かって、こう問い掛けるのではないでしょうか。
「私は目の前にいるこの人を、これまで、本当に愛してこれたのだろうか。
そして、これから、愛していけるのだろうか」と。
もしも、この言葉を、特定の誰かだけではなく、自分の周りにいる全ての人たちから問われたとしたら、
一体どのように考え、そして、どのように答えるでしょうか。
ある人に対しては、即答出来るかもしれません。
そして、大抵の人に対しては、このように考えるでしょう。
「私は目の前にいるこの人を、これまで、本当に愛してこれたのだろうか。
そして、これから、愛していけるのだろうか」と。
しかしその一方で、特定の人に対して、このように考える自分がいることに気付きます。
「いや、あなたのことは嫌いだ。あなたを愛することはできない」と。
数は多くはないけども、そのような人たちの顔が浮かんでくるかもしれません。
「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」(ヨハネ21:16)
イエス様が尋ねたこの質問を通して、
私たちもペトロと同じように、自分自身が、どれほど人を愛することが出来るのか、
または、愛することが出来ないのかが問われているのです。

【ペトロの心の内】
では、ペトロはこの時、イエス様にどのように答えたでしょうか。
イエス様に問い掛けられたペトロの答えは、このようなものでした。
「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(ヨハネ21:16)
ペトロは、随分と回りくどい言い方をしているように感じます。
なぜ、彼は「はい、主よ、私はあなたを愛します」と答えなかったのでしょうか。
それは、ペトロが以前、イエス様に対してしてしまったことと関係があります。
彼は、イエス様が裁判にかけられた時、彼の周囲の人々から、イエス様と自分の関係を問われたことがありました。
「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」(ヨハネ18:17)
そんな問い掛けを、彼は三度も受けましたが、彼はそのすべての質問に対して、こう答え続けました。
「違う。」(ヨハネ18:17)
自分がイエス様と関係があると、周りの人々に知られたら、自分もイエス様と同じように裁判にかけられてしまうかもしれない。
自分を守りたい、という自己保身の思いがあったのでしょう。
彼はイエス様と自分の関係を否定し続けました。
「違う、私はイエスなど知らない」、と。
ペトロはかつて、イエス様、「あなたのためなら命を捨てます」(ヨハネ13:37)とまで言ったことがありました。
にもかかわらず、彼は、イエス様と自分の関係を否定してしまったのです。
そのため、イエス様に対して、彼は負い目を感じていたのでしょう。
ですから、彼はイエス様に向かって、確信をもって、「愛します」とは答えることが出来なかったのです。
この口では「イエス様を愛している」と言いながら、裏切った自分がいたのですから。
ペトロは「私がどの程度あなたを愛しているかは、あなたが知っているとおりです」といった意味の返事しかできなかったのです。
自分の内から出てくる愛に、ペトロは自信をもてなかったのです。
その一方で、それでも愛したいという思いがあったからこそ、彼はこのように答えたのでしょう。
「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(ヨハネ21:16)
程度は違えど、私たちもペトロと同じような思いを、多くの人に対して抱きます。
「それでも愛したい」という思いです。
しかし、色んな感情がそれを邪魔をしてくるのです。
ペトロの場合は、イエス様に対する負い目。自分がかつてイエス様にしてしまったことが原因でした。
私たちが人を「愛したい」と思う思いを邪魔する物事は、数多くあります。
それは、私たち自身の内にある、相手に対する憎しみや妬みかもしれません。
どうしても、赦せない相手の特徴や性格かもしれません。
愛したいという思いがあったとしても、これらの感情が関わってくる時、愛することは非常に難しくなってきます。
どうしても、どうしても、それを乗り越えることができないのです。

【主イエスは諦めずに、愛し続ける】
ペトロにとって、どうしても乗り越えることができなかったこと。
それは、過去に対する後悔、イエス様に対する負い目でした。
そんなペトロに、イエス様は三度、同じ質問を投げかけるのです。
ペトロはイエス様から三回問い掛けられたときに、悲しみを覚えました。
イエス様を三回否定した自分の言葉を思い出したからです。
しかしイエス様は、「ペトロよ、反省しなさい」という思いを込めて、このように問い掛けたのでは決してありません。
イエス様の動機は、ペトロに対する、愛と赦しです。
それは、ペトロの過去の過ちを「気にしない」というわけでも、
彼の過去の行いをすべて「なかったこと」にするわけでもありません。
過去は決して変わることがありません。
しかし、イエス様は、ペトロの過去の過ちをすべて知って、すべて受け入れた上で、彼に接しているのです。
「しかし、それでも、あなたを愛する」というイエス様の決断が、ここに表れているのです。
イエス様はペトロに向かって、「私はあなたを愛している」とは、直接語っていません。
しかし、「あなたは私を愛するか」と問い掛けるその背後に、
「どのような答えであっても、私はあなたを愛し続ける」というイエス様の決断があるのです。
どんなに罪深い者でも、
どんな過去を背負って歩んでいたとしても、
どんなに人から嫌われていようとも、
どんなに人を愛することができなくても、
それでも、私は愛する。
あなたを愛し続けることを、決して諦めない、とイエス様は決断されているのです。
ペトロは自分の力によって、目の前にある障害を乗り越えたのではありません。
イエス様の一方的な愛と赦しによって、ペトロとイエス様の関係が回復されていったのです。
イエス様は、ペトロのことを諦めることなく、愛し続けたのです。

【あなたは、神の「宝の民」】
イエス様は、ペトロに対してだけこのように接するのではありません。
私たちに対しても、すべての人々に対しても、イエス様は同じように接するのです。
あなたがどのような存在であったとしても、私はあなたを愛する、とイエス様は語掛けるのです。
イエス様は変わることなく、「私はあなたを愛している」と言われるのです。
諦めることなく、私たちを愛してくださるのです。
どんなに罪深い者でも、
どんな過去を背負って歩んでいたとしても、
どんなに人から嫌われていようとも、
どんなに人を愛することができなくても、
それでも、私は愛する。
あなたを愛し続けることを、決して諦めない、とイエス様は決断されているのです。
イエス様のこのような姿は、旧約聖書の時代に、イエス・キリストの父なる神が、
イスラエルに向かって語りかけた姿と重なります。
神はかつて、イスラエルに向かってこのように語り掛けました。
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。(申命記7:6-7)
この言葉は、イスラエルの人々に対してだけでなく、私たちに対しても語られている言葉です。
神は私たちに向かって言われるのです。
あなたたちは、私の宝の民だ、と。
あなたを選んだのは、あなたが優秀だったからでも、
あなたが容姿が良かったからでも、
あなたがお金持ちだったからでも、
あなたが高い地位についていたからでもない。
あなたがそこにいる。
「あなたという存在そのものが愛おしいんだ」と、神は私たちに向かって語られているのです。
あなたは私の宝。私の「宝の民」(申命記7:6)である、と。

【「愛する」ということは、何かを乗り越える必要がある】
「愛する」ということは、きっと、何かを乗り越えなければならないのでしょう。
それは、目の前にいる人との、過去の関係であったり、
自分自身が相手に対して抱いてしまっている、憎しみや妬みといった悪い感情であったりします。
また、それは相手の性格かもしれませんし、
相手の抱えている様々な問題かもしれません。
「愛する」ということは、それらのものを乗り越えて、愛し続けなければならないのでしょう。
「それでも、あなたを私はあなたを愛します」、と。

【私たちは、神の愛を通して、愛を学ぶ】
しかし、正直、自分自身の力で、それを乗り越えることは不可能でしょう。
私たちの内にある愛は、偏りがあり、そして、多くの点で歪んでいるのですから。
特定の人しか愛せないのに…。
自分しか愛せないのに…。
いや、自分さえも愛せないのに…。
それなのに、目の前にいる人達に向かって、「それでも、私はあなたを愛する」と伝えることはとても難しいことです。
目の前にいる人を愛することを難しくしている、様々なものを乗り越えていくのは、困難なことです。
それに気付く時、「結局、心から人を愛せないのか」と落胆してしまうかもしれません。
しかし、私たちは、このような現実に絶望するべきではありません。
私たちが乗り越えられない、このような障壁を、神が乗り越えられたのですから。
神が、はじめに、私たちを愛してくださったのですから。
あなたがそこにいる。
「あなたという存在そのものが愛おしいんだ」と、
神は私たちに向かって語られているのです。
ですから、神が、私たちを愛してくださっているという事実にこそ、私たちは目を留め続けましょう。
愛せない、と苦しんでいる私たちに、神は愛を示してくださったのですから。
そして、イエス様がどのように愛を示してくださったかを知ることによって、私たちは、愛を学ぶのです。
それは、「愛することを諦めない」という姿勢です。
完璧に、心から人を愛することはできないかもしれません。
しかし、主イエスの示された愛を私たちは知っています。
イエス様を通して、「それでも、愛することを諦めない」という生き方を、私たちは学ぶのです。
愛せない人と出会う時こそ、思い出しましょう。
この人もまた、神に愛されている人なのだ、と。
そして、神に祈りましょう。
「神様、あなたが目の前にいるこの人を愛しているように、
私もこの人を愛することができるように、私に愛する心を与えてください」と。
この世は、愛せない人が周囲にいれば、簡単にそのような人々を排除しようとします。
そうやって、愛することをすぐに諦めようとします。
しかし、神はそのような愛し方はしません。
「それでも、あなたを愛する」と神は私たちに向かって語りかけてくるのです。
ですから私たちも、神に愛されたように、これから出会うすべての人々を愛そうではありませんか。

愛することを諦めない、そんな生き方をしていこうではありませんか。