しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2014年6月15日日曜日

説教#38:「聖霊が促す、新しい生き方」

聖霊が促す、新しい生き方
聖書 イザヤ書40:3-8、マルコによる福音書1:1-8
日時 2014年6月15日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【洗礼者ヨハネは現れた】
かつて神は、預言者イザヤを通して、人々に語り掛けました。
『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』(マルコ1:3)
ということは、主の道はまっすぐではなかった、ということなのでしょう。
主の道、それは神と私たちを繋ぐ道です。
つまり、私たちと神との交わりです。
当時、それがまっすぐではなかったため、神はイザヤを通して人々に語り掛ける必要があったのです。
神と人々との間には様々な障害があり、神は人々と豊かな交わりをもつことができなかったのです。
そして、そのような状態は、預言者イザヤの時代から多くの時が流れても、解決されないままでした。
荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』(マルコ1:3)
この預言の成就は、突然やって来ました。
それは、洗礼者ヨハネが現れたことから始まりました。
マルコによると、洗礼者ヨハネは、「荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝え」(マルコ1:4)ていたそうです。
この悔い改めのバプテスマは、ヨルダン川でなされました。
全身をヨルダン川の水に浸す形で、ヨハネはバプテスマを人々に授けました。
マルコによれば、ヨハネが現れて、人々に罪の悔い改めのバプテスマを授けたことが、
「主の道を整え、その道筋をまっすぐに」する出来事だったのです。

【悔い改めのバプテスマとは】
ところで、ヨハネの宣べ伝えた、悔い改めのバプテスマとは何だったのでしょうか。
ヨハネが人々に授けた悔い改めのバプテスマは、
「罪の赦しを得させるために」なされたものでした。
しかし、これは、少し誤解が生じやすい言い回しかもしれません。
「悔い改めることによって、罪の赦しを得る」と受け取ることができてしまうからです。
悔い改めることによって、神が私たちに罪の赦しを与えるわけではありません。
罪の赦しは、神が、私たちに恵みとして与えるものです。
私たちが悔い改めるよりも先に、神は私たちに赦しを与えてくださっています。
ですから、悔い改めのバプテスマは、神の恵みに基づく一方的な赦しを、
私たちが受け取っているというしるしなのです。

【生き方そのものを変えなさい】
罪の赦しを受け取り、罪の赦しを与えられている者として生きて欲しいと願い、
「悔い改めなさい」とヨハネは人々に向かって叫びました。
「悔い改め」という言葉は、「心を変えること」という意味のギリシア語の訳語です。
神の前に「悔い改める」ことは、神の前に「心を変えること」なのです。
しかし、心を変えるということは、心の変化だけを意味しません。
私たちは、それぞれ、自分の生き方の基礎になっている考え方をもっています。
これまでの経験、得てきた知識、自らの置かれている立場、
主義・主張、受けてきた教育など。
私たちは、生き方の基礎となるものをそれぞれがもっています。
悔い改めの意味することは、その生き方の基礎を根底から改めることです。
それは、心の問題ではありません。
心で神を信じて、実際の生活では神を信じていない者のように生活するわけにはいきません。
「生き方そのものを変えなさい」と、神は私たちに語り掛けているのです。

【神に喜ばれる歩みとは何か】
では、どのような生き方をするようにと、神は私たちに求めているのでしょうか。
神を信じる者は、どのように生きれば良いのでしょうか。
また、何を生きる指針として生きれば良いのでしょうか。
その答えを求めて、ある律法学者はイエス様に尋ねました。
「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」(マルコ12:28)と。
それに対するイエス様の答えは、このようなものでした。
「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい』。この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:29−31)
神を愛し、人を愛すること。
これが、神が私たちに求める生き方です。
言葉にしてみると、とてもシンプルな命令に思えます。
しかし、これほど難しい命令はないでしょう。
ただ、神を愛するのではありません。
イエス様は言われました。
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神を愛しなさい、と。
全身全霊をもって、神を愛するのです。
それは、時や場所を選んで、愛したり、愛さなかったりするのではありません。
どのようなときも、神を愛するようにと、招かれているのです。
そして、隣人を愛するようにと神は語ります。
隣人。それは、自分が好んで会う人々だけではありません。
自分に悪意をもって接してくる相手も含まれます。
私たちがどうしても好きになれない相手もです。
過去にトラブルがあった相手もです。
感情的には愛することが無理な相手がいたとしても、
愛する感情が育つようにと祈りながら、私たちは愛をもって働きかけることが求められているのです。
そのようにして、すべての人を愛するようにと、神は私たちに求めているのです。

【私たちは、自分を神とする生き方を好む】
しかし、この神の求めに、私たちはどれだけ応えることが出来ているでしょうか。
私たちは正直、自分自身を自らの主人とする生き方を、好き勝手生きることを好みます。
誰かの思いに従って生きるよりは、自分の好きなように生きる方を好みます。
そして、神の思いに従うことを拒否する歩みを好みます。
行いにおいても、言葉においても、思いにおいても。
また、他人を変えること、組織のあり方を変えることは簡単にしますし、提案もしますが、
自分自身が変わるということは、考えようともしません。
自分の都合の良いように人の言葉を理解し、神を理解します。
自分の都合の良いように人を利用し、神を利用します。
長年培ってきた経験や知識の方が信頼すべきものなので、
神を信頼することがないのです。
そのような私たちに向かって、神は語り掛けておられるのです。
「悔い改めなさい」、「あなたの生き方そのものを変えなさい」、と。
このような神の言葉を聞く時、気付かされるのではないでしょうか。
神の思いに従うことを渋り、拒絶する、私たち自身の姿に。
自分と神の交わりが、決してまっすぐではなく、歪みが多いことに。
このような生き方。そう、神の思いに従わない生き方を、聖書は罪と呼ぶのです。

【悔い改め続ける必要がある】
神の思いに従わず、罪を犯し続ける私たちを見つめてもなお、
神は私たちに向かって、語り掛けておられます。
あなたは私を愛さないかもしれない。
しかし、それでも、私はあなたの罪を赦そう。
それでも、私はあなたを愛そう、と。
このような神の愛を受けるときにこそ、私たちは自分の姿に気付くのではないでしょうか。
神に赦され、神に愛されているにも関わらず、
いくら悔い改めても、いくら悔い改めても、神に背き続ける自分の姿に。
神の民として、どう生きるべきかを私たちに指し示す神の言葉を、
私たちは、あまりにも簡単に右から左へと聞き流します。
都合の良いことしか受け取らず、しまいには忘れ去ります。
「愛するように」求められているにも関わらず、
寧ろ、憎しみ合い、争い合います。
神の赦しを受け入れて、悔い改めたにも関わらず、
悔い改めが、瞬間的なもの、その場限りのものになってしまっているのです。
私たちは忘れてはいけません。
自分自身が、神の前に罪人である、という事実を。
神は、ただ恵みによって、罪を抱えながら生きている私たちに、
罪の赦しを与えてくださったことを。
ただただ神の憐れみにより、私たちは神の子どもとされ、神に受け入れられているということを。
悔い改めとは、ただ一度だけなされるものではないのです。
日々、繰り返されるべきものです。
絶えず、神の方に目を向けるように、私たちは悔い改め続けなければならないのです。

【だから、主イエスは来られた】
しかし、そんなのは無理だと思うでしょう。
事実、私たちの力でそれをすることは、到底不可能です。
だからこそ、私たちが真の悔い改めに導かれ、
主の弟子として生きることができるように、イエス様は来られたのです。
ヨハネは、イエス様について、このように紹介しています。
わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。(マルコ1:8)
イエス様は聖霊によって、洗礼を授ける方だと、ヨハネは語ったのです。
イエス様によって、洗礼を受けたすべての人に、聖霊は与えられている、と。
この聖霊は、私たちの歩みを導く方です。
そして、私たちの心に神の言葉を書き記す方です。
神は聖霊を通して、私たちを新しい生き方へと導こうとしているのです。
そう、聖霊は、私たちを日々、悔い改めへと導く方なのです。
「神の方へあなたの目を向けよ」と、聖霊は私たちを促されます。
「キリストの弟子として生きなさい」と、聖霊は私たちを励まし続けているのです。

【聖霊に導かれて生きる】
この聖霊に導かれて歩む時、私たちの内に豊かな実が結ばれると、神は約束されました。
使徒パウロは、ガラテヤの信徒への手紙で、聖霊の結び実について、このように書いています。
霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。(ガラテヤ5:22−26)
私たちは毎日のように、自分自身の罪深い性質と、神の思いとの間に挟まれて、葛藤しながら生きています。
しかし、神は私たちを突き放し、この葛藤の孤独の中で私たちが悩み続けて生きることを望まれませんでした。
神は、私たちに聖霊を与えられました。
この聖霊は、私たちの内に宿り、私たちの歩みを導く方です。
聖霊は私たちの内に宿り、私たちがどのように歩むべきかを促す方です。
聖霊は日々、私たちに語り掛けてきます。
思い出せ。
自分が何者なのかを思い出せ。
神があなたに語られた言葉を思い出せ。
どのように生きることを神から求められているかを思い出せ、と。
このようにして、聖霊は私たちの日々の歩みを導かれるのです。
ですから、聖霊が導く方向へと歩んでいくことができるように、
私たちは御言葉を聞き、神に祈り求め続けていきましょう。
どうか、聖霊が歩むようにと促す道を、素直に受け取って、日々歩むことが出来ますように。
霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。(ガラテヤ5:22)
聖霊が与えられている私たちに、これらを禁じる掟はありません。