しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2014年6月29日日曜日

説教#40:「聖霊によって導かれる旅」

聖霊によって導かれる旅
聖書 出エジプト記13:17-22、マルコによる福音書1:12-13
日時 2014年6月29日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会


【荒れ野へと導かれた主イエス】
それは、イエス様がヨハネから洗礼を受けたすぐ後のことでした。
霊、つまり聖霊はイエス様を荒れ野へと送り出した、とマルコは記しています。
聖霊がイエス様を送り出した「荒れ野」という場所。
そこは、見渡す限り、死が広がっている場所です。
草も木もなく、砂だらけの地面。
昼は太陽が身体を焼き、夜は凍えるほど寒くなります。
また、古代の人々によれば、荒れ野は、悪魔や悪霊の住処でした。
つまり、そこは、神に敵対する諸力の住む場所と考えられていたのです。
このような危険な場所へと、聖霊はイエス様を送り出したのです。
そして13節にあるように、イエス様はこの場所で、
40日間、サタンから誘惑を受けられたのです。
ここで「誘惑を受けた」と訳されている言葉は、「試みを受けた」と訳す方が自然な言葉です。
ですから、見渡す限りに死が広がっている荒れ野へと、
イエス様は導かれただけでなく、彼はそこで試練を与えられたのです。

【神は試練を通して、教育される】
では、一体なぜイエス様は荒れ野へと導かれ、試練を与えられたのでしょうか。
なぜ神は聖霊によって、イエス様を荒れ野へと導いたのでしょうか。
それも、洗礼を受けた直後に。
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(11節)と、
イエス様が、神から言われた直後に。
なぜ神は、「あなたはわたしの愛する子」と言いながら、
多くの苦しみや試練が伴うであろう場所へと、イエス様を導かれたのでしょうか。
疑問が絶えません。
このような疑問、つまり「なぜ神は愛する子に試練を与えるのか」という問いに対して、
ヘブライ人への手紙の著者はこのように答えています。
「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。 主から懲らしめられても、   力を落としてはいけない。 なぜなら、主は愛する者を鍛え、 子として受け入れる者を皆、   鞭打たれるからである。」(ヘブライ12:5-6)
主は愛するものを鍛えられる。
ヘブライ人への手紙によれば、試練とは、神の教育なのです。
相応しい姿へと整えようと、神は私たちに試練を与える、というのです。
つまり、イエス様にとって、荒れ野へと導かれるのは、
十字架の苦難への道を歩む備えをするためだったのです。
十字架の苦難へと向かう備えとして、イエス様が荒れ野へと導かれたということは、
荒れ野で受ける苦しみ以上の苦しみ、
荒れ野で受ける試練よりも過酷な試練を、
イエス様は十字架へと向かうその道中に受ける、ということを意味しています。
イエス様が十字架に架かった理由は、私たちの罪を赦すためです。
神が望む生き方を拒み、自分の望むように生きる、この私のために。
人を愛するよりも、人を妬み、憎しみを覚える、この私のために。
人の過ちを赦すのではなく、批判し続ける、この私のために。
自らの正しさを振りかざして、人を傷つける、この私のために。
私たちが抱える様々な罪を赦すために、イエス様は、十字架の苦難へと向かう道を歩まれたのです。
そして、その備えとして、荒れ野におけるサタンからの試みを受けられたのです。
悪魔や悪霊は、私たち人間に強く影響を与えると、当時の人々は考えていました。
悪魔や悪霊は、私たちを惑わす者であり、
私たちの肉体や精神を弱らせる原因、また、病の原因となると考えられていたのです。
そして、悪魔や悪霊を追い払うことは、人間の力では困難なことでした。
しかし、そのような力をもつ悪魔や悪霊以上に力があるものが、人間の罪だったのです。
人間の内にある罪が、人間に悪い影響を与え続けていたのです。
悪魔や悪霊によって、イエス様は生命を落としませんでした。
死が広がる、荒れ野に40日間いても、イエス様は生命を落とすことはありませんでした。
いや寧ろ、圧倒的な力で、イエス様はそれらを退けます。
悪霊を退け、人々の病も、怪我も癒されるイエス様の姿が描かれています。
そのようなイエス様が、生命をかけて立ち向かわなければならないものが、人間の罪という問題だったのです。
私たちが認識している以上に、私たちの罪の問題が、どれほど深刻なのかがわかります。

【聖霊が、荒れ野へと導いた】
ところで、イエス様は自ら望んで荒れ野へと向かったのでしょうか。
12節を見てみると、聖霊が送り出した、と記されています。
ここで、「送り出した」と訳されている言葉は、ギリシア語を見てみると、
「放り投げる」という意味の単語を用いています。
聖霊がイエス様を荒れ野へと放り投げた、というのです。
荒れ野でイエス様に試練を与えるのは、聖霊が望んだことだったことがわかります。
イエス様が望むと望まざるとに関わらず、聖霊が荒れ野へと導いたのです。
イエス様を、荒れ野へと「放り投げた」のです。
そして、イエス様が聖霊によって、荒れ野へと導かれていったように、
私たちも荒れ野へと導かれています。
それは、文字通りの荒れ野ではありません。
そこは、まったく望みを見出すことの出来ない場所。
私たちに試みを与える場所。
苦しみを与える場所です。
神は私たちに対しても、「あなたは私の愛する子」と言われるにも関わらず、
そのような場所へと私たちを導かれるのです。
ある意味で、クリスチャンとして生きるから、私たちは苦難の道を歩まなければならないともいえるのでしょう。
それは、この世が押し付ける価値観を拒否する道です。
また、イエス・キリストは主であると告白して生きる道です。
「イエス様は、私の主である」と告白する時、私たちは他の何者をも自分の主人としない、と告白しているのです。
このような者として、キリスト者として生きる時、
私たちは、自らが荒れ野の中に立っていることに気付かされます。
目を上げて、この世界を見渡す時、一体何が見えるでしょうか。
喜ぶべきものが目に写る一方で、
決して喜べない、悲しむべきことが目に写ることでしょう。
妬み、憎しみ、争い、弱者の叫びなど、様々です。
神がこの世界の現状を見たとき、
神は、まさに荒れ野が広がっていると見ることでしょう。
人々の罪が蔓延り、その結果として荒らされているこの世界に悲しみを覚えていることでしょう。
私たちは、私達自身の内にある罪の問題に気づいています。
だからこそ、キリスト者として生きる時、私たちの前に荒れ野が広がって見えるのです。
キリスト者として生きるからこそ、私たちは荒れ野の中に立つのです。

【苦しみや試練が伴うのは、私たちが神の愛する子だから】
正直、荒れ野ではなく、もっと過ごしやすい場所に行きたいと誰もが思うことでしょう。
そして、試練を受けることなく、苦しむことなく、生活したいと誰もが思うでしょう。
それにも関わらず、聖霊は私たちを荒れ野へと導かれ、試練を与えられるのです。
それは、神が私たちを愛していないからではありません。
神が私たちを愛しているからこそ、私たちは聖霊によって荒れ野へと導かれたのです。
そして、神に愛されているから、私たちは神から試みを受けるのです。
神は、荒れ野での試みを通して、私たちを神の民として教育しようと考えておられるのです。
旧約聖書の時代、エジプトから解放されたイスラエルの人々に対してされたようにです。
彼らは、エジプトから脱出して、すぐに神の民になれたわけではありませんでした。
すぐに、神が約束された、乳と蜜の流れる地に辿り着いたわけではありません。
荒れ野での旅と、その中で受ける様々な試練を通して、
少しずつ、少しずつ、神の民へと変えられる必要があったのです。
長い間エジプトで暮らして、自分たちに染み付いた「奴隷」としての生き方を、
荒れ野での旅を通して、拭い去っていく必要があったのです。
それは、私たちも同じです。
長い長い荒れ野での旅と試練を通して、自らの内に染み付いている「罪人」としての生き方が、拭い去られていく必要があるのです。
神は私たちを愛しているからこそ、その必要のために、私たちに試練を与えられるのです。
先ほどお読みしたヘブライ人への手紙12章の言葉をもう一度お読みします。
「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。 主から懲らしめられても、   力を落としてはいけない。 なぜなら、主は愛する者を鍛え、 子として受け入れる者を皆、   鞭打たれるからである。」(ヘブライ12:5-6)
この言葉の後、著者はこのように述べています。

およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。(ヘブライ12:11-13)

神が私たちに与えられる試練というものが、どのようなものなのかが、わかります。
与えられる試練、鍛錬を通して、神は私たちに実を結ばせようとしているのです。
義という平和に満ちた実を。
そして、試練は、私たちが癒やされるために与えられているのです。
苦しみを通して、自らの罪と向き合い、悔い改めて、神の方へ向くようにと招かれているのです。
もちろん、すべての苦しみが試練であるわけではありません。
時に、与えられている苦しみや試練の意味がわからないときだって、あります。
その時、私たちが決して忘れてはいけないことがあります。
神は私を愛している。神は私たちを愛している。
この事実は、決して変わらないのです。
そして、神は、私たちを愛しているからこそ、
私たちが苦しみや試練にあうとき、共に苦しみを覚える御方です。
神は、私たちが苦しむ姿を、遠くで見ている方ではなく、
イエス様を私たちのもとに遣わすことによって、私たちの苦しみや嘆きを共に経験されました。
イエス様は、「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ4:15)
ですから、神は、わたしたちの弱さに同情できない方ではないのです。
神は、私たちの苦しみを知り、私たちと共に苦しんでおられるのです。
それは、私たちを愛してくださっているからです。
私たちを子として受け入れてくださっているからです。

【聖霊によって導かれる旅】
さて、荒れ野の中に立ち、歩んでいる以上、何処へ向かうべきかわからなくなることが、時にはあるでしょう。
私たちがこれだと確信した道が正しい道とは限りません。
だから、神は、聖霊を通して私たちを導かれるのです。
しかし、これが聖霊の導きだ、と思い込む弱さを私たちがもっているということを、忘れてはいけません。
その上で、私たちは問い続けるべきなのでしょう。
一体、何が神の喜ばれる道なのか、と。
神の望まれること、それは御言葉を通して、私たちに示されます。
聖霊は、この御言葉を、私たちの心に刻み込まれる方です。
簡単に忘れ去られてしまう言葉を、神の言葉として、私たちの内に書き記す方です。
聖霊の働きによって、神の言葉が、私たちの確固たる指針となるのです。
そして、聖霊を通して神が導いてくださると信じるから、私たちは祈るのです。
神よ、御心のままに、私たちを導いてください、と。
そう祈って、すべてを神に明け渡すのです。
神は私たちの生涯を、そのはじめから終わりまで導かれるのです。
かつて、イスラエルを導かれたように、神はたとえ荒れ野の中であっても私たちと共に居続けてくださるのです。
そして、私たちの先頭に立ち、私たちを導いてくださるのです。
ですから、私たちは神に信頼して、この場所から出て行きましょう。
神は私たちを見捨てません。
私たちを、聖霊を通して、日々導いてくださいます。

イスラエルが荒れ野を旅したとき、「昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった」(出エジプト記13:22)、あの時のように。