しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2014年9月10日水曜日

説教#45:「主イエスが手を触れたところ」

主イエスが手を触れたところ
聖書 マルコによる福音書1:40ー45、列王記下5:1-14
日時 2014年8月3日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会


【「重い皮膚病」を患った男性】
イエス様は、病を患っている人々を癒やし、悪霊に取りつかれた人々から、悪霊を追い出しました。
その光景を見た人々が、イエス様のことを周囲の人々に伝えたため、
瞬く間にイエス様の噂は広がっていったそうです。
ですから、イエス様のもとには、病を患った人や、悪霊に取りつかれた人たちが、毎日のように大勢やって来ました。
人間の力ではどうしようも出来ないと諦められ、周囲の人々から見捨てられてきた人たちが、イエス様に希望を抱いて、集まってきたのです。
今日、私たちに与えられたテキストに登場する、「重い皮膚病」を患っていたこの男性も、
イエス様の噂を聞いて、やってきたうちの一人でした。
彼の病気の名前は、ヘブライ語で「ツァラアト」といいます。
ツァラアトは、特定の病気を指す言葉ではありません。
皮膚疾患の総称として、つまり、様々な皮膚病を指して使われる言葉です。
この病については、旧約聖書のレビ記13-14章で詳しく取り上げられています。
レビ記によると、ツァラアトになった者は、祭司からこう宣言されました。
「あなたは汚れている」(レビ記13:3, 8など)と。
そして、汚れていると宣言された人々に対する命令が、レビ記に記されています。
それは、このようなものでした。
重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。 (レビ記13:45ー46)
このように、ツァラアトを患った人たちは、「あなたは汚れている」と宣言されただけでなく、
彼らは家に入ることも、いかなる人々と交わることも禁止されていました。
その上、ツァラアトの治療は、死者のよみがえりと同じくらい困難なものと考えられていました。
つまり、治療はほとんど不可能である、と考えられていたのです。
ツァラアトになった人々は、好き好んで、このような病気になったわけではありません。
また、好き好んで、汚れた者になったわけでもありません。
それにもかかわらず、彼らは孤独と絶望を一生味わわなければならなかったのです。
周囲の人々から見捨てられ、彼らは死んだ者同然の扱いを受けていたのです。

【イエスに近づいた男性】
この「重い皮膚病」を患っていた彼も、ツァラアトを患い、長い間苦しみ続けていました。
そんな彼が、噂を聞きつけ、イエス様に近づいて来たのです。
そのときの様子を、マルコはこのように記しています。
さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。(マルコ1:40)
「ツァラアト」を患っているこの男性が、イエス様のところに来て、ひざまずいて願ったことから、この物語は始まります。
彼がとった行動はとても自然な行動に感じます。
しかし、彼がツァラアトを患っていたという事実を考えると、
彼の行動は、してはいけない行動だったことがわかります。
そう、レビ記には、このように記されていました。
重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。(レビ記13:45)
ツァラアトを患っている人々は、
「私に触れないように注意してください。
あなたまで汚れないように、どうか気をつけてください」
と、人々に警告をしなければならなかったのです。
「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と叫びながら。
本来ならば、人前では、このように警告しなければならなかったのに、
彼は、何も言わずにイエス様に近づいて行ったのです。
イエス様に出会い、癒してもらうために、彼は黙って近づいたのでしょう。
もしもイエス様に出会う前に、自分がツァラアトを患っていると他の人々にばれてしまったら、町を追い出されてしまったことでしょうから。
誰にもばれないように自分の肌を隠しながら、
そして、目立たぬように、彼はイエス様に近づいて行ったのです。

【主よ、御心ならば】
何とかイエス様の近くまで来た彼は、ひざまずいて、イエス様に願いました。
「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(マルコ1:40)
彼は、それまで隠していた肌をイエス様に見せながら言ったことでしょう。
彼の求めは切実です。
この病によって、孤独と絶望を味わい続けているのですから。
この病が癒され、汚れから清められる。
それは、彼が必死に求め続けたことでした。
しかし、彼は、「お願いですから、わたしを清めてください」とは言いませんでした。
彼はこのように言いました。
「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(マルコ1:40)
そう、「御心ならば」です。
直訳すると、「もし、あなたが願うならば」です。
「あなたはその気になれば私を清める能力をお持ちなのですが、
果たしてその気になってくださいますか」
という意味を込めて、彼は、イエス様に病の癒しを願ったのです。
彼は、確信していました。
イエス様が願えば、この病は癒されると。
人間の力では、癒すことのできない病だが、
イエス様が、この病を癒そうと願えば、この病は癒される。
そう、神の御心ならばこの病は癒され、自分は清められる、と。

【神の御心を求める祈り】
彼の語ったこの言葉を通して、私たちは、神にどのように祈るべきかを教えられます。
そう、「主よ、御心ならば」という祈りです。
私たちは、祈ります。
神様、こうしてください。このようにしてください、といったように。
しかし、その祈りの中で、私たちは、どれほど神の御心を祈り求めているのでしょうか。
私たちの願いのみを神に伝えるだけでなく、
神の思いは何なのかと、私たちは祈り求めべきなのです。
ツァラアトを患っていたこの男性のように。
主よ、御心ならば、と。
主よ、あなたが願うならば、そのようになる、という確信をもって。
これは、祈る時に、私たちが持ち続けるべき姿勢です。
「神の御心ならば、そのようになる」という確信をもって祈るようにと、私たちは招かれているのです。
それと同時に、「御心ならば」と祈る時、私たちは自らの思いを神の前に差し出しています。
それは、神の思いが、自分の祈りとは違うものであるという答えが与えられた時、
その現実を真摯に受け止めるという、祈りでもあります。
私たちの思いではなく、神の御心がなることこそ、私たちの幸いである、という確信の下に、私たちは祈るのです。
「主よ、御心ならば」と。

【主イエスは、憐れんで、手を差し伸べる】
ツァラアトを患っているこの男性は、イエス様に願いました。
御心ならば、と。
その答えとして、イエス様は、彼に手を差し伸べました。
マルコはその時の様子を、このように書いています。
イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。(マルコ1:41ー42)
イエス様は、彼を見て、深く憐れんだのです。
彼の皮膚を見て、彼の抱える病と、それに伴う苦しみを知り、
イエス様の心は突き動かされたのです。
彼を憐み、イエス様は彼に手を伸ばし、
ツァラアトで傷付いた、彼のその皮膚にイエス様は触れました。
このイエス様の行動は、当時では非常識なものでした。
ツァラアトを患って汚れた人に触れれば、触れた人も汚れます。
ですから、人々は、ツァラアトを患った人から遠ざかり、自分も汚れないようにしていたのです。
旧約聖書の時代、預言者エリシャでさえも、ツァラアトを患ったナアマンの身体に触れることはしませんでした。
しかし、イエス様は、彼に手を差し伸べて、彼に触れたのです。
イエス様は、自分が汚れることを厭わなかったのです。
彼を愛し、彼を憐れんだから、イエス様は、彼の抱える汚れを引き受けたのです。
「清くなれ」と、言葉をかけるだけでも、きっと彼は癒されたと思います。
イエス様の言葉には、それだけの力があるのですから。
しかし、イエス様は、彼に手を差し伸べて、彼に触れたのです。
ツァラアトを患ってから、誰にも触れてもらえなかった、この肌を。
自分で触れるたびに、何度も何度も絶望して来た、この肌を。
イエス様は、彼を心から愛し、彼を憐れんで、彼に手を差し伸べられたのです。
彼は、ただ癒されたわけではなかったのです。
彼は癒されたそのとき、主イエスの愛に触れたのです。

【主イエスが愛をもって触れてくださる】
イエス様は、私たちに対しても、手を差し伸べてくださる方です。
ツァラアトのように、自分の力ではどうしようもできない問題を抱える私たちに、イエス様は手を差し伸べてくださるのです。
私たちが弱さを覚えるところ、
苦しみを覚えるところ、
問題を感じるところに、
イエス様は手を差し伸べて、触れてくださるのです。
「主よ、御心ならば」と祈り、解決を求める物事に、イエス様は手を差し伸べてくださいます。
それは、私たちの願う方法ではなされないかもしれません。
神の御心は、私たちが取り去って欲しいと願う事柄を、私たちの元にそのまま残すことかもしれません。
私たちが抱える問題の代わりに、別の厄介なものを与えることかもしれません。
しかし、神の御心ならば、それは最善の形で与えられた答えなのでしょう。
このような祈りは、代々の信仰者たちが繰り返し続けて来たことです。
あの、使徒パウロも、「私に与えられている、このとげを取り去ってください」と祈りました。
しかし、彼に与えられた答えは、そのとげはそのまま残される、という現実でした。
パウロは落胆したことでしょう。
主よ、なぜですかと祈り続けたことでしょう。
彼が、自分に与えられたとげと向き合い、祈り続けた末に、神は彼に語りかけます。
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12:9)
弱さを覚えるところ、
苦しみを覚えるところ、
問題を感じるところに、
神の恵みは十分に発揮されるのです。
それがパウロの確信でした。
イエス様は私たちを愛するゆえに、
私たちを憐れんで、私たちが苦しむ物事の中に、恵みを与えてくださいます。
私たちが弱さを覚えて苦しんでいることにこそ、イエス様は手を伸ばし、触れてくださるのです。
この場所にこそ、神の御心がなるように。
弱さを抱えるこの場所にこそ、神の力が豊かに働くように。
主イエスは手を伸ばし、私たちがもっとも傷付いているところに触れてくださるのです。
主の御心が行われるところに、神の恵みは豊かに溢れます。
弱さの中でこそ、神の恵みは豊かに表されます。
ですから、私たちは祈り求めましょう。
私たちの傷付いたところに、弱さを覚えるところに、主イエスが触れてくださるように。

そして、イエス様が触れたところに、神の御心がなされるようにと。