説教#59:「神は諦めずに語り続ける」
『 神は諦めずに語り続ける 』 聖書 マルコによる福音書4:13-20、申命記30:11-14 日時 2014年11月2日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・浦和教会 【あなたは一体どんな土地なのか?】 イエス様は、自分で語った「種蒔きのたとえ」を、ひとつの解釈を加えて説明をしました。 この説明を聞いた人々は、こう思ったことでしょう。 「このたとえにおいて、一体、私はどの土地なのだろうか」と。 与えられた神の言葉を、道端に落ちた種のように扱っていないだろうか。 神の言葉を自分ものとしてしっかりと掴まず、 受け取ったものを放っといて、気付いた時にはなくしてしまっていないだろうか。 それとも、神の言葉を聞いたその時は喜んで受け入れるけども、 家に帰ったら、聞いたことなど忘れてしまうから、自分は「石だらけの土地」なのだろうか。 目の前にある魅力的なことばかりに目が向いてしまってばかりだから、「茨だらけの土地」だろうか。 それとも、神の言葉をしっかり聞く、良い実を結ぶ土地だろうか。 イエス様の語る「種蒔きのたとえ」で、自分は一体どの位置に立っているのだろうか、と人々は自らに問い掛けたことでしょう。 【私たちは、様々な土地の状態を持つ】 しかし、イエス様はこの譬えの解説を通して、 「あなたは実を結ぶ良い土地」、「あなたは実を結ばない悪い土地」 といった具合に、人間の分類分けをしているわけではありません。 どれかひとつに、自分の立ち位置を確定できるほど、人間は単純な存在ではありません。 常にどれかひとつの状態であることなど、あるはずもありません。 私たちは、様々な状態に揺れ動く存在です。 この譬えの中で語られている「道端」のような状態のときも、 「石だらけの土地」のような状態のときも、 茨に囲まれているような状態のときも、 そして、神の言葉が「良い実を結ぶ土地」の状態のときも、十分にあり得ます。 また、様々な状態の土地が、私たちの心や、生活のすべての領域に広がっているともいえるでしょう。 種、つまり神の言葉が、根付きやすい場所もあれば、 神の言葉を拒絶したくなる場所もあります。 一時的になら、神の言葉を聞いて、受け入れることのできる場所