しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2014年11月30日日曜日

説教#59:「神は諦めずに語り続ける」

神は諦めずに語り続ける
聖書 マルコによる福音書4:13-20、申命記30:11-14
日時 2014年11月2日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【あなたは一体どんな土地なのか?】
イエス様は、自分で語った「種蒔きのたとえ」を、ひとつの解釈を加えて説明をしました。
この説明を聞いた人々は、こう思ったことでしょう。
「このたとえにおいて、一体、私はどの土地なのだろうか」と。
与えられた神の言葉を、道端に落ちた種のように扱っていないだろうか。
神の言葉を自分ものとしてしっかりと掴まず、
受け取ったものを放っといて、気付いた時にはなくしてしまっていないだろうか。
それとも、神の言葉を聞いたその時は喜んで受け入れるけども、
家に帰ったら、聞いたことなど忘れてしまうから、自分は「石だらけの土地」なのだろうか。
目の前にある魅力的なことばかりに目が向いてしまってばかりだから、「茨だらけの土地」だろうか。
それとも、神の言葉をしっかり聞く、良い実を結ぶ土地だろうか。
イエス様の語る「種蒔きのたとえ」で、自分は一体どの位置に立っているのだろうか、と人々は自らに問い掛けたことでしょう。

【私たちは、様々な土地の状態を持つ】
しかし、イエス様はこの譬えの解説を通して、
「あなたは実を結ぶ良い土地」、「あなたは実を結ばない悪い土地」
といった具合に、人間の分類分けをしているわけではありません。
どれかひとつに、自分の立ち位置を確定できるほど、人間は単純な存在ではありません。
常にどれかひとつの状態であることなど、あるはずもありません。
私たちは、様々な状態に揺れ動く存在です。
この譬えの中で語られている「道端」のような状態のときも、
「石だらけの土地」のような状態のときも、
茨に囲まれているような状態のときも、
そして、神の言葉が「良い実を結ぶ土地」の状態のときも、十分にあり得ます。
また、様々な状態の土地が、私たちの心や、生活のすべての領域に広がっているともいえるでしょう。
種、つまり神の言葉が、根付きやすい場所もあれば、
神の言葉を拒絶したくなる場所もあります。
一時的になら、神の言葉を聞いて、受け入れることのできる場所もあります。
そういう意味で、イエス様が語った「種蒔きのたとえ」の中で、
どれかひとつが自分を指す土地だと考えるよりは、
ここに広がっている土地すべてが、私たち自身の現実なのだと受け止める必要があるでしょう。
私たちは、様々な土地の状態をもっているのです。
神との関係において、生活のすべての領域において、
神の言葉を聞いて豊かな実を結べる場所もあれば、
神の言葉を排除して、荒れ果てたままの場所もあるのです。

2014年11月29日土曜日

説教#58:「神のわざによって実を結ぶ」

神のわざによって実を結ぶ
聖書 マルコによる福音書4:1-12、イザヤ書6:9-13
日時 2014年10月26日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【主イエスが好んで語った「譬え」】
イエス様は、ご自分のもとに集まって来た人々に、様々な教えを語りました。
中でも、イエス様は、「たとえ」を用いて人々に語ることを好んだようです。
今日私たちに与えられたテキストを見てみると、
この日も、イエス様のもとに多くの人々が集まって来たことがわかります。
場所はガリラヤ湖のほとり。
イエス様は舟に乗って、腰掛け、いつものように人々に教えを語りました。
この日、イエス様が人々に語ったのは、有名な「種蒔きのたとえ」でした。
種蒔き。
それは、この当時の人々にとっては、とても親しみのある、日常的な事柄でした。
そう、イエス様は、人々が教えを聞いて、その意味を理解しやすいように、
彼らが日々の生活の中で使う言葉を用いて、たとえを語ったのです。

【譬えによって秘密にされている?】
しかし、人々に親しみやすい話をしているにも関わらず、
イエス様は、このたとえを話した後、12人の弟子たちに向かってこのように言いました。
あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。(マルコ4:11)
イエス様のこの言葉を通して、
このたとえは、神の国について語っているものだということがわかります。
それと同時に、イエス様は、たとえを用いて語ることによって、
人々に「神の国の秘密」を秘密のままにしているかのように感じます。
人々に親しみのある日常的な言葉を用いて語っているにも関わらず、
なぜ、弟子たち以外の人々には、その意味を伝えることをしなかったのでしょうか。
それは、イエス様は、たとえを解説しないことにこそ意味を見出していたからです。
聴き手に、そこで語られていることの意味を考えさせ、
自分に関係のあることなのだと考えさせることが、イエス様がたとえを用いて語ったことの狙いでした。
そして、たとえの意味を明確にしないことによって、
語られたたとえが何を意味し、何を伝えようとしているかを、
聞いている人々が創造的に考えるようにと招いているのです。

2014年11月28日金曜日

説教#57:「主イエスによって結ばれた共同体」

主イエスによって結ばれた共同体
聖書 マルコによる福音書3:31-35、創世記2:18-25
日時 2014年10月19日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【最も強い絆とは何なのか?】
私たちは、様々な絆によって他の人々と結びついています。
血のつながり、同じ時間や経験の共有、
夫婦や恋人という男女間の愛、
利害関係、地域社会、趣味、出身地、
世代の近さ、学校、職場、インターネットなど、
私たちは様々なものによって、人との結びつきを得ています。
では、そのような結びつきの中で、最も強い絆とは一体何なのでしょうか。
今日開いた聖書の物語を通して、神は私たちに問いかけます。
「あなたにとって、最も強い絆とは一体何なのか」と。

【「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」】
イエス様の母マリアと、彼の兄弟たちはイエス様についての悪い噂を聞きつけて、
彼を取り押さえにやって来ました(3:21参照)。
イエス様がいる家に着いてみると、
家の中は、彼の話を聞く人々でいっぱいだったため、
彼らは家の外に立ち、使いの者を通して、イエス様を呼びました。
「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」(マルコ3:32)
使いの者が、イエス様にこのように報告した時、
その場にいた人々は、イエス様は当然、直ぐに話を打ち切って、
身内の人々に会いに行くと思ったことでしょう。
しかし、この知らせを聞いたイエス様は、このように言われたのです。
「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」(マルコ3:33)
なぜイエス様は、このようなわかりきったことを聞くのか、と思うでしょう。
生まれてからずっと一緒に過ごしてきた家族について、
「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と、尋ねるのはおかしなことです。
その場にいた人々も不思議に思ったことでしょう。