説教#58:「神のわざによって実を結ぶ」

神のわざによって実を結ぶ
聖書 マルコによる福音書4:1-12、イザヤ書6:9-13
日時 2014年10月26日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【主イエスが好んで語った「譬え」】
イエス様は、ご自分のもとに集まって来た人々に、様々な教えを語りました。
中でも、イエス様は、「たとえ」を用いて人々に語ることを好んだようです。
今日私たちに与えられたテキストを見てみると、
この日も、イエス様のもとに多くの人々が集まって来たことがわかります。
場所はガリラヤ湖のほとり。
イエス様は舟に乗って、腰掛け、いつものように人々に教えを語りました。
この日、イエス様が人々に語ったのは、有名な「種蒔きのたとえ」でした。
種蒔き。
それは、この当時の人々にとっては、とても親しみのある、日常的な事柄でした。
そう、イエス様は、人々が教えを聞いて、その意味を理解しやすいように、
彼らが日々の生活の中で使う言葉を用いて、たとえを語ったのです。

【譬えによって秘密にされている?】
しかし、人々に親しみやすい話をしているにも関わらず、
イエス様は、このたとえを話した後、12人の弟子たちに向かってこのように言いました。
あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。(マルコ4:11)
イエス様のこの言葉を通して、
このたとえは、神の国について語っているものだということがわかります。
それと同時に、イエス様は、たとえを用いて語ることによって、
人々に「神の国の秘密」を秘密のままにしているかのように感じます。
人々に親しみのある日常的な言葉を用いて語っているにも関わらず、
なぜ、弟子たち以外の人々には、その意味を伝えることをしなかったのでしょうか。
それは、イエス様は、たとえを解説しないことにこそ意味を見出していたからです。
聴き手に、そこで語られていることの意味を考えさせ、
自分に関係のあることなのだと考えさせることが、イエス様がたとえを用いて語ったことの狙いでした。
そして、たとえの意味を明確にしないことによって、
語られたたとえが何を意味し、何を伝えようとしているかを、
聞いている人々が創造的に考えるようにと招いているのです。

【弟子たちの無理解】
その意味で、弟子たち以外の人々には、たとえの意味が語られなかったのかと問うよりも、
なぜ弟子たちには、たとえの意味を伝えたのかについて、問う必要があるでしょう。
弟子たちにたとえが解説された理由。
それは、弟子たちが特別な人々だったからでしょうか。
それとも、弟子とその他の人々を区別するために語ったのか。
どちらの理由でもないでしょう。
私たちは、マルコによる福音書を通して読む時、
イエス様の語った言葉や行い、そしてイエス様が誰なのかについて、
全く正しい理解ができていない弟子たちの姿を目にします。
そう、イエス様にたとえの意味を説明されているにも関わらず、
イエス様と四六時中一緒にいたにも関わらず、
イエス様の言葉を全く理解していない弟子たちの姿が浮き彫りになるのです。
マルコは、そのような弟子たちの姿を、福音書を通して、一貫して描いています。
そういう意味で、「見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解でき」ていない(マルコ4:12)のです。
それはどちらの側にも言えることです。
弟子たちも。それ以外の人々も。
どちらも、イエス様が語る言葉を理解していないのです。
たとえの意味が語られたことも考えれば、
弟子たちこそ、イエス様を理解することができていなかった、ということが強調されているといえるでしょう。
彼らは、物事の上辺しか見ることができず、
イエス様を通して、神の国が到来したこと、
そして、少しずつ少しずつその領域が広がっていくことを理解できていなかったのです。
彼らがそれを理解したのは、イエス様が復活した後のことでした。
イエス様の語った言葉が、実際に実を結ぶまで、彼らは理解することがなかったのです。

【種を蒔く人の無理解】
このような、弟子たちと人々の姿は、
イエス様がここで語っているたとえに登場する「種を蒔く人」の姿と重なります。
たとえに出てくる種を蒔く人は、ここでは種を蒔くだけです。
たとえの中で、彼には、それ以上の役割は与えられていません。
蒔いた種がどうなるのか、彼は何も知りません。
そして、たとえの中では、何もしません。
種は実を結んだのか、結ばなかったのかという、結果しか知ることがありません。
そう、種を蒔く人は、どう頑張っても、物事の上辺しか見えないのです。
蒔かれた種が、具体的にどうなるのか。
その細かなことまで、知ることなどできません。
また、たとえの中で、種を蒔く人についての評価もありません。
彼がしたことは良いことだったとも、悪いことだったとも語られません。
そして、種を蒔く人については、沈黙しています。
新共同訳聖書では、この箇所に「種まく人のたとえ」という表題がついています。
しかし、実際は「種」の話です。
物語の主人公は、「種を蒔く人」ではなく、「蒔かれた種」なのです。
恐らく、「種」が意味するのは、神の言葉です。
神の言葉が、この世界でどのように働くのかについて、たとえを通して語られているのです。
私たちは、神の言葉の働きをどれほど理解できているのでしょうか。
正直、神の言葉がどのようにこの世界に影響を及ぼすかについて、
私たちは、全く無知なのだと思います。
イエス様の言葉を聞いた人々のように、
弟子たちのように、
種を蒔く人のように、
語った言葉がどのようになるのか、全く理解していません。
蒔かれた種である神の言葉を通して、
どのような形で神の国が広がっていくのかを、私たちは知らないのです。

【種は、豊かに実を結ぶ!】
このたとえは、当時の人々の日常を意識して語られました。
ですから、このたとえを聞いた人々は、よく知っているのです。
彼らが生活していた土地である、パレスチナの土地の厳しさを。
そして、この土地は、岩だらけで、耕す必要があって、
雨は秋と冬にしか降らず、
夏は、熱い日差しが降り注ぎ、乾燥する土地であることを。
そのため、ここで語られている、実を結ばない種は、
当時の人々がよく経験していたことでした。
これまでどれだけの種を蒔き、どれだけの種を無駄にしてきたことか、と思ったことでしょう。
私たちは、蒔かれたすべての種が、どのように実を結んでいくか、全く知ることができません。
そして、同じように、語られた神の言葉が、どのように一人ひとりの内で、実を結ぶかは知ることなどできません。
私たちは、表面的な部分を見ることしか許されていないのでしょう。
だから、種が実を結ばないように見える場所を見つめる時、ひどく落胆するのです。
しかし、この話の結末は、種が実を結ぶという希望に満ちた話で終わります。
イエス様は言われました。
ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。(マルコ4:8)
そう、厳しい環境に置かれながらも、
「確実に、種は実を結ぶ」という希望が与えられているのです。
どんなに厳しい環境の中にあっても、最終的に、種は実を結ぶ、と。
私たちが思いもよらぬ形で、30倍、60倍、100倍にもなって、
神の国の福音は広がっていくのです。

【神のわざによって実は結ぶ】
このような神の計画の偉大さ、壮大さを、誰が知ることができるでしょうか。
私たち自身も、今は、弟子たちのように、
そして、当時の人々のように、無理解かもしれません。
私たちは、自分を取り巻く環境を見渡す時、
そこは、神の言葉が、実を結べないかのように見えることの正直多いです。
普段生活している場所は、神の言葉が実を結ぶことができるほど、
良い土地ではないように見えます。
しかし、イエス様は言うでしょう。
あなたは、物事の上辺しか見えていないのだ。
私が与える約束を思い出しなさい、と。
私たちは、このたとえを聞く時思い出すべきなのです。
語られたたとえが、最終的には、豊かな実を結ぶという結末を迎えることを。
神は、失望する私たちに向かって、「しかし」と言われる御方です。
目の前に、語られた神の言葉が無駄になりそうな土地が広がっている中で、
神は、「しかし」と言われるのです。
「しかし、神の言葉は実を結ぶ」と。
私たちは、神のなさるわざをすべて理解することが出来ません。
しかし、神のわざによって、実は結ばれる。
これが、私たちの確信です。
この確信と希望を決して捨ててはいけません。

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