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説教#62:「神が語り、神が行う」

『 神が語り、神が行う 』 聖書  マルコによる福音書4:26-34、エゼキエル書17:22-24 日時 2014年11月23日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・浦和教会 【どうしてそうなるのか、その人は知らない】 イエス様の語ったこの種蒔きの譬えは、 私たちにとって、とても挑戦的なものです。 イエス様は、このように語りました。 人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。(マルコ4:26-28) 蒔かれた種に対して、種を蒔いた人は一体何が出来るのでしょうか。 この譬えの中で、人がすることといえば、 種を蒔くことと、種の成長を見届けること、そしてその実を収穫することです。 種が成長するために、実を結ぶために決定的なことを、 人は全くしていないのです。 「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する」。 そして、「ひとりでに実を結ばせる」のです。 もちろん、必要であれば、水をやったり、雑草を取り除いたりしたでしょう。 しかし、種が成長するのに決定的なことを、人は出来ないのです。 そして、その成長過程の中で、何が起こっているのかを知らないのです。 【人の努力によらず、神のわざによって成長する】 なぜこの譬えが私たちにとって、とても挑戦的なものだといえるのでしょうか。 それは、私たちは、自分の力で物事を進めたいという思いが強くあるからです。 私たちは、出来る限り知りたいと願います。 自分の把握できる範囲で、物事が進行していたら、とても安心します。 すべての事柄が、自分にとって都合の良いように進むことを願うならば、 出来る限り、その物事に関与して、意見することでしょう。 そうやって、私たちは、自分が関わる物事、計画や予定を進めていくのです。 しかし、イエス様はこの譬えを通して、宣言しているのです。 「神の国は、そのようなものではない。 私たちが努力したから、この地上に築かれるものでは決してない」と。 それは、「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する」ので

説教#61:「異質な香りを放つ共同体」

『 異質な香りを放つ共同体 』 聖書  エフェソの信徒への手紙5:1-5 日時 2014年11月20日(木) 場所 KGK、御茶ノ水ブロック 【キリスト者の倫理の原則】 あなたたちは「神に倣う者となりなさい」(1節)。 あなたたちは「愛のうちに歩みなさい」(2節、新改訳)。 あなたたちは「みだらなことや色々の汚れたこと、 あるいは貪欲なことを口にしてはなりません」(3節)。 エフェソ5章のはじめの5節は、3つの命令文が中心となって構成されています。 ここで語られている命令には、ひとつの前提があります。 それは、エフェソ書の中でこれまで語られてきたことです。 エフェソ書は、前半、最初の3章を通して、「クリスチャンとはどのような存在なのか」と問題を、教会論を中心に取り扱っています。 自分の過ちと罪のゆえに死んでいた私たちが、 神の豊かな恵みゆえに、キリストによって、神の子どもとされている。 そして、神はキリストにおいて私たちをひとつに結び合わせ、 私たちを教会というひとつの共同体の一員にしてくださった。 キリストの十字架によって地上に建てられた、この教会という群に、私たちは呼び集められた。 キリストによって、憎しみと争いの中に生きていた私たちの内に、 和解と平和がもたらされ、この教会という共同体の内にそれは実現している、と。 このような神の偉大な恵みのわざを語った後に、 著者は、倫理問題へと踏み込んでいくのです。 これは、キリスト者の倫理を考える上で、とても重要な原則です。 キリストを信じる者とは、神の前にどのような存在なのか。 そこから始めることにによってのみ、 「私たちは、クリスチャンとしてどう生きるべきか」と問うことが出来るのです。 【神の子どもであるキリスト者は、神に倣う者となれ】 では、私たちは一体、どのような存在なのでしょうか。 著者は、5章1節でこのように述べています。 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。(エフェソ5:1) あなたがたは、神に愛されている子ども。 そう、キリスト者とは、神の子どもなのです。 私たちが、才能があったからでも、 多くの財産をもっていたからでも、

説教#60:「神の国の福音に生きる」

『 神の国の福音に生きる 』 聖書  マルコによる福音書4:21-25、レビ記19:15-18 日時 2014年11月9日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・浦和教会 【神の国が明らかにされる】 イエス様は、「種蒔きのたとえ」を話した後、続けて人々に語りました。 「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」(マルコ4:21-23) イエス様はこの言葉を、一体どのような意味で語ったのでしょうか。 不正や悪事は、いつか明らかにされるということでしょうか。 すべてのことは、神の前に明らかであるということでしょうか。 そのどちらでもありません。 それは、このテキストの前後関係から明らかです。 イエス様は、4章1節から20節までは、神の国のたとえを語っています。 そして、26節から34節も、神の国についてのたとえです。 この流れを無視して、神の国のたとえ以外のことが語られたとは考えにくいことです。 ですから、ここで露わになり、公にされるものとは、神の国のことです。 たとえ今は、すべての人が神の国がどのようなものなのかがわからなくても、 それは明らかになる。 今、私たちの目の前に広がっている光景は、 神の国が約束するものとは程遠い現実だったとしても、神の国はやがて明らかになる。 イエス様は、ともし火が来るというたとえを通して、その事実を語ったのです。 【主イエスは「来た」】 では、神の国は一体どのような方法で明らかにされていくのでしょうか。 ここで注目すべき重要な言葉があります。 それは、「来る」という言葉です。 この言葉は、マルコによる福音書にとって、とても重要な言葉です。 それは、「神の子であるイエスが来る」という事実を告げ知らせる言葉です。 私たちに救いを与える方が「来る」という希望の言葉です。 そのような「来る」という言葉が、ここではわざと付けられています。 実際、「ともし火は、升の下や寝台の下に置くためにあるだろうか」と言っても、意味は通るでしょう。 しかし、イ