しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2014年12月3日水曜日

説教#62:「神が語り、神が行う」

神が語り、神が行う
聖書 マルコによる福音書4:26-34、エゼキエル書17:22-24
日時 2014年11月23日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【どうしてそうなるのか、その人は知らない】
イエス様の語ったこの種蒔きの譬えは、
私たちにとって、とても挑戦的なものです。
イエス様は、このように語りました。
人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。(マルコ4:26-28)
蒔かれた種に対して、種を蒔いた人は一体何が出来るのでしょうか。
この譬えの中で、人がすることといえば、
種を蒔くことと、種の成長を見届けること、そしてその実を収穫することです。
種が成長するために、実を結ぶために決定的なことを、
人は全くしていないのです。
「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する」。
そして、「ひとりでに実を結ばせる」のです。
もちろん、必要であれば、水をやったり、雑草を取り除いたりしたでしょう。
しかし、種が成長するのに決定的なことを、人は出来ないのです。
そして、その成長過程の中で、何が起こっているのかを知らないのです。

【人の努力によらず、神のわざによって成長する】
なぜこの譬えが私たちにとって、とても挑戦的なものだといえるのでしょうか。
それは、私たちは、自分の力で物事を進めたいという思いが強くあるからです。
私たちは、出来る限り知りたいと願います。
自分の把握できる範囲で、物事が進行していたら、とても安心します。
すべての事柄が、自分にとって都合の良いように進むことを願うならば、
出来る限り、その物事に関与して、意見することでしょう。
そうやって、私たちは、自分が関わる物事、計画や予定を進めていくのです。
しかし、イエス様はこの譬えを通して、宣言しているのです。
「神の国は、そのようなものではない。
私たちが努力したから、この地上に築かれるものでは決してない」と。
それは、「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する」のです。
種の成長の多くは、種を蒔いた人が眠りに就いている間、
そして、彼の手を離れている間に起こります。
そう、種蒔きの手を離れているにも関わらず、
種は成長し、実を結ぶのです。
古代の人々は、確信していました。
「種が実を結ぶのは、神の力による」と。
種は、人の努力によらずに、神のわざによって成長するのです。

2014年12月2日火曜日

説教#61:「異質な香りを放つ共同体」

異質な香りを放つ共同体
聖書 エフェソの信徒への手紙5:1-5
日時 2014年11月20日(木)
場所 KGK、御茶ノ水ブロック

【キリスト者の倫理の原則】
あなたたちは「神に倣う者となりなさい」(1節)。
あなたたちは「愛のうちに歩みなさい」(2節、新改訳)。
あなたたちは「みだらなことや色々の汚れたこと、
あるいは貪欲なことを口にしてはなりません」(3節)。
エフェソ5章のはじめの5節は、3つの命令文が中心となって構成されています。
ここで語られている命令には、ひとつの前提があります。
それは、エフェソ書の中でこれまで語られてきたことです。
エフェソ書は、前半、最初の3章を通して、「クリスチャンとはどのような存在なのか」と問題を、教会論を中心に取り扱っています。
自分の過ちと罪のゆえに死んでいた私たちが、
神の豊かな恵みゆえに、キリストによって、神の子どもとされている。
そして、神はキリストにおいて私たちをひとつに結び合わせ、
私たちを教会というひとつの共同体の一員にしてくださった。
キリストの十字架によって地上に建てられた、この教会という群に、私たちは呼び集められた。
キリストによって、憎しみと争いの中に生きていた私たちの内に、
和解と平和がもたらされ、この教会という共同体の内にそれは実現している、と。
このような神の偉大な恵みのわざを語った後に、
著者は、倫理問題へと踏み込んでいくのです。
これは、キリスト者の倫理を考える上で、とても重要な原則です。
キリストを信じる者とは、神の前にどのような存在なのか。
そこから始めることにによってのみ、
「私たちは、クリスチャンとしてどう生きるべきか」と問うことが出来るのです。

【神の子どもであるキリスト者は、神に倣う者となれ】
では、私たちは一体、どのような存在なのでしょうか。
著者は、5章1節でこのように述べています。
あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。(エフェソ5:1)
あなたがたは、神に愛されている子ども。
そう、キリスト者とは、神の子どもなのです。
私たちが、才能があったからでも、
多くの財産をもっていたからでも、
正しい行いをしているからでもなく、
神が、私たちを愛するという決断をしてくださった。
ただ、神の恵みと憐れみによって、私たちは子とされているのです。
キリスト者の倫理は、この事実から始まります。
「神が私たちを愛してくださった」ということが、その根底にあるのです。
あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。(エフェソ5:1)
神に倣う者となる。
それは、このような神の子としての特権が与えられているのだから、
神の愛に応答すべきであるという招きです。
4章からの流れと、エフェソ全体でテーマとなっている「和解」という文脈から考えると、
神に倣うとは、具体的には「人を赦す」ということでしょう。
4:32には、このように記されています。
互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。(エフェソ4:32)
神の子は、神に愛され、罪赦された者なのです。
ですから、神に倣うように、
「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」
と招かれているのです。

2014年12月1日月曜日

説教#60:「神の国の福音に生きる」

神の国の福音に生きる
聖書 マルコによる福音書4:21-25、レビ記19:15-18
日時 2014年11月9日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【神の国が明らかにされる】
イエス様は、「種蒔きのたとえ」を話した後、続けて人々に語りました。
「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」(マルコ4:21-23)
イエス様はこの言葉を、一体どのような意味で語ったのでしょうか。
不正や悪事は、いつか明らかにされるということでしょうか。
すべてのことは、神の前に明らかであるということでしょうか。
そのどちらでもありません。
それは、このテキストの前後関係から明らかです。
イエス様は、4章1節から20節までは、神の国のたとえを語っています。
そして、26節から34節も、神の国についてのたとえです。
この流れを無視して、神の国のたとえ以外のことが語られたとは考えにくいことです。
ですから、ここで露わになり、公にされるものとは、神の国のことです。
たとえ今は、すべての人が神の国がどのようなものなのかがわからなくても、
それは明らかになる。
今、私たちの目の前に広がっている光景は、
神の国が約束するものとは程遠い現実だったとしても、神の国はやがて明らかになる。
イエス様は、ともし火が来るというたとえを通して、その事実を語ったのです。

【主イエスは「来た」】
では、神の国は一体どのような方法で明らかにされていくのでしょうか。
ここで注目すべき重要な言葉があります。
それは、「来る」という言葉です。
この言葉は、マルコによる福音書にとって、とても重要な言葉です。
それは、「神の子であるイエスが来る」という事実を告げ知らせる言葉です。
私たちに救いを与える方が「来る」という希望の言葉です。
そのような「来る」という言葉が、ここではわざと付けられています。
実際、「ともし火は、升の下や寝台の下に置くためにあるだろうか」と言っても、意味は通るでしょう。
しかし、イエス様は敢えて「ともし火を持って来る」と言われたのです。
「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか」と。
そのように語ることによって、
イエス様は、ともし火を持った人が「来る」ということを伝えているのです。
ともし火、それは、暗闇に光を与えるものです。
このともし火を持ってくる人こそ、イエス様自身です。
暗闇に光を差し込むために、イエス様は来た、とここで宣言されているのです。
暗闇に負けることの無い、圧倒的な光をこの世界に灯す方として、
決して消えることのない光を与えてくださる方として、イエス様は「来た」のです。
そして、罪の支配から人々を解放し、神の光の内に生きるようにと、
イエス様は私たちを招いておられるのです。
神の国の福音に生きるようにと。

【神の国は、神の言葉を聞く者たちを通して明らかにされる】
このたとえが、種蒔きのたとえの後に話されたことには、とても重要な意味があります。
それは、種蒔きのたとえは、神の言葉を聞くことの重要性を語るからです。
神の言葉が語られ、
それを受け取り、信じ、従う人々の内に、神の国が広がっていく。
神の言葉が実を結び、
30倍、60倍、100倍にもなる、ということが語られています。
このような種蒔きのたとえを語った後に話した21-25節の言葉の中で、
イエス様は、言われました。
聞く耳のある者は聞きなさい。(マルコ4:23)
イエス様は、私たちが神の言葉を聞くことによって、
神の国が、人々の前に明らかになっていくと語るのです。
そう、イエス様の言葉を聞いた人々によって、
神の国の福音は、明らかにされるのです。
神の言葉を聴き、その言葉を信じ、従う人々の言葉、行動、考え、存在そのものを通して、神の国は告げ知らされていくのです。

【誰もが心の中に「測り」を持つ】
続けてイエス様は、警告を与えます。
それは、神の言葉を聴き、神の福音に生きるべき私たちへの警告です。
「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」(マルコ4:24-25)
イエス様は、21節で語った「升の下」という言葉から連想して、この話を始めました。
21節で「升」と訳されている言葉は、ギリシア語で「モディオス」といいます。
「モディオス」は、一定の数量の穀物を測ることの出来る容器を指す言葉です。
人々は、この容器を用いて、ともし火の火を消したり、
穀物の量を測ったりしていたのです。
ですから、ここで語られている「秤」とは、21節で語られている「升」、
つまり穀物を測る容器である「モディオス」のことを指していると考えるのが自然でしょう。
イエス様は、このたとえを通して、
誰もが持っている、心のなかにある「測り」の用い方について警告をしています。
新共同訳聖書は、24節を、警告の要素を少し弱めた形で訳しています。
しかし、この箇所のギリシア語を読んでみると、
もっと警告に比重が置かれた形で書かれていることに気付きます。
ある聖書学者は、この箇所をこのように訳しています。
「あなた方が測るその測りによって、あなたがた自身も測られることになろう。あなた方に対しては更に付け加えられることにもなろう。」(田川建三訳)
ここで警告されていることは、こうです。
あなたがたが他人を測るその尺度が、あなた方自身に対しても適用される。
そしてそれどころか、他を排除しようとするあなた方は、
もっと厳しい尺度によって測れることになる、とイエス様は言われたのです。
ここでは「他人を測ること」は、「他人を裁くこと」という意味で用いているのです。
それは、人々の前に明らかにされた神の国のあり方とは、程遠いものです。
神の国において、私たちは、互いに愛し合い、助け合い、仕え合う。
そのような約束が与えられています。
ですから、神の国の福音を知らされている者が、
他人を測り、裁き、憎しみに支配され、排除するということがないように、とイエス様は警告しているのです。
それは、人々の前に明らかにされた神の国の福音を、覆い隠すような生き方だからです。

【「モディオス」をどのように用いるべきか?】
このたとえにおいて、イエス様は、私たちが心の中に持っている「升」=「モディオス」の用い方を教えています。
それは、簡単に光を隠すことができるものです。
神の国の福音を告げ知らせる光を。
イエス様が語った言葉を。
ともし火の上に覆いかぶせるように、私たちは自らの持つモディオスによって、
それらのものを、人々から簡単に隠すことができるのです。
また、心の中にある測りを用いることによって、
私たちは、あまりにも簡単に他人を測り、裁くことができます。
批判することも、排除することもできます。
そのような測りを私たちは持っているのです。
私たちは、この測りをどのように用いるべきなのでしょうか。
そもそも相応しい用い方はあるのでしょうか。
「モディオス」という容器は、穀物を測る容器です。
そう、畑から収穫した穀物の量を測るのです。
収穫は、すべて神から与えられます。
それは、穀物だけではありません。
私たちには、日々、様々なものが神から与えられています。
食べるものも、着るものも、それを買うためのお金も、時間も、命も。
すべて、神から与えられている恵みです。
罪の赦しも、救いも、神から与えられています。
神の愛も、復活の希望も、すべて神から与えられています。
私たちは、自らの心のなかにある測りによって、
神から与えられているものを測るべきなのではないでしょうか。
これらのものは、神から、溢れるばかり与えられています。
そのため、私たちが持つ「測り」では、測りきれないでしょう。
溢れるばかりでしょう。
しかし、それで良いのです。
神から、多くのものが溢れるばかり与えられているという事実を確認するためにこそ、
私たちは心の中にある「測り」を用いるべきなのです。

【溢れ出る神の恵みを、分け与える生き方へ】
他人を測り、裁き、憎しみ、争い合い、排除し合うとき、
私たちは、相応しい形で、私たちの持つ「モディオス」を用いているとは言えません。
神の恵みを受け止めることを、やめて、
他の別のことのために、容器を用いているのですから。
そうではなく、私たちは、この「モディオス」を相応しく用いましょう。
神の溢れるばかりの恵みを知るために。
そして、溢れ出る神の恵みを、私たちは互いに分け合っていくのです。
それこそ、神の国の福音に生きる私たちの生き方です。
神の国は、私たちが互いに愛し合い、助け合い、仕え合うことを通して、
この世界に明らかになっていくのです。