しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2015年5月10日日曜日

説教#68:「勝利の日を待ち望む」

勝利の日を待ち望む
聖書 コリントの信徒への手紙 第一 15:50-57、イザヤ書55:10-13
日時 2015年5月10日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・小岩教会

【私たちは日々変化を経験する】
私たちはこれまで、誰もが変化を経験してきました。
入学、卒業、入社、結婚、出産、退職など、人生のその節目、節目に。
そして、イエス・キリストと出会った時に。
これまで私たちが経験してきた変化は、
私たちそれぞれの生き方に、様々な影響を及ぼしてきたことでしょう。
良い変化もあれば、悪い変化もありました。
また、変化はこれからも様々な形で、私たちの身の回りで起こってくることでしょう。
神は、将来私たちに大きな変化を起こしてくださることを、
聖書を通して約束してくださっています。
それは、私たちがこれまで経験したこともないほどの大きな変化です。
この手紙の著者である使徒パウロは、その大きな変化についてこう言っています。
「キリストによって与えられる勝利を通して、その変化は起こる」と。


【主イエスが再び来られる時、生きている者はどうなるのか?】
では、大きな変化を私たちに与える、勝利の時はいつやってくるのでしょうか。
パウロによれば、それはキリストが再びこの世界に来られる時です。
その日が、いつやって来るのかはわかりません。
しかし、教会は、その日が来るのを待ち望み続けてきました。
そして、私たちも同じように待ち望んでいます。
パウロは、イエス様が再び来られるときに起こることを、
この手紙の15章で、時間を掛けて語ってきました。
イエス様が再び来られるときに起こること。
それは、死者の復活です。
「イエス様が再び来られる時、死者は復活して復活の体が与えられる」ことを、
パウロは最も大切なこととして、そして、私たちが確信すべきこととして語りました。
しかし、イエス様が再び来られる日、全ての者が死んでいるわけではありません。
当然、生きている人々もいます。
ですから、パウロはひとつの疑問に答えなければなりませんでした。
その疑問とは、このようなものでした。
「イエス様が再び来られる日、その時に生きている者は一体どうなるのか?」

【たちまち、一瞬のうちに変えられる】
パウロは、イエス様はすぐに来ると信じていました。
ですから、パウロにとっても、この問いは重要なものでした。
パウロは、この問題を取り扱う上で、このように述べました。
兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。(Ⅰコリ15:50)
やがて朽ちる体を、私たちは生きる限り持っています。
しかし、「やがて朽ちるその体のままでは、神の国を受け継ぐことはできない」とパウロははっきりと言います。
死者は、神によって復活させられることによって、復活の体を与えられます。
しかし、生きている者は、死ななければ復活の体を得ることはできません。
ということは、神の国を受け継ぐために、
一度すべての者が死ななければならないのでしょうか?
そのようなことは決してありません。
パウロは、51節で「あなたがたに神秘を告げます」と言って、この問題に答えます。
彼がここで言う「神秘」とは、キリストを通して明らかになった神の計画のことです。
彼は神の計画について、51-52節で語ります。
わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。(Ⅰコリ15:51-52)
最後のラッパとは、
「終わりの日が来た」とこの世界に告げ知らされるしるしです。
パウロは、このラッパが鳴るときに起こることについて述べているのです。
その時、「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます」と。
パウロは、自分が生きている間に、イエス様が来ると信じていたため、
ここでの「わたしたち」は、生きている者すべてを指しています。
終わりの日を告げるラッパが鳴ったその時、その瞬間に、
生きている者は皆、「今とは異なる状態に変えられ」るのです。
このラッパが鳴り響いた瞬間、「たちまち、一瞬のうちに」、
死者は復活し、朽ちない復活の体へと変えられます。
そして、「たちまち、一瞬のうちに」、生きている者は変えられるのです。
どのように変えられるのかは、神のみが知る領域ですから、わかりません。
しかし、確かなことは、「たちまち、一瞬のうちに」、
その時生きている者が変えられるという経験をするのです。
これは、その時生きている者のみに与えられる、神の恵みのわざです。

【死に対する勝利を得る!】
続く54-55節で、最後のラッパが鳴り響いた瞬間、旧約聖書の言葉が成就すると、パウロは語っています。
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(Ⅰコリ15:54-55)
54節の言葉はイザヤ書から、そして55節はホセア書から、
パウロはそれぞれ引用しています。
この2つの箇所には「死」と「勝利」という言葉が、共通して出て来ます。
ですから、パウロがこの引用を通して伝えたかったことは、明らかです。
パウロは確信しています。
ラッパが鳴り響いた瞬間に起こるのは、死の敗北である、と。
死への勝利という大きな変化が、旧約聖書の預言の成就として起こるのです。
いつの時代も、人間は、死の問題に苦しんできました。
死の脅威は、すべての人に等しく襲いかかります。
医療技術の発達によって、今の時代、命を少しばかり延ばすことはできます。
しかし、誰も自分の力によって、この死から逃れることはできません。
死は、いつかは必ずやって来ます。
すべての人に等しくやって来ます。
死に直面する時、私たちは、これまで積み重ねてきたものがすべて無駄に思えてきます。
また、死は、関係性の断絶であると言うこともできるでしょう。
これまで築いてきた関係性を、死は、引き裂くのですから。
死の力の前に、私たち人間は絶望し、敗北し続けてきました。
しかし、パウロはこの死に対する「勝利」を確信しています。
それは、キリストが復活することを通して、彼が死に打ち勝ったからです。
キリストが復活することを通して、私たちも死に対する勝利を得たのだ、とパウロは喜びをもって語るのです。
キリストを復活させてくださった神は、
将来、私たちをも必ず復活させてくださいます。
この約束を確信する時、死は、キリストの勝利に飲み込まれ、溺れ死ぬのです。
私たちが将来与えられる復活の命を望み見る時、
私たちは、自分たちがこれまで積み重ねてきたものは、
決して無駄にならないことを知ります。
死の先に、復活があるのですから。
また、死によって絶たれた関係は、復活を通して回復するのです。
キリストが再び来られる日、復活した私たちは、愛する人々と再び出会い、
死によって絶たれた関係を回復するのです。
私たちが復活を信じる時、死は敗北するのです。

【律法は相応しく用いられるようになる】
パウロは56節で、引用した旧約聖書の預言の言葉について、短く解説を加えています。
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。(Ⅰコリ15:56)
ここでパウロは、死と罪と律法の3つを挙げています。
これら3つものは、私たちを支配するものです。
しかし神は、死も、罪も、律法も、キリストが再び来られる時に征服されます。
まず、死は打ち滅ぼされます。
そして、死のとげである罪も同様に滅ぼされのです。
ここでパウロは、死と罪とともに、律法を挙げています。
律法とは、神がイスラエルの民に与えた、旧約聖書に記されている法律のことです。
そのため、神が与えた律法について、
パウロが「罪の力は律法」と言うことに少し違和感を感じるかもしれません。
律法は、人々に規律を与え、罪の認識へと導くためのものとして与えられました。
ですから、律法は、罪に支配されている人々に対して、強い効果があります。
その意味で、「罪の力は律法」なのです。
しかし、将来、罪は完全に滅ぼされます。
その時、律法は罪の認識を与えるという機能を失います。
そうなると、律法は全く意味のないものになるのでしょうか?
そうではありません。
律法は、より相応しく用いられることになるのです。
律法は、神に救われた者が、感謝の内に守るべきものへと変えられるのです。
もはや、罪を呼び起こす役割はなくなったのですから。
神への感謝のうちに、神の民に相応しい生き方を指し示し、
神の民に相応しい生き方を促すものへと、律法は変えられるのです。

【キリストによって勝利を得る、その感謝を神に向ける】
このように、ラッパの音が鳴り響き、キリストが来られる時、
大きな変化が起こります。
その日、生きている者も、死んでいる者も、神の国を受け継ぐために、
相応しい形へと一瞬にして変えられます。
死と罪は討ち滅ぼされます。
そして、律法は、罪を私たちに認識させるものではなくなり、
神への感謝の内に守るべきものとなります。
このような大きな変化が、キリストが再び来られるその日、その時に起こるのです。
思いもよらぬ大きな変化が、私たちに与えられると約束されているのです。
ですから、この大きな変化を起こしてくださる神への感謝をパウロは述べたのです。
わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。(Ⅰコリ15:57)
この変化は、キリストによって神が勝利を私たちに得させることを通して、起こる出来事です。
死と罪に対して、私たちは無力です。
死と罪の前に、人間は、敗北し続けています。
ですから、死と罪に対する勝利は、徹底的に神の恵みなのです。
勝利が与えられたのは、私たちが良い行いをしたからではありません。
優秀な人間だからでも、経済的に豊かだからでもありません。
ただ、神の恵みによって、この勝利は私たちに与えられているのです。

【大きな変化が起こる、勝利の日を待ち望み続ける】
この来るべき勝利の日に向かって、神は私たちに変化を起こし続けてくださっています。
その変化は、聖書に記されている、この御言葉を通して既に起こっています。
神の言葉との出会いを通して、神は私たちを造り変えるのです。
また、礼拝を通して、神は私たちに変化を起こします。
礼拝を通して、神は私たちに宣言しているのです。
「あなたがたは、神の民である」
「あなたがたは、神に愛されている、神の子どもである」と。
この宣言を受け取って、私たちは神の民として、神の子どもとして、
それぞれの場所へと遣わされて行きます。
そして、神を信じる者の交わりや、毎日の生活を通して、神は私たちを造り変えてくださいます。
私と神という個人的な関係だけでなく、
信仰者の交わりを通して、私たちは神を知るのです。
この交わり、そう教会の交わりを通して、
私たちは神が与えてくださった勝利の約束を日々思い起こすのです。
そして、教会の交わり、すなわちキリストにある兄弟姉妹と共に、
私たちは勝利の日を待ち望みながら歩んで行くのです。
教会の交わりを通して、私たちは日々励まし合います。
喜びの日も、涙の日も、苦しみの日も、そして敗北の日にも、
共に祈り合い、共に支え合いながら。
ですから、今日までそうであったように、これからも、
私たちは互いに手を取り合って、天の御国を目指して歩んで行きましょう。
神がキリストによって私たちに勝利を得させてくださる、
勝利の日を共に待ち望みながら。