しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2015年5月24日日曜日

説教#70:「聖霊の風は今日も吹く」

聖霊の風は今日も吹く
聖書 コリントの信徒への手紙 第一 16:1−12、イザヤ書61:1-4
日時 2015年5月24日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・小岩教会

【聖霊の風が吹く】
今日私たちは、ペンテコステを祝う礼拝のときをもっています。
今から約2000年前、イエス様の弟子たちに聖霊が与えられました。
その時から彼らは主キリストの証人として生きるようになり、
全世界に福音が宣べ伝えられて、今日に至っています。
そして「その聖霊は今、私たちにも与えられている」と聖書は証言しています。
では、私たちに与えられている聖霊とは、どのような方なのでしょうか。
旧約聖書で「霊」と訳されるヘブライ語「ルーアハ」は「風」という意味があります。
風は、突然吹きます。
何者にも束縛されず、自由に風は吹き荒れます。
また、風は、目に見えず、説明がつかず、逆らうことのできないものです。
その意味で、聖霊の特徴のひとつは、「自由」といえるでしょう。
自由をひとつの特徴としてもつ聖霊が、私たちに与えられ、
私たちの人生に風を起こし、私たちの歩みを導いておられるのです。


【異邦人の使徒パウロ】
かつて、聖霊の風は、使徒パウロを通して、強くこの世界に吹き荒れました。
パウロは、異邦人への宣教に力を注いだ伝道者として知られています。
「異邦人」とは、ユダヤ人以外の人々を指す言葉として、聖書では使われています。
ユダヤ人たちにとって、異邦人は救われるはずのない存在でした。
というのも、神がユダヤ人たちを選び、
感謝と喜びのうちに守るべき律法を彼らに与えたからです。
しかし、神は、異邦人たちも救いへと導いておられました。
そのため、異邦人たちも、キリストによって神に救われているとわかると、
ユダヤ人キリスト者たちは、異邦人たちにも福音を伝えようと、
つまりすべての人々に福音を伝えようと努力しました。
しかし、神の恵みによって、異邦人たちが教会の中に増えていくと、
ひとつの問題が起こりました。
それは、律法の問題です。
異邦人たちは、当然律法をもっていませんでした。
そのため、律法に対する認識や解釈、信仰における位置付けなどで、
ユダヤ人と異邦人たちとの間で問題が生じたのです。
ユダヤ人キリスト者と、異邦人キリスト者との間の溝が、
どんどん深まっていったのです。
このような状況に立たされていた異邦人たちのために、
神が立ててくださり、聖霊に満たされ、豊かに用いられたのが、
パウロという人でした。

【パウロの夢】
そんなパウロには、ひとつの大きな夢がありました。
それはユダヤ人と異邦人の和解です。
この両者の間にあったのは、恐らく律法の問題だけではなかったでしょう。
律法の問題をきっかけに、様々な争いがそこにはあったことだと思います。
パウロは、異邦人が救われるだけでは満足しませんでした。
ユダヤ人と異邦人。
深い溝があるこの両者の関係に和解をもたらしたいと、パウロは切実に願っていたのです。
そんなパウロに、ひとつの大きな計画が宣教の働きをする中で、いつしか与えられたということを、
パウロが書いた手紙を通して知ることができます。
パウロに与えられた計画。
それは、「エルサレム献金」と呼ばれる宣教計画です。
当時、エルサレムは大きな飢饉を経験しました。
飢饉が起こると、必要なものが手に入りにくくなるため、
特に、貧しい人々はますます生活が厳しくなります。
そのため、エルサレムの貧しい人々への募金活動が始められたのです。
エルサム教会に集っていたユダヤ人たちのほとんどは、貧しい人々だったため、
この働きは、飢饉の中で苦しむエルサレム教会を助ける働きにもなりました。

【エルサレム献金の勧め】
パウロはコリント教会の人々にも、「エルサレム献金」を勧めています。
彼はコリントの教会に宛てて書いた第一の手紙の15章で、
復活について議論した後、エルサレムへの献金について、
このように述べています。
聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい。わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。そちらに着いたら、あなたがたから承認された人たちに手紙を持たせて、その贈り物を届けにエルサレムに行かせましょう。(Ⅰコリ16:1-3)
ユダヤ人キリスト者の多くいるエルサレム教会を、
パウロは「聖なる者たち」と呼んでいます。
それとともに、パウロはこの手紙の1章で、
異邦人キリスト者の教会である、コリント教会の人々を、
「聖なる者とされた人々」と呼んでいることに気付きます(Ⅰコリ1:2)。
パウロは、ユダヤ人も異邦人も「どちらも聖なる者なのだ」と言うことによって、
何とかして、この両者の間に和解をもたらそうとしているのです。
「ユダヤ人も異邦人も、どちらもキリストによって聖なる者とされている」と。
パウロは、コリントをはじめ、ガラテヤ、エフェソといった異邦人キリスト者の教会から、
ユダヤ人キリスト者の多くいるエルサレム教会へ送られる献金を、
「贈り物」と表現しています。
「贈り物」と訳されているギリシア語の言葉は、「恵み」という意味が元々の意味です。
異邦人教会からエルサレム教会への献金は、宣教的な意味があると理解したため、
パウロは、この献金を恵みの贈り物と表現したのだと思います。
かつて、神の恵みのわざである福音は、エルサレムから世界中へと広がっていきました。
ですから、すべての異邦人キリスト者の教会は、
エルサレムの教会から、福音を分かち合ってもらったといえるでしょう。
それに対して、異邦人キリスト者の教会は、エルサレム献金を通して、
エルサレム教会へ、具体的な助けをするのです。
献金は、神が恵みによって私たちに与えてくださったものの一部を、
感謝と喜びをもって神に捧げることです。
ですから、その「エルサレム献金」という形で捧げられた献金は、
神の恵みに対する、異邦人キリスト者たちの感謝と喜びの表れです。
その感謝と喜びの表れである献金を、エルサレム教会へ募金することを通して、
神の恵みを分かち合おうとしたのです。
ですから、異邦人キリスト者の教会から、エルサレム教会へと献金が送られるとき、
両者の間で神の恵みが行き交うことになると、パウロは理解していたのです。
エルサレム献金によって、相互に与え合い、支え合う関係が、
この両者の間で築かれることをパウロは願っていたのです。
ユダヤ人と異邦人という越えることが出来ないように思える壁を、
神がその恵みのわざによって取り除く。
このような神の恵みのわざを、献金という象徴を通して表し、
実際にその神の恵みの現実を一緒に分ち合いたいと、パウロは切実に願ったのです。

【旅行の計画】
パウロは、多くの人に福音を伝えるため、
また、各地の教会が抱える様々な問題と向き合うために、宣教旅行を行っていました。
そして、訪問したことのある教会には「エルサレム献金」の協力をお願いしたのです。
5-9節で、パウロは宣教旅行の計画をコリント教会に分かち合っています。
わたしは、マケドニア経由でそちらへ行きます。マケドニア州を通りますから、たぶんあなたがたのところに滞在し、場合によっては、冬を越すことになるかもしれません。そうなれば、次にどこに出かけるにしろ、あなたがたから送り出してもらえるでしょう。わたしは、今、旅のついでにあなたがたに会うようなことはしたくない。主が許してくだされば、しばらくあなたがたのところに滞在したいと思っています。しかし、五旬祭まではエフェソに滞在します。わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです。(Ⅰコリ16:5-9)
ここでは、マケドニアとエフェソという地名が挙げられています。
1節ではガラテヤも挙げられていました。
ということは、ガラテヤ、マケドニア、エフェソ、そしてコリントの教会にパウロは献金のお願いをしたことがわかります。
彼は、ひとつの教会だけがこの献金を行えば十分だとは考えていません。
周辺の教会が一致して、この献金を行うことを彼は願っています。
ここで、パウロが視野に入れてるのは、全世界の教会の和解と一致です。
そのための協力をパウロは、異邦人キリスト者のいる教会に求めているのです。
ユダヤ人と異邦人が、何とかして和解し、同じ神の民として共に礼拝するようになって欲しいと強く願ったからこそ、
パウロは、15:58で「主の業に常に励みなさい」と述べたすぐ後に、
「エルサレム献金」について触れるのです。
エルサレム献金という一大宣教プロジェクトを通して、
この世界に、主にある和解と一致を告げ知らせたいとパウロは願ったのです。
これこそ「主のわざ」だとパウロは確信していたのです。
しかし、この「主のわざ」を導いたのは、パウロではありませんでした。
「エルサレム献金」の思いを与え、このプロジェクトを導かれたのは、聖霊です。
聖霊がユダヤ人と異邦人の和解の働きへと、パウロを促したのです。
まさに、このエルサレム献金は、聖霊がパウロを用いることによって、
当時の教会に、そしてこの世界に引き起こした風だったのです。

【聖霊の風は今日も吹く】
しかし、エルサレム献金が行われてから、2000年近くもの時が流れていますが、
時間の流れは争いを解決し、和解をもたらすことはないことを、
私たちは歴史を通して知ることができます。
この世界を見渡す時、新約聖書が書かれた時代と変わらずに、
今の時代も、人間的な壁が数多くあることに気づくでしょう。
国境、政治的な思想、立たされている立場、男女の違いの過度な強調、
憎しみ、妬み、争い、分裂、言語、文化、世代など、数えたらきりがありません。
どう頑張っても打ち崩すことのできない堅い壁や、深い溝、
そして、目には見えないけど超えることのできない境界線が私たちの周囲にはあります。
和解が必要な場所は数多くあります。
だからこそ、私たちは願います。
「主よ、様々な壁を打ち破り、ここに、この場所に和解と一致をもたらしてください」と。
神が、キリストにあって、そして聖霊によって、
境界線を吹き飛ばし、取り除かれることを信じる時、
私たちは、人間的な境界線が取り除かれた世界を思い描くことがゆるされます。
国境、政治的な思想、立たされている立場、男女の違いの過度な強調、
憎しみ、妬み、争い、分裂、言語、文化、世代などによって築かれた壁が、取り除かれる。
それは、実に豊かに多様性に満ちていながらも、一致が保たれている状態でしょう。
言語が多くあるにも関わらず、互いを理解し合える。
文化や民族の違いを乗り越えられる。
国境や差別などによって引かれていた境界線を、乗り越えることができる。
争いを乗り越えて、和解をすることができる。
それが完全な形で実現するのは、神が私たちに約束してくださっている神の国が来るときです。
しかし、私たちはそれを思い描きながら、神の国の前触れをこの世界において味わうことがゆるされています。
神の国において完全なかたちで実現する、一致を、
この世界において実現することを望み見ることができます。
そのような日が訪れるのを、私は願ってやみません。
ですから、私たちは祈りましょう。
聖霊の風が吹くとき、神に信頼してこの身を委ねることができるように、と。
神が聖霊を通して、私達自身に起こしてくださる風に期待しましょう。
聖霊の風は、教会の内に、そしてこの世界に吹き起こります。
時に暴力的に吹くことにより、人間の意志を砕き、神の意志を伝えます。
時に優しく吹き、慰めを与えます。
向かい風によって訓練を施し、
追い風によって、私たちのわざを強く励ます。
聖霊の起こす風は、今日も私たちの教会の中に、
そしてこの世界に吹き続けているのですから。
神が私たちのもとに遣わしてくださった聖霊のみわざに期待して、
今日もこの場所から出て行きましょう。