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説教#75:「光が私たちのもとに」

『 光が私たちのもとに 』 聖書  創世記1:3-5、コリントの信徒への手紙二 4:1-6 日時 2015年6月28日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・小岩教会 【祝福の宣言「光あれ」】 「光あれ」(創世記1:3)。 神はこう語ることから、この世界の創造を開始しました。 光は、旧約聖書において、生命や秩序を表すものとして描かれています。 2節によれば、この世界は、生命も秩序もない「混沌」とした場所でした。 そのような混沌であるこの世界に、 神は「光あれ」といって、光を与えられたのです。 それは、この世界に対する神の祝福の言葉でした。 「光あれ」と語ることを通して、秩序のないところに、秩序を与え、 生命のないところに、生命を与える「光」を、神は創造されたのです。 そうです。 この世界は、「光あれ」という神の祝福の宣言から始まったのです。 この世界の初めに、呪いではなく、祝福の言葉を神は語られたのです。

説教#74:「混沌ではなく、神の国の福音を担う」

『 混沌ではなく、神の国の福音を担う 』 聖書  創世記1:1-2、ヨハネによる福音書1:1-5 日時 2015年6月21日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・小岩教会 【宣言「神が、天と地を造られた!」】 物事には、決まって「はじまり」があります。 私たちが誰かと出会う時、そこには、 これから築いていくであろう関係性の「はじまり」があります。 また、世の中の様々な組織には、「はじまり」がありますし、 音楽や物語といった様々な作品にも、「はじまり」があります。 そして、私たちが聖書を開き、その初めから読むとき、 聖書はその初めにおいて、 「はじまり」について語っていることに気付くでしょう。 それは、このような力強い宣言から始まりました。 初めに、神は天地を創造された。(創世記1:1) 新共同訳聖書の翻訳は、決して間違った訳というわけではありませんが、 この箇所は、新改訳聖書の方が良い訳だと思います。 初めに、神が天と地を創造した。(新改訳第三版より) このふたつの訳の間にある決定的な違いは、 新改訳聖書が「神は」ではなく「神が」と訳しているところにあります。 「〈神は〉天と地を創造された」という訳は、 一般的な事柄を説明しているような訳し方だといえるでしょう。 しかし、この箇所は、一般的な事柄を説明しているのではありません。 そうではなく、ここでは、この世界に対する強い宣言がなされているのです。 「初めに、〈神が〉天と地を創造した」と。 「天と地」という表現は、 宇宙全体を指す表現として、聖書では用いられています。 ですから、聖書は、「私たちが宇宙として認識している、 この世界のすべては、神が創造したのだ」 という力強い宣言をもって始まっているのです。 それは「この世界において、神によって創造されなかったものはない」 という主張でもあります。 「神がこの世界のすべてのものを造られたのだ」と。 神がこの世界を造られたということは、 偶然によって、今の世界があることや、 他の神々によってこの世界が造られたという考え

説教#73:「主よ、来てください!」

『 主よ、来てください! 』 聖書  コリントの信徒への手紙 第一 16:21−24、ヨエル書4:18-21 日時 2015年6月14日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・小岩教会 【パウロが自分の手で書き送る】 いよいよコリントの信徒への第一の手紙の終わりにたどり着きました。 ここでパウロは、自分の手で挨拶を記しています。 パウロは通常、口述筆記という形で手紙を書いています。 つまり、パウロが語った言葉を、他の人に書いてもらうという形で、 彼はこの手紙をこれまで書いてきました。 そんなパウロが、わざわざ最後に自分の手で挨拶を記したのには、 ふたつの理由があります。 ひとつは、これはまさしくパウロからの手紙であるという証拠として、です。 そして、自分の手で書く必要があるほどに、伝えたいことがあったというのが、 ふたつめの理由です。 では、パウロは一体何を伝えたかったのでしょうか。 彼は、22-24節でこのように述べています。 主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。(Ⅰコリ16:22-24)

説教#72:「互いに愛し合い、赦し合い、仕え合う」

『 互いに愛し合い、赦し合い、仕え合う 』 聖書  コリントの信徒への手紙 第一 16:15−20、創世記33:1-11 日時 2015年6月7日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・小岩教会 【信仰者の模範を示す】 パウロは最後の挨拶をコリント教会に宛てて書いている中で、 5人の人物の名前を挙げています。 その5人とは、ステファナ、ファルトナト、アカイコ、そしてアキラとプリスカです。 彼らは、コリント教会と、とても関係の深い人々でした。 パウロはここで、この5人を「信仰者の具体的な模範」として、 コリント教会の人々に示しています。 パウロが、具体的な信仰者の模範をコリント教会に示したのには、 当然わけがありました。 彼は、14節で「何事も愛をもって行いなさい」と語りました。 何事も、神の愛が行動の動機となるように、と。 しかし、この勧めだけでは不十分だと彼は考えたのです。 そのため、「愛を実際に行動に表したらどうなるのか」ということを、 パウロは具体的に示す必要を感じました。 しかし、パウロは、いつもコリント教会の人々と一緒にいるわけではないため、 彼自身が彼らのそばで生活をして、彼らの模範となることはできませんでした。 ですからパウロは、彼らの身近にいて、 彼らがよく知る人々を、信仰の模範として示したのです。 ステファナ、ファルトナト、アカイコ、そしてアキラとプリスカを通して、 パウロは、「何事も愛をもって行う」ということを、コリント教会に示したのです。