しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2015年7月19日日曜日

説教#78:「神は安息へと招かれる」

神は安息へと招かれる
聖書 創世記2:1-4a、マルコによる福音書3:1-6
日時 2015年 7月 19日(日) 礼拝
場所 小岩教会(日本ナザレン教団

【目まぐるしい日々を過ごす私たち】
現代に生きる私たちは、とても目まぐるしい日々を過ごしています。
仕事に追われ、ノルマに苦しみ、
まるで働くために生きているかのようだと、錯覚してしまうほどです。
時間が足りないのでしょうか?
技術の発展により、生活は日を増すごとに便利になっており、
昔に比べて時間を節約できるようになっているはずです。
それにも関わらず、「時間が余って仕方がない」
と考えている人は少数派のはずです。
「時は金なり」という言葉があるように、
私たちは時間をとても大切なものとして考え、
出来る限り時間を、最大限に有効に使いたいと願っています。
しかし、そう願えば願うほど、様々な日常の事柄に、
私たちは追われる毎日を過ごすことになります。

【天と地の創造が完成した日】
先ほど朗読された創世記の箇所は、
このような現代社会に警鐘を鳴らしているように思えてなりません。
そこにはこのように記されています。
天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。これが天地創造の由来である。(創世記2:1-4)
この世界の創造が行われた第七の日は、
神が造った天と地とそこに住むすべてのものの完成が宣言された日でした。
この日に、神は「御自分の仕事を離れ、安息なさった」(創世記2:2)
と聖書は証言しています。
なぜ神は、仕事を離れ、安息を取られたのでしょうか。
私たち人間の立場で考えるのであれば、
「あぁ、神様も疲れたんだな」と思うかもしれません。
しかし、神はそのような動機で休まれたのではありません。
神は決して疲れることのない方だからです。
では、なぜ神は仕事を離れ、休まれたのでしょうか。
それは、ご自分がなされた創造のわざを喜び、楽しむためでした。
完成したこの世界は、
神によって「極めて良い」(創世記1:31)と評価された場所です。
この「極めて良い」ものを隅々まで見つめて、喜び、楽しむ日として、
神は第七の日に仕事を離れて、安息されたのです。

【「安息の日」に招かれている】
創世記1:27によれば、私たち人間は、神の像に似せて造られました。
ということは、神が休まれたのならば、
神の像に似せて造られた私たち人間も、休む必要があるのは当然です。
そのためこの箇所を通して、
神は、私たちを第七の日の「安息」へ招いておられるのです。
しかし、ここで語られている「安息」は、
「身体を休めるための休み」とは少し違います。
もちろん、休みなく働き続けることなど出来ませんから、
「身体を休めるための休み」は、私たちにとって必要なものです。
しかし、「身体を休めるための休み」は、
残りの6日間の働きにとって有益だからという動機で取られるものです。
そのため、ここで語られている「安息」とは、意味合いが違っています。
神が招いておられる「安息」とは、
神によって与えられている生命を喜び、楽しむことです。
ですから、神が招いておられる第七の日とは、
神に造られた者がどのような者なのかを思い出させる日なのです。
この日は人間が何かを成し遂げるための一日ではありません。
そうではなく、神が成し遂げてくださったことを見つめ、
それに応答する一日です。
神が私たちに何をしてくださったのかを、しっかりと見つめる日なのです。
日々の生活において、私たちは、何かが出来ることで評価を受けます。
しかし、この第七の日は、
私たちがただここに存在するということが喜ばれるべき日です。
そのような日として、神は、第七の日を「安息の日」として祝福し、
神の像に似せて造られた私たちを「安息」へと招いておらえるのです。

【神は、第七の日を聖別された】
さて、神はこの第七の日を目標として、創造のわざを行なってきました。
そのため、この日を迎える時を、神は心から待ち望み、楽しみにしながら、
世界の創造のわざを行ないました。
ですから、この世界の完成が宣言された第七の日に、
神はこの第七の日を「祝福し、聖別された」のです。
「聖別」とは、神だけのために取り分けるという意味です。
興味深いことに、「聖別」が聖書で最初に登場するのは、この箇所です。
聖なる場所である神殿や、聖なる民であるイスラエルの民が、
「聖別」されるよりも先に、この第七の日が「聖別」されたのです。
第七の日の聖別とは、時間の聖別です。
つまり、第七の日という時間は、神だけのために取り分けられているのです。
ですから、第七の日の安息へと私たちが招かれているということは、
神だけのために取り分けられた時へと、
神は私たちを招いているということです。
それは、言い換えれば、
「自分のために時間を使うことをやめるように」という強い主張です。
私たちは普段、誰もが自分のために時間を使います。
生きていくために、それは当然の行動です。
しかし、この日が私たちに求めるのは、
私たちが動くことではなく、立ち止まることです。
立ち止まって、ありのままの自分を見つめるようにと促すのです。
ですから、私たちが招かれている安息の日とは、
立ち止まることによって、自分が自分として存在することを喜ぶ日であり、
神に与えられたこの生命を感謝する日なのです。
この安息の日を通して、神は私たちに語り掛けておられるのです。
「立ち止まりなさい。あなたがあなたであるために」と。

【蔑ろにされた「安息日」】
そしてこの招きは、後の時代に守るべき戒めとして、
イスラエルの民に与えられました。
それはこのようなものでした。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。(出エジプト記20:8-11)
この七日毎に迎える安息日を守ることを通して、
イスラエルの民は、自分たちは神に愛され、
神から生命を与えられている存在であるという事実を確認し、
喜びと感謝を覚え、神を賛美しました。
しかし悲しいことに、いつしかこの戒めは、
喜びや感謝ではなくなってしまったようです。
イスラエルの民は、「安息日」の掟を「守る」ということに意識が向かい、
安息日を徹底的に守るために、様々な掟をつくりました。
しかし、「守る」という意識に目を向けすぎたため、
「安息日」がもつ豊かな意味が、蔑ろにされるようになってしまったようです。
マルコによる福音書3章に記されている、安息日に関する記事には、
そのような問題が背景にあります。

【「真ん中に立ちなさい」】
イエス様は、安息日を「守る」という当時の人々の姿勢を、
鋭く批判しています。
イエス様の目の前にいたのは、片手の萎えた人でした。
当時の人々が安息日の掟を「守る」ために、つくった掟によれば、
この片手の萎えた人を癒やすことは禁じられていた労働でした。
人々はイエス様を訴えようと思い、安息日に
この人の病気をいやされるかどうか、注目していました(マルコ3:2)。
彼らの関心は、イエス様が掟を守るか、それとも掟を破るかにあったからです。
この彼らの行動は、安息日の意味を無視するような行動でした。
彼らは、イエス様を訴える口実を引き出すための道具として、
この片手の萎えた人を見ていたのです。
また、その場にいた人々の中で、片手が萎えたこの人の苦しみに共感する人は、
イエス様以外誰一人としていませんでした。
それは、神の創造のわざを冒涜するようなものでした。
片手の萎えた人が道具のように見られ、
この人の存在が喜ばれていなかったため、
イエス様はこの片手が萎えた人に向かって言われました。
「真ん中に立ちなさい」(マルコ3:3)
「この人をしっかり見つめなさい」。
「今苦しみを覚えているこの人に、あなたがたの目を向けなさい」。
イエス様は「真ん中に立ちなさい」とこの人に語ることによって、
人々に向かってこのように主張されたのです。
恐らく、この日、本当の意味で「安息」を与えられたのはこの人でしょう。
神に造られた自分という存在のありのままを、
イエス様に受け入れられたのですから。
この人は、イエス様に取り扱われることを通して、
神に与えられた生命を喜ぶことができたからです。
反対に、人々は沈黙することによって、彼に死を宣告し続けました。
イエス様が、「安息日に律法で許されているのは、
善を行うことか、悪を行うことか。
命を救うことか、殺すことか」と問い掛けても、彼らは黙っていました。
沈黙することによって、彼らは、
イエス様を訴えるための道具として、片手の萎えた人を利用し、
彼の存在、彼の人格を押し殺していたのです。
ですからイエス様は、この一連の出来事を通して、彼を癒されたのです。
イエス様は、彼の片手を癒しただけでなく、
その癒やしを通して、彼の一人の人間としての存在のあり方そのものを
回復されたのです。
安息日の語る祝福に相応しく、このひとりの人が、人間らしく生きるために。

【神への感謝を喜びをもって捧げる】
このように、私たちに与えられている「安息」とは、
私たちを拘束し、戒めや決まりによって
身動きを取りにくくするものではありません。
私たちが毎週日曜日に守っているこの礼拝は、
安息日がもつ豊かな意味を引き継いでいます。
安息日は本来、私たちを掟に縛りつけて、
生きにくくするためのものではなく、
私たちが生命の目的を知り、人間らしく生きるため、
そして私たちが真の安息を得るために、
神から恵みによって与えられたものです。
このような豊かな恵みに溢れる安息日の意味を引き継いだ礼拝へと、
私たちは毎週日曜日に、神に招かれています。
そして、その招きに応えて共に神を礼拝をしています。
ですから、礼拝は、私たちを拘束するようなものではなく、
神の栄光をたたえ、喜んで感謝を捧げることが、
私たちたちの命の目的である、
ということを何度も何度も確認するためのものです。
私たちは、この日に、神の前に出て行くことを通して、
神によって本当の意味での安息を与えられるのです。
「私」という人間が、「私」として存在することを、
神の前に出て行き、立ち止まって、喜び、感謝する。
目の前にいる「あなた」という人間、「あなた」として存在することを、
神の前に出て行き、立ち止まって、喜び、感謝する。
そこに真の平安があるから、神は私たちを招き続けておられるのです。
現代に生きる私たちは、とても目まぐるしい日々を過ごしています。
日々しなければならないことに追われ、息苦しさを感じます。
時には、道具のように扱われることもあります。
そうしているうちに、いつの間にか人間らしさを見失ってしまうのです。
神に「あなたは極めて良い」と言われているにも関わらず、
自分の存在が「極めて良い」ということを忘れてしまうのです。
だから、イエス様は今日も私たちを招いておられるのです。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28)
この方のもとにこそ、真の安息があります。
ですから、感謝と喜びをもって、私たちは主の前に出て行きましょう。

今日も、そして、これからも。