しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2015年8月16日日曜日

説教#81:「それでも神は探し求める」

それでも神は探し求める
聖書 創世記3:1-21、ローマの信徒への手紙6:23
日時 2015年 8月 16日(日) 礼拝
場所 小岩教会(日本ナザレン教団

【探しまわる神と、神を避けて隠れる人間】
ある日、風の吹くころ、
神の造られたエデンの園において、神の声が静かに響き渡りました。
主なる神は、人に呼びかけて言われました。
「どこにいるのか」(創世記3:9)
神は園の中を歩き回り、人を探していました。
共に交わりをもつ存在として、神によって造られた人間を求めて、
神は園の中を探して、歩きまわっておられたのです。
しかし、神が求めた人間は、探しまわる神の足音や、
彼らに呼びかける神の声を聴いたとき、
どうしたことか、彼らは神を避けて、園にある木々の間に隠れたのです。
人間は本来、神と交わりを持つ存在として造られました。
そのため、このような行動はとても不自然なものでした。
彼らに一体何があったのでしょうか?

【善悪の知識の木が園の中央に置かれた理由】
創世記3章1-7節に記されている物語は、
人間がなぜ神の御顔を避けて、隠れてしまったのかについて語っています。
物語は、蛇が女性に語り掛けることから始まります。
蛇はこのように語り掛けました。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」(創世記3:2)
この言葉は、実に巧妙に神の言葉を逆転させるものでした。
神が人間に語りかけた言葉は、このようなものでした。
「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:16-17)
神は「園のどの木からも食べてはいけない」とは言っていません。
神は「園のすべての木から取って食べなさい」と許可を与え、
その上で、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」と言って、
禁止命令を与えられたのです。
食べてはいけない実を結ぶ、善悪の知識の木を、
神が園の中央に置いたのには、当然理由がありました。
それは神と人との交わりを、生命ある豊かなものとするためです。
人間には、自由が与えられていました。
それは、神に背く自由さえもです。
そのような自由の中で、人間が善悪の知識の木から「取って食べない」ことを
何度も、何度も選び取り続けて欲しいと、神は願ったのです。
ですから、人間にとって、善悪の知識の木とは、
神の言葉を守ることを、目に見える形であらわすものでした。
またそれは、神にとって、人間への信頼のしるしでした。
善悪の知識の樹が園の中央に置かれているということには、
このような豊かな意味があったのです。

【神の言葉を都合よく受け取る妻】
しかし、どうやら人間は、
その豊かな意味を忘れてしまっていたかのように思えます。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」という
蛇の問い掛けに対して、彼女はこう答えました。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」(創世記3:2-3)
どうやら彼女は、神がこの木を置いた理由を忘れ、
「神の言葉を守らなければいけない」
という形式に目がいってしまったようです。
彼女は「食べるな」という言葉に、過剰に反応し、
「触れてもいけない」と自分の解釈を付け加えました。
また、「食べると必ず死んでしまう」という神の言葉を、
「死んではいけないから」と、自分に都合の良いように受け取っています。
このような彼女の言葉を聞き、
蛇は、神の言葉を逆転させることに成功しました。
蛇は言います。
「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(創世記3:4-5)
「あぁ、あなたがた人間は気の毒だ。
あなたがたには神から自由が全く与えられていないのだね」
と蛇は遠回しに言っています。
神が語りかけた言葉の意味を忘れ、
守らなければいけないという形式ばかりに囚われている彼女は、
あまりにも簡単に、意味を取り違えることになります。
その結果、善悪の知識の樹になる果実が、
彼女にとって大きな魅力を放つことになったのです。
「善と悪の分別がつくようになって、なぜいけないのか?」
「蛇がいうとおり、賢くなることによって、
人間の生に新たな可能性が開かれるのではないか?」
彼女はそのように判断してしまい、
とうとう善悪の知識の木から実をとって、食べてしまったのです。
そして、彼女はその実を夫にも与えました。
その結果、どうなったのかについて、7節にこのように記されています。
二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。(創世記3:7)
たしかに、蛇が言ったとおり「二人の目は開け」ました。
しかし、それは彼らが望むような結果をもたらしませんでした。
彼らは、自分たちが裸であることを知り、
お互いに身体を隠し合うことになりました。

【夫の無関心な態度】
ここで注目すべきなのは、6節の言葉です。
そこにはこのように記されています。
女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。(創世記3:6)
何と驚くべきことに、彼女の夫は、彼女と一緒にいたと著者は語っています。
神から直接「善と悪を知る樹」をめぐる戒めを受けたのは、
彼女ではなく、彼の方でした。
その彼が、目の前の妻の判断と行動に対して、まったく沈黙しているのです。
彼にとって、妻は、顔と顔とを合わせて交わりを持つ、
対等な存在として神から与えられました。
そのような存在として自分に与えられた妻が、
神の教えをまさに破ろうとするとき、
彼は一言も語らず、ただ傍観していたのです。
一体なぜ彼は黙っていたのでしょうか。
創世記の記述に、その理由は書かれていませんが、愛する妻と共にいながら、
妻の行動にはまったく関心がなかったかのように思えます。
エデンの園における悲劇は、妻が蛇に欺かれたことではなく、
その場に立ち会っていた夫のこの無関心から生まれたのです。
もしかしたら、蛇との対話をきっかけに、
妻が「神のように、善悪を知るようになりたい」と思ったように、
夫であるアダムにも、同じ思いが沸き起こってきたのかもしれません。
彼は、妻に何も語らず、ただ彼女の行動を見つめることを通して、
「やむを得ず」自分も実を食べた情況を作りだしたのかもしれません。
自分の都合に合わせて、まるで道具のように妻を用いたのです。

【善悪の知識の木から取って食べた結果】
神のように、善悪を知るようになりたい。
この動機こそが、人間が抱えた問題でした。
しかしそれは、人間同士が本来もつ交わりのあり方を、
彼らが失う結果をもたらすことになりました。
創世記2:25によれば、
最初の人間は、お互いが裸であるにも関わらず、恥ずかしがりませんでした。
しかし、善悪の知識の木から取って食べて、
「目が開かれた」今、彼らはお互いの体を隠し、
しまいには、神の前に出て行った時、
お互いに責任を押し付け合うようになってしまいました。
この「女が、木から取って与えたので、食べました」(創世記3:12)と。
しかし、善悪の知識の木から取って食べて、神に背いた影響は、
人間同士の関係のみにとどまりませんでした。
神が人間を探して、園を歩いておられたその足音を聞いた時、
彼らは、神を避けて、隠れたのです。
神と豊かな交わりをもつことができるように、
神によって造られた人間が、神から逃げたのです。
また、神に呼ばれて、神の前に出て行っても、
彼らは自分の責任を逃れようとします。
そして、しまいにはすべての責任を神のせいにしようとするのです。
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、
木から取って与えたので、食べました」(創世記3:12)と。
交わりをもって生きる存在である人間が、
豊かな、生き生きとした交わりを失ってしまった姿を、
私たちはこの物語を通して知るのです。
それは、まさに死んでいる状態であると。

【恵み深き神の声「どこにいるのか」】
しかし、このような人間の背きにも関わらず、
神の恵みは実に豊かなものあることを、私たちは知ることができます。
神は、すべてをご存知である方です。
ですから、神は人間の背きを、すべて知っていたはずです。
そにも関わらず、善悪の知識の木から実を取って食べた瞬間に、
彼らにさばきを与えるのではなく、
神は彼らを探して、彼らに呼びかけたのです。
「どこにいるのか」(創世記3:9)
初めに神が語り掛けてくださらなければ、
私たちと神の関係を回復することは、決してできません。
神が語り掛けてくださったから、
本来もっていた豊かさは失われたとしても、
神と交わりをもつことが許されているのです。
「どこにいるのか」と語り掛けることによって、神は問いかけます。
あなたはどちらの側にいるのか、と。
神にあって命を得る方か。
それとも、自分が神となり死に至る道なのか、と。
このように、神は人間の背きを知りながらも、
それでも交わりを求めて問い掛けてくださっているのです。
「どこにいるのか」(創世記3:9)
私のもとに立ち帰りなさい、と。

【人間が交わりを取り戻すために】
そして、21節の言葉に私たちは神の愛に満ちた配慮を見出します。
そこにはこのように記されています。
主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。(創世記3:21)
自分の存在を恥ずかしがり、隠すのは、
人間本来の交わりのあり方ではありません。
しかし今や、それができない情況にあって、
神は「皮の衣」を人間に与えたのです。
彼らが自分たちで作った「いちじくの葉」をつづり合わせて作った腰帯は、
正直、気休めにしかなりません。
また、時が来れば、枯れて、朽ち果ててしまうものです。
神は、彼らがまたお互いに顔と顔を合わせて、向き合うことができるように、
「皮の衣」を与えられたのです。
それは、動物の犠牲の上に成り立っていました。
神が愛されたのは、人間だけではありません。
神は、造られたすべての被造物を愛しておられる方です。
それにもかかわらず、神は、動物を犠牲にして、
人間のために、「皮の衣」をつくってくださったのです。
人間が神に背いてもなお、神は豊かな交わりへと、
私たち人間を招き続けておられるのです。

【神は私たちを探し求めておられる】
神は今も変わらずに、私たちに向かって呼びかけておられます。
「どこにいるのか」と、私たちを探し続けておられます。
私たちが何度、神に背を向けようとも、
神は「ここにいます」と私たちが応えるのを待って、
何度も何度も呼びかけられるのです。
愛する子を探すように、
「わたしの子よ、どこにいるのか」と言って、
この交わりに戻ってきて欲しいと、
私たちを呼び求めておられるのです。
ですから、神の招きに応えて、神の御前に出て行きましょう。
今日も神は、あなたがたに呼びかけておられるのですから。
わたしの子よ、「どこにいるのか」と。