しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2015年8月23日日曜日

説教#82:「神は道を開かれる」

神は道を開かれる
聖書 創世記3:22-24、ヨハネの黙示録22:1−5
日時 2015年 8月 23日(日) 礼拝
場所 小岩教会(日本ナザレン教団

【喜びの園エデン】
神はかつて、人間のためにエデンという名の園を造られたと、
創世記は証言しています。
エデンから、一つの川が流れ出ていました。
その川は園を潤し、世界中を潤していました。
園の中に目を移すと、そこには神に造られた様々な生き物がいました。
また、そこには見るからに好ましく、
食べるに良いものをもたらすあらゆる木が、神によって置かれていました。
そして園の中央には、命の木と善悪の知識の木という、二本の木がありました。
神は人間を連れてきて、このような園に住まわせました。
彼はそこで、神によって与えられたパートナーと共に生活をしました。
人間はこの園で、神と語り合い、豊かな交わりをもつように、
また、この大地を管理するようにと招かれたのです。
ヘブライ語の「エデン」という単語には、「喜び」という意味があります。
エデンの園とは、まさにその名の通り、
神が造られたこの世界のすべてのものに対する喜びと、
人間を含む他の被造物たちや、神との交わりから得る
喜びが豊かに溢れる場所でした。
聖書の記述を通して、エデンの園を思い描けば思い描くほど、
そこには喜びが溢れていたのだと実感します。
しかしある日、その喜びは園から奪い去られます。
神は、エデンの園から人間を追放する決断をしなければなりませんでした。
その原因は、神の側ではなく、人間の側にあったと聖書は証言しています。

【人は善悪を知る者となった】
その原因について、神はこのように語ります。
「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。」(創世記3:22)
ここで、「我々の一人のように」と、
唯一の神が「我々」と語っていることに、少し違和感を覚えますが、
これは「熟慮の複数」といわれるものだろうと考えられています。
それは、「神が自分自身に語りかける際に使った表現」です。
神は自らに語りかけて言われました。
「人は、善悪を知る者となった」と。
善悪を知ることは、良いことのように思えます。
善悪の正しい判断をすることを、誰もが願っています。
しかし、神は「我々の一人のように」と語っています。
それは、人間が単に善悪の判断をうまく出来るようになったという、
神の認識ではありませんでした。
人間はエデンの園に連れて来られたとき、神から
「善悪の知識の木から実をとって食べてはいけない」
という強い禁止命令を受けていました。
それは、神と人間との間で交わされた約束でもありました。
しかし、彼らは善悪の知識の木から実をとって食べることによって、
神との間に交わした約束を破ってしまったのです。
善悪の知識の木から実をとって食べたことによって、
彼らは、「神のように」善悪の知識をもつようになりました。
つまり彼らは、自分の力によって
善悪の判断をすることを選び取ってしまったのです。
それは、自らを絶対化して善悪の判断をすることであり、
神との関係を拒絶することを意味していました。
言い換えれば、神のように振る舞うことです。
しかし、人間は神ではありません。
確かに、人間は神の像に似せて造られたと聖書は証言していますが、
神と全く同じ存在として造られたわけではありません。
土の塵からとって造られ、また土へと帰っていく。
そんな儚い存在として人間は造られました。
そのような人間が、神のように善悪の判断をすることができるはずありません。
しかし、それにもかかわらず、
彼らは自分の力によって善悪の判断をすることを選び取ってしまったのです。
善悪の知識の実を食べることによって、
人間は「神など必要ない」と行動で示し、
神を、神と認めることを放棄し、神との交わりを拒否したのです。

【エデンからの人間追放】
そのため、神は人間を、エデンの園から追放する決断をしました。
いや、決断しなければならなかったのです。
その理由について、神はこう語ります。
「今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」(創世記3:22)
人間が神のようになった。
それは、造られた目的とは異なるあり方でした。
そのため、永遠に神のように生きることを、神は良しとはされませんでした。
人が神のように生きるとき、人間が、この世界を破壊し、
人間同士の交わりをも破滅へと導く現実を、
神は目の当たりにしたのです。
そう、それは、エデンの園で起きた事件を通して、明らかになりました。
人間は、神から隠れ、
共に生きるパートナーに責任をなすりつけました。
そして、神から逃れることに必死になり、
彼らはこの地を管理するという、
神から与えられた使命を忘れてしまったのです。

【エデンの園から人間を追放した後】
このような理由から、神は人間をエデンの園から追放し、
ケルビムという神の使いと「きらめく剣の炎」を
エデンの園の入り口に置き、園を守らせました。
そうすることによって、神は、命の木へ至る道を閉ざしました。
人間が、永遠に生きることがないように、
そして、彼らが永遠に生きて、悲しみの連鎖を永遠に続けないために、
神は命の木へ至る道を閉ざされたのです。
そして、エデンの園を追放した後、
神は人間に、土を耕すように命じています。
23節のみを抜き出して読むと、
土を耕すこと、つまり労働が神から与えられた罰のように思えます。
しかし、労働は決して神から与えられた罰ではありません。
というのは、人間が神に背く前に、
人間は神からこの大地を「耕し、守る」という使命が与えられているからです。
神が人間与えた職務について、創世記2章にこのように記されています。
主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。(創世記2:15)
人間は、神が造られたこの世界を守り、耕すという使命が与えられていました。
しかし、どうしたことでしょうか。
3章を読んでみると、その様子はまったく伺えません。
アダムとエバの関心は、神に与えられた職務ではなく、
神のようになること、そして、いかに神から逃れるかにありました。
彼らは、神が与えた職務を忘れていたのです。
そのため神は、エデンの園からの追放を通して、人間に語りかけているのです。
あなたは善悪の知識を知り、神のようになったかもしれない。
しかし、あなたは決して神ではない。
思い出しなさい。
あなたが何者なのかを。
あなたは、土の塵から造られた者である。
そして、神は言われます。
私は、あなたと関わりをもちたい。
私はあなたを愛している。
だから、思い出して欲しい。
あなたが何者なのかを。
神は、エデンの園から人間を追放してもなお、
私たち人間に語り掛けておられるのです。

【イエス・キリストこそ、命へと至る道】
エデンの園から人間を追放してもなお、
人間に語り掛ける神は、このままで良しとする方ではありませんでした。
驚くべきことに、神は、追放した人間を追いかける方だったのです。
神は、エデンの園に留まるのではなく、園を出て行き、
追放された人間を追いかけ、交わりをも持ち続けようとされました。
そして、私たち人間に、何度も、何度も語りかけてくださったのです。
神は、決して私たちと共に歩むことを諦めませんでした。
諦めなかったからこそ、
神は、独り子であるイエス・キリストを世に遣わされました。
そして、イエス様を通して、神は、閉ざされた道を開かれたのです。
イエス様は、ご自分についてこのように言われました。
わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ14:6)
神が、イエス様を通してまず開かれたのは、人間と神との交わりでした。
かつて人間の側から拒んでしまった、人間と神との交わりを、
神の側から、切り開いてくださったのです。
イエス様が、私たちと神との間に和解をもたらすために取られた行動は、
実に驚くべきものでした。
イエス様は、自分の命を差し出し、十字架に架けられて死ぬことによって、
私たちと神との間に和解をもたらしてくださったのです。
それは、私たちが神に背き続けているために、本来受けるべき罰を、
イエス様がすべて背負ってくださったということを意味していました。
イエス・キリストにあって、私たちは神へ背き続けた罪の赦しを与えられ、
神との交わりへと再び招かれるのです。
イエス様を通してでなければ、誰も神のもとへ行くことができないのです。
そして、神はイエス様を通して、
私たち人間の間に和解をもたらしてくださいました。
エデンの園で、人がその妻に自分の罪をなすりつけて以来、
人間同士の間には、常に愛せないという問題がつきまとっていました。
どうしても愛せないという現実に、私たちは苦しみ続けています。
イエス様は、神と人との間に和解をもたらすためだけでなく、
私たち人間の間に和解をもたらすためにも来られたのです。
それはイエス様が私たちに愛を示し続けたことによって、実現した道でした。
イエス様は言われました。
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)
イエス様の十字架によって、私たちは、愛と赦しを受け取っています。
イエス様が私たちに命じられているのは、
愛と赦しを受け取るだけで満足してはいけないということです。
イエス様に愛され、赦されたように、
人を愛し、赦しなさいとイエス様は語るのです。
お互いに愛し合い、赦し合い、お互いの存在を喜び合う、
これこそ本来あるべき人間関係のあり方です。
このような関係へと回復させるために、
イエス様は私たちのもとに来て、愛を示してくださったのです。
イエス・キリストこそ、神が与えてくださった、命へと至る道なのです。

【そして、命の木への道は開かれる】
このように、神はイエス様を通して、
命へと至る道を私たちに用意してくださいました。
神の約束は私たちの想像を遥かに越えるほど、恵み深いものです。
その恵み深い私たちの主は、更に驚くべき約束を与えてくださいました。
その約束は、ヨハネの黙示録22章に記されています。
天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。(黙示録22:1-2)
将来、新しい天と新しい地がやって来るとき、
神によって閉ざされていた、
命の木への道は開かれるとここで語られています。
ここに記されている命の木は、川の両岸に置かれています。
しかし、その木は両岸にあるにもかかわらず、
この箇所で「木」という単語は単数形が使われています。
両岸にあるならば、2本以上あるのは確実なのに、1本である。
これはとても不自然な描写ですが、
意図的に1本の命の木と記されているのでしょう。
1本の命の木。
それは明らかに、創世記2ー3章に登場する、
エデンの園の中央に置かれた命の木が意識されています。
その意味で、この黙示録に記されている約束は、
一度閉ざされてしまった命の木への道が再び開かれる、
という希望の約束を語っているのです。

【命へ至る道を歩む】
このように、神が道を開かれたから、
私たちは命に至る道を歩むことができるのです。
それは神と共に語り合い、共に歩む道です。
また、隣人たちと共に語り合い、互いに愛し合い、赦し合い、
助け合い、支え合いながら生きる、喜びの道です。
この命へ至る道は、決して私たち自身の力で得ることはできません。
命へ至る道は、神が、キリストにあって開かれた道なのです。
私たちは神によって与えられたこの道を、
喜びと感謝をもって歩んで行きましょう。
命へ至る道は、天の御国へと向かっていく道です。
この道の途上、私たちは様々な経験をします。
喜びの日もあれば、悲しみ、失望する日もあります。
躓いて転ぶ日も、うずくまる日もあるでしょう。
しかし、私たちが神に感謝し、喜ぶべきなのは、
命へ至るこの道を、
たったひとりで孤独のうちに歩んでいるわけではないということです。
私たちには、教会という共にこの道を歩む共同体が与えられています。
お互いに兄弟、姉妹と呼び合える友が与えられているのです。
ですから、神が開いてくださったこの命へと至る道を、
神が与えてくださった隣人たちと共に、手を取り合いながら、
互いに愛し合い、赦し合いながら、歩んで行こうではありませんか。
天の御国に辿り着くその日まで。