しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2015年10月4日日曜日

説教#88:「神の配慮」

『神の配慮
聖書 創世記7:1-16、ルカによる福音書12:6-7
日時 2015年 10月 4日(日) 礼拝
場所 小岩教会(日本ナザレン教団)

【箱舟に乗り込む】
「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。」(創世記7:1)
「箱舟を作りなさい」(創世記6:14)と神から命じられたノアが、
この箱舟に乗り込む日が、ついにやってきました。
その日、箱舟に乗ったのは、ノアとその妻、彼らの3人の子どもたちと、
それぞれの妻たちの合計8人と、多くの動物たちでした。
箱舟に乗った動物たちに注目してみると、
とても不思議な命令を神がしていることに気づきます。
神はこのように言われました。
あなたは清い動物をすべて七つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい。(創世記7:2)
興味深いことに、神は動物について、
「清い」動物と「清くない」動物という分類をしています。
そして、その上で、「清い」動物も「清くない」動物も、
箱舟に乗せなさいと言われたのです。
神がここで語る「清い」「清くない」という言葉は、祭儀上の分類です。
つまり、神に礼拝を捧げる上で、必要となってくる、
動物の分類がここでなされているのです。
生け贄として、神に捧げることのできる「清い」動物なのか、
神に捧げることのできない「清くない」動物なのか。
神に礼拝を捧げる人間が食べたり、
触れたりすることのできる「清い」動物なのか、
それとも、食べたり、触れたりしてはいけない動物なのかといった分類です。
重要なのは、それぞれの動物が「清い」か「清いくない」のかを
人間の側が決めたわけではないことです。
「清い」「清くない」ということを定めたのは、神であり、
どちらの動物も、箱舟に乗せるようにと言われたのも、神です。
そのため、神に命じられたとおり、ノアは「清い」動物たちも、
「清くない」動物たちも、箱舟へと乗せたのです。
「清い」「清くない」ということに目を向けるときに思い起こしたいのは、
神は、造られたすべてのものを「良い」と言われたことです。
その意味で、「清い」「清くない」という分類を、
「良い」「悪い」と同じように考えてはいけません。
神の目に、造られたすべてのものは非常に良いのです。
そのため、神に造られた「良い」ものたちを箱舟に乗せるのは当然のことです。
しかし、選ぶのが神ならば、選ばないのもまた神です。
同じ種類の動物であったとしても、
当然、限られた数しか箱舟に乗せることはできません。
ノアに、大きな箱舟を造らせたは良いけれども、
すべての動物たちを箱舟に乗せきることができないという、
神の苦悩を、このテキストの背後に見出し、
ご自分が下した決断ゆえに苦しむ神と私たちは出会うのです。

【人間の悪を見た神が下した決断】
神が苦しみながら下した決断とは、
「地上に洪水をもたらす」(創世記6:17)ことでした。
この決断ゆえに、神はノアに「箱舟を作りなさい」と命じられました。
なぜ神は、このような決断を下したのでしょうか。
その理由について、著者は
「地上に人の悪が増し」(創世記6:5)たからと語っています。
神はご自分が造られたこの世界を喜んで見ておられました。
しかし、神が愛して止まない人間が、
神が造られたこの世界を傷つけ、破壊していました。
人間同士が争い合い、傷つけ合い、
お互いに利用し合い、自己中心に生きている。
それは、神の望んだ世界のあり方とは、正反対のあり方でした。
そのような現実を目の当たりにした神は、苦しみを覚えながら、
ノアに向かって、このように言われたのです。
七日の後、わたしは四十日四十夜地上に雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面からぬぐい去ることにした。(創世記7:4)
神は人間のみに裁きを与えるのではなく、
この世界全体に裁きを与えられました。
人間が神に背き続けた影響は、人間の間では留まらなかったのです。
この物語は、人間の抱えている悪が、
他の被造物たちにも影響を与えているという現実を、私たちに突きつけます。

【創造のわざの逆行】
神の裁きは「洪水」という形で起りました。
「洪水」は、ヘブライ語で「マッブール」という単語が使われています。
この単語は、もともと「洪水」という意味でも、
「滅ぼす」という意味でもありません。
マッブールとは、「天の上にある水」を指す、特殊な単語です。
この物語の中で描かれている「洪水」について正しく理解するためには、
古代の人々が、どのようにこの世界を理解していたのかを知る必要があります。
古代の人々は、この世界には「上の水と下の水」があると考えていました。
それらは、この世界が神によって造られたときに分けられたものです。
「上の水と下の水」は、創世記1章の天地創造の物語にも登場します。
創世記1:6-7に、このように記されています。
神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。(創世記1:6-7)
神が命じて、水が上と下に分かれたということは、
この「上の水と下の水」が分けられる前、
それらの水は、かつて、この地上にあったということが推測できるでしょう。
ですから、ここで描かれている「洪水」とは、
天地創造のときに上と下に分けられた水が、
再びこの地上に戻ってくる、いや雪崩れ込んでくるというものだったのです。
それはまるで、この世界を造られた神の創造のわざが
逆行していくような出来事だったのです。
そう、それは、神が造られた世界が、カオスへと戻っていく。
神の創造のわざがなされる前の、
混沌としてた状態へと世界が向かっていく出来事でした。
このような出来事が描かれている洪水物語が強調するのは、
神の怒りによって、この洪水が起こったということではありません。
この物語が強調するのは、人間の悪が積み重なって、それが原因となって、
神がこの世界に与えた秩序が崩れ、カオスがもたらされたということです。
そして、地上の秩序をカオスが、洪水の水という形で飲み込んでいくことを、
神が許されたことを著者は語っています。

【恵みによる選び】
このような洪水から逃れさせるために、
「箱舟を作るように」と神はノアに命じられました。
それは、この世界に雪崩れ込んできて、この世界を覆い、
猛威をふるう水から、カオスから、
この箱舟に乗っているものたちを守るという神の約束です。
ノアは神を信頼し、神の言葉を信じて、
まだ雨も降らぬとき、乾いた大地の上に箱舟を作ったのです。
選ばれたノアには、神と選ばれなかった他の人々に対して、責任がありました。
それは、神に従うという責任です。
ノアは、神の言葉を信じて、行うという形で、その責任を果たしました。
そして、それは人々の目に見えるものとして、
箱舟が作られることによって果たされました。
そのため、この洪水からの救いは、
ノアを通して多くの人びとに開かれていたといえるでしょう。
この箱舟はとても大きいものだったため、とても目立つものだったはずです。
ということは、ノアは多くの人びとに尋ねられたことでしょう。
「あなたはなぜそんなものを作っているのですか?」
「一体、これに何の意味があるのですか?」といった具合に。
しかし、箱舟に乗ったのはノアとその家族だけでした。
そのため、家族以外、誰もノアの言葉を信じなかったのでしょう。
これまでそうであったように、人々は神に背き続けたのです。
そして、自らカオスを呼び起こすこととなり、
それに飲み込まれていってしまったのです。
結果はこのように悲しむべきものでした。
しかし、神がノアを選んだということは、
人間が神に背き続けている現実があったとしても、
それでも、神は諦めなかったということでしょう。
どれほど私たちの目に厳しい裁きが神によってなされたとしても、
それでも、神は愛なのです。

【神の配慮】
神は、愛と憐れみに満ちておられる方ですから、
雨が降り続け、太陽の光も十分に届かない暗闇の中で、
不安を抱えながら、水の上を漂わなければならないであろう、
箱舟に乗るものたちに、心を配られました。
14-16節にこのように記されています。
彼らと共にそれぞれの獣、それぞれの家畜、それぞれの地を這うもの、それぞれの鳥、小鳥や翼のあるものすべて、命の霊をもつ肉なるものは、二つずつノアのもとに来て箱舟に入った。神が命じられたとおりに、すべて肉なるものの雄と雌とが来た。主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた。(創世記7:14-16)
ここに記されていることを通して、私たちは神の配慮を見出すことができます。
神は、単に命じるだけの方ではありません。
神は、従おうとするノアのため、必要なものを備えてくださる方です。
ノアに与えられたのは、たったの7日間でした。
その7日間の間に、ノアとその家族は、箱舟に食糧を積み、
箱舟に乗せる動物たちを探して、連れ込まなければなりませんでした。
これらすべての準備を、わずか7日のうちに行うのは至難の業です。
しかし、その準備がすべて果たされたと、聖書は証言しているのです。
15節に「命の霊をもつ肉なるものは、
二つずつノアのもとに来て箱舟に入った」(創世記7:15)と記されています。
驚くべきことに、動物たちはノアのもとに自ら来て、
箱舟に入って来たというのです。
神の命令が、何の支障もなく果たされたのは、
明らかに、そこに神の配慮があったからです。
そして、すべての準備が整ったからこそ、
神が、「ノアの後ろで戸を閉ざされ」(創世記7:16)ました。
私たち人間は完全ではないため、「万全の準備」などできるはずがありません。
しかし、この箱舟の戸は、神が閉められました。
これから箱舟に乗る者たちは、
雨が降り続け、太陽の光も十分に届かない暗闇の中で、
不安を抱えながら、水の上を漂わなければなりません。
しかし、神が大丈夫だと確信して、箱舟の戸を閉められたのです。
ここに神の大きな配慮と、
神の絶対的な守りがあることを見出すことができます。

【神は、聖霊によって私たちを守り、導かれる】
さて、このような神の配慮は、ノアだけのものでも、
箱舟に乗った人々だけのものでも、
また、聖書の時代に生きた人々だけのものでもありません。
神の配慮は、今を生きる私たちに及ぶものです。
新約聖書に記されている、主イエスの言葉に目を移すとき、
神は、特別なときだけでなく、日々、いつも、私たちを心に留め、
私たちに心を配ってくださる方だと気付くでしょう。
ルカによる福音書の12章にこのように記されています。
五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。(ルカ12:6-7)
イエス様がこのように言われたように、
神は、私たち一人一人を決して忘れることなく、
見捨てず、見放さないでおられるお方です。
その証として、神は、聖霊を私たちに与えてくださいました。
聖霊は、私たちに慰めと励まし、助けと導きを与えてくださる方です。
神は、この聖霊によって、私たちを生涯導いてくださるのです。
ノアの時代にように、人間の悪が原因となって、
この世界に大洪水が起こることはもう二度とありません。
神は、「わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、
二度とすまい」(創世記8:21)と約束されたのですから。
しかし、この世界を見渡すとき、
カオスと思える情況が全くないとは、残念ながら言い切れません。
それは、神が起こしたというより、
私たち人間の側が原因となって、引き起こされているカオスです。
私たちは相変わらず、お互いに傷つけ合い、
裁き、罵り合い、そして争い続けています。
また、時には、人の悪意と出会い、大きな傷を受けることがあります。
聖書の語ることなど無意味なのではないかと思える現実を、
歩んでいかなければならない時もあります。
そんなとき、箱舟に乗った人々を思い起こしましょう。
彼らに、神の配慮が行き届いていたように、この混迷する社会において、
神の配慮は私たちに行き届いているものであると、
聖書は証言しているのですから。
そして、神が、私たちをその生涯の終わりまで
守り導いてくださるというしるしが、聖霊によって与えられているのですから。
たとえ大きな人生の嵐の中にあったとしても、
聖霊を通して、神の配慮は私たちに行き届いているのです。
これが、私たちの確信であり、私たちの希望、そして慰めです。