しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2015年10月25日日曜日

説教#90:「我らは礼拝の民」

『我らは礼拝の民
聖書 創世記8:6-22、ローマの信徒への手紙12:1-2
日時 2015年 10月 25日(日) 礼拝
場所 小岩教会(日本ナザレン教団)

【外の状況を把握できない箱舟に乗った人々】
ノアが生きた時代、大洪水に襲われた世界は、水で覆われていました。
その水の上を、ノアとその家族、動物たちを乗せた箱舟は、
長い間漂っていました。
聖書の記述を見る限り、それはおよそ1年間にも及ぶ長い日々でした。
箱舟に乗ったものたちにとって、箱舟に乗った1年間はとても長く、
いつ降りることが出来るかもわからない、
永遠に続くような時間だったことでしょう。
彼らは、世界を覆う水が引いていき、
再び、乾いた大地が現れる日を、ひたすら待ち続けたのです。
天からの雨が降り止んだ150日後、山々の頂きが現れ始めました。
その40日後、ノアは窓を開き、外の様子を伺おうとしました。
箱舟は、怒涛のように押し寄せてくる水から、身を守るために作られたため、
窓を多く作ることも、大きく作ることも出来なかったことでしょう。
そのため、箱舟についている窓から、
外の様子を完全に把握することは出来ず、
知りうることは限られていました。
ですから、ノアは外の様子を知るために、鳥を用いたのです。
コンパスのない時代、船乗りたちにとって、
鳥を連れて行くことは、なくてはならない航海上の慣習だったようです。
鳥を放ち、その鳥が飛んでいく方向によって、
彼らは陸地の方角を見定めることが出来たそうです。
ノアは、古代の船乗りたちの慣習と同じことをしているのだと思います。
乾いた大地はあるのか。
そして、その乾いた大地は何処にあるのかを正しく見定めるために、
自分が置かれている状況を知るために、ノアは鳥を放ったのです。

【鳩と親密な関係を築いたノア】
ノアが初めに放った鳥は、カラスでした。
彼はこの箱舟から出る日が来ること、
そして、カラスを通して良い情報を得ることを期待し、
カラスを窓から放ったことでしょう。
しかし、カラスはすぐに戻って来てしまいました。
ノアとその家族は、カラスが戻ってきたことを通して、
乾いた地が十分に現れていないことを知ります。
カラスが箱舟に戻ってきてから、ノアは鳩を用いることにしました。
鳩もカラスと同じように、何の成果も果たせず、すぐに戻ってきます。
しかし著者は、鳩が箱舟に帰って来るその様子を、
大きな愛をこめて、細かく描いています。
ノアは手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のもとに戻した。(創世記8:9)
とても優しい描写です。
ノアは手を差し伸ばし、鳩はその手の上に乗る。
水に覆われ、羽を休める場所がないこの世界において、
鳩は、ノアのもとに安全があることを知っていたのです。
ここに、鳩とノアが信頼関係を築いている様子が描かれているのです。
この後、カラスではなく、鳩が用いられ続けたのは、
ノアと鳩との間に築かれた、
このような信頼関係があったからなのかもしれません。

【箱舟から出る日は近い!】
このように鳩とノアとの間に築かれた信頼関係が、美しく描写されましたが、
このとき、ノアが知ることができたのは、
地はまだ水で覆われているということでした。
そのため、彼は7日後に、再び鳩を放つことにしました。
しかし、夕方になると、鳩はノアの元に戻ってきました。
そのため、結果は以前と同じように見えました。
地はまだ水で覆われていることを知り、
まだ箱舟を降りるべきときではないと、彼は落胆したことでしょう。
しかし、実際は、鳩は希望を携えて、ノアの元に戻ってきたのです。
何と、鳩はオリーブの葉を加えていたのです。
それは、洪水後に芽生えた新しい葉っぱでした。
この地上のすべてのものを拭い去った洪水の水が引いた後に、
新しく芽生えた葉っぱを見つけた。
それは、大きな喜びと希望を、箱舟に乗っている人々にもたらしました。
水が引き、乾いた新しい大地を、この足で踏み出せる日は近いと、
彼らは、鳩がくわえていたオリーブの葉を通して予感したのです。
そして、それから更に7日後に、ノアはもう一度鳩を放ちました。
その結果を著者は、実に簡潔に書き記しています。
鳩はもはやノアのもとに帰って来なかった。(創世記8:12)
鳩は、箱舟のノアの元には帰って来ませんでした。
それは、鳩が乾いた大地を見つけ、
羽を休めることの出来る場所にたどり着いたという証しでした。
このことを通して、箱舟に閉じ込められている人々は、
自分たちも箱舟を出て行き、自由になれると確信したのです。
鳩がいなくなったことは、喜びのおとずれとなったのです。

【神の時を待つ】
しかしノアは、すぐには箱舟から出ませんでした。
箱舟の覆い、おそらくそれは屋根なのでしょう。
その箱舟の覆いを外して、ノアは乾いた地を見ても、
箱舟を降りませんでした。
待ち望み続けたあの大地が、その目に映り、
喜びを覚えながらも、彼はじっと動かず、時を待ったのです。
「箱舟に乗りなさい」とノアに命じた神が、
「箱舟から降りなさい」と命じるその時を、彼は待ちました。
人間の目から見て最善だと思えたとしても、
神の目から見て、それが最善だとは限りません。
ノアは、神の定める時を待つ人でした。
自分で思い通りに物事を操作して、自分で時を定めるのでもなく、
完全に神に委ねきり、任せきるのでもない。
ノアは、今自分が果たすべきことを果たしながら、神の時を待ったのです。
このバランス感覚はとても重要です。
私たちは、この世界を造られた神から、
この世界を管理するようにという命令を与えられ、
この世界を管理する責任を委ねられています。
それは、この世界の行く末を左右するような大きなプロジェクトや、
多くの人びとから賞賛を受けるような偉大なことをすることを指して、
「私たちはこの世界の管理責任が委ねられている」
といわれているわけではありません。
この世界の管理。
それは、もっともっと些細な事です。
私たちが毎日するようにと、神から与えられている様々な務めこそが、
この世界を管理する働きとなっているのです。
学ぶことも、日々の仕事も、家事も、育児も、
いや、生きる上で行うすべてのことが、
この世界を管理するようにと、神から与えられている使命なのです。
この使命を受け取って、自分に委ねられている責任を果たしながら、
私たちは、神の時を待つようにと招かれているのです。
与えられている責任を果たしながらも、
私たちは、すべてのことを自分で握りしめて生きるのではなく、
最終的には、すべてを神の御手に委ねるようにと招かれているのです。

【我らは礼拝の民】
このような招きに応えて、
神の時を待ち、神の命令に従い、箱舟を降りたノアは、
箱舟に降りてすぐに、祭壇を築きました。
そう、他の何よりも優先して、彼は祭壇を築き、神を礼拝したのです。
この当時、人々がどのようにして神を礼拝していたかはわかりません。
確かなことは、ノアが焼き尽くす献げ物としていけにえを捧げ、
神を礼拝したということです。
この献げ物は、いけにえとして捧げられた動物を、
完全に焼き尽くすものでした。
それは、このいけにえをささげる者が、
自分のすべてを神にささげるという思いでなされるものでした。
そう、ノアはすべてを神に捧げたのです。
それは、神からすべてを与えられていると知っていたからに他なりません。
すべてのものは、洪水によって神から奪われ、
そして、神の憐れみによって、神に与えられたものです。
洪水の後に生きているノアにとって、
すべてのものを自分のものとして主張する権利は、何一つありません。
ですから、ノアはすべてを握りしめることなく、
神に委ねながら、神に委ねられている日々の務めを果たしたのです。
神の憐れみによって、すべてのものを与えられたからこそ
誠実に心を尽くして、自分の全存在をかけて、神に感謝をささげ、
神のみこころに応えていくように務める。
そのような証しとして、ノアは、
焼き尽くす献げ物としていけにえを捧げ、神を礼拝したのです。
ノアと同じように、私たちも礼拝者として生きるように招かれています。
使徒パウロは、ローマの教会の人々に宛てて、このように書きました。
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。(ローマ12:1-2)
「あなたがたの体を……生けるいけにえとして献げなさい。
これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」とパウロは語ります。
ということは、礼拝とは決して、心の問題ではないのです。
礼拝とは、「からだ」つまり、生き方すべてが問われることなのです。 
私たちが行くところ、どこにおいても、 
神を礼拝することが求められています。
「からだ」が関わっているすべての事柄を、神にささげるのです。
つまりそれは、この「からだ」を使って行うすべてのことです。 
話すこと、食べること、飲むこと、働くこと、遊ぶこと、 
考えること、眠ること、笑うこと、怒ること、泣くこと、 
そうした私たちの生き方のすべてに関わる事柄を通して、 
神を礼拝するようにと求められているのです。 
学ぶことも、日々の仕事も、家事も、育児も、
生きる上で行うすべてのことが、神にささげる礼拝となるのです。
私たちの生涯のすべてが神への礼拝となる。
これこそが、私たちが生涯を通してなすべき礼拝のあり方です。