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説教#95:「栄光の王とは誰か?」

「栄光の王とは誰か?」  聖書 マタイ1:1-11、サムエル記下12:1-10 日時 2015年11月29日 礼拝 場所 小岩教会(日本ナザレン教団) 【マタイ福音書の華々しい幕開け】 マタイによる福音書は、イエス・キリストの系図を記すことから始まります。 その冒頭において著者は、これから福音書の中で物語られ、  紹介されていくことになるイエス・キリストについてこのように述べています。  「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリスト」(マタイ1:1)と。  イエス・キリストは、信仰の父であるアブラハムの子であり、  イスラエルの偉大な王であるダビデの子であると述べることから、 著者はこの福音書を始めました。  旧約聖書に登場する、ふたりの偉大な信仰者、 信仰の父であるアブラハムと、イスラエルの偉大な王であるダビデ。 イエス・キリストが、このふたりの子孫であると紹介をされ、 マタイによる福音書は、とても華々しく幕を開けるのです。 「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ1:1)と。 著者は、系図を記すことから、この福音書を始めました。 現代に生きる私たちならば、この方法はまず選ばないでしょう。 しかし、旧約聖書を知る人々にとって、 系図から福音書が始まるのには大きな意味がありました。 著者は、旧約聖書の時代から イエス・キリストにまで至る一本の線を引いています。 それは、単なる血のつながりによる系図ではありません。 この系図は、神への信仰によって貫かれています。 ここに記されている、神の恵みによって選ばれた人々は、 神が約束してくださった言葉を次の世代へと語り伝えていきました。 神が約束してくださったこととは、救い主が来るということです。 ですから、アブラハムからキリストに至るまでの系図は、 旧約聖書の時代から人々が待ち望み続けた 救い主キリストが私たちのもとに来たということを意味します。 それは、偶然の思いがけない出来事ではなく、 神の計画のうちに起きた出来事であると証言されているのです。

説教#94:「私たちが築くべきもの」

「私たちが築くべきもの」 聖書 創世記11:1-9、ヨハネの手紙 一 4:16-21  日時 2015年11月22日 礼拝 場所 小岩教会(日本ナザレン教団) 【「聞かない」共同体】 それは、この世界の人々が同じ言葉を話していた時代のことでした。  人々は、自分たちが世界中に散らされることを恐れ、こう言いました。 「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」(創世記11:4)  このように言った人々は「天まで届く塔のある町」を建てることによって、 ひとつになろうとしました。 この当時の人々は、今の私たちとは異なり、同じ言葉を用いていました。 しかし、それにも関わらず、彼らは全地に散らされることを恐れました。 「同じ言葉を用いていても、自分たちはひとつになれない」と 人々が考えていたことがわかります。 たとえ同じ言葉を話していたとしても、思いをうまく共有できず、 異なる考えや価値観を受け入れ合うことができない。 目の前の相手の言葉を聞き、理解できるのに、理解し合うことができない。 お互いの言葉を「聞かない」こと。 これが、この町の人々が抱えた問題でした。 その解決策として、「天まで届く塔のある町」を建てることによって、 人々はひとつになろうとしました。 「天まで届く塔」とは権力の象徴でした。 人々は、権力を用いることによって、ひとつになろうとしたのです。 しかし、それは神の意図したこととは正反対のことでした。 神は私たち人間を祝福して 「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記9:1)と言われました。 この世界に広がっていくことは、神の祝福の現れであり、 神が望んだことでした。 そのため、「天まで届く塔のある町」を建設し、 人々が世界に広がっていくことを止めようとしたことは、 神の祝福を否定し、拒否することでした。 人々は、人間同士の声を、お互いに聞かないばかりでなく、 神の声さえも聞かない状態だったのです。

説教#:93:「神の祝福の証人」

「神の祝福の証人」   聖書 創世記10:1-32、ルカによる福音書24:45-48 日時 2015年11月15日 礼拝 場所 小岩教会(日本ナザレン教団) 【神の祝福「産めよ、増えよ」】 この世界を造られたとき、 神はこの地上のすべての生き物を祝福して言われました。 「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記1:28)と。 この祝福の言葉は、洪水の後、ノアとその家族にも語られたものでした。 そして、この神の祝福は、ノアの3人の息子である セム、ハム、ヤフェトの3人から、  この世界のすべての民族が広がっていくことによって、 この地上に実現しました。 創世記10章の系図は、そのような神の祝福の現実を物語っています。 ノアの3人の息子たちの子孫によって、地上のすべての民族は分かれ出て、 この地上に産まれ、増え、そして地に満ちていったのです。 神の祝福とは、ただ単にこの地上に 人間が増え広がっていくというものではありませんでした。 「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福された時、 神は、人間やすべての生き物に「多様性」という豊かさを与えられました。 そう、神は、すべての人間、すべての生き物を 全く同じようには造らなかったのです。 創世記10章に記されている民族や国の名前を思い巡らすだけで、 そこに様々な違い、多様性があることに気付くでしょう。 言語、文化、住んでいる場所、肌の色、髪や眼の色、考え方、好みなど、 私たち人間には、様々な違いというものが、 「多様性」という形で与えられているのです。 神は、私たちひとりひとりを、とてもユニークな存在として造られ、 私たちひとりひとりの存在を心から喜んでおられるのです。 神は、そのような「多様性」を良しとされ、 人間がこの世界に広がっていくのを喜ばれたのです。

説教#92:「恵みによって義とされる」

『恵みによって義とされる 』 聖書  創世記 9:18-29、ローマの信徒への手紙 3:9-24 日時 2015年 11月 8日(日) 礼拝 場所 小岩教会(日本ナザレン教団) 【ノアの「物語のその後」】 私たちの周りには、色々な「物語」があります。 私たちの出会うどの物語にも、必ず結末があります。 読者である私たちが気に入るにせよ、気に入らないにせよ、  読まれ、語られる物語は何らかの形で、結末を迎えなければなりません。 そして、語られた物語に、愛着を持てば持つほど、  その物語に出てきた人々の、その後のことが気になり、 「一体、この後どうなったのだろうか」と 「物語のその後」を想像することでしょう。 今日の聖書箇所は、いわば「物語のその後」です。 洪水の後、ノアとその家族はどうなったのだろうかという、 読者である私たちが抱く好奇心に、著者が応えているかのようです。 しかし、一読して抱く感想は、「正直、こんな話は求めていない」でしょう。  ノアは、天幕の中で、ぶどう酒を飲んで酔っぱらい、裸になる。 そして、酔いからさめると、 ノアは、自分の裸を見た息子の家系を呪ってしまうのですから。 これが本当に、「神に従う無垢な人」「義人」と呼ばれた あのノアの姿なのか、と疑ってしまいたくなります。 そのため、ノアの「物語のその後」は好んで語られません。

説教#91:「神の約束を信じて生きる」

『神の約束を信じて生きる 』 聖書  創世記 9:1-17、コロサイの信徒への手紙 3:1-4 日時 2015年 11月 1日(日) 礼拝 場所 小岩教会(日本ナザレン教団) 【神の恵みにより、祝福を受ける】 ノアの時代に、世界を襲った洪水の水は引いていきました。 そのため、箱舟に乗ったものたち、ノアとその家族と動物たちは、 箱舟を降りることができました。  彼らが箱舟から降りたその後、 神はノアとその息子たちを祝福して、このように言われました。  「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記9:1)  この言葉がこのタイミングで語られたことには、大きな意味がありました。  神はこれと同じ祝福の言葉を、この世界を造られた時に語られました。 神は、人間だけでなく、この世界全体に、 そう、神が造られたすべてのものに向かって、 「産めよ、増えよ」と、この世界の創造のはじめに祝福されたのです。 しかし、その後引き起こされた洪水によって、 すべての地上の生き物は、ことごとく滅ぼされてしまいました。 それはまさに、神の語った「産めよ、増えよ」という祝福を 否定しているかのような出来事でした。 このような悲惨な結果をもたらした洪水の原因は、人間の側にありました。 人間の悪が地上に増し加わっていったため、神は心を痛めながら、 洪水によって人間を裁く決断をされたと聖書は証言しています。 しかしそれにも関わらず、神は、 お造りになったすべてのものを完全に滅ぼすことはされませんでした。 神は、ノアとその家族を箱舟に乗せ、彼らを洪水から救われたのです。 また、洪水によってもたらされた水で、 この世界を覆ったままにすることはされず、 神は水を引いてくださいました。 そして、洪水の後、神は再び祝福を与えられたのです。 「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記9:1)  この祝福の言葉から、洪水後の新しい時代が幕を開けました。 ただ、一方的に神から与えられるという形で、洪水後の時代は始まったのです。