しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2015年12月6日日曜日

説教#96:「新しい時代の訪れ」

「新しい時代の訪れ」 
聖書 マタイによる福音書1:1-17、イザヤ書9:5-6 
日時 2015年12月6日 礼拝 
場所 小岩教会(日本ナザレン教団)

【イエス・キリストへ至る系図】
マタイによる福音書は、アブラハムから始まり、 
イエス・キリストで終わる系図を記すことから始まります。
ここに名前が記されている人々は、旧約聖書の時代に生きた信仰者たちです。
アブラハムやダビデのように、
旧約聖書で詳しく取り扱われている者もいれば、
エリウドやエレアザルのように、全く知られていない者もいます。
彼らは、神の民として選ばれ、その生涯を神とともに歩んだ人々でした。
その意味で、この系図は、旧約聖書の信仰者たちの歴史が凝縮されている、
ということもできるでしょう。
私たちが信じるイエス・キリストの物語を語り始める際、 
著者は、旧約聖書の時代に生きた信仰者たちの系図を記すことによって、 
旧約聖書の歴史とその時代の人々が抱いていた信仰を
無視してはいけないと語っているのです。

【旧約聖書に記された信仰者の物語を思い起こす】
では、著者がこの系図を用いて、読者である私たちに伝えたかった、
旧約聖書の時代の歴史と信仰とは、一体どのようなものだったのでしょうか。
この系図に記されている名前を少しずつ読み進めていくとき、
旧約聖書の信仰者たちの様々な物語を思い起こすことでしょう。
自分の生まれ故郷を捨てて、神が示す約束の地へと出て行った、
信仰の父であるアブラハムの信仰に溢れたあの決断を。
夜通し神と戦ったヤコブが、神の祝福を追い求めるあの姿を。
サウル王に何度も命を狙われながらも、生き延び、
イスラエルの王となり、国の基礎を築き上げたダビデ王の
信仰と勇気に溢れるあの姿を。
神を礼拝する神殿を築いたソロモン王のあの豊かな知恵の言葉を。
そして、偶像崇拝に溢れたユダ王国に信仰を取り戻させた、
ヨシヤ王の信仰の熱意に溢れたあの改革を。
このように、この系図を通して、旧約聖書に記されている、
あの偉大な信仰者たちの信仰の物語を思い起こすことができます。

【罪にまみれた歴史】
しかし、ここに記されている一人ひとりの歴史を
より注意深く紐解いてみると、 彼らは決して
完全な人間、模範的な信仰者であったわけではないことに気付くでしょう。
アブラハムは、エジプトの王ファラオの前で、妻のサラを
「彼女は自分の妹です」と紹介し、自分の命を守ろうとしました。
また、ヤコブは父親を騙し、兄から長男に与えられていた権利を奪い取り、 
自分の故郷から逃げ出しました。
やっと落ち着いたかと思えば、 ヤコブの息子たちは、
彼が愛してやまなかったヨセフを奴隷として売り払ってしまいました。
知恵の人ソロモン王は、どうだったでしょうか。
彼は、700人もの多くの妻をもちました。
そして、彼女たちを通して、ソロモンは異教の神々を知り、
偶像礼拝をするようになってしまいました。
このように、偉大な信仰者として知られる彼らの生涯を紐解いてみるとき、
彼らの生涯は、賞賛されることばかりではなかったことに気付かされます。
彼らもまた、神に背き、人を傷つけ、
罪にまみれ、罪に苦しむ生涯を送っていたのです。
そのため、マタイによる福音書のこの系図に記されている、
旧約聖書の時代の歴史が私たちに語りかけることは、
神への信仰を抱いた人々の信仰者としての模範的な姿だけではありません。 
いや寧ろ、神に背いた人々の過ち、
神に対する背きの罪の歴史の方が、数多く語られているのです。
その意味で、この系図は、
旧約聖書の時代の人々の信仰が描かれていると同時に、
人間の罪が描かれている歴史といえるでしょう。
それは、特定の人々が犯しがちな過ちでは決してありません。
私たちすべての人間が抱える現実です。
それは、神を愛せない人間の現実。
そして、周囲の人々と共に生きるようにと招かれているのに、
人を愛することができず、争いや拒絶を生み出してしまう人間の現実です。
この系図を読み、過去の信仰者の歩みを思い起こすとき、
私たちは、私たち自身が抱える罪の現実を目の当たりにするのです。
私たちもまた、神を愛せず、人を愛することができていない、と。

【人間の罪が及ぼす影響】
悲しいことに、系図が語るのは、
神と人間、また当事者同士で完結するような罪の現実ではありません。
罪の影響が、次の世代へ、次の世代へと、
世代を超えて及んでくるという現実を系図は語っています。
その決定的な出来事として、
「バビロンへ移住」(1:11)した出来事が記されています。
これは、紀元前586年に起こった
「バビロン捕囚」という事件を指しています。
バビロニア帝国によって、ユダ王国が滅ぼされ、
ユダヤの人々が外国へ捕虜として連れて行かれた出来事です。
この出来事は、イスラエルに対する神の裁きとして、
神がバビロニア帝国を用いることによって起こりました。
神がイスラエル・ユダヤの人々にこのような裁きを行ったのは、
彼らが、神の言葉を聞かず、自分勝手に生き、
時には、異教の神々を拝み、神に背き続けたからです。
彼らがこのような状態に陥るそのきっかけは、
捕囚が起こる400年以上も前の時代にありました。
そのきっかけのひとつは、イスラエルの王、ソロモンです。
ソロモンが、異教の神々を拝むようになったことによって、
イスラエル、そしてユダヤの中に異教の神々への礼拝が侵入してきました。
もちろん、それに抵抗する王や国民たちもいました。
しかし、多くの王たちは、神に背き、身勝手な政策を行ったことが、
旧約聖書には記されています。
このバビロン捕囚の出来事は、
私たち人間の罪が世代を超えて、影響を及ぼしていくものである証です。
しかし、世代を超えて影響し続ける人間の罪は、
バビロン捕囚の出来事だけではありません。
この世界の現実を見渡す時、罪の影響から抜け出せずにいる
人間の現実に気付くでしょう。
相変わらず人々は、互いに憎しみ合い、争い合っています。
互いに愛し合いなさいという神の言葉を忘れ去られ、
人々の間から、排除や差別が絶えません。
これらの物事は、私たち人間が抱える罪が起因しているのです。
そして、この罪の及ぼす影響は、一人の人間の力では
抵抗することの出来ないほどの力で、私たちに押し寄せてくるのです。
そのため、この系図に記されている旧約聖書の時代の人々と同じように、
私たちも罪にもがき、苦しんでいます。
人を傷つけ、憎しみ続ける歴史が今も続いていることに。

【罪に苦しむ時代が終わりを告げる】
しかし、マタイによる福音書の著者は、絶望していません。
寧ろ、彼は希望を告白しています。
罪にまみれた人間の歴史の縮図ともいえるこの系図の、
一番最後に「イエス」という名を記すことによって、
彼は希望を告白しているのです。
メシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。(マタイ1:16)
メシア、すなわち私たちに救いを与える方として、
イエス・キリストはお生まれになりました。
何からの救いでしょうか。
それは、すべての人々を苦しめる罪の支配からの解放です。
神は、イエス様の十字架の死と復活によって、
私たちに罪の赦しと、罪への勝利をもたらしてくださいました。
神が私たち人間を愛し、私たちを諦めなかったからこそ、
イエス様が私たちのもとに来られ、私たちと共に生き、
私たちのすべての罪を背負って十字架にかかってくださったのです。
イエス・キリストこそ、私たちに対する神の愛の現れなのです。
神は、イエス様を通して、
私たちが苦しむ罪の現実に終わりを告げてくださったのです。
そう、私たちが自分の罪に嘆き、悲しむ時代は、
キリストの十字架と復活によって、終わりを告げたのです。

【新しい時代は訪れている!】
そのため、私たちはこのように告白することができます。
イエス様を通して、「新しい時代が来た」と。
それは、憎しみや妬みによって行動するのではなく、
キリストに愛されたように愛するように招かれている時代です。
また、それは、自らの罪に苦しみ、嘆き、涙を流すのではなく、
どれほど大きな罪であっても、神が赦してくださったという、
その驚くほどの恵みと憐れみに感謝し、喜ぶことのできる時代です。
そして、それは、争いによって平和をもたらそうとするのではなく、
赦しと憐れみによって、平和をもたらすことのできる時代です。
ですから、私たちは喜びと感謝をもって、この世界に宣言するのです。
「新しい時代が、私たちのもとに訪れている」と。
イエス様が来て、神の愛と恵みに溢れた時代が訪れているにも関わらず、
この喜びの知らせが聞かれず、拒絶されている現実が、
私たちの周りには広がっています。
新しい時代が来たにも関わらず、
相変わらず、人々は、赦せない思い、憎しみに支配されています。
愛や喜び、憐れみではなく、憎しみや妬みを行動原理にし、
平和を作るよりは、争いを日々引き起こしてしまっています。
お互いに愛し、赦し合うようにと、すべての人々が
神によって招かれているにも関わらず、
拒絶や差別が絶えず起こっています。
そのようなこの世界の現実を、私たちはこの礼拝堂から出て行く時、
日々、この目で目撃しています。
この耳で聞いています。
だからこそ、私たちはこの世界に告げ知らせなければなりません。
「新しい時代が、イエス様によって、既に訪れた!」ということを。
罪に苦しむ時代はもう終わりを告げ、
神の憐れみ、神の愛に基づく新しい時代が訪れたのだ、と。
これこそ、福音。
私たちにとっての喜びの知らせです。
さぁ、この喜びの知らせを携えて、
神によってこの世へと遣わされていきましょう。
神の恵みと平和が、あなたがたと共に豊かにありますように。