説教#97:「神は私たちと共におられる」

「神は私たちと共におられる」
聖書 マタイによる福音書1:18-25、イザヤ書7:10-17
日時 2015年12月13日 礼拝
場所 小岩教会(日本ナザレン教団)

【喜びから絶望へ】
ここに、一人の悩める男性の姿が描かれています。
彼の名前はヨセフ。
そう、主イエスの父親として知られている、あのヨセフです。
彼は人生における、最も喜ばしいイベントのひとつである
結婚と出産を通して、ひとつの試練を与えられました。
彼に与えられた試練について、マタイはこのように記しています。
母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。(マタイ1:18)
本来、婚約期間は、結婚するふたりにとって、
結婚して二人で共に歩み始める時を、一緒に喜び待ち望む時間です。
それは、ヨセフとマリアにとっても同じでした。
しかし、そのような喜びに溢れる婚約期間中に、
妻になるマリアが身ごもったことがわかったのです。
この出来事は、とても深刻な現実をヨセフに突きつけました。
愛するマリアの身に起こったことが、ヨセフには信じ難かったことでしょう。
自分の身に覚えがないヨセフにとって、
マリアが身ごもっていることは、マリアが自分以外の男性と、
肉体関係をもったのではないかという疑いを産みました。
当然、神がマリアに働いて、聖霊によって、
マリアが子を宿したことなど、ヨセフにはわかるがはずありません。
マリアは、自分の身に起こったことを、
一生懸命ヨセフに説明したことでしょう。
主の天使が自分のもとにやってきて、
神のわざによって、自分は身ごもったことを伝えてくれたのだ、と。
しかし、ヨセフはどこまでその言葉を信じられたのでしょうか。
常識的に考えて、身重になったマリアを見たら、
自分以外の男性と性交渉を行ったとヨセフが考えるのは当然です。
結婚を待ち望み、喜び溢れていたヨセフでしたが、
マリアが結婚前に身重になったことを通して、
彼は絶望のドン底に突き落とされたのです。
なぜなのか……なぜこのようなことが起こってしまったのだろうか……。
ヨセフの苦悩に満ちた嘆きが聞こえてきます。

【ヨセフの愛と憐れみと苦悩に満ちた決断】
このように、心が引き裂かれる程辛く、悲しみに暮れるヨセフでしたが、
彼には、ある決断が迫られていました。
それは、妻のマリアとの結婚の契約を無効にすることでした。
ヨセフは、神を心から愛する「正しい人」だと知られています。
そのため、神を心から愛するヨセフにとって、
マリアの罪を見逃すような決断をすることは出来ませんでした。
どれほどヨセフがマリアを愛していたとしても、信仰者の義務として、
彼はマリアとの関係を終わらせなければなりませんでした。
悩みながらヨセフが下した決断は、秘密裡にマリアとの縁を切ることでした。
本来ならば、イスラエルの律法によれば、
彼女は、死刑に値する罪を犯していると判断されます。
婚約中の身でありながら、他の男性と関係をもった
という疑いをかけられているからです。
しかし、ヨセフはマリアに対する、愛と憐れみをもって、対応しました。
彼は、2人の証人を立てて、
密かにマリアとの離婚を成立させることを決めたのです。
ヨセフにとって、これが神を愛する一人の信仰者であり、
ひとりの女性を愛する一人の男性として最大限にできることでした。
マリアのために、ヨセフは最善を尽くしました。
しかし、それでもこの選択は、彼にとって悲しみと苦しみの伴う決断でした。
愛するマリアと関係を切らなければならないのですから。
マリアに対する愛が深ければ深いほど、彼は苦しみました。

【神は救い】
ヨセフはこのような決断を下した後も、
この問題を思い巡らし、そして悩みました。
マリアのことをどうにかできないものなのか。
他に手段はないのか。
本当に、自分が下したこの決断は正しいのだろうか。
この決断した通りに、これから行動していいのだろうか、と。
そのような時、彼は夢を見ました。
その夢の中で主の天使が現れ、彼に言いました。
「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ1:20-21)
マリアが身ごもっていることを知ってから、
ヨセフは深く傷付き、落胆していました。
自分にはどうすることもできない。
自分の力では抵抗できない情況に、彼は追い込まれていました。
そのような悩みの中にあるときに、神がヨセフに語り掛けられたのです。
夢を通して神に語り掛けられ、
この出来事が神の計画であることを告げられることによって、
ヨセフは希望をもつことができました。
神の言葉を通して、マリアのお腹の中にいる子は、
彼女の罪によって身ごもったのではなく、
神の介入によって身ごもっていることを知ることができました。
そして何より、愛するマリアを妻として迎えることができると
確信することができたのです。
もちろん、目が覚めた後も、ヨセフには神の計画のすべてはわかりません。
なぜ自分たちが選ばれたのかも、
なぜマリアに罪の疑いがかけられるような方法で、
自分たちに子どもを与えるのかも、理解することはできなかったでしょう。
しかし、神がヨセフに語り掛けてくださり、
この出来事が、神の計画によって起こった出来事であると知りました。
だからこそ、彼は希望を得ることが出来たのです。
救いはヨセフ自身のうちになく、神にのみあるのです。

【罪の赦しを得させる方、イエス】
神は救い。
それは、生まれてくる子「イエス」の名前の意味でした。
ヨセフは主の天使に命じられた通りに、
生まれてきた子にイエスと名付けました。
それは、ヨセフの信仰の告白でした。
しかし、このイエスという名前は、
ヨセフにのみ意味のある名前ではありません。
イエス。それは神は救いであること。
それは、すべての人々に意味のある名前です。
主の天使は言いました。
「この子は自分の民を罪から救う」と。
使徒パウロは、ローマの教会に宛てた手紙の中で、
この罪の現実をこのように書き記しています。
わたしは、自分のしていることが分かりません。(ローマ7:15)
私たちは、周囲の人たちと互いに愛し合って生きることが
常に求められていることはわかっています。
そのような生き方こそ、自分たちの喜びだということも、十分わかっています。
しかし、それなのに「自分が望むことは実行せず、
かえって憎んでいること」(ローマ7:15)をしてしまう自分と出会います。
そして、神を神として生きるのではなく、
自らを神として生き、自己を絶対化してしまう。
お互いに愛し合うのではなく、
自分の利益のために他人を利用し、傷つけ合い、憎しみ合う。
平和を作り出すのではなく、争いを生み出してしまう。
愛や慈しみではなく、憎しみや妬みの原理によって行動してしまう。
これが、私たちの罪の現実です。
最早、この罪の現実から、自分で自分を救い出すことなどできないのです。
この罪の現実に、神は救いをもたらすために、
「自分の民を罪から救う」方として、イエス様を
私たちのもとに送ってくださったのです。
イエス様は私たちの罪をすべて背負って、十字架に架かり、死なれました。
彼を通して、私たちの罪は赦されたのです。
私たちは罪に塗れる者として生きるのではなく、
神の愛に溢れ生きる者へと、イエス様によって変えられたのです。
私たちの力ではどうすることも出来ない罪の現実に、
神は、イエス様によって救いを与えてくださったのです。
イエス・キリスト。
この方こそ、私たちを救いへと導く方なのです。

【インマヌエルである方を待ち望む】
マタイは、イザヤ書に記されている言葉を引用して、
イエス様のもうひとつの名前を紹介します。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイ1:23)
私たちが自分の力では抵抗できず、
ただもがき苦しむしかない罪の現実の中に、
私たちが悩み、悲しみ、嘆きを覚えるそのただ中に、
神の子であるイエス様は人間として来られました。
そうすることによって、
神は私たちと共におられ、そこに神が救いをもたらされたのです。
ですから、イエス様がこの世に来られたこの出来事こそ、
イエス様が「インマヌエル」と呼ばれる理由なのです。
イエス様がインマヌエルであること。
それは、喜びであり、何よりも慰めです。
イエス様を私たちのもとに送ることを通して、
神は私たち一人一人に宣言されているのです。
たとえ、あなたがすべての人々から見放されたとしても、
それでも、私はあなたと共にいる、と。
どれほど大きな悩みの中にあったとしても、
どれほど深刻な罪の現実に悩まされていたとしても、
私はあなたと共にいる。
私たちの罪を赦すため、命をかけてまで、十字架にかかったイエス様は、
私たちひとりひとりを心から愛しておられる方です。
ですから、神は常に変わらずに、私たちにこう言われます。
わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない。(ヘブライ13:5)
しかし、神が私たちにこのように語り掛けてくださっているにも関わらず、
この世界のあり方は、神と共に生きることを拒むことの方が多く、
神の愛からかけ離れていることも多くあります。
神が共にいてくださるという喜びに満ちた現実が、
イエス様によって実現しているにも関わらず、
共に生きる人々が憎しみ合い、拒絶し合うことを見聞きします。
それは時に、目を閉ざし、耳を塞ぎたくなるような出来事です。
しかし、そのような私たちの現実にこそ、イエス様は来られたのです。
嘆きや悲しみのある場所に、賛美と喜びを与えるために。
愛の無い場所に、愛を与えるために。
だからこそ私たちは、自分たちを取り巻くこの現実の中で、
目を見開き、耳を澄まし、祈り続けようではありませんか。
主よ、この場所にはあなたの愛が現される必要があります。
「インマヌエルである主よ、私たちと共にいてください」と。
そこに主イエスが来て、救いをもたらしてくださることを信じて。
イエス様は、悩み苦しむ私たちと共に生きるために、
私たちのもとに来られたのですから。

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