しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年1月24日日曜日

説教#102:「神は私たちを離さない」

「神は私たちを離さない」 
聖書 マタイによる福音書4:1-11、申命記5:7
2016年1月24日 礼拝、小岩教会 

【試練を受けるために荒れ野へ導かれた主イエス】
それは、イエス様が洗礼者ヨハネから
バプテスマを授けられた直後のことでした。
イエス様は悪魔から誘惑を受けるために、
聖霊によって荒野へと導かれたとマタイは報告しています。
この出来事は、とても興味深いものです。
というのは、この出来事が起こったのは、
イエス様がヨルダン川で洗礼者ヨハネからバプテスマを受けて、
「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:17)と
神から宣言された直後のことだったからです。
その上、愛する子であるイエス様を、
聖霊によって荒れ野という孤独な場所へと神が導かれたのは、
「悪魔から誘惑を受けるため」(マタイ4:1)だったとマタイは記しています。
悪魔は、イエス様を神から引き離すために、イエス様を誘惑しました。
しかし、悪魔がイエス様を誘惑することを、神が許可したのは、
悪魔とは別の目的があったからです。
1節で「誘惑を受けるため」と訳されているギリシア語は、
「試みを受けるため」と訳すことができます。
そのため、神がイエス様のもとに悪魔を送った理由は、
イエス様を誘惑し、悪い道へと導くためではなく、
イエス様を試みるためだったことがわかります。
イエス様を神の計画に沿う者として、ふさわしく整えるために、
救い主メシアとしてふさわしく整えるために、
神は、イエス様に試みを与えられたのです。
この荒れ野での試みを通して、
人間としてこの地上での生涯を歩み始めた神の子であるイエス様は、
私たち人間が生きる上で、どのような誘惑や試みに直面するのかを、
同じ人間という立場で経験されました。
そして、私たち人間が抱える苦しみや悩みを強く実感したのです。
イエス様が私たちと共に歩む上で、
この荒野での試みは、どうしても必要なものでした。
悪魔は、そのような神の計画を利用し、
イエス様を神から引き離すために、3度イエス様を誘惑しました。

【第一の試み:「パンを石に変えろ」】
イエス様に与えられた最初の試みは、
40日40夜荒れ野で断食をした後に、
イエス様が空腹を感じている中でのものでした。
悪魔は、「あなたが神の子ならば」と語り掛け、
「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑しています。
イエス様は申命記8章の言葉を引用し、悪魔にこのように答えました。
『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。(マタイ4:4)(申命記8:3参照)
イエス様のこの回答によって、
イエス様がどのような誘惑にあったのかがよくわかります。
この時、イエス様は、何に依り頼んで生きているのかを、
悪魔から問われたのです。
当然、イエス様は神に依り頼んで生きていました。
しかし、悪魔のこの提案は、イエス様を神から引き離そうとするものでした。
イエス様の耳に、悪魔の言葉はこのように響いたことでしょう。
「神に頼る必要はないんじゃないのか?
あなたは神の子なのだから、あなたには力がある。
だから、自分の力に頼ってみなさい。
ほら、その石をパンに変えて、あなたの空腹を満たしなさい。
そうすれば、お腹も満たされるし、あなたが神の子であることの証明にもなる。
あなたは、神の子である自分の力に頼って生きれば良いじゃないか」と。
このような誘惑を受けたからこそ、
イエス様は、人は自分の力によって生きるのではなく、
完全に神に依存していて、神によって生かされていることを語られたのです。
考えてみると、これはイエス様のみが直面した誘惑ではありません。
私たちも同じような誘惑に日々直面しています。
神に頼るなど馬鹿げている、自分の力に頼れば良いじゃないか、
という声がいつも何処かで聞こえてきます。
しかし、思い起こしてみましょう。
私たち人間とは一体何者なのか、ということを。
イエス様は言われます。
『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。(マタイ4:4)(申命記8:3参照)
この言葉を、ギリシア語で見てみると、
受動態で書かれていることに気づきます。
人はパンによって生かされるのではない。神の口から出るすべての言葉によって(生かされる)。(マタイ4:4、稲葉私訳)
そう、私たちは自分自身の力によって生きているのではありません。
私たちは、神によって造られ、神によって命を与えられ、
神によってすべてのものを与えられ、神によって生かされているのです。
それが私たち人間です。
それにも関わらず、私たちはこの事実を忘れて、
自分の力に拠って立って生きることを選び取ってしまいがちなのです。
私たちこそ、常に問われ、そしてその度に告白する必要があるのです。
人はパンによって生かされるのではない。神の口から出るすべての言葉によって(生かされる)。(マタイ4:4、稲葉私訳)
【第二の試み:「神を試してみよ」】
さて、イエス様が受けた試みは、ひとつではありませんでした。
悪魔はイエス様の回答を聞いた後、
イエス様を聖なる都エルサレムへと連れて行き、神殿の屋根の上に立たせて、
実に巧妙な言葉で、イエス様を誘惑しました。
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」(マタイ4:6)(詩編91:11-12参照)
人は「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とイエス様が語った後、
このように語り掛けるあたり、悪魔のずる賢さがにじみ出ています。
神の言葉が記されている聖書の言葉にのみ、従うという姿勢ならば、 
悪魔のこの誘いは、正しいことのように思えてしまうでしょう。
悪魔は旧約聖書の詩編91篇に記されている言葉を利用し、
イエス様を誘惑したのですから。
しかしイエス様は、神に信頼するとはどのようなことなのかを心得ていたため、
申命記6章を引用し、このように答えました。
あなたの神である主を試してはならない(マタイ4:7)(申命記6:16参照)
神を試すことは、神に信頼していることとは違います。
神の言葉を自分の都合に合わせて用いるのも、
自己実現のために神と向き合うのも、信頼とは違います。
悪魔は、神に対する信頼を歪んだものへと変えようとしたのです。

【「あなたが神の子ならば」】
イエス様が受けた最初の2つの誘惑は、
「(あなたが)神の子なら」と語り掛けられることから始まりました。
イエス様は「神の子であることを証明せよ」という誘惑を受けたのです。
それは、「自分のために力を使って、奇跡を行うことによって、
神の子である自分の身分を証明する」という誘惑でもありました。
しかしイエス様は、その生涯を通じて、
自分のために奇跡を起こすことはなさいませんでした。 
もちろんイエス様は、自分が神の子だと信じさせるためなら、
いくらでも奇跡を起こすことができました。
石をパンに変えることも、
神殿の上から飛び降りて、天使に助けてもらうことも、
神の子であるイエス様にはできました。
しかし、いくら素晴らしい奇跡を起こし、
自分が神の子であることを人々に知らせたとしても、
それは本当の意味で人々の救いとはなりません。
ですから、イエス様は自分のために奇跡を起こすことは決してしませんでした。
イエス様が奇跡を起こしたのは、
人々に対する愛が動機となっているときのみでした。
悩める人々に救いの手を差し伸べるため、
そして、病に苦しむ人々に癒やしを与えるために、
イエス様は奇跡を行いました。
ですから、イエス様は悪魔から誘惑を受けた時、
自分が神の子であると証明するために、奇跡を起こすことはしなかったのです。

【第三の試み:「ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」】
イエス様が、自分のために奇跡を起こそうとはしないとわかると、
悪魔は、イエス様を非常に高い山に連れて行き、
世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、ささやきます。
「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(マタイ4:9)
イエス様は、失われている人々を取り戻すために、
私たちのもとに来られました。
そう、すべての人々を神との豊かな交わりへと招くためです。
その目的が、悪魔を拝むならば、達成されるというのです。
それは魅力的な誘惑だったかもしれませんが、妥協の提案でもありました。
目的を達成するために、最も大切なことである「主のみを礼拝する」ことを
蔑ろにしても良いじゃないか、という提案だったのです。
そのため、イエス様は強く拒否しました。
「ただ主のみを礼拝せよ」という言葉を思い起こし、悪魔を退かせたのです。
この3番目の誘惑こそ、私たちが常に直面している試みだと言えるでしょう。
もちろん、イエス様のように、悪魔と対峙して誘惑されることなどありません。
しかし、神から引き離そうとする声に常に囲まれているという点では、
本質的には同じだといえるでしょう。
私たちは毎日のように様々な声と出会います。
それらは私たちにとって好意的な声かもしれません。
しかし、時には、神以外のものを神とせよと語りかけてくる声や、
私たちと神を引き離す声と出会います。
神に頼るよりも、あなたの持っている
能力、財産、人脈こそが頼りになる、と。
また時に、妥協を誘う声が私たちのもとに届きます。
私たちが生きる上で大切なモノを守るために、
少しの間、神のことを忘れても良いじゃないか、と。
人生という長い旅の中、私たちはこのような声と出会い続け、
時には勝利を収めますが、時には打ち負かされ、
妥協し、神以外のものを神としてしまいます。

【神はあなたを離さない】
そんな私たち自身の歩みとは対照的に、
イエス様は、ただ主である神のみを礼拝して歩まれました。
イエス様が私たちのもとに来られたのは、
私たちに神の子の完全さを見せつけるためではありませんでした。
そうではなく、私たちを神から引き離そうとする声や、
妥協を誘う声に常に囲まれ、葛藤し、苦しむ私たちと共に歩むために、
イエス様は来られたのです。
イエス様は、神から離れ、神以外のものを礼拝しやすい
私たちの弱さを十分知っておられます。
だから、イエス様は私たちのもとに来て、
私たちと共に歩んでくださったのです。
私たちを神から引き離そうと、私たちの内側で叫び続ける声があります。
罪と呼ばれる、その声は、私たちを神から引き離そうと
日々私たちに語りかけてきます。
そんな、私たち人間が抱える罪の影響から、私たちを引き離し、
神のもとへと私たちを引き戻すために、イエス様は来られたのです。
使徒パウロは、イエス様によって成し遂げられた神の計画について、
力強くこのように語りました。
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ローマ8:38-39)
これからも、私たちは様々な声と出会うことでしょう。
また、抵抗することが出来ない力と出会うことでしょう。
「ただ主のみを礼拝せよ」という言葉を心に深く刻みつけるほど、
神から離れて生きることを選び取りがちな自分と出会い、
葛藤し、苦しみを味わうことになるかもしれません。
しかし、私たちは自分自身に希望は置きません。
私たちの希望は、主キリストにあります。
パウロが語ったように、イエス様によって示された神の愛から、
他の何物も私たちを引き離すことはできないのです。
いくら私たちが失望しようとも、
それでも私たちは既に神のものとされているのです。
私たちは、神から離れようとするかもしれませんが、
神は決して私たちを離さず、私たちと共にいてくださるのです。
そうすることによって、神は私たちを少しずつ、
神の前に相応しい礼拝者へと造り変えてくださるのです。
神が私たちを引き離すことがないから、
私たちは神によって造り変えられていくのです。
感謝しつつ、喜びをもって、イエス様と共に歩んでいきましょう。