しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年2月21日日曜日

説教#105:「鶏は何度鳴いた?」

「鶏は何度鳴いた?」 
聖書 ヨハネによる福音書18:15-27、士師記2:8-15 
2016年2月21日 礼拝、小岩教会(日本ナザレン教団)

【ペトロの三度の否定】
イエス様は、兵士たちやユダヤ人の下役たちに、
ゲツセマネの園で捕らえられた後、アンナスのもとへ連れて行かれました。
この当時の大祭司はカイアファという人でしたが、
アンナスは、カイアファの前任の大祭司であり、
大祭司を退職した後も、強い影響力を持っていました。
そのため、大祭司カイアファのもとへイエス様を連れて行かせる前に、
アンナスは、自分のもとへイエス様を連れてこさせたのです。
さて、この時、アンナスのもとへ連れて行かれる
イエス様の後を追う2人の弟子たちがいたと、ヨハネは報告しています。
それは、「十二弟子」のリーダーであるシモン・ペトロと、
「もう一人の弟子」と呼ばれている人物でした。
イエス様がゲツセマネの園で逮捕された時、
彼らはイエス様を見捨てて逃げてしまいましたが(マルコ14:50)、
どうやら気を取り直して、イエス様の後を追ったようです。
ヨハネによれば、ペトロと一緒にイエス様の後を追った、
「もう一人の弟子」と呼ばれている人物は、
アンナスと知り合いだったようです。
そのため、彼は一緒に来たペトロを連れて、
アンナスの屋敷の中庭にまで入ることができました。
すべての福音書に記されているあの有名な事件が起こったのは、
この時のことでした。
ペトロがイエス様のことを、3度「知らない」と言った事件です。
この話は、なぜこれほど有名な話になったのでしょうか。
それは、この出来事が起こる以前に、 
イエス様がペトロに語ったある言葉が関係しています。
イエス様が捕らえられるその夜、「最後の晩餐」と呼ばれる食事の席で、
ペトロが「あなたのためなら命を捨てます」(ヨハネ13:37)
と言った直後に、イエス様は、ペトロにこのように語りました。
鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。(ヨハネ13:38) 
悲しいことに、その後、イエス様が言われた通りになってしまったのは、
先ほど読まれた箇所の通りです。
ペトロは3度、イエス様を否定しました。
そして、ペトロが3度イエス様を否定したその時、
鶏の鳴き声が聞こえてきました。
この鶏の鳴き声は、ペトロの心にどのように響いたのでしょうか。
他の3つの福音書を見ると、ペトロは泣いたことが記されています。
イエス様を信じていると言いながら、否定してしまう自分が恥ずかしくなって、
彼は涙をこらえ切れず、泣いたのでしょう。
自分の罪深さに耐え切れなくなって、
自分自身に失望して、彼は涙を流したのでしょう。

【主イエスに従いながら、主イエスを否定する】
しかし、今日私たちが読んだヨハネによる福音書に
目を移してみると、どうでしょうか。
鶏が鳴いた直後のペトロの反応について、ヨハネは完全に沈黙しています。
そして、「するとすぐ、鶏が鳴いた」(ヨハネ18:27)という報告がなされて、
ペトロはこの受難の物語から姿を消してしまいます。
鶏が鳴いた後のペトロの行動を、読者に想像させるためなのでしょうか。
このヨハネによる福音書は、
4つの福音書の中で1番最後に書かれた福音書だと考えられています。
ですから、ヨハネによる福音書が書かれた当時に、
この福音書を読んだ人々の多くは、少なくとも
1番最初に書かれた福音書である、マルコによる福音書は知っていると思います。
そうであるならば、この時に、ペトロが泣いたことは
人々によく知られていたことだったといえます。
しかしそれにも関わらず、ヨハネは、
イエス様を3度否定した直後のペトロについて、沈黙するのです。
それは、読者である私たちが、自分とペトロを重ね合わせるためでしょう。
ヨハネは、ペトロの情報を打ち切ることによって、
私たちに問い掛けているのです。
「もしも、あなたがペトロの立場だったら、
この鶏の鳴き声を聞いた時、どのような反応をしますか」と。
私たちがペトロの立場であったなら、
当然、他の福音書に描かれているように、彼と同じように、
自分の罪と向き合う時、私たちはただ泣き崩れるしかありません。 
何より、イエス様と一緒に過ごしてきた、これまでの日々のことを思い起こすと、
その悲しみや失望は、より深まるばかりです。
この時のペトロは、単にイエス様を否定したわけではありませんでした。
彼の心をどん底にまで突き落としたのは、
彼が、イエス様に従いながら、イエス様を否定したという事実でしょう。
ペトロはイエス様に従って、イエス様について行きました(ヨハネ18:15) 。
しかし、彼はイエス様の後を追って来たそのときに、イエス様を否定したのです。
その上ペトロは、イエス様に敵対する人々の仲間であるかのように振る舞い、
うまくその場に紛れ込み、溶け込もうとしました。
18節にこのように記されています。
僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。(ヨハネ18:18)
彼はイエス様に敵対する人々と一緒に火にあたり、暖を取っていました。
人々が語るイエス様のうわさ話や悪口などを聞いて、
適当に相槌を打つペトロの姿。
そして、自分がイエス様の弟子だとバレないように、
目立たないように、コソコソしているペトロの姿が想像できるでしょう。
これは、イエス様に従いながら、
イエス様を否定する歩みができる証拠に他なりません。
それは当然、ペトロ個人の、彼特有の問題ではありません。
イエス様に従いながら、イエス様を否定すること。
それは、私たちも抱える問題なのです。

【鶏は何度鳴いた?】
ですから、自分自身にこのように問い掛けてみましょう。
「もしも、3度イエス様を否定する度に、鶏が鳴くのだとしたら、
私たちの人生の中で鶏は何度鳴いているのだろうか」と。
このように自分に問いかけてみると、私は胸が痛みます。
これまでに一体どれほど、イエス様を否定したことでしょうか……。
イエス様を信じていることを、この口で否定することだけが、 
イエス様を否定することではありません。
私たちの言葉や行動が、イエス様の喜ばれるものでないとき、 
私たちは、「私」という存在を通して、
イエス様を信じていることを否定しています。
人を傷つける時、イエス様も傷ついています。
争い合う時、イエス様もその争いを悲しんでいます。
人を無視する時、互いに愛し合いなさいと言われたイエス様を無視しています。
自分の考えを押し付けることで、目の前の相手を否定しているとき、
イエス様を押しのけて、自分を神の位置においています。
イエス様のことを、この口では信じていると言いながら、
イエス様を否定した歩みを、私たちはあまりにも簡単にすることができるのです。
私たちは一体どれほど、イエス様を否定してきたのでしょうか。
あぁ、私たちの人生において、鶏は一体何度鳴いたのでしょうか……。

【私たちのため、主イエスは十字架へ向かって歩んだ】
このように自分の罪や過ちを見つめて、失望し、思い悩む私たちに、
神は「しかし」と語り掛けてくださいます。
「あなたは自分の罪と向き合う時、
自分ではどうしようも出来ず、苦しんでいる。
《しかし》、そんなあなたのために、
私は独り子であるイエスをあなたたちのもとに送ったのだ」と。
ペトロが「違う」と言って、イエス様と自分の関係を否定したそのとき、
鶏が鳴いたそのとき、
イエス様は大祭司の前に立って、裁判を受けていました。
刻一刻と、御自分の死へ向い、十字架へ至る道を歩まれました。
それは、イエス様自身が抱える罪のためではなく、
私たちが抱える罪のためでした。
イエス様を否定することしか出来ない私たちの罪を赦すため、
イエス様は十字架へ至る道を進んで行かれました。
イエス様が裁判の席に立ち続けているのは、 
「それでも、あなたを赦そう」と、
ペトロに、そして私たち一人一人に言われている証拠です。
私たちがイエス様を否定するため、何度も何度も鶏が鳴き続けるから、
私たちの罪の現実が、これほどまでに悲惨だから、 神は憐れんでくださいました。
だから、イエス様が十字架の死へ向かって歩まれたのです。

【鶏は今日も形を変えて鳴き続ける】
もしも私たちが、ただ自分の罪のみを見つめるならば、
ペトロがイエス様を否定した時に聞こえてきた、この鶏の鳴き声は、
私たちに対する神の戒めの響きだと感じてしまいます。
「鶏の鳴き声が聞こえる前に、神に立ち帰りなさい」と。
しかし、イエス様がペトロのために、
そして私たちのために、裁判の席に立って、
十字架へ向かう道を歩んでいることに気付くとき、
この鶏の鳴き声は、決して神が与えた戒めや警告ではないことに気付かされます。
この鶏の鳴き声は、神の憐れみと恵みを告げるものです。
それは、神から離れて生きている自分の姿に気付かせるための、
恵みに満ちた鳴き声です。 
そしてそれは、私たちの罪を赦すために、私たちを徹底的に愛し抜くために、
イエス様が立っている事実に気付かせるために、鳴り響いています。
そして、罪の赦しを宣言し、神の愛と憐れみを告げ知らせます。
この鶏の鳴き声は、私たちに対する神の恵みそのものなのです。
今日も、明日も、そしてこれからも、私たちを神のもとへと呼び戻すため、
この鶏の鳴き声は、この時とは違う形で、
様々な形で鳴き続け、この世界に響いています。
それは、礼拝を通して、賛美や祈り、聖書の言葉を通して、
私たちのもとに届いている鶏の鳴き声かもしれません。
また、それは、周囲の人との関わりの中から聞こえてくる鳴き声かもしれません。
神は、様々な出来事を豊かに用いて、思いがけない方法を用いて、
今日も私たちに、鶏の鳴き声を届けてくださるのです。
ですから、鶏が鳴く度に、私たちは神の恵みを知り、神に感謝しましょう。
鶏の鳴き声を聞いた時、
私たちは、私たちが本来いるべき場所がどこであるのかを告げられます。
ですから、この鶏の鳴き声を聞いた時、
本来いるべきではない場所から立ち上がり、
喜びをもって、神のもとへと立ち帰って行こうではありませんか。
さぁ、神の語る言葉に耳を澄ましましょう。
鶏は、何度鳴いていますか。