しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年2月28日日曜日

説教#106:「真理に属する共同体」

「真理に属する共同体」
聖書 ヨハネによる福音書18:28-40、エレミヤ書1:9-10
2016年2月28日 礼拝、小岩教会

【ユダヤ人にとっての「トーラー」】
誰もがきっと守るべき何かを持っているでしょう。 
家族や信念、文化、習慣、信仰など、守るべきものは人によって違います。 
イエス様を捕らえたユダヤ人たちにとって、守るべきものは「律法」でした。
旧約聖書の時代から、「律法」は、
「教え」や「導き」を意味する「トーラー」という言葉で呼ばれ、
ユダヤ人たちに親しまれてきました。
そして、神からの恵みの贈り物であり、 
旧約聖書の時代から守られてきた神の言葉である、トーラーは、 
彼らに日々、真理を教え、その生涯を導くものとして愛されてきました。 
このトーラーについて、詩篇の詩人はこのように歌っています。 
あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。(詩篇119:105)
神の言葉である、トーラーを守ることが、
ユダヤ人にとって、何よりも大切なものであったことを、
この詩編を通して知ることができるでしょう。

【「自分たちの律法にしたがって裁け」】
そんなトーラーを心から大切にしていたユダヤ人たちが、
神が遣わしてくださった独り子であるイエス様を捕まえて、
イエス様を裁判にかけたことを、ヨハネは報告しています。
ユダヤ人たちはイエス様を死刑にするために、
ローマ帝国から遣わされたユダヤの総督であるピラトのもとへ、
イエス様は連れて行き、イエス様を裁判にかけたそうです。
この当時のユダヤはローマの属州として、ローマ帝国の統治下にありました。
ある程度の地方自治は、ユダヤ人たちの手に委ねられていましたが、
政治的に重要な案件や、死刑は、ローマ帝国からの許可、
つまり、ユダヤの総督であるピラトの許可が必要だったようです。
そのため、イエス様を死刑にすることを望んだユダヤ人たちは、
イエス様を裁いて欲しいとピラトに求めたのです。
ユダヤ人たちの訴えを聞いた後、ピラトは彼らにこう言いました。
自分たちの律法にしたがって裁け(ヨハネ18:31) 
ユダヤ人たちが、自分たちの律法であるトーラーに従って、
イエス様を裁くならば、彼らは、イエス様を石打ちにすることが出来ました。
それは、かつてイエス様が「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:30)
と言って、自分は神の子だと自称したからです。
イエス様を敵視していたユダヤの宗教的な指導者たちは、
イエス様のこの発言を聞いて以来、
「あのイエスという男は、神を冒涜している」と感じていました。
事実、イエス様は神の子なのですが、
それを信じられない人々にとって、イエス様の発言は、
神を冒涜し、神の名を呪っているようなものでした。
ユダヤの人々が大切にしていた、神の言葉であるトーラーによれば、
それは死刑に値する罪です。
主の御名を呪う者は死刑に処せられる。共同体全体が彼を石で打ち殺す。…(レビ記24:16)
とレビ記に記されているのですから。
ですから、「自分たちの律法にしたがって裁け」と許可を受けた彼らは、
石をその手に取って、イエス様を裁くことが出来たはずです。
それが彼らの律法である、トーラーに従った裁きなのですから。

【何を「導き」としているのか?】
しかし、ピラトの許可を受けた彼らは、ピラトに向かってこのように言いました。
「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」(ヨハネ18:31)
この言葉に、彼らの本音が見え隠れしています。
ピラトから自分たちの法であるトーラーにしたがって
イエス様を裁く許可を得たにも関わらず、彼らは一向に石を手に取りません。
彼らは、トーラーによってではなく、
ローマの法によってイエス様を裁くことを望んでいたのです。
「このイエスという男を十字架にかけて殺したい」。
これこそ、ユダヤ人たちが心に抱いていた本音です。
彼らが、それほどまでに十字架にこだわったのは、十字架にかけられた者は、
神に呪われた者とみなされていたからです(申命記21:22-23参照)。
最も惨めで、最も不名誉な死を与えることによって、
ユダヤ人たちは、神の呪いの下でイエス様を殺すことを望んだのです。
この時の彼らは、果たして、トーラーを守っているといえるのでしょうか。
石打ちでの死刑を拒否して、ローマの法で強引にイエス様を裁かせる。
そして、イエス様を十字架にかけ、神の呪いの下に殺そうとする。
このような彼らの姿を見つめる時、
彼らの中で、トーラーを守ることが
大義名分になってしまっていることに気付かされます。
いつしか心が憎しみに支配され、
最も大切にしてきた、神から与えられたトーラーを、
自分の都合の良いように用いるようになっていたのです。
それを思う時、「これが神の律法を守る者の姿なのか」
と問いかけたくなります。
トーラーの根底にあるものは、 「神を愛すること」。
そして、「隣人を愛すること」です。
真理を教え、導きを与える、神の言葉であるトーラーを愛し、
それを守っていると自負していたユダヤ人たちは、
実際のところ、隣人を愛することができていたのでしょうか。
イエス様の裁判の様子を思い起こす時、
残念ながら、それは出来ていなかったと言えるでしょう。 
裁きを行うとき、人は残酷になります。
本来、人を裁くときにこそ、私たちには愛が必要です。
必要以上の裁きを行うことは、愛とは呼べません。
憎しみに支配されて、裁きを行うのもまた愛ではありません。
トーラーの根底にあるメッセージに照らし合わせて、
「裁き」について考えるならば、やはり「裁き」さえも、
「神を愛すること」と「隣人を愛すること」が目標とされるべきでしょう。
それは、裁きを行う側だけでなく、裁かれる側にも、
どのような状況に置かれている人々にも適用されるべきものです。
それがトーラーに従う生き方なのならば、
裁きが行われる瞬間も、目の前にいる人が、
神を愛し、隣人を愛することを願い続けなければならないのでしょう。
ユダヤ人たちは、それができませんでした。
トーラーを導きの光として、真理を教えるものとして喜び、
トーラーの細かなところにいたるまで、彼らは守ろうとしていましたが、
どこかで歪みが生じていました。
時にトーラーの導きを拒み、自分の思うがままに歩みました。
そして、このイエス様の裁判の時、
彼らはイエス様を拒み、イエス様を憎む道を選びました。
自分の都合に合わせて、トーラーを利用する道を選びました。
暴力と殺意の赴くままに行動する道を選びました。
正直、このときのユダヤ人たちの姿を、私は他人事とは思えません。
何を守るべきか、わかりきっていない私たち人間の姿を、
彼らを通して見つめることができるからです。
これこそ、自分にとって大切なものなのだと思っても、
どこかで必ず歪みが生じてしまうことは、誰にもあります。
心で抱く悪い思いに振り回され、
自分が大切にするものを都合よく用いることもあり得ます。
神の言葉を拒み、自分の思いを優先することも、
ユダヤ人たちが選んだように、争いや暴力を選んでしまうこともあります。
イエス様の裁判の席で明らかになった、
ユダヤ人たちの姿は、決して他人事ではないのです。

【「真理とは何か」】
さて、ユダヤ人たちが熱狂的に、イエス様の死刑を求めた、
このときの光景を見たピラトは、
イエス様との対話の中で、こうつぶやきました。
「真理とは何か」(ヨハネ18:38) 
これは、「わたしは真理について証しをするために生まれ、
そのためにこの世に来た。
真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(ヨハネ18:37)
と言われたイエス様の言葉への応答です。
イエス様のもとに真理があることを、イエス様は明らかにされました。
それは、私たち自身のうちに真理はないことを意味しています。
私たちの内側に、導きの光となるような真理はありません。
だからピラトのように「真理とは何なのか」と言って、
私たちは、自分の歩みの導きとなるような真理を模索するのでしょう。
そして、自分なりの真理を打ちたて、
それを大切にし、自分の基準として歩むのが、私たち人間といえます。 
自分なりの正しさを掴んで、それを振りかざし、必死に守り、
必死に守るあまりに、ときに人を傷つけてしまう。
信仰という言葉を盾にして、私たちは、暴力や抑圧をすることもあります。 
その上、自分では正しいことをしているとしか思えないのです。
このように、真理とは何かと問い続け、迷い、
自分なりの真理を振りかざして、傷付けあってしまう私たちがいるのです。

【真理は、私たちの世界を壊し、新しく建てる】
そんな私たちに、イエス様は語り掛けておられます。
「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と。
イエス様の語る「真理」は、私たちが絶対的な真理を知って、
安全で、安心できる場所に立つことができるようなものとは、少し違います。
イエス様の声を聞き、イエス様の姿を見つめるとき、
私たちの考えている世界は、壊れていきます。
神によって、真理が示されるからです。
自分が真理だと思っていることが、正しいことではないと
イエス様との出会いの中で、気付かされます。
それは、信仰をもっていても起こることです。
いや、信仰をもって、イエス様と共に歩むからこそ、起こる出来事です。 
それは、旧約聖書の時代に、神が預言者エレミヤに語られた言葉が、
イエス様によって、確かに実現している証しだといえるでしょう。
神はこのように言われました。
「見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに 諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し あるいは建て、植えるために。」(エレミヤ1:9-10)
これが、神の取られる方法です。
私たち自身が持って手放そうとしない、
自分なりの真理や正しさといったものが、神の前に打ち崩され、
その上で、新しくされるのです。
これが福音、良い知らせと呼ばれ、
2000年以上も語り継がれてきた、喜びの出来事です。
神によって、真理が示され、
神によって示された真理に基づいて、私たちは新しいものとされるのです。
ですから、私たちは、自分自身で打ち立ててきた真理に、
もう固執する必要はないのです。
神の真理のもとに、打ち壊され、新しく造られていく。 
それによって、私たちはキリストにあって、真理に属する者とされたからです。 

【真理に属する共同体】
では、真理に属する者は、
どのように生きるようにと招かれているのでしょうか。
ヨハネの手紙第一で、使徒ヨハネはこのように書いています。
子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。(Ⅰヨハネ3:18-20)
ヨハネによれば、自分が真理に属しているかどうかは、
一人では知ることは出来ないようです。
言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合うとき、
私たちは、自分たちが真理に属しているということ、
つまり、主イエスに結ばれていることを知るというのです。
いくらこの口で、「イエス様こそ、私の導きの光です。
真理を示してくださる方です。」
などと言っても、実際はイエス様を十字架に架けた人々のように、
憎しみに支配され、イエス様を都合よく利用するようであれば、
行いをもって誠実に人を愛しているとは、確かに言えないでしょう。
徹底的にトーラーを守って生きようとしていた、あのユダヤ人たちでさえ、
過ちを犯し、生き方に歪みがあったのですから、
私たちはなおさら、都合よくイエス様を利用した歩みができてしまいます。
しかし、私たちは、自分自身に絶対的な希望を置きません。
私たちの希望は、神にのみあります。
神が、この世界に真理に属する共同体を立ててくださったのですから、
私たちは、そのような交わりを築いていくことができる。
これが、私たちに与えられている、驚くべき恵みに溢れる約束です。
私たちがそのような生き方ができるように、
そのような交わりをもつことができるように、
神が定めた時に、キリストにあって真理が示され、
私たちは、神の前に打ち壊され、神によって新しくされるのです。
そのような希望を抱いて、私たちは歩み続けることがゆるされているのです。
ですから、キリストにあって真理に属している、
主にある兄弟姉妹である皆さん、
言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合いましょう。
私たちは主イエスにあって、真理に属する共同体なのですから。