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説教#110:「その日、墓から取り去られる」

「その日、墓から取り去られる」 2016年3月25日 礼拝、小岩教会 聖書 エゼキエル書 37:13、ヨハネによる福音書20:1-10 【「主が墓から取り去られました」】 「主が墓から取り去られました」(ヨハネ20:2)。 安息日の翌日、日曜日の朝早くに、イエス様の弟子たちのもとに、 このようなニュースが飛び込んで来たそうです。 このニュースを伝えに来たのは、マグダラのマリアという女性でした。 この日、マリアが経験した出来事を、ヨハネはこのように報告しています。 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。(ヨハネ20:1) ここで「朝早く」と訳されている言葉は、 午前3時から6時頃の時間帯を指す言葉です。 そんなまだ暗く、多くの人たちが眠りについている時間帯に、 マリアはイエス様が葬られている墓にやって来ました。 当時の墓は、岩を掘って作られ、 墓の入り口には石が転がして置かれていたそうです(マルコ15:46参照)。 しかし、この時マリアが見たのは、 イエス様の遺体が納められている墓を塞いでいた石が、 とりのけられている光景でした。 これを見て、マリアは墓の中を確認せずに、 急いでペトロとイエス様の愛した弟子のもとへ走って行きました。 当時、墓泥棒は一般的な犯罪でした。 そのため、彼女はイエス様の遺体が盗まれた可能性を一番に考えたのでしょう。 マリアは、弟子たちにこのように報告しました。 「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 (ヨハネ20:2)

説教#109:「主イエスの渇きによって命を得る」

「主イエスの渇きによって命を得る」 聖書 ヨハネによる福音書19:28-37、イザヤ43:1-2 2016年3月20日 礼拝、小岩教会  【「わたしは渇く」】 「わたしは渇く」(ヨハネ19:28)。 イエス様が十字架の上で、こうつぶやいたとヨハネは記しています。 なぜ十字架の上で、イエス様はこのようにつぶやいたのでしょうか。 単に、喉の渇きを覚えたからでしょうか。 どうやら、ローマの兵士たちは、そのように受け取ったようです。  彼らは、酸いぶどう酒を含ませたスンポンジをヒソプという植物につけて、  イエス様の口もとに差し出しました。 ただし、そのぶどう酒の量は、喉を潤すには十分な量とはいえなかったでしょう。 きっとローマの兵士たちは、イエス様をからかう目的で、 「渇いた」とつぶやいたイエス様に、酸いぶどう酒を飲ませたのだと思います。 しかし、イエス様は喉が渇いたという意味で、 「わたしは渇く」と言われたのではありません。 それは、旧約聖書の詩編69篇に記されている祈りでした。 詩編69篇をうたった詩人は、このように祈りました。 神よ、わたしを救ってください。 大水が喉元に達しました。 わたしは深い沼にはまり込み 足がかりもありません。 大水の深い底にまで沈み 奔流がわたしを押し流します。 叫び続けて疲れ、喉は涸れ  わたしの神を待ち望むあまり  目は衰えてしまいました。(詩編69:2-4)  この詩編は、苦しみの中にある信仰者の痛烈な叫びです。 水の中で溺れそうになるほどの息苦しさを感じ、 神の救いをひたすら待ち望んで、彼は叫び続けました。 「神よ、わたしを救ってください」と。 詩人は、喉が涸れてしまうほど、神に向かって叫び続けたようです。 「わたしは渇く」と十字架の上でつぶやいたイエス様は、 この詩編の詩人と思いを重ねて、 「神よ、救ってください」と心で叫び続けたのです。 そして、神に向かって叫び続けたため、イエス様は渇きを覚えたのです。 イエス様が覚えたその渇きとは、「霊の飢え渇き」というべきものでした。 イエス様は、神との交わりに飢え渇いていたのです。

説教#108:「十字架の下に集う共同体」

「十字架の下に集う共同体」  聖書 ヨハネによる福音書19:17-27、ルツ記1:16 2016年3月13日 礼拝、小岩教会  【主イエスの死刑に悲しむ、母マリアの姿】 イエス様が十字架にかけられたとき、 そのそば近くに、 数人の女性たちと、イエス様の弟子のひとりが立っていました。  「ゴルゴタ」という名の丘の上で、 目の前で起こっている出来事を見つめ、彼らは心を痛めていました。  その中でも特に、涙を必死にこらえ、苦しみながら、  目を背けて逃げ出したい気持ちでいっぱいになりながらも、 その場に立っていたのが、イエス様の母であるマリアでした。 マリアがいつここに来たのかを、ヨハネは記していません。  しかし、イエス様が逮捕されたのは夜中であり、  早朝から裁判が始まったことを考えると、  イエス様が逮捕されて裁判にかけられていることが、 朝目覚めたとき一番に、マリアの耳に入ってきたと想像できます。 そして、自分の息子が死刑間近であると知ると、居ても立ってもいられなくなり、 マリアはすぐさま家を飛び出して、駆けつけてきたことでしょう。 たとえこれまでの一部始終を見ていなかったとしても、 イエス様の姿を見れば、その身に何が起こったかはよくわかりました。 何度も何度もビンタされたため、顔は腫れ上がり、 鞭を打たれて、肉が削がれたため、体中から血が流れていました。 また、イエス様は長い時間連れ回され、裁判にかけられた後、 ゴルゴタの丘まで自分で十字架を背負って歩いたため、弱り果てていました。 その上で、兵士たちに衣服を奪われ、十字架にかけられたのです。 愛する自分の息子の身に、これほど酷いことが起こるなんて、 マリアは考えたこともなかったでしょう。 かつてマリアはイエス様をお腹の中に宿している頃、 神の使いを通して、イエス様の誕生を告げられました。 それによって彼女は、イエス様が神の子であり(ルカ1:35)、 ご自分の民を罪から救う方(マタイ1:21)であることを知りました。 ですから、そのように神が希望をもって誕生を告げた、我が子の将来には、 喜びと栄光に満ちた日々が待っていると思っていたかもしれません。 しかし、そんなことはありませ

説教#107:「この人を見よ」

「この人を見よ」 聖書 ヨハネによる福音書19:1−16、ゼカリヤ書6:12  2016年3月6日 小岩教会、礼拝  【「見よ、この男だ」】 「見よ、この男だ」(ヨハネ19:5)  そう言って、ピラトが指差したその人は、  実にみすぼらしい姿をしていました。  その人は、鞭を打たれた後であったため、弱り果て、 身体のいたるところの肉が削がれ、 体中から血が流れ出ていました。  その上、ローマの兵士たちから何度も、何度もビンタされたため、  顔もボロボロになり、見るに耐えない有様でした。  また、その人は「ユダヤ人の王を自称した」という理由で、 逮捕され、ピラトのもとに差し出されてきました。 そのため、ローマの兵士たちは、彼に紫の服を着せて、 嘲りの象徴である茨の冠をその頭に置き、 王さまのような姿に仕立てあげました。  それは、「ユダヤ人の王」と呼ぶにはあまりにも滑稽で、無様な姿でした。 彼に対して人々が抱く憎しみや嘲りに対して、  彼は、あまりにも無防備でいました。 このように、弱々しく、みすぼらしい姿で立つこの男を指差して、 ピラトはユダヤ人たちに向かって言ったのです。  「見よ、この男だ」(ヨハネ19:5)  【主イエスを釈放しようと努めるピラト】 ピラトが指差したその男の名前は、イエスといいました。  そう、様々な奇跡を行い、驚くべき教えを語った、あのイエス様です。 罪人と言われる人々の友となり、 弱さを覚え苦しんでいる人々に寄り添って歩んだ、あのイエス様です。 ユダヤ人たちに逮捕され、ローマの兵士たちにたくさんの暴力を受け、 今、裁判の席に立たされているイエス様を、 ピラトはなぜ「見よ、この男だ」と言って、指差したのでしょうか。  それは、ユダヤ人たちの同情を誘うためでした。 ピラトは、ユダヤ人たちが「この人は罪人です」 と言って連れてきたイエス様を尋問する中で、 「この男に罪を見出すことが出来ない」と判断しました(ヨハネ18:38)。 ユダヤ人たちの訴えは、イエス様に対する彼らの憎しみや妬みから 来ているものだと、ピラトは見切っていたのだと思います。 そのためピラトは、イエス様をユダヤ人たちの前に連れて来て