しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年3月27日日曜日

説教#110:「その日、墓から取り去られる」

「その日、墓から取り去られる」
2016年3月25日 礼拝、小岩教会
聖書 エゼキエル書 37:13、ヨハネによる福音書20:1-10

【「主が墓から取り去られました」】
「主が墓から取り去られました」(ヨハネ20:2)。
安息日の翌日、日曜日の朝早くに、イエス様の弟子たちのもとに、
このようなニュースが飛び込んで来たそうです。
このニュースを伝えに来たのは、マグダラのマリアという女性でした。
この日、マリアが経験した出来事を、ヨハネはこのように報告しています。
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。(ヨハネ20:1)
ここで「朝早く」と訳されている言葉は、
午前3時から6時頃の時間帯を指す言葉です。
そんなまだ暗く、多くの人たちが眠りについている時間帯に、
マリアはイエス様が葬られている墓にやって来ました。
当時の墓は、岩を掘って作られ、
墓の入り口には石が転がして置かれていたそうです(マルコ15:46参照)。
しかし、この時マリアが見たのは、
イエス様の遺体が納められている墓を塞いでいた石が、
とりのけられている光景でした。
これを見て、マリアは墓の中を確認せずに、
急いでペトロとイエス様の愛した弟子のもとへ走って行きました。
当時、墓泥棒は一般的な犯罪でした。
そのため、彼女はイエス様の遺体が盗まれた可能性を一番に考えたのでしょう。
マリアは、弟子たちにこのように報告しました。
「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 (ヨハネ20:2)

2016年3月20日日曜日

説教#109:「主イエスの渇きによって命を得る」

「主イエスの渇きによって命を得る」
聖書 ヨハネによる福音書19:28-37、イザヤ43:1-2
2016年3月20日 礼拝、小岩教会 

【「わたしは渇く」】
「わたしは渇く」(ヨハネ19:28)。
イエス様が十字架の上で、こうつぶやいたとヨハネは記しています。
なぜ十字架の上で、イエス様はこのようにつぶやいたのでしょうか。
単に、喉の渇きを覚えたからでしょうか。
どうやら、ローマの兵士たちは、そのように受け取ったようです。 
彼らは、酸いぶどう酒を含ませたスンポンジをヒソプという植物につけて、 
イエス様の口もとに差し出しました。
ただし、そのぶどう酒の量は、喉を潤すには十分な量とはいえなかったでしょう。
きっとローマの兵士たちは、イエス様をからかう目的で、
「渇いた」とつぶやいたイエス様に、酸いぶどう酒を飲ませたのだと思います。
しかし、イエス様は喉が渇いたという意味で、
「わたしは渇く」と言われたのではありません。
それは、旧約聖書の詩編69篇に記されている祈りでした。
詩編69篇をうたった詩人は、このように祈りました。
神よ、わたしを救ってください。大水が喉元に達しました。わたしは深い沼にはまり込み足がかりもありません。大水の深い底にまで沈み奔流がわたしを押し流します。叫び続けて疲れ、喉は涸れ わたしの神を待ち望むあまり 目は衰えてしまいました。(詩編69:2-4) 
この詩編は、苦しみの中にある信仰者の痛烈な叫びです。
水の中で溺れそうになるほどの息苦しさを感じ、
神の救いをひたすら待ち望んで、彼は叫び続けました。
「神よ、わたしを救ってください」と。
詩人は、喉が涸れてしまうほど、神に向かって叫び続けたようです。
「わたしは渇く」と十字架の上でつぶやいたイエス様は、
この詩編の詩人と思いを重ねて、
「神よ、救ってください」と心で叫び続けたのです。
そして、神に向かって叫び続けたため、イエス様は渇きを覚えたのです。
イエス様が覚えたその渇きとは、「霊の飢え渇き」というべきものでした。
イエス様は、神との交わりに飢え渇いていたのです。

2016年3月13日日曜日

説教#108:「十字架の下に集う共同体」

「十字架の下に集う共同体」 
聖書 ヨハネによる福音書19:17-27、ルツ記1:16
2016年3月13日 礼拝、小岩教会 

【主イエスの死刑に悲しむ、母マリアの姿】
イエス様が十字架にかけられたとき、 そのそば近くに、
数人の女性たちと、イエス様の弟子のひとりが立っていました。 
「ゴルゴタ」という名の丘の上で、
目の前で起こっている出来事を見つめ、彼らは心を痛めていました。 
その中でも特に、涙を必死にこらえ、苦しみながら、 
目を背けて逃げ出したい気持ちでいっぱいになりながらも、
その場に立っていたのが、イエス様の母であるマリアでした。
マリアがいつここに来たのかを、ヨハネは記していません。 
しかし、イエス様が逮捕されたのは夜中であり、 
早朝から裁判が始まったことを考えると、 
イエス様が逮捕されて裁判にかけられていることが、
朝目覚めたとき一番に、マリアの耳に入ってきたと想像できます。
そして、自分の息子が死刑間近であると知ると、居ても立ってもいられなくなり、
マリアはすぐさま家を飛び出して、駆けつけてきたことでしょう。
たとえこれまでの一部始終を見ていなかったとしても、
イエス様の姿を見れば、その身に何が起こったかはよくわかりました。
何度も何度もビンタされたため、顔は腫れ上がり、
鞭を打たれて、肉が削がれたため、体中から血が流れていました。
また、イエス様は長い時間連れ回され、裁判にかけられた後、
ゴルゴタの丘まで自分で十字架を背負って歩いたため、弱り果てていました。
その上で、兵士たちに衣服を奪われ、十字架にかけられたのです。
愛する自分の息子の身に、これほど酷いことが起こるなんて、
マリアは考えたこともなかったでしょう。
かつてマリアはイエス様をお腹の中に宿している頃、
神の使いを通して、イエス様の誕生を告げられました。
それによって彼女は、イエス様が神の子であり(ルカ1:35)、
ご自分の民を罪から救う方(マタイ1:21)であることを知りました。
ですから、そのように神が希望をもって誕生を告げた、我が子の将来には、
喜びと栄光に満ちた日々が待っていると思っていたかもしれません。
しかし、そんなことはありませんでした。
今、目を背けたくなるような現実が、彼女の目の前に広がっていました。
愛する息子が傷付けられ、多くの人びとから罵られ、
そして、十字架にかけられて、殺されようとしている。
目の前に広がるこの光景に、彼女は悲しみ、苦しんでいました。
マリアの苦しみを一体誰が理解することが出来るというのでしょうか……。

【マリアに語り掛ける主イエス】
マリアの抱えたこのような悲しみを知り、彼女に寄り添ったのは、
その息子であるイエス様でした。
悲嘆に暮れる母の姿を十字架の上から見て、イエス様は彼女に語り掛けました。
「婦人よ」(19:26) 
イエス様は、実の母親であるマリアに対して
「お母さん」と呼ぶのではなく、「婦人よ」と語り掛けました。
思い返してみると、以前も、イエス様はマリアに同じように語り掛けました。
それは、ヨハネによる福音書の2章に記されている、
イエス様が最初の奇跡を行ったカナという場所でのことでした。
カナで行われた結婚式の途中で、
ぶどう酒がなくなってしまうというトラブルが起こったとき、
マリアは一緒に結婚式に出席していたイエス様に相談をしました。
「ぶどう酒がなくなりました」(ヨハネ2:3)と。
神の子であり、救い主であるイエス様なら、
何とかしてくれると思ったのかもしれません。
そんな母マリアに、イエス様はこのように言われたのです。
「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ2:4) 
「わたしの時はまだ来ていません」といって、
神が定めるときを見つめるようにとマリアを促した後、
イエス様は、このトラブルを解決されました。
このカナでの結婚式のときと同じように、イエス様がマリアに向かって、
「婦人よ」と再び語りかけられたのは、
イエス様が十字架にかけられたこの時でした。
まさにこの時こそが、カナで行われた結婚式の席で
イエス様がマリアに向かって語った「わたしの時」だったのです。
イエス様は、神が定めたこの時にこそ、
神が行われる業を見つめ、神の御心を知るようにと促しているのです。
自分の息子の死を前にして、嘆き悲しむマリアに、 
「婦人よ」と語り掛けることを通して、イエス様は伝えているのです。
あなたが嘆き悲しんでいるこの出来事が起こるのは、
神の御心によるものなのだ、と。

【母マリアを気遣う主イエス】
しかし、「神の御心なのだから、諦めてこの出来事を受け入れなさい」
というような、冷たい態度をイエス様は取りませんでした。
「婦人よ」と語り掛けた後、死に向かう息子の姿に絶望する
母マリアに、イエス様は語り掛けました。
「御覧なさい。あなたの子です」(ヨハネ19:26) 
そう言ってイエス様は、マリアのそばにいる弟子のひとりを見つめました。
ヨハネは、この弟子のことを「愛する弟子」と紹介しています。
この弟子が誰なのか、ヨハネはその名前を記していませんが、
この「愛する弟子」と呼ばれている人は、
イエス様に信頼され、イエス様に愛された弟子のひとりだったようです。
また彼は、他の弟子たちがイエス様を否定したり、
イエス様のもとから逃げ出していく中、
イエス様の後を追って、イエス様の十字架のそばに立った人でした。
イエス様は、私が愛するこの弟子こそが、
「あなたの子です」と、母マリアに伝えました。
そして続けて、愛する弟子を見つめて言われました。 
「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:27) 
イエス様はそう言って「愛する弟子」に、
「マリアはあなたの母である」と伝えたのです。
この当時、マリアの夫のヨセフは既に亡くなっていたと考えられています。
マリアにはイエス様の他に、
少なくとも4人の息子と2人の娘がいたようですが(マルコ6:3)、
彼女の子どもたちは皆、この時はイエス様に従っていませんでした。
マリアにとって、イエス様は、愛する息子であり、
神の使いを通して、誕生を告げられた救い主でした。
そんなイエス様を失おうとしている、この時のマリアの悲しみやその心の痛みを、
心から理解し、寄り添うことの出来る人は、
残念ながら彼女の家族にはいませんでした。
そのため、イエス様が苦しめられ、殺されていく姿を
彼女はたった独りで見つめ、その現実と向き合い、
嘆き、悲しまなければなりませんでした。
そして、心が引き裂かれ、暗闇の中で生きるような経験を、
たった独りでしなければなりませんでした。
だからこそ、イエス様は愛する母を見つめた時、彼女を心から気遣って、
愛する弟子のひとりを信頼し、彼に母マリアを預けたのです。
自分が十字架にかかって死んだ後、悲しみ続けるであろう
母マリアのそばに立って、慰めとなる存在であって欲しい。
そのような願いを込め、イエス様は愛する弟子に言われたのです。
「見なさい。あなたの母です」(ヨハネ19:27)と。

【主イエスにあって家族とされる】
しかし、実際のところ、この愛する弟子とイエス様の母マリアは、
彼らは本当の親子だったわけでもありませんし、
親戚関係にあったわけでもありません。
彼らは、言ってしまえば、赤の他人でした。
このふたりの間に、「母」と「子」と呼べるような繋がりは、一切ないのです。
その意味で、イエス様は誤ったことを語っているといえるでしょう。
それにも関わらず、イエス様は彼らを母と子という関係へと招き、
彼らを「家族」とすることができました。
イエス様が家族と呼ぶものは、どうやら、
私たちが考える家族とは、少し違うもののようです。
イエス様に従い、イエス様によって結ばれている信仰者の群れ、
すなわち教会を、イエス様は家族と呼びます。
イエス様の家族とされている者は、その他の点では、他人同士です。
正直、共通点を探すほうが難しいかもしれません。
価値観も、これまで生きてきた背景も、好みも、話す言葉も違う。
様々な違いを持つ者たちを、イエス様は呼び集め「家族」とされるのです。
イエス様こそが、本来は他人でしかない人々を結びつけてひとつにし、
豊かな交わりを生み出すことの出来る方なのです。
だからこそこの時、イエス様は母マリアを愛する弟子に委ね、
彼らを家族とすることが出来たのです。

【主イエスの十字架の下に集う共同体】
ところで、マリアと愛する弟子が「家族」となったのは、
イエス様が十字架にかけられているときのことでした。
まさに彼らは、十字架の下で家族とされたといえます。
もちろん、表面的には、イエス様の十字架上での死は、
敗北と絶望のしるしでしかありません。
しかし、実際は、イエス様の十字架上での死は、
私たちに和解を与える神の業でした。
エフェソの信徒への手紙の2章には、このように記されています。
実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。(エフェソ2:14-16)
私たちの罪を赦し、神と私たちとを和解させ、
神との交わりを開くために、イエス様はご自分の命を差し出されました。
そして、神と私たちの和解をもたらすばかりでなく、
イエス様の十字架は、私たち人間同士に和解をもたらすもの。
まさにこの十字架がもたらした和解に基づいて、
他人でしかない者たちが、家族と呼び合える者へと変えられているのです。
教会は、イエス様の十字架によって和解を与えられ、家族とされた共同体です。
ですから、教会はイエス様の十字架の下に集い続けて、
神の愛を見つめ続けるのです。

【十字架の下に集う共同体は、与えられたものを分かち合って生きる】
私たちは、十字架の下にいる人々を通して、
母マリアを愛し、彼女の今後のことに配慮する
イエス様の深い愛を見出すことができます。
この時のマリアのように、私たちも、
様々な思いを抱いて、イエス様の前に出て行くことができます。
私たちは、喜びや感謝を覚える日を過ごすこともあれば、
悲しみや不満、苦しみや嘆きを抱える日も、
悩みや不安な思いに心が支配される日もあります。
私たちがどのような感情を抱いたとしても、
私たちはその心で抱く感情のありのままを抱いて、
イエス様の前に出て行くことができます。
イエス様は、マリアに対してそうであったように、私たちに対しても、
愛を注ぎ、私たちの日々の歩みに心を配っておられる方なのですから。
だから、私たちは主イエスの十字架の下へと出て行くのです。
それと同時に、イエス様の十字架上での死は、
すべての人々に対する、神の愛と赦しのしるしです。
そのため、私たちは十字架の下に行くとき、
神の愛と赦しを見出すことができるのです。
私たちは神から受け取っているものを、
豊かに分かち合う形で与え合うようにと招かれています。
私たちは、神によって愛を与えられました。
神に与えられたこの愛をお互いに分かち合い、愛されたように愛し合うために、
私たちは神にこの場所に招かれました。
また、神に与えられた赦しを確信し、
赦されたようにお互いに赦し合って生きるように、招かれています。
そして、慰め合い、希望を分かち合う交わりに、私たちは招かれています。
これこそ、神によって建てられた神の家族である教会の姿でしょう。
イエス様によって結び合わされた交わりは、今もここにあります。
2,000年もの間、教会はそのような交わりを続けてきました。
ですから、これまでそうであったように、これからも、
私たちは十字架の下に集う家族として、歩み続けて行きましょう。
神から豊かに与えられたものを、喜びと感謝をもって、
お互いに分かち合って歩んでいきましょう。
苦しむ者と共に苦しみ、共に手を取り合って祈り合いましょう。
共に主イエスの十字架の下へと進んで行き、
神の愛と赦し、慰めと励ましを豊かに受け取りましょう。
そんな交わりを、私たちは続けていこうではありませんか。
私たちは主イエスの十字架の下に呼び集められ、

共に歩むように招かれた主キリストにある家族なのですから。

2016年3月6日日曜日

説教#107:「この人を見よ」

「この人を見よ」
聖書 ヨハネによる福音書19:1−16、ゼカリヤ書6:12 
2016年3月6日 小岩教会、礼拝 

【「見よ、この男だ」】
「見よ、この男だ」(ヨハネ19:5) 
そう言って、ピラトが指差したその人は、 
実にみすぼらしい姿をしていました。 
その人は、鞭を打たれた後であったため、弱り果て、
身体のいたるところの肉が削がれ、 体中から血が流れ出ていました。 
その上、ローマの兵士たちから何度も、何度もビンタされたため、 
顔もボロボロになり、見るに耐えない有様でした。 
また、その人は「ユダヤ人の王を自称した」という理由で、
逮捕され、ピラトのもとに差し出されてきました。
そのため、ローマの兵士たちは、彼に紫の服を着せて、
嘲りの象徴である茨の冠をその頭に置き、
王さまのような姿に仕立てあげました。 
それは、「ユダヤ人の王」と呼ぶにはあまりにも滑稽で、無様な姿でした。
彼に対して人々が抱く憎しみや嘲りに対して、 
彼は、あまりにも無防備でいました。
このように、弱々しく、みすぼらしい姿で立つこの男を指差して、
ピラトはユダヤ人たちに向かって言ったのです。 
「見よ、この男だ」(ヨハネ19:5) 
【主イエスを釈放しようと努めるピラト】
ピラトが指差したその男の名前は、イエスといいました。 
そう、様々な奇跡を行い、驚くべき教えを語った、あのイエス様です。
罪人と言われる人々の友となり、
弱さを覚え苦しんでいる人々に寄り添って歩んだ、あのイエス様です。
ユダヤ人たちに逮捕され、ローマの兵士たちにたくさんの暴力を受け、
今、裁判の席に立たされているイエス様を、
ピラトはなぜ「見よ、この男だ」と言って、指差したのでしょうか。 
それは、ユダヤ人たちの同情を誘うためでした。
ピラトは、ユダヤ人たちが「この人は罪人です」
と言って連れてきたイエス様を尋問する中で、
「この男に罪を見出すことが出来ない」と判断しました(ヨハネ18:38)。
ユダヤ人たちの訴えは、イエス様に対する彼らの憎しみや妬みから
来ているものだと、ピラトは見切っていたのだと思います。
そのためピラトは、イエス様をユダヤ人たちの前に連れて来て、
鞭打ちによって傷つき、弱り果てたイエス様のその姿を、彼らに見せました。
そうすることによって、彼らの同情を誘い、
彼らが執拗に叫び続ける、イエス様に対する無意味な訴えを、 
取り下げさせようとしたのです。
このときのピラトは、それに加えて、
何度も何度もユダヤ人たちの説得を試みました。 
「過ぎ越し祭」というユダヤ人たちの祭りのとき、
一人の罪人を釈放することが慣例となっていたようです(ヨハネ18:39)。
ピラトはこの慣例を用いることによって、 イエス様を釈放しようとしました。
しかし、ユダヤ人たちは、
バラバという強盗の釈放を求めました(ヨハネ18:40)。
また、本来、十字架刑に決まった者が受ける鞭打ちを、
刑罰に定まる前に行うことによって、ユダヤ人たちのうっぷんを晴らそうとした。
しかし、このようなピラトの努力も虚しく、
事態はますます悪くなるばかりでした。
「殺せ、十字架につけろ」というユダヤ人たちの声は、
ますます高まるばかりでした。 
その上、彼らは自分たちの願いを通すため、
「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」(ヨハネ19:12)
と叫び、ピラトを脅すことまでし始める有様でした。
ピラトの行った、イエス様を釈放するための試みは、
すべて失敗に終わってしまったのです。

【誰が王であったか?】
このように、熱狂的にイエス様の死刑を求めるユダヤ人たちを前にして、
ピラトは最終的に折れてしまい、イエス様をユダヤ人たちに明け渡し、
十字架刑へ至る道を開いてしまいました。
このときピラトは、最後の最後に皮肉を込めて、
ユダヤ人たちに向かって言いました。
「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」(ヨハネ19:15) 
このピラトの言葉を聞いたとき、
その場にいたユダヤ人たちから返って来た答えに驚かされます。
「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」(ヨハネ19:15) 
イエスを妬み、憎しみ、十字架にかけて殺したいと願うあまり、
彼らは「皇帝のほかに王はありません」と答えたのです。
ユダヤ人たちにとって、
「神のみが自分たちの王」だったはずではなかったでしょうか。
旧約聖書の時代に立てられた、イスラエル・ユダヤの王たちでさえ、
王である神の代理人と考えられていました。
中には、そのような考えさえ認めず、
人間の王を立てることに反対する人々までいたほど、
ユダヤ人たちは、いつの時代も徹底的に
「神のみが自分たちの王です」と信じ、告白してきました。
そのため、イエス様の裁判の場にいたユダヤ人たちが、この時に
「皇帝のほかに王はありません」と語ったことには、驚きを覚えます。
それは、大切にしてきた自分たちの信仰を、
否定するかのような発言だったからです。
彼らは、ローマの皇帝さえも利用して、イエス様を殺そうとしたのでしょう。
その意味で、この時の彼らの王は、実際のところは、
神でも、ローマ皇帝でもなく、彼ら自身だったといえるでしょう。
彼らは、自分自身の願いや思いを貫き通すために、
神を王座から引き下ろし、自分がその王座について行動したのです。
考えてみると、このとき、多くの人々が
自分が王であるかのように振る舞いました。
自分自身に力があるかのように思い、
自分の決定が、すべてを決めるかのように考え、
イエス様に対して、王のように振る舞ったのです。
ピラトがイエス様に語った言葉が、それを象徴していると言えるでしょう。 
ピラトは、自分の質問に対して沈黙するイエス様に、こう言いました。
「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」(ヨハネ19:10) 
この言葉に対して、イエス様は口を開き、このように答えました。 
「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」(ヨハネ19:11) 
イエス様の語ったこの言葉は、
この出来事の背後にある真実を伝えています。
このとき、ピラトも、ユダヤ人たちも、ローマの兵士たちも、
誰もが自分の力によって、イエス様を十字架にかけて、
イエス様の命を奪うことが出来ると考えていました。
しかし、イエス様は言われます。
神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。(ヨハネ19:11)
イエス様が傷つき、血を流し、人々から罵られ、
十字架にかけられ、死に至る、この出来事が起こるのを、
最終的に許可したのは、ピラトでもなく、ユダヤ人でもありません。
この出来事が起こるのを許可したのは、イエス・キリストの父なる神です。
これこそが、この出来事の背後にある真実です。
神が許可されたから、そして、神の計画にイエス様が従ったから、
イエス様は血を流し、人々からあざ笑われ、
このようなみすぼらしい姿になったのです。

【ほかのだれによっても、救いは得られない】
神の計画とは、私たちを救いへと導くための計画でした。
本来、私たち人間は、神との豊かな交わりに生き、
周囲の人々と愛し合って生きる者として、神に造られました。
それにも関わらず、神も、周囲の人々も愛せない。
憎しみや妬みに心が支配されて、争い合い、人を傷付けてしまう。
自分の目的にばかり捕らわれ、神を忘れて生きてしまう。
自分の利益ばかり考え、他人のことを顧みずに行動してしまう。
神を信じていると口では言いながら、神との交わりを拒否してしまう。
これが私たちが抱える罪の現実です。
私たちが罪を抱えて苦しむ姿を、神は放っておくことが出来ませんでした。
私たちを愛してやまないから、
神は、イエス様を私たちのもとに送ってくださったのです。
だからこそ、神はこの時、ピラトの口を通して語られたのです。
「見よ、この男だ」(ヨハネ19:5) 
私たちが見つめるその人は、イエス様は、
傷ついて血を流し、人々からあざ笑われ、みすぼらしい姿で立っています。
なぜイエス様はこれほどまで傷ついているのでしょうか。
なぜ神はイエス様が血を流して苦しむ計画を立てられたのでしょうか。
直接的に、イエス様のその傷は、ユダヤ人たちの拒絶のしるしです。
しかし、彼らが憎しみや妬みに心を支配され、
神ではなく、自分を王の座につけて行動していたことを考えると、
決して、イエス様の傷の原因は、彼らだけにあるとは言い切れません。
もしも私たちがその場にいたのならば、
当然、私たちもイエス様を拒絶してしまったことでしょう。
ですから、イエス様のその傷は、私たちの拒絶のしるしでもあるのです。
そうです、私たちの抱える罪がイエス様をこのような姿にしました。
ですから、神は私たちに語り掛けます。
「この人を見よ。
そして、自らの罪を知り、私のもとに立ち帰りなさい」と。
しかし、神は私たちを罪人に定めるために、
イエス様を傷つけたのではありません。
私たちの抱える罪を解決するため、神はイエス様を傷付け、
十字架にかけて、イエス様の命を奪いました。
これが、私たちを救いへと招くために、神が取られた方法でした。
そして、このような神の計画にイエス様が心から従ったのは、
私たちを愛したからにほかなりません。
私たちは、イエス様のうちに、愛を見出し、愛を知ることができるのです。
イエス様は私たちにこのように語り掛けておられます。
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。(ヨハネ15:12−14)
イエス様は語られたとおりに、私たちに愛を伝えるために、
その身を投げ出して、愛を示してくださいました。
私たちの友となるために、傷つき、血を流してくださいました。
「この人を見よ」と語り掛けられ、イエス様の姿を見つめるとき、
私たちはイエス様に愛されたように、
互いに愛し合って生きるようにと招かれているのです。
しかし、私たちはあまりにも簡単に、
イエス様が示してくださった愛を忘れてしまいます。
だからこそ、神は、今日も私たちに語り掛けておられるのです。
「見よ、この男だ」(ヨハネ19:5) 
イエス様を見つめて、愛を知って欲しい。
そして、主イエスがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。
それによって、主イエスの友として生きて欲しい、と。
どうか神の招きに応えて、主イエスを見つめ続けて歩むことができますように。