しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年3月27日日曜日

説教#110:「その日、墓から取り去られる」

「その日、墓から取り去られる」
2016年3月25日 礼拝、小岩教会
聖書 エゼキエル書 37:13、ヨハネによる福音書20:1-10

【「主が墓から取り去られました」】
「主が墓から取り去られました」(ヨハネ20:2)。
安息日の翌日、日曜日の朝早くに、イエス様の弟子たちのもとに、
このようなニュースが飛び込んで来たそうです。
このニュースを伝えに来たのは、マグダラのマリアという女性でした。
この日、マリアが経験した出来事を、ヨハネはこのように報告しています。
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。(ヨハネ20:1)
ここで「朝早く」と訳されている言葉は、
午前3時から6時頃の時間帯を指す言葉です。
そんなまだ暗く、多くの人たちが眠りについている時間帯に、
マリアはイエス様が葬られている墓にやって来ました。
当時の墓は、岩を掘って作られ、
墓の入り口には石が転がして置かれていたそうです(マルコ15:46参照)。
しかし、この時マリアが見たのは、
イエス様の遺体が納められている墓を塞いでいた石が、
とりのけられている光景でした。
これを見て、マリアは墓の中を確認せずに、
急いでペトロとイエス様の愛した弟子のもとへ走って行きました。
当時、墓泥棒は一般的な犯罪でした。
そのため、彼女はイエス様の遺体が盗まれた可能性を一番に考えたのでしょう。
マリアは、弟子たちにこのように報告しました。
「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 (ヨハネ20:2)
【亜麻布が置かれた墓】
マリアの言葉を聞いたペトロと
「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」と呼ばれる人物は、
急いで墓へ向かって走り、墓の中を確認しに行きます。
先に墓に着いたのは、「もう一人の弟子」の方でした。
彼は身をかがめて墓の中をのぞき、
イエス様の遺体が置いてあった場所に、亜麻布が置いてあるのを確認しました。
そして、彼はペトロの到着を待ちます。
それからすぐにペトロが到着し、二人は墓の中に入ると、
確かにイエス様の遺体はありませんでした。
マリアが語った通り、イエス様の遺体は墓から取り去られてしまったのです。
そこにあるのは、亜麻布とイエス様の頭を包んでいた覆いだけでした。
墓の中に、亜麻布が残されていたことには大きな意味がありました。
この亜麻布は、アリマタヤ出身のヨセフとニコデモが、
イエス様を葬る時に、イエス様の遺体を包んだものでした。
およそ30kg(100リトラ)もの高価な香料を添えて、
イエス様は亜麻布に包まれていました。
これはとても豪華な葬りの仕方です。
ですから、もしも墓泥棒が入って、イエス様の遺体を盗んだならば、
高価な香料が添えられているこの亜麻布に包んだまま、
遺体を持ち出したはずです。
しかし、墓の中にはイエス様の遺体はなく、
イエス様を包んでいた亜麻布が置いてありました。
それは、決してイエス様の遺体が盗まれたわけではないことを示していました。
また、墓の中は荒らされていなかったので、
イエス様を敵視していた人々からの嫌がらせでもないのは明らかです。
そうだとすれば、一体誰がイエス様を取り去ったのでしょうか。
これは、マリアだけでなく、福音書を読むすべての人々が抱く疑問です。
ですから、私たちはマリアと共にこのように言うのです。
「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 (ヨハネ20:2)
【見て、信じた】
しかし、イエス様が愛した「もう一人の弟子」は、
この出来事がどのような意味をもっているかを、知ることができたようです。
ヨハネはこのように書いています。
それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。(ヨハネ20:8)
「もう一人の弟子」は、空っぽの墓を見たとき、
イエス様がよみがえられたことを信じたようです。
復活したイエス様と直接会って、目で見つめ、その声を聞き、
その体に触れ、イエス様と語り合わなくても、
空っぽの墓を見て、彼は信じることができたのです。
イエス様の遺体は盗まれたから墓から消えたのではなく、
イエス様がよみがえられたから墓の中にはいないのだ、と。
しかし、それは本当に小さな小さな確信だったと思います。
そのため、ヨハネは「もう一人の弟子」が「見て、信じた」
と書いた直後に、このように記しています。
イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。(ヨハネ20:9-10)
「もう一人の弟子」は、聖書の言葉に基づいて
この出来事を理解するほどの確信を持てませんでした。
イエス様は復活したと信じることができましたが、
ペトロやマリアに話すことが出来るほどのものではなかったのです。
死者が復活することは、あり得ないことでした。
ですから、「もう一人の弟子」自身、
イエス様が復活したと信じたことは驚きでしたし、
戸惑いを覚えたと思います。
ですから、彼は信じたことを心に秘めて、家へ帰って行ったのです。

【神が、墓から引き上げる】
しかし、イエス様が復活したという確信は、
「もう一人の弟子」の心の中で、
ずっと秘められ続けたわけではありませんでした。
感謝すべきことに、イエス様は復活した後、
マリアや弟子たちをはじめ、多くの人びとと再会されました。
そのため、私たちは、新約聖書を通して、イエス様が復活したという、
多くの生き生きとした証言を聞くことができます。
そして、この空っぽの墓にこそ、希望があるのだと受け止められてきました。
そう、この空っぽの墓こそ、イエス様が復活した証しなのです。
では、イエス様はどのようにして復活されたのでしょうか。
イエス様は、自ら起き上がって、
自分の力で墓をこじ開け、墓から出て行ったのでしょうか。
そうではありません。
神がイエス様を墓から取り去られたのです。
神が、イエス様を起き上がらせ、
この墓を開けて、イエス様を墓から引き上げられたのです。
旧約聖書の時代、預言者エゼキエルを通して、神は言われました。
わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げる(エゼキエル37:13)
神が墓を開き、死んだ者を墓から引き上げる、
と神は預言者エゼキエルを通して約束されました。
この約束は、イエス様によって実現しました。
神が、イエス様を墓から取り去り、よみがえらせたときにです。
亜麻布しかない、イエス様のいない墓を見つめる時、
私たちはこの聖書の言葉が実現されたと確信することが出来るのです。
わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げる(エゼキエル37:13)
ここで、神は「お前たちを」墓から引き上げると語っています。
ですから、この約束は、イエス様だけでなく、私たちにも及ぶものです。
使徒パウロは、イエス様が死者の中から
復活することによって「初穂」となったため、
イエス様によって私たちも復活の希望が与えられていると、
コリント教会に宛てた第一の手紙の中で書いています。
……キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。(Ⅰコリント15:20-22)
このように復活の希望がイエス様によって与えられたのですから、
来るべき日、私たちも墓から取り去られる日が来ます。
その日がいつなのかは、わかりません。
しかし、神が「今日」と決めたその日に、私たちは墓から引き上げられます。
その日、墓から取り去られるのです。
私たちが自分の力で死に打ち勝つのではありません。
神が、私たちを墓から引き上げることによって、
私たちは死に対する勝利を与えられるのです。
これが、神が私たちに与えてくださった復活の希望です。

【復活の希望が私たちにもたらすもの】
この復活の希望を抱いて生きるとき、
死の先に新しい命があることを、
神が与えてくださった恵みの贈り物として知ることができます。
死は、私たちからすべてのものを奪い去っていく、
私たち自身の力では全く抵抗の出来ない力です。
しかし、死に対して無力な私たちを、
来るべき日、神が墓から引き上げてくださるのです。
その意味で、イエス様が復活し、私たちに復活の希望が与えられている今、
死は最終的な勝利者ではありません。
キリストにあってよみがえるその日、神の恵みにより、
私たちは、死によって失ったものを再び得ることが出来るからです。
死によって、私たちの体は完全に失われます。
しかし、神の恵みによって、体の復活が約束されています。
また、死によって、私たちはすべての人との関係を失います。
家族とも、友人とも、教会に集い共に神を礼拝してきた兄弟姉妹たちとも、
死を迎えた途端、関係が途絶えてしまいます。
共に笑い合うことも、食事をすることも、
祈り合うこともできなくなってしまいます。
しかし、神が墓を開き、私たちを引き上げ、復活させてくださる時、
失ってしまった関係が回復されるのです。
もちろん、失ってしまったものが、
そのままの形で戻ってくるのではありません。
神が私たちに与えてくださるのは、新しい命です。
ですから、更に豊かなものを、神は私たちに与えてくださるのです。
神は、私たちが再び、互いに争い合うために、
私たちに復活の命を与えてくださるのではありません。
私たちは、互いに愛し合い、共に神を賛美するために、
墓から引き上げられ、神の国へと導かれるのです。
争い合い、憎しみ合うことを選んでしまう私たちが、
互いに愛し合う者へと完全に変えられる。
復活の希望は、そのような希望を私たちに示すのです。
そして、この希望は将来、完全な形で与えられるものですが、
復活の希望を抱いて生きる今、前もって味わうことがゆるされています。
ですから、喜びと感謝をもって、神に賛美の声を上げようではありませんか。
「ハレルヤ!」と。