しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年4月24日日曜日

説教#114:「神の義に飢え渇く」

「神の義に飢え渇く」 
聖書 マタイによる福音書 5:6、アモス書 5:14-15
2016年4月24日 礼拝、小岩教会 

【私たちがもつ「義」の危うさ】 
イエス様は、ご自分のもとに集まった人々に向かって、
このように言われました。 
義に飢え渇く人々は、幸いである、 その人たちは満たされる。(マタイ5:6) 
イエス様はこのとき、一体何を意味して「義」と言われたのでしょうか。 
この世界には、様々な「義」が溢れています。 
それは、私たちが「正義」や「善」と呼ぶものものです。 
私たちは物心がついた頃から、 
これが「正しい」と教えられてきたことを信じて、 
その「正しさ」を握りしめて生きています。 
それは家庭や学校での教育を通して教えられたものであったり、 
テレビやインターネットなどを通じて知った価値観であったりします。 
でも、いつの頃からでしょうか。 
「正義」や「善」、そう「正しさ」というものは、 
人それぞれ違うことに、気付かされていくのです。
「これこそが正しいことである」と胸を張って言えるものは、
実は、それほどないのかもしれないと気付くのです。 
戦争や紛争は、自分が正義であると信じ、争われます。
そして、多くの場合、最終的に勝った方が「正義」だと語られるようになります。
そのような勝者の側の自己正当化は、
人類の歴史で絶え間なく繰り返されていることを、
私たちは歴史を紐解いていくときに知ることができます。
また、自分が合理的だと思う判断は、
他の人にとっては非合理的なことかもしれません。
育った環境や文化が違えば、そのような違いが生じるのは当然のことです。
社会的な立場によっても、「正しさ」は異なってきます。
豊かな財産をもつ人の論理は、貧しい人の論理とは違うのは明らかです。
このように考えてみると、私たちが各々に振りかざす「正義」とは、
実はとても危ういものだと思えてなりません。

2016年4月17日日曜日

説教#113:「神の前にへりくだって生きる幸い」

「神の前にへりくだって生きる幸い」
2016年4月17日 礼拝、小岩教会 
聖書 マタイによる福音書 5:5、サムエル記 下 7:18-25

【「柔和」とは何か】
イエス様は、ご自分のもとに集まってきた人々に、
「柔和な人々は、幸いである」(マタイ5:5)と語りました。
「柔和」とは、どのような意味なのでしょうか。
「柔和」という言葉を辞書で引いて調べてみると、 
「性質、態度などが穏やかでやさしげなさま」と出てきます。
確かに、「穏やかで、優しくあること」は、
誰もがそうありたい姿といえるでしょう。
というのは、私たちの心はあまりにも簡単に荒ぶり、 
穏やかさや優しさとはかけ離れた状態になることがあるからです。
ですから、イエス様が「柔和な人々は、幸いである」(マタイ5:5)と
語るのを聞くとき、私たちは、それは当然幸いなことだと思えるのです。
しかし、イエス様は本当に「穏やかさ」や「優しさ」を意味して、 
「柔和な人々は、幸いである」(マタイ5:5)と語ったのでしょうか。 
「柔和」と訳されているギリシア語の意味について調べてみると、
「穏やかさ」や「優しさ」を意味して、
イエス様は「柔和な人々は、幸いである」(マタイ5:5)
と語ったわけではないと気付かされます。
イエス様はこの「柔和」という言葉を語る際、
詩編37:11を念頭に置いているからです。
詩編37:11には、このように記されています。
貧しい人は地を継ぎ 豊かな平和に自らをゆだねるであろう。(詩編37:11)
ここで「貧しい人」と訳されているヘブライ語のもつ
もともとの意味は「低くされる」です。
この言葉の意味には、ふたつの可能性があります。
ひとつは、「社会的に低くされている状態」つまり、貧しい状態です。
そして、もうひとつの可能性は、
「神と出会い、神の前に低くされている状態」
つまり「神の前にへりくだって生きる」ことです。
イエス様は「柔和な人々は、幸いである」(マタイ5:5)と語ったとき、
後者の意味、つまり「神の前にへりくだって生きる」ことを意味して、
「柔和」という言葉を用いました。
ですから、「柔和な人々は、幸いである」(マタイ5:5)という言葉を、
このように言い換えることが出来るでしょう。
「神の前にへりくだって生きる人々は、幸いである」と。

2016年4月10日日曜日

説教#112:「悲しみを抱くところ」

「悲しみを抱くところ」 
聖書 マタイによる福音書5:4、イザヤ書40:1-2
2016年4月10日 礼拝、小岩教会 

【求めていないのに、悲しみはやって来る】 
「悲しむ人々は幸いである」(マタイ5:4)。
イエス様が「山上の説教」で、2番目に語ったこの「幸い」の宣言は、
イエス様に反論したくなる言葉のひとつです。
悲しみは私たちを落胆させ、心を弱らせ、活力を失わせます。
ですから、悲しみは、誰もが出来れば避けたいことです。
しかし、私たちは生きる限り、悲しみを経験することを避けられません。 
事故やトラブルに巻き込まれることもあれば、
他人から裏切られることもあります。
進学や引っ越しなどを通して、別れを経験することもあります。
悲しみを経験することを、誰も求めたことはないでしょう。 
それなのに、悲しみはいつも決まって、 
突然、そして予期せぬ形で私たちのもとにやって来て、
私たちの心を支配するのです。
このような悲しみを経験している人に対して、 
イエス様は「悲しむ人々は幸いである」(マタイ5:4)と言われました。
一体なぜ、悲しむ人々は幸いだと言えるのでしょうか。

2016年4月3日日曜日

説教#111:「神の恵みを絶えず求める」

「神の恵みを絶えず求める」 
2016年4月3日 礼拝、小岩教会 
聖書 マタイによる福音書 5:1-3、申命記 8:11-18 

【「幸いだ!」】
イエス様は山に上り、腰を下ろして、弟子たちに語り掛けました。 
そのとき語られた「山上の説教」と呼ばれるイエス様の言葉集が、 
マタイ福音書5-7章に記されています。 
このときイエス様に語り掛けられた弟子たちは、 
「使徒」と呼ばれる12人の弟子たちだけではありませんでした。 
「群衆」という言葉も使われていることを考えると、 
ここで使われている「弟子」という言葉は、
もう少し広い意味で、使われているといえます。 
イエス様のもとに集まって来た人々の中には、
子どもから老人までいたでしょうし、
性別や社会的な地位も問われることなく、実に様々な人々がいました。
イエス様は、そのような人々に向かって、口を開き、語り始めました。
イエス様が最初に語った言葉はこのようなものでした。 
心の貧しい人々は、幸いである、   天の国はその人たちのものである。(マタイ5:3) 
日本語訳の聖書ではわからないのですが、 
新約聖書が書かれた言語であるギリシア語の聖書を見てみると、
実際の語順は、「幸いだ、心の貧しい者たちは」となっていることに気づきます。 
つまり、イエス様は「幸いだ」と宣言することから、 
この「山上の説教」を語り始めているのです。
この「幸いだ」という言葉は、祝福の言葉です。
その祝福の根拠とは、神が祝福しているからに他なりません。
私たちには、神に祝福されている現実があるため、
イエス様は「幸いだ」と宣言することから、「山上の説教」を語り始めたのです。