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説教#114:「神の義に飢え渇く」

「神の義に飢え渇く」  聖書 マタイによる福音書 5:6、アモス書 5:14-15 2016年4月24日 礼拝、小岩教会  【私たちがもつ「義」の危うさ】  イエス様は、ご自分のもとに集まった人々に向かって、 このように言われました。  義に飢え渇く人々は、幸いである、  その人たちは満たされる。(マタイ5:6)  イエス様はこのとき、一体何を意味して「義」と言われたのでしょうか。  この世界には、様々な「義」が溢れています。  それは、私たちが「正義」や「善」と呼ぶものものです。  私たちは物心がついた頃から、  これが「正しい」と教えられてきたことを信じて、  その「正しさ」を握りしめて生きています。  それは家庭や学校での教育を通して教えられたものであったり、  テレビやインターネットなどを通じて知った価値観であったりします。  でも、いつの頃からでしょうか。  「正義」や「善」、そう「正しさ」というものは、  人それぞれ違うことに、気付かされていくのです。 「これこそが正しいことである」と胸を張って言えるものは、 実は、それほどないのかもしれないと気付くのです。  戦争や紛争は、自分が正義であると信じ、争われます。 そして、多くの場合、最終的に勝った方が「正義」だと語られるようになります。 そのような勝者の側の自己正当化は、 人類の歴史で絶え間なく繰り返されていることを、 私たちは歴史を紐解いていくときに知ることができます。 また、自分が合理的だと思う判断は、 他の人にとっては非合理的なことかもしれません。 育った環境や文化が違えば、そのような違いが生じるのは当然のことです。 社会的な立場によっても、「正しさ」は異なってきます。 豊かな財産をもつ人の論理は、貧しい人の論理とは違うのは明らかです。 このように考えてみると、私たちが各々に振りかざす「正義」とは、 実はとても危ういものだと思えてなりません。

説教#113:「神の前にへりくだって生きる幸い」

「神の前にへりくだって生きる幸い」 2016年4月17日 礼拝、小岩教会  聖書 マタイによる福音書 5:5、サムエル記 下 7:18-25 【「柔和」とは何か】 イエス様は、ご自分のもとに集まってきた人々に、 「柔和な人々は、幸いである」(マタイ5:5)と語りました。 「柔和」とは、どのような意味なのでしょうか。 「柔和」という言葉を辞書で引いて調べてみると、  「性質、態度などが穏やかでやさしげなさま」と出てきます。 確かに、「穏やかで、優しくあること」は、 誰もがそうありたい姿といえるでしょう。 というのは、私たちの心はあまりにも簡単に荒ぶり、  穏やかさや優しさとはかけ離れた状態になることがあるからです。 ですから、イエス様が「柔和な人々は、幸いである」(マタイ5:5)と 語るのを聞くとき、私たちは、それは当然幸いなことだと思えるのです。 しかし、イエス様は本当に「穏やかさ」や「優しさ」を意味して、  「柔和な人々は、幸いである」(マタイ5:5)と語ったのでしょうか。  「柔和」と訳されているギリシア語の意味について調べてみると、 「穏やかさ」や「優しさ」を意味して、 イエス様は「柔和な人々は、幸いである」(マタイ5:5) と語ったわけではないと気付かされます。 イエス様はこの「柔和」という言葉を語る際、 詩編37:11を念頭に置いているからです。 詩編37:11には、このように記されています。 貧しい人は地を継ぎ  豊かな平和に自らをゆだねるであろう。(詩編37:11) ここで「貧しい人」と訳されているヘブライ語のもつ もともとの意味は「低くされる」です。 この言葉の意味には、ふたつの可能性があります。 ひとつは、「社会的に低くされている状態」つまり、貧しい状態です。 そして、もうひとつの可能性は、 「神と出会い、神の前に低くされている状態」 つまり「神の前にへりくだって生きる」ことです。 イエス様は「柔和な人々は、幸いである」(マタイ5:5)と語ったとき、 後者の意味、つまり「神の前にへりくだって生きる」ことを意味して、 「柔和」という言葉を用いました。 ですから、「柔和な人々は、幸いである」(マタイ5:5)と

説教#112:「悲しみを抱くところ」

「悲しみを抱くところ」  聖書 マタイによる福音書5:4、イザヤ書40:1-2 2016年4月10日 礼拝、小岩教会  【求めていないのに、悲しみはやって来る】  「悲しむ人々は幸いである」(マタイ5:4)。 イエス様が「山上の説教」で、2番目に語ったこの「幸い」の宣言は、 イエス様に反論したくなる言葉のひとつです。 悲しみは私たちを落胆させ、心を弱らせ、活力を失わせます。 ですから、悲しみは、誰もが出来れば避けたいことです。 しかし、私たちは生きる限り、悲しみを経験することを避けられません。  事故やトラブルに巻き込まれることもあれば、 他人から裏切られることもあります。 進学や引っ越しなどを通して、別れを経験することもあります。 悲しみを経験することを、誰も求めたことはないでしょう。  それなのに、悲しみはいつも決まって、  突然、そして予期せぬ形で私たちのもとにやって来て、 私たちの心を支配するのです。 このような悲しみを経験している人に対して、  イエス様は「悲しむ人々は幸いである」(マタイ5:4)と言われました。 一体なぜ、悲しむ人々は幸いだと言えるのでしょうか。

説教#111:「神の恵みを絶えず求める」

「神の恵みを絶えず求める」  2016年4月3日 礼拝、小岩教会  聖書 マタイによる福音書 5:1-3、申命記 8:11-18  【「幸いだ!」】 イエス様は山に上り、腰を下ろして、弟子たちに語り掛けました。  そのとき語られた「山上の説教」と呼ばれるイエス様の言葉集が、  マタイ福音書5-7章に記されています。  このときイエス様に語り掛けられた弟子たちは、  「使徒」と呼ばれる12人の弟子たちだけではありませんでした。  「群衆」という言葉も使われていることを考えると、  ここで使われている「弟子」という言葉は、 もう少し広い意味で、使われているといえます。  イエス様のもとに集まって来た人々の中には、 子どもから老人までいたでしょうし、 性別や社会的な地位も問われることなく、実に様々な人々がいました。 イエス様は、そのような人々に向かって、口を開き、語り始めました。 イエス様が最初に語った言葉はこのようなものでした。  心の貧しい人々は、幸いである、    天の国はその人たちのものである。(マタイ5:3)  日本語訳の聖書ではわからないのですが、  新約聖書が書かれた言語であるギリシア語の聖書を見てみると、 実際の語順は、「幸いだ、心の貧しい者たちは」となっていることに気づきます。  つまり、イエス様は「幸いだ」と宣言することから、  この「山上の説教」を語り始めているのです。 この「幸いだ」という言葉は、祝福の言葉です。 その祝福の根拠とは、神が祝福しているからに他なりません。 私たちには、神に祝福されている現実があるため、 イエス様は「幸いだ」と宣言することから、「山上の説教」を語り始めたのです。