説教#112:「悲しみを抱くところ」

「悲しみを抱くところ」 
聖書 マタイによる福音書5:4、イザヤ書40:1-2
2016年4月10日 礼拝、小岩教会 

【求めていないのに、悲しみはやって来る】 
「悲しむ人々は幸いである」(マタイ5:4)。
イエス様が「山上の説教」で、2番目に語ったこの「幸い」の宣言は、
イエス様に反論したくなる言葉のひとつです。
悲しみは私たちを落胆させ、心を弱らせ、活力を失わせます。
ですから、悲しみは、誰もが出来れば避けたいことです。
しかし、私たちは生きる限り、悲しみを経験することを避けられません。 
事故やトラブルに巻き込まれることもあれば、
他人から裏切られることもあります。
進学や引っ越しなどを通して、別れを経験することもあります。
悲しみを経験することを、誰も求めたことはないでしょう。 
それなのに、悲しみはいつも決まって、 
突然、そして予期せぬ形で私たちのもとにやって来て、
私たちの心を支配するのです。
このような悲しみを経験している人に対して、 
イエス様は「悲しむ人々は幸いである」(マタイ5:4)と言われました。
一体なぜ、悲しむ人々は幸いだと言えるのでしょうか。

【悲しむべきことを悲しめる人々は、幸いである】 
イエス様が語った「悲しむ」という言葉に注目してみると、 
ギリシア語では、愛する人を亡くしたときに覚える、 
深い悲しみや嘆きを意味することがわかります。 
この単語は、ギリシア語の中で悲しみを表す最も強い言葉のようです。 
このような強い悲しみを覚えることを、 
素直に悲しめることは、とても大切なことです。 
もちろん、人の死のみが、私たちが生きる上で経験する悲しみではありません。 
私たちの人生には、様々な形で悲しみがやって来ます。 
ですから、イエス様は「悲しむ人々は幸いである」と言ったとき、 
この悲しみが何についての悲しみなのかを説明しませんでした。
生きる限り私たちは、様々な悲しみと出会います。
それなのに、時に私たちは、悲しみを誤魔化すことがあります。 
強がってしまい、悲しむことを忘れ、涙を否定しようとすることがあります。 
それを助長するのは、私たちが築いている社会の
ひとつの罪深い性質なのかもしれません。
「強くあれ」「気丈であれ」と要求されていることを感じます。
悲しみを抱えるとき、
「そんなことで悲しむな」という声も聞こえてくるような気がします。 
すぐにその悲しみに意味を求めて、解決を得ようとすることもあります。
いや、強くあること、悲しみをすぐに振り切れることの方が、
悲しむより良いとさえ思ってしまいます。
また、悲しみに早いこと意味を見出して、
悲しみをひとつの問題として解決させてしまう方が、
悲しみを抱いて生きるより良いとさえ思ってしまいます。
しかし、そんなこと私たちには出来ません。
それは神によって造られた、私たち人間の自然な姿とは、
決して言えない状態だからです。
私たちには豊かな感情が神から与えられています。
悲しいことがあったら、悲しみ、
嬉しいことがあったら、喜ぶ。
おかしなことがあったら、笑い、
傷ついたら、泣く。
神が私たちに与えてくださった豊かな感情を押し殺し、
悲しむべきことを、悲しむことができないこと。
そして、悲しみを押し殺し、悲しみを覚える自分自身を否定してしまうこと。
それは、決して「幸いなこと」とは言えないのでしょう。
その意味で、今、抱いている悲しみを、
素直に悲しむことができる人々は、幸いなのです。

【自分の罪に悲しむ】 
それを思う時、ひとつの問いが私の心には浮かんできます。
「私たちは本当に悲しむべきことに、
悲しみを覚えることが出来ているのだろうか」と。 
イエス様は「悲しむ人々は幸いである」と語ることを通して、 
私たちに問い掛けているのだと思います。 
「あなたが悲しむべきこととは、何ですか。 
あなたは、それに悲しむことが出来ていますか」と。
私たちが悲しむべきこととは、一体何なのでしょうか。
この世界を見渡すとき、
様々な悲しみがこの世界にあることを私たちは知ることができます。
紛争に巻き込まれている人々や、
災害や事故の被害に遭った人々がいること。
そして、格差の問題で苦しむ人々がいます。
もちろん、そのような人々が抱えるすべての悲しみに、
寄り添うことは私たちには出来ませんし、
すべての悲しみを私たちが背負うことなど出来ません。
しかし、彼らの悲しみに対して、無関心な私たちがいるのも確かなことです。
世界の何処か、自分とは遠い場所にいて、
自分とは直接関係のない人々が抱く悲しみに対して、
どうしても私たちは無関心になってしまいます。
また、悲しいことに、身近な人々に対してさえ、無関心であることもあります。
側にいる親しい人たちと一緒に悲しむことができない、
そんな自分がいることもあるのです。
その意味で、私たちが悲しむべきなのは、
私たちが無関心であること、といえるでしょう。
無関心。
それは、私たち人間誰もが抱える罪のひとつの側面です。
私たちが自分以外のことに無関心であるため、
私たちは、神から離れて自分の好き勝手に生きようとします。
神の喜びより、自分の喜びばかりを追い求めてしまっているのです。
私たちは呆れるほど、自分を愛することにばかり時間を注ぎ、
それゆえ、他人を顧みることができず、
人をねじ伏せたり、利用することを選んでしまっています。
私たちがあまりにも無関心であることこそ、悲しむべきことなのです。
神は、この罪の現実に悲しむ私たちに慰めを与えてくださいました。 
いや、悲しむことさえ出来ていないにも関わらず、 
神は慰めを与えてくださいました。
神が私たちのために与えてくださった慰めとは、イエス様です。 
イエス様によってすべての罪が赦されている
という事実があることこそ、私たちにとっての大きな慰めです。
私たちは、無関心である自分の罪を見つめるとき、
その罪の深さを知れば知る程、絶望し、悲しみを覚えます。
しかし、神の愛に触れる時、私たちは慰めを受け、喜びを得ることができます。
無関心であるにもかかわらず、神は私たちに目を向け続け、
私たちに関心をもち続けてくださる。
その喜びは、罪に悲しんでいれば悲しんでいるほど、より深い喜びとなります。
だから、自分の抱える罪に悲しむ人々は、幸いなのです。 

【慰め主である神】 
さて、私たちに関心を持ち続け、
私たちの罪の問題を解決してくださった神は、 
この世界の現実を見つめて、悲しみ続けているお方です。 
この世界のすべてのものを愛しているからこそ、 
愛する私たち人間の罪を見て、神は悲しみを覚えておられます。
そして、私たちが経験する悲惨な現実、
嘆き苦しむ現実を見て、神は悲しんでいるのです。
このような神が覚える悲しみを、 
私たちも共に悲しむようにと招かれています。 
悲しむことができる者へと、神は私たちを造り変えてくださいます。 
神は、神ご自身が悲しみを覚えていることに、 
慰めが与えられることを心から願っていますし、
私たちに慰めを与えようと働きかけてくださる方です。 
だから、イエス様は宣言されました。
「その人たちは慰められる」と。 
どのような形で悲しむ人々が慰めを受けるかについて、
このとき、イエス様は何も言いませんでした。
きっと、慰めは様々な形で与えられるのでしょう。
確かに言えることは、慰めを与えるのは、神に他ならないということです。 
神の不思議な業や、神の言葉である聖書の言葉を通して、
また、祈りの交わりの中で、神は慰めを直接与えることもあれば、 
周囲の人々の助けによって、私たちに慰めを与えることもあります。
それらすべてが、神が私たちのために伸ばしてくださった、
神の御手の働きなのです。

【交わりの中で悲しみ、慰めを受ける】
神は私たちに慰めを与える方法として、
この地上に教会という交わりを立てることを選ばれました。
神は礼拝に私たちを招き、
招かれた私たちは共に神を礼拝し、同じ信仰を分かち合っています。
そして、教会において、私たちは
喜びと悲しみを共にするように招かれているのです。 
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)と。
それができる交わりは、まさに、神によって与えられた慰めといえるでしょう。
教会は、その喜びや悲しみを分かち合うためだけにあるのではありません。
自分たちのためだけに、教会は立っているのでもありません。
教会は、この世界のただ中に、神によって建てられました。
だから、教会はこの世界の悲しみや苦しみを共に担うようにと招かれています。 
ですから、この世界が抱える悲しみや苦しみが解決されることを願い、 
神の慰めを求めて、私たちは祈るのです。
そして、必要であれば、行動に移し、声を上げるのです。
そうやって、私たちは神と共に悲しむのです。
神によって将来、慰めを必ず得ることが出来るという希望を抱いて、 
悲しみと向き合うことができると信じているからです。
さぁ、イエス様の語りかける言葉に耳を傾けましょう。
「悲しむ人々は幸いである」(マタイ5:4)。

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