しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年4月17日日曜日

説教#113:「神の前にへりくだって生きる幸い」

「神の前にへりくだって生きる幸い」
2016年4月17日 礼拝、小岩教会 
聖書 マタイによる福音書 5:5、サムエル記 下 7:18-25

【「柔和」とは何か】
イエス様は、ご自分のもとに集まってきた人々に、
「柔和な人々は、幸いである」(マタイ5:5)と語りました。
「柔和」とは、どのような意味なのでしょうか。
「柔和」という言葉を辞書で引いて調べてみると、 
「性質、態度などが穏やかでやさしげなさま」と出てきます。
確かに、「穏やかで、優しくあること」は、
誰もがそうありたい姿といえるでしょう。
というのは、私たちの心はあまりにも簡単に荒ぶり、 
穏やかさや優しさとはかけ離れた状態になることがあるからです。
ですから、イエス様が「柔和な人々は、幸いである」(マタイ5:5)と
語るのを聞くとき、私たちは、それは当然幸いなことだと思えるのです。
しかし、イエス様は本当に「穏やかさ」や「優しさ」を意味して、 
「柔和な人々は、幸いである」(マタイ5:5)と語ったのでしょうか。 
「柔和」と訳されているギリシア語の意味について調べてみると、
「穏やかさ」や「優しさ」を意味して、
イエス様は「柔和な人々は、幸いである」(マタイ5:5)
と語ったわけではないと気付かされます。
イエス様はこの「柔和」という言葉を語る際、
詩編37:11を念頭に置いているからです。
詩編37:11には、このように記されています。
貧しい人は地を継ぎ 豊かな平和に自らをゆだねるであろう。(詩編37:11)
ここで「貧しい人」と訳されているヘブライ語のもつ
もともとの意味は「低くされる」です。
この言葉の意味には、ふたつの可能性があります。
ひとつは、「社会的に低くされている状態」つまり、貧しい状態です。
そして、もうひとつの可能性は、
「神と出会い、神の前に低くされている状態」
つまり「神の前にへりくだって生きる」ことです。
イエス様は「柔和な人々は、幸いである」(マタイ5:5)と語ったとき、
後者の意味、つまり「神の前にへりくだって生きる」ことを意味して、
「柔和」という言葉を用いました。
ですから、「柔和な人々は、幸いである」(マタイ5:5)という言葉を、
このように言い換えることが出来るでしょう。
「神の前にへりくだって生きる人々は、幸いである」と。

【神の御心に従う者は幸い】
それでは、「神の前にへりくだる」とは、どのようなことなのでしょうか。
それは、神の思いを知り、神の意思に従う生き方といえます。
たとえ神がどのように自分を取り扱ったとしても、
神が示してくださった道を歩むことこそ幸いなのだと認めること。
そして、神の意志を示されたとき、
神に文句を言ったり、抵抗したりしない姿勢のことです。
私たちは、日々の生活の中で、
また自分たちの将来に関して、神の導きを求めます。
特に、困難や行き詰まりを感じるときは、
ひたすらに神の導きを求めることでしょう。
しかし、神の導きを求めたとき、 
自分の思い通りにならないことが時にはあります。
そのような現実を受け止めきれず、神に抵抗し、
神を自分の思い通りに利用したい思いに支配されることもあります。
柔和であるとは、そのようなことでは決してありません。
神が導いてくださる道こそ幸いなのだと、神の主権を認めて、
神の前にへりくだり、神に従い、神と共に歩むことこそ、柔和であり、
イエス様が語られている、「幸い」の道なのです。

【ダビデを通して示された信仰者の「柔和」】
私たちは、イエス様が語った「柔和な人々」の姿を、
旧約聖書のうちに見出すことができます。
そのうちの一人が、先ほど朗読されたサムエル記に登場する、ダビデ王です。
サムエル記下7章18-29節には、ダビデの祈りが記されています。
主なる神よ、今この僕とその家について賜った御言葉をとこしえに守り、御言葉のとおりになさってください。(サムエル記 下 7:25)
とダビデは祈り、神の言葉に従うという信仰の表明をしています。
このときダビデが祈った祈りは、預言者ナタンを通して語られた、
神の言葉に対する応答としてなされたものです。
そのことに目を向けるとき、「柔和な人」と呼ぶに相応しい、
ダビデの姿に気付くことができます。
預言者ナタンを通して、神がダビデに語った言葉は、5-7節に記されています。
あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。わたしはイスラエルの子らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕、すなわち幕屋を住みかとして歩んできた。わたしはイスラエルの子らと常に共に歩んできたが、その間、わたしの民イスラエルを牧するようにと命じたイスラエルの部族の一つにでも、なぜわたしのためにレバノン杉の家を建てないのか、と言ったことがあろうか。(サムエル記下7:5-7)
ダビデが心から願っていたことは、
主である神の神殿をエルサレムに建てることでした。
イスラエルの王である、全世界を治める主なる神のその名に相応しい、
素晴らしい神殿をエルサレムに建てたい。
そのようなダビデの思いを知って、神は預言者ナタンを通して、
ダビデにこのように語り掛けたのです。
「なぜわたしのためにレバノン杉の家を建てないのか、
と言ったことがあろうか」(サム下7:7)と。
つまり、「ダビデよ、あなたは私のために神殿を建てる必要はない」と、
神は語り、ダビデの思いを拒否されたのです。
このような神の言葉を受けて、ダビデが祈った祈りが、
18-29節に記されている祈りです。
ダビデは、自分が思い描いていた計画を退ける、神の意思を前にしたとき、
神の言葉を拒絶し、自分の思いを押し通すことはしませんでした。
彼は、神の前にへりくだり、神の言葉に従うと祈ったのです。
たとえ、それが信仰的な動機から出発していたとしても、
神が喜ばなければ、何の意味もないのです。
自分自身が抱く思いではなく、神の思いに従うことを喜びとした、
このダビデの祈りは、まさに「柔和な人」の模範とも呼べる祈りです。
神は、ダビデを通して、私たちに模範を示してくださったのです。

【主イエスがまずへりくだった】
さて、イエス様は、柔和な人たちは、「地を受け継ぐ」と言われました。 
今私たちが生かされている、この地上を受け継ぎ、支配する、
という意味ではないのは確かでしょう。 
「地を受け継ぐ」という言葉の意味を考える上で、
3節の「心の貧しい人々は、幸いである」
という言葉に、私たちは目を向ける必要があります。
というのは、3節の「心の貧しい人々は、幸いである」という言葉も、
「柔和な人々は、幸いである」と同様に、
詩編37:11が背景となって語られているため、
このふたつは、とても関連が深い言葉だからです。
多くの聖書学者たちは、このふたつの言葉が、
詩編37篇によって結ばれていることに注目し、
「地を受け継ぐ」は、 「天の国はその人たちのもの」の
言い換えであると結論づけています。
神の前にへりくだる者は、神の約束の地を受け継ぐ。
つまり、神の国を受け継ぎ、神の国の現実に生かされているのです。
しかし、このような約束が与えられているのにも関わらず、
神の意志に従うよりも、自分の意志に従うことの方を
優先してしまうことが、私たちには多くあります。
自分の意志に従って生きるほうが、遥かに慣れきっていて、
その方が心地良いと感じてしまう性質が、
私たちの心の隅々に、染み渡っているからです。
そのため、イエス様が語った「柔和」とは程遠い現実は、
私たちの世界に広がっています。
神の言葉を聞かず、自分の心の声にばかり耳を傾けてしまう。
神の思いを知り、神の喜びを求めるよりも、
自分を喜ばせることばかり追い求める。
自分の喜びを追求し、自分の思いを貫こうとするあまり、衝突が生まれてしまう。
神の前にへりくだれないだけでなく、
人に対してもへりくだることができない。
穏やかさも、優しさも忘れ、憎しみや妬みで心が支配されてしまう。
このように、「柔和」とは程遠い歩みをしやすい私たちが、確かにいるのです。
神の前にへりくだって生きることとは、程遠い歩みは、
イスラエルにおいても、この世界の何処においても、
昔から絶え間なく、いつの時代も繰り返されてきました。
だから、イエス様は、神に背を向けて歩もうとする
私たち人間のただ中に来てくださいました。
神の前にへりくだって生きることは幸いだと語り掛け、
身をもって、神の前にへりくだって生きることを、
イエス様は私たちに示してくださったのです。
私たちが柔和であるよりも前に、イエス様が柔和であり続けたのです。
イエス様は、十字架の死に至るまで、神の意思に従い続けました。
神に背を向けて、柔和であり続けることの出来ない私たちが、
罪の赦しを得るという、神の計画が実現するために、
イエス様は、神の前にへりくだり、神に従い続けたのです。
神は主イエスを信じ、受け入れ、従う者を、
イエス様によって、柔和な者へと造り変えることの出来るお方です。
だから、私たちは神の力を信じ、心から願うことができるのです。
私たちが、イエス様に似た者に変えられていくことを。
そして、神の意志が私たちに及ぶとき、
それを心から受け入れる者となることを。
イエス様によって変えられ、「柔和な人」とされた人々は、実に幸いです。 

そのような人々は、神の国を受け継ぎ、神の国の現実に活かされるのですから。