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説教#122:「真実な献げ物をするために」

「真実な献げ物をするために」 聖書 マタイによる福音書5:21-26、ホセア書6:4-6 2016年6月26日 礼拝、小岩教会 【「殺してはならない」】 イエス様は、とても有名な旧約聖書の言葉を挙げて、人々に語り始めました。 『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』(マタイ5:21) この言葉は、出エジプト記20章に記されている、十戒からの引用です。 しかし、十戒には「殺してはならない」と記されているのみです。  後半部分の「人を殺した者は裁きを受ける」は、  律法学者たちの間で一般的になされていた解釈だと考えられています。  当然、この解釈について、殆どすべての人が同意できたことでしょう。  しかし、イエス様はそのような同意では良しとせず、 続けてこのように語りました。  しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。(マタイ5:22)  イエス様は、「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」と言います。 もちろん、怒りの感情を覚えるだけでは、 イエス様の時代に裁判は発生しませんでしたし、 怒りの感情を心に抱く、それだけでは、今の時代も裁判にはなりません。  しかし、イエス様は、このように語ることを通して、 「怒り」や「憎しみ」といった感情を問題としました。 ここでイエス様が特に問題としているのは、  瞬間的な怒りではなく、いつまでも続く怒りです。 私たちは怒りを覚えるとき、 怒りの原因となった出来事を忘れようとせず、根に持ちます。 また、復讐をしようと計画を立てることもあれば、 和解を拒むこともあります。 怒りが表面化するとき、決まって争い事や衝突が起こります。 そして、争いの結果として、私たちは傷付け合います。 それが、度を越すと、心に深い傷を与えたり、 人を殺めてしまうことさえ起こり得るのです。 私たち人間の争いの根に、怒りや憎しみがあるからこそ、 イエス様は、「殺すな」という言葉に説明を加えたのです。 「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(マタイ5:22)と。

説教#121:「完成させるために主イエスは来た」

「完成させるために主イエスは来た」  聖書 マタイによる福音書5:17-20、エゼキエル書36:25-27  2016年6月19日 礼拝、小岩教会  【主イエスは完成させるために来た】  イエス様は、ご自分が来られた理由について、このように語りました。  わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(マタイ5:17) イエス様が、人々にこのように語ったのには、理由がありました。 それは、イエス様がこれから語ろうとしていることに関して、 誤解が広まるのを避けるためでした。 イエス様は21節以降で、当時一般的であった律法の解釈について触れた後、 「しかし、わたしは言っておく」(マタイ5:22, 28など)と言って、 律法のもつ真の意味を語っています。 神の言葉としてイスラエルに与えられた律法が、 相応しい形で人々に受け取られる必要を感じて、 イエス様はこのように語ったのでしょう。 しかし、イエス様の選んだ語り方は、 人々に誤解を与える危険がありました。 「あのイエスという男は、律法を破壊して、 全く新しい教えを語っている」と思われる危険です。 そのため、イエス様は、これから語ろうとしていることを、 人々に伝えるための準備として、こう言われたのです。 わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(マタイ5:17) ここで、イエス様は「律法と預言者」と語っています。 この「律法と預言者」という表現は、 「旧約聖書」を指す、当時の人々の言い回しです。 律法は、旧約聖書の最初の5つの書物、「創世記」から「申命記」を指し、 「預言者」は、「ヨシュア記」から「列王記」と、 「イザヤ書」以降の預言書を指します。 では、この「律法と預言者」、 すなわち、神の言葉が目指すものとは何なのでしょうか。 それは、神の意志がこの世界に実現し、神の業として完成することです。 ですから、紙の上に、パピルス紙の上に、律法が文字として書かれたり、 それが知識として人々に知られることだけでは、 神の言葉である律法が、目的を達成しているとは言えま

説教#120:「世のために光り輝く共同体」

「世のために光り輝く共同体」  聖書 マタイによる福音書5:13-16、イザヤ書49:6  2016年 6月 12日 礼拝、小岩教会  【あなたがたは地の「塩」である】 あなたがたは地の塩である。  そして、世の光である。  これらの言葉は、とても有名なイエス様の言葉です。 イエス様は、ご自分を信じ、従うすべての人々に、  そう、「キリストの弟子」と呼ばれる人々に向かって、  あなたがたは、塩であり光なのだと語りました。  どのような意味を込めて、イエス様はご自分のもとに集まった人々に、 このような宣言をされたのでしょうか。 イエス様の時代、塩には大きく分けて 2つの特別な性質があると考えられていました。  まず、塩は食べ物が腐るのを防ぐためにも用いられ、 防腐剤の役割を持っていました。  そして何より、人々が最も日常的に行った、 塩の用い方は、食べ物に塩味をつけることでした。 防腐剤であり、食材に味をつける調味料として、 人々から認識され、用いられてきた塩は、 当然、人々の生活に欠かすことのできないものでした。 ということは、イエス様を信じる人々は皆、  倫理・道徳的に腐敗したものではなく、味のある、 絶対に欠かせない存在であるという意味を込めて、 イエス様は「あなたがたは塩である」と語られたのでしょうか。

説教#119:『「幸い」の道を行け』

『「幸い」の道を行け』 聖書 マタイ5:1-12、申命記11:26-32、詩編1篇  2016年6月5日 礼拝、小岩教会  【「幸い」の道への招き】 イエス様は8つの「幸い」を語ることを通して、  イエス様に従う者たちが進むべき、「幸い」の道を指し示しました。 心の貧しい人々、悲しむ人々、 柔和で、義に飢え渇く人々。 憐れみ深く、心の清い人々、 平和を実現する人々、義のために迫害される人々。 そのような人々は幸いであると、イエス様は、 ご自分のもとに集まった人々に向かって宣言されました。 イエス様は、これらの言葉を語ることを通して、 イエス様を信じ、イエス様に従う弟子たちに、 そう、私たちに「このような者であれ」と語っているかのようです。  イエス様は私たちの前に道を開いて、 イエス様が「幸いだ」と宣言しておられる、 その道を歩むようにと招いておられるのです。 今、イエス様が「幸いだ」と宣言された、 ひとつひとつの言葉を思い起こしてみましょう。 イエス様ははじめに、「心の貧しい人々は、幸いだ」と語られました。 そういうことによって、イエス様は私たちを招いておられます。 「あなたがたは、心の貧しい者でありなさい」と。 「心の貧しさ」とは、ギリシア語を見ると、 「霊における貧しさ」であることがわかります。 それは、一言で言うならば、私たちの救いは、神にのみあると認めることです。 自分自身に救いを置かないゆえに、霊において貧しい者であり続けることを、 イエス様は「心の貧しさ」「霊における貧しさ」と語っています。 神によってのみ、私たちは豊かな者となると信じてやまない。 そのような者でありなさいと、イエス様は私たちに語り掛け、 そのような生き方こそ、「幸いだ」と宣言しているのです。 イエス様は、「幸い」の道へと人々を招き続けます。 「あなたがたは、悲しむ者でありなさい」。 それは、神と共に悲しむ者であれ、ということです。 神が喜ばれることを知るとき、 神が喜ばれることとはかけ離れている現実があることに気づきます。 それに気付くとき、神と共に悲しむ者でありなさい、とイエス様は招いています。 私たちは、神によって慰めを与えられ