しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年6月5日日曜日

説教#119:『「幸い」の道を行け』

『「幸い」の道を行け』
聖書 マタイ5:1-12、申命記11:26-32、詩編1篇 
2016年6月5日 礼拝、小岩教会 

【「幸い」の道への招き】
イエス様は8つの「幸い」を語ることを通して、 
イエス様に従う者たちが進むべき、「幸い」の道を指し示しました。
心の貧しい人々、悲しむ人々、
柔和で、義に飢え渇く人々。
憐れみ深く、心の清い人々、
平和を実現する人々、義のために迫害される人々。
そのような人々は幸いであると、イエス様は、
ご自分のもとに集まった人々に向かって宣言されました。
イエス様は、これらの言葉を語ることを通して、
イエス様を信じ、イエス様に従う弟子たちに、
そう、私たちに「このような者であれ」と語っているかのようです。 
イエス様は私たちの前に道を開いて、
イエス様が「幸いだ」と宣言しておられる、
その道を歩むようにと招いておられるのです。
今、イエス様が「幸いだ」と宣言された、
ひとつひとつの言葉を思い起こしてみましょう。
イエス様ははじめに、「心の貧しい人々は、幸いだ」と語られました。
そういうことによって、イエス様は私たちを招いておられます。
「あなたがたは、心の貧しい者でありなさい」と。
「心の貧しさ」とは、ギリシア語を見ると、
「霊における貧しさ」であることがわかります。
それは、一言で言うならば、私たちの救いは、神にのみあると認めることです。
自分自身に救いを置かないゆえに、霊において貧しい者であり続けることを、
イエス様は「心の貧しさ」「霊における貧しさ」と語っています。
神によってのみ、私たちは豊かな者となると信じてやまない。
そのような者でありなさいと、イエス様は私たちに語り掛け、
そのような生き方こそ、「幸いだ」と宣言しているのです。
イエス様は、「幸い」の道へと人々を招き続けます。
「あなたがたは、悲しむ者でありなさい」。
それは、神と共に悲しむ者であれ、ということです。
神が喜ばれることを知るとき、
神が喜ばれることとはかけ離れている現実があることに気づきます。
それに気付くとき、神と共に悲しむ者でありなさい、とイエス様は招いています。
私たちは、神によって慰めを与えられることを信じるからこそ、
希望をもって、神の前に立ち、嘆き悲しむことができるのです。
「あなたがたは、柔和な者でありなさい」。
それは、神の前にへりくだる人のことです。
イエス様こそ、神の前にへりくだり続けた人でした。
だから、イエス様にならって、
神に仕えるように、人に仕えるようにとイエス様の弟子たちは招かれています。
そして、「あなたがたは、義に飢え渇く者でありなさい」と、
イエス様は招き、自分の正しさを振りかざすのではなく、
神の義の実現を願うことが幸いであると宣言されました。
「あなたがたは、憐れみ深い者でありなさい」。
「心の清い者でありなさい」。
神によって憐れみを受けているからこそ、 
私たちは憐れみ深くあることができるのです。
その憐れみは、イエス様を通して示されました。
イエス様は、虐げられている人々や罪人と罵られている人々に寄り添い、
彼らに憐れみの心をもって、共に歩まれました。
そして何より、罪を抱えて生きる私たち人間を愛し、憐れんで、
イエス様は十字架にかかり、罪の赦しを私たちに与えてくださいました。
だから、イエス様によって憐れみを示されたように、
憐れみ深くあることが出来る者は、幸いなのです。
そして、神の憐れみによって、私たちは罪を赦され、
神の愛を受け、心の清い者とされました。
だから、心の清い者とされた者らしくありなさい、
とイエス様は招いておられます。 
最後に、イエス様はこのように語りました。
「あなたがたは、平和を実現する者でありなさい。 
そして、義のために迫害される者でありなさい」と。
平和、すなわちシャロームとは、神が望んだ関係のことです。
神が意図された世界のあり方が実現することを願い、 
そのために生きる者。 
それが、平和を実現する者であり、 
義のために迫害される者であると呼び、
イエス様は「幸いだ」と宣言されました。

【天の国への招き】
イエス様はなぜ私たちに、このような者であれと言うのでしょうか。
それは、天の国はそのように生きる人たちのものだからです。
この言葉は、3節と10節で二度も語られています。
そのため、明らかに、この「幸い」という宣言を包み込むために、 
イエス様は3節と10節で、同じ言葉を用いているといえるでしょう。 
ただ、イエス様からこのような招きを与えられた私たちは、
決して完全な存在ではありません。
ですから、イエス様が「幸いだ」と宣言した通りには、 
残念ながら、私たち人間は誰も、完璧には生きられません。 
どうしても過ちを犯してしまいますし、
どうしても弱さをさらけ出してしまいます。
イエス様は無理難題を私たちに要求して、
その無理な要求に応えることの出来る人だけを、 
天の国へと招いているのでしょうか。
いや、もしも、イエス様が「幸いだ」と宣言した通りに生きることが、
天の国に入る条件なのならば、天の国は誰のものにもならないでしょう。
しかし、幸いなことに、神が私たちに与えられた救いとは、
神から私たちの側に一方的に、恵みとして与えられたものです。 
私たちがどのような存在であるかが、救いの条件ではなく、
神が私たちを愛してくださっているということが、
神が私たちを救いへと導き、天の国へと招いておられる唯一の理由です。
そうであるならば、イエス様が語ったこの「幸い」とは、 
天の国に招かれるための条件ではなく、 
天の国に招かれている人に、相応しい生き方だと考えるべきでしょう。
恵みとして、天の国に招かれているのだから、その事実に基づいて、 
喜びをもって、このように生きなさいということです。
天の国は、将来、私たちのもとにやってくる出来事として、
神は私たちに揺るがぬ約束を与えてくださっています。
しかし、もしも私たちがこの「幸い」の道を行くならば、 
天の国は、今、私たちの現実で少しずつ少しずつ実現していくのです。

【「幸い」の道は主イエスによって開かれた】
イエス様がこの道を行けと言って、招いておられる「幸い」の道は、
本来、私たち自身の力ではとても歩むことができない道です。
私たちは心の貧しい者であるよりは、
心が豊かな者であろうとします。
神にのみ救いがあるにも関わらず、他のものに頼ろうとしてしまいます。
悲しむ者であるよりは、その悲しみを押し殺す道を選んでしまいます。
へりくだって生きるよりは、誰かの上に立つことに力を注いでしまいます。
神の義を求めるよりは、自分の正しさを振りかざしてしまいますし、
憐れみ深くあるより、
人の苦しみや悲しみに鈍感であることの方が多くあります。
心の清さを追求することなど出来ず、
心の中で、嫉妬や妬み、憎しみといった、悪い感情が渦巻くばかりです。
平和を実現するよりは、争いを引き起こしてしまうし、
神の義のために迫害されるよりは、
自分の義を追求するために、迫害する側に立つことだってあります。
日々の自分の歩みを振り返るとき、
イエス様が「幸いだ」と言われた道とは、
正反対の道を選び取ることが、何と多いことでしょうか。
しかし、それにもかかわらず、
イエス様は、私たちをこの「幸い」の道へと招いておられるのです。
そして、驚くべきことに、その道を選び取り、歩む前から、
「あなたがたは幸いだ」と宣言してくださっているのです。
イエス様が招いておられるから、
私たちはその「幸い」の道を歩むことができるのです。
イエス様が招いておられるから、
私たちはその「幸い」の道を歩むにふさわしい者へと、
少しずつ、少しずつ、変えられていくのです。
主なる神に、それはできるのです。

【「幸い」の道を行け】
この「幸い」の道は、新約聖書の時代、
イエス様によって、突然示されたものではありませんでした。
それは、旧約聖書の時代から、
イスラエルの人々に示され続けていた道でもありました。
旧約聖書の「申命記」に、イスラエルの指導者である
モーセが語った言葉が記されています。
彼は、イスラエルの民にふたつの道を示すために、このように語りました。
見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。(申命記11:26-28)
彼が示したふたつの道とは、神に従って歩む道と、神に背く道です。
一方は祝福の道であり、もう一方は、呪いである、とモーセは語ります。
これは、私たちの前にも常に示されているふたつの道です。
当然、祝福の道を選び取り続けることこそ、 
私たちにとっての幸いの道ですし、
モーセは、イスラエルの民が、祝福の道を選び取ることを
前提として、このように語りました。
神は、いつもこの祝福の道へと私たちを招いておられます。
それは、イエス様によって一方的な恵みとして、
神が、私たちに与えてくださった「幸い」の道です。
イエス様は、神に従う、この道を歩むことこそ、私たちの幸いだと語ります。
ですから、きょう、私はあなたがたに言います。
「幸い」の道を行きなさい。
この幸いの道が目の前に既に開かれているあなたがたは、幸いです。
もちろん、神に従う「幸い」の道を歩んだから、
この地上での歩みがすべてうまくいき、安泰だということなどはありません。
どちらの道を選んだとしても、変わらずに、
私たちのもとに喜びも、悲しみも、苦しみも、悩みも、訪れます。
しかし、神に従う、「幸い」の道は、
イエス様が一緒に歩んでくださる道です。
ですから、私たちはどのような時も、この道を選び取り続けていきましょう。
イエス様が、この「幸い」の道を一緒に歩もうと、
いつも招いてくださっているのですから。