しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年6月12日日曜日

説教#120:「世のために光り輝く共同体」

「世のために光り輝く共同体」 
聖書 マタイによる福音書5:13-16、イザヤ書49:6 
2016年 6月 12日 礼拝、小岩教会 

【あなたがたは地の「塩」である】
あなたがたは地の塩である。 
そして、世の光である。 
これらの言葉は、とても有名なイエス様の言葉です。
イエス様は、ご自分を信じ、従うすべての人々に、 
そう、「キリストの弟子」と呼ばれる人々に向かって、 
あなたがたは、塩であり光なのだと語りました。 
どのような意味を込めて、イエス様はご自分のもとに集まった人々に、
このような宣言をされたのでしょうか。
イエス様の時代、塩には大きく分けて
2つの特別な性質があると考えられていました。 
まず、塩は食べ物が腐るのを防ぐためにも用いられ、
防腐剤の役割を持っていました。 
そして何より、人々が最も日常的に行った、
塩の用い方は、食べ物に塩味をつけることでした。
防腐剤であり、食材に味をつける調味料として、
人々から認識され、用いられてきた塩は、
当然、人々の生活に欠かすことのできないものでした。
ということは、イエス様を信じる人々は皆、 
倫理・道徳的に腐敗したものではなく、味のある、
絶対に欠かせない存在であるという意味を込めて、
イエス様は「あなたがたは塩である」と語られたのでしょうか。

【あなたがたは「地の塩」である】
たしかに、イエス様が言いたいことはそのようなことだと思いますが、
興味深いことに、イエス様は単に
「あなたがたは塩である」とは言いませんでした。 
あなたがたは、「地の」塩であるとイエス様は語っています。
もちろん、「あなたたちは、海水から取れる塩ではなく、岩塩ですよ」
という意味で、「地の塩」と表現したのではありません。
イエス様は「あなたがたは地の塩である」と言うことによって、
何のために、イエス様に従う人々が塩であるのかを明らかにしています。
それは、この地のため。
この地のために、イエス様を信じ、イエス様に従う人々は塩なのです。
「地」という言葉は、私たちが踏みしめる大地のみを指す言葉ではありません。
旧約聖書で、「地」とは大きな意味をもつ言葉です。
まず「地」とは神が創造し、神が私たちに与えてくださったものです。
この地を、この足で踏みしめて、私たちは生活をし、
この地から採れた作物を食べることを通して、私たちは暮らしています。
また、旧約聖書の最初の書簡である「創世記」によれば、
「地」を管理するように、私たち人間は神から命じられています。
そして、「地」とは、そこに住むすべての生き物を指す言葉です。
ですから、この地に住む人々に対して、
つまり、この世界で共に生きる、神によって造られたすべての被造物に対して、
塩であるということを意味して、イエス様は宣言されたのです。
「あなたがたは地の塩である」と。
ですから、地の塩であるということは、イエス様を信じる私たち自身が、 
神の前に腐敗せず、味気のある存在であれば良いという、
いわば自己完結的なものではないのです。
私たちの存在を通して、 
この地が、腐敗を逃れること。
そして、この地に共に生きるものたちが、
ますます生き生きとし、その人が本来もっている良い味が引き出されること。
そのために、 「あなたがたは地の塩である」とイエス様は言われたのです。
私たちは自分自身のために、「塩」であるのではありません。
何よりも、この地のために、
この地で、この世界で、共に暮らすすべてのものたちのために、
私たちは塩なのです。

【あなたがたは、世界のための光】
また、私たちが光であることも、塩であることと同じことが言えます。
イエス様は言います。
あなたがたは「世の」、つまりこの「世界の」光である、と。
私たちは、人に見せびらかすため、
自分自身のために光であるわけではありません。
そうではなく、この世界のために、私たちは光なのです。
そして、その究極の目的は、「人々が、……あなたがたの天の父を
あがめるようになるため」(マタイ5:16)なのです。
だから、人々が神を知るための光として、この世界を照らすために、
升の下ではなく、燭台の上にともし火を置くようにと、イエス様は勧めます。
イエス様はまた、「山の上にある町は、
隠れることができない」(マタイ5:14)とも言っています。
夜は生活のために、当然、家の中に光を灯します。
山の上に町があるならば、
その光は、その山の周囲から隠すことはできません。
ここで重要なのは、山の上にある町の人々は、
ただそこにあって、生活をしているだけで、
何も特別なことはしていない、ということです。
そのことから、イエス様に従う者たちの、
その存在のあり方そのものが、光を放つと、
イエス様は言っていることがわかるでしょう。

【キリストによって、塩とされ、光とされている】
しかし、この言葉を受けて、
素直に自分自身のことを見つめ直すと、私は思うのです。
「私たちは、本当に塩であり、光であるのだろうか」と。
そもそも、塩に関しても、光に関しても、 
本来、私たちはそのような性質を持ちあわせてはいませんし、
そのような存在でいることはできません。
塩として、周囲の人々を生かす味付けをするよりは、
必要以上に、自分が塩であることを誇示したり、
自分がこれこそ自分が思う「塩」らしいものだと言って、
自分の価値基準を押し付けることもあります。
そうすることによって、人を塩分過多な状態にして、
生かすのではなく、かえって殺してしまうことだってあります。
光を照らすよりは、その光を覆い隠して、
暗闇を広げることを許してしまうこともあります。
そもそも、私たちが塩であり、光であることは、
神が、キリストによって、私たちに与えた性質です。
イエス様に従う者が、イエス様によって、
「あなたがたは地の塩である」
「あなたがたは世の光である」と宣言されたのです。
イエス様の宣言によって、私たちは、地の塩となり、世の光とされたのです。
この世界で共に暮らす人々に、
良い味付けをして、豊かにその人の持ち味を引き出し、
生き生きとした存在にすることの出来る存在とされたのです。
そして、この世界のために、輝き、光を照らす存在とされたのです。
それは何よりも、私たちの行いや生き方、言葉や考え方よりも、
私たちの存在のあり方が、不思議なことに、塩であり、光となっているのです。
不可能に思えるかもしれません。
しかし、神にはそれが出来ます。
私たちが塩であり、光とされていることは、驚くべき神の業なのです。

【神の栄光の光を反映させて生きる】
ところで、旧約聖書によれば、神こそが光であると語られています。
主はわたしの光、わたしの救い(詩編27:1)
そうであるならば、私たちが世界の光であるということは、正確に言うならば、
神の栄光の光を私たちが受けて、
その光を鏡のように反射させることによって、光り輝くことであるといえます。
神の光を、この「私」という存在を通して、人々に知らせるのです。
それは、使徒パウロがコリントの教会に宛てて書いた
第二の手紙で書いていることです。
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。(Ⅱコリント3:18)
神から栄光の光が、私たちに向かって照らし出されています。
だから、鏡のように、私たちは、神の栄光を映し出すことが出来るのです。
たとえ、私たちがどれほど不完全な存在であったとして、
私たちは輝くことができるのです。
神がその光の源だから、私たちは、
神が照らすその光を反射させて、輝くことが出来るのです。
それは、太陽と月の関係のようなものです。
どれだけクレーターによって、月の表面がボコボコであったとしても、 
太陽の光を反射させることによって、月は美しく輝きます。
私たちと神との関係は、月と太陽の関係以上のものです。
というのは、神の栄光を反映させて、
私たちは、美しく輝くことができるばかりでなく、
「鏡のように主の栄光を映し出しながら、
栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて」いくというのですから。
私たちが心に留めるべきなのは、
この輝きは、自分自身のためではなく、世のための輝きであることです。
そして、この世界のために輝く群れとして、
神は教会をこの地上に立ててくださいました。 
それと同時に、神が、私たちを塩としてくださいました。
この世界にあって、この地上の腐敗を防ぎ、 
豊かな味付けをする存在として、私たちは、神から招かれているのです。
当時の人々にとって、塩には、光と強く関係する使い道がありました。
それは、暗い部屋を照らす、ランプの油に塩を混ぜることでした。
そうすることによって、ランプの光は、ますます強く輝いたのです。
ですから、私たちが、「あなたがたは塩である」という、
イエス様の招きに、心から応答して生きるならば、
私たちの光はますます輝くものとされるのです。
私たちは地の塩、世の光です。
そのように、イエス様によって宣言された存在として、
神が私たちを豊かに用いてくださることを、心から祈り求めましょう。
この教会という群れが、真実なものとして、 
この世界のために光り輝くことができますように、と。
神の栄光を映し出しながら、
キリストに似た者へと、私たちが日々造り変えられていくことを、
心から願いつつ、日々歩んで行きましょう。