しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年6月19日日曜日

説教#121:「完成させるために主イエスは来た」

「完成させるために主イエスは来た」 
聖書 マタイによる福音書5:17-20、エゼキエル書36:25-27 
2016年6月19日 礼拝、小岩教会 

【主イエスは完成させるために来た】 
イエス様は、ご自分が来られた理由について、このように語りました。 
わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(マタイ5:17)
イエス様が、人々にこのように語ったのには、理由がありました。
それは、イエス様がこれから語ろうとしていることに関して、
誤解が広まるのを避けるためでした。
イエス様は21節以降で、当時一般的であった律法の解釈について触れた後、
「しかし、わたしは言っておく」(マタイ5:22, 28など)と言って、
律法のもつ真の意味を語っています。
神の言葉としてイスラエルに与えられた律法が、
相応しい形で人々に受け取られる必要を感じて、
イエス様はこのように語ったのでしょう。
しかし、イエス様の選んだ語り方は、
人々に誤解を与える危険がありました。
「あのイエスという男は、律法を破壊して、
全く新しい教えを語っている」と思われる危険です。
そのため、イエス様は、これから語ろうとしていることを、
人々に伝えるための準備として、こう言われたのです。
わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(マタイ5:17)
ここで、イエス様は「律法と預言者」と語っています。
この「律法と預言者」という表現は、
「旧約聖書」を指す、当時の人々の言い回しです。
律法は、旧約聖書の最初の5つの書物、「創世記」から「申命記」を指し、
「預言者」は、「ヨシュア記」から「列王記」と、
「イザヤ書」以降の預言書を指します。
では、この「律法と預言者」、
すなわち、神の言葉が目指すものとは何なのでしょうか。
それは、神の意志がこの世界に実現し、神の業として完成することです。
ですから、紙の上に、パピルス紙の上に、律法が文字として書かれたり、
それが知識として人々に知られることだけでは、
神の言葉である律法が、目的を達成しているとは言えません。
神の律法は、その言葉が人々の間で守られ、
実践されてこそ、大きな意味をもつものなのです。

【神の意志とはかけ離れている現実】
しかし、現実はどうでしょうか。
神の言葉と、私たちの現実を照らし合わせるとき、
果たして、「律法と預言者」が完全に実現しているといえるのでしょうか。
残念ながら、律法が語られた時代も、新約聖書の時代も、
神の意思が完全に実現しているとは言えませんでした。
人々は時に神の言葉を忘れ、
また時に誤った解釈に基づいて、行動することもありました。
そして、新約聖書の時代から2000年近く経った今も、
神の言葉は完全に実現したとは言えません。
「律法と預言者」、すなわち旧約聖書に記されている神の言葉と、
そこに込められた神の意志を、
私たちが置かれている現実と照らし合わせるとき、 
この世界にひび割れた、歪なものが数多くあるのに気づくでしょう。
親子や家族の関係に目を向けると、
育児放棄や家庭内での暴力、不倫や離婚といった事柄が、
いつもテレビや新聞を騒がしています。
また、私たちが社会から要求される労働観も、
すべてがそうだというわけではありませんが、
聖書と照らし合わせてみると、
中には、神が望むこととは離れているものがあります。
人格が無視され、人がモノのように扱われることもあれば、
人格を無視し、人をモノのように扱ってしまうこともあります。
また、利益を追求すること自体は、悪いことではありませんが、
利益を追求することが目的になってしまうこともあります。
そして、私たちは神にこの世界を管理するようにと命じられ、
日々の仕事を与えられています。
しかし自分の仕事を、神に委ねられた働きとして捉えられないこともあります。
また、教育のあり方にも、歪みを見出すことができます。
教育を受けるその人自身が豊かな生涯を歩むために、教育はなされるものです。
しかし、国や親に都合の良い人間を形成しようとすることが、
しばしば行われていることは否定できません。
聖書を通して、神が私たちに語る言葉に立つならば、
私たち一人一人の存在そのものが、喜ばれ、喜ぶべきものです。
しかし、多様性を喜ばず、親や学校、社会や国家の
「お眼鏡にかなう」者であることが要求されます。
出る杭はどんどん打たれていき、
多様性よりは、画一的なものが求められます。
支配する側や、権力を持つ側にとって、
その方が遥かに都合が良いし、管理しやすいからです。
そして何よりも、神との関係に歪みがあるのが、私たちの抱える現実です。
神を引きずり下ろし、自分を神の位置に置いて生きるのが、
現代に生きる人々の大きな特徴でしょう。
言い換えるならば、それは、「自己中心」です。
自分が中心である時、神との関係は、ますます歪なものとなっていきます。
どのように自分の利益のために、神を用いることができるのか、
という思考が、私たちの頭の片隅には常にあって、
拭い去ることがなかなか出来ずにいます。
残念ながら、これこそが、私たちを取り囲んでいる現実です。
今も昔も形を変えながら、神の意図に背く世界は存在しています。

【「聞かない」結果として、ヒビ割れた関係が蔓延している】
かつて神は、そのような私たち人間の現実が、
神の意図した世界へと向かい、完成することを願い、 
律法を通して、そして預言者を通して、語り掛けてくださいました。
「善を求めなさい」(アモス5:14)。
父母をうやまいなさい(出エジ20:12)。
「隣人を愛しなさい」(レビ記19:18)。
「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、
あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)という具合に。
しかし、未だに、神の言葉が語られた目的は、
実現していないように思えます。
私たちを取り囲む環境は、神の意図した世界とは程遠く、
ひび割れ、歪で、不完全であるように感じます。
その原因は、神の言葉である律法と預言者が、
不完全であったからでしょうか。
もちろん、そうではありません。
イエス様によれば、「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、
律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイ5:18)のですから。
「一点」とは、ヘブライ語のアルファベットの一つである、
ヨッド( י )を指します。
ヨッドは、ヘブライ文字の中で一番小さな、点のような文字です。
そして、「一画」は、おそらくヘブライ語の性質と関係していると思います。
たとえば、ヘブライ文字のダレット( ד )とレーシュ( ר )。
前のスクリーンをご覧頂ければわかると思いますが、
このふたつの文字はとても似ています。
右上の角が出るか、出ないで滑らかにカーブしているかの違いのみです。
それだけで文字が変わるということは、
書き間違えたり、読み間違えてしまうだけで、
言葉の意味が変わってしまうということです。
イエス様は、このような言葉の特徴を意識して、
「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、
律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイ5:18)
と宣言されたのです。
私たち人間の目には、一点も、一画も、些細なもので、
簡単に消え去ってしまうように、見えます。
しかし、神の言葉である、律法のこの文字は、消え去ることがない。
神の言葉は、決して、不完全なものではないと、イエス様は宣言されたのです。
では、なぜ私たち人間の現実は、
神の意図した世界へと向かい、完成せず、
ヒビ割れた、歪で、不完全な関係が蔓延してしまっているのでしょうか。
聖書は、その原因を明確に示しています。
神の言葉を受け取る側の人間にこそ、問題があるのだ、と。
人は神から語りかけられているにもかかわらず、
神の言葉を聞かないでいる、と。
だからこそ、ヒビ割れた、歪な関係がこの世界で蔓延しているのです。

【だから、主イエスは来た】 
そのような私たちの現実を見つめるとき、
イエス様が語った言葉が、
希望に溢れるものであることに気付かされます。
イエス様は言いました。
わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(マタイ5:17) 
聖書の時代も、そして今も、神の言葉が完全な形で実現せず、
ひび割れた、歪な関係が広がっています。
そのような現実が私たちを取り囲んでいるから、
だから、イエス様は私たちのもとに来てくださったのです。
神の言葉が、私たちの間に完全に実現するために、
イエス様は私たちのもとに来てくださいました。
イエス様が取られたその方法とは、
イエス様ご自身が十字架にかかり、命を落とすことでした。
私たちが神の言葉を聞かない原因となっている罪を、
イエス様は背負ってくださいました。
そして、私たちの罪を赦すために、
神の独り子であるイエス様が犠牲となってくださったのです。
それは、神の愛ゆえに起こった出来事でした。
神が喜びとする関係が、私たちの暮らす
この世界で実現することができるようにと、 
神がこの出来事を計画してくださったのです。
神の愛ゆえに、私たちの罪は赦されました。
そして、それゆえに、私たちは、
神の言葉を聞くことのできる者と変えられました。
その意味で、イエス様は、
神の律法が私たちのもとで実現するために来たといえます。

【神の言葉が心に刻まれるならば】 
ですから、私たちは喜ぶことができます。
たとえ、私たちが不完全な存在であろうとも、 
歪な関係しか築けず、涙を流し、苦しんでいる現実があったとしても、 
神が私たちの現実に介入してくださるのですから。
不完全で、ひび割れた、歪な関係が築かれていると、私たちが感じ、
悲しみや嘆きを覚える所に、イエス様は来てくださいます。
いや、イエス様は、どのような場所にも来てくださいます。
実際は神が望んだ世界とはかけ離れ、
涙を流し、苦しみ、絶望する場所であるのに、
それに気づかないほど、私たちが麻痺してしまうほど、
神が望んだ世界とはかけ離れた所に、
私たちが諦めてしまっている所に、イエス様は来てくださるのです。
イエス様が律法を完全なものとするために、来てくださったということは、
神が意図した世界が私たちの日常で実現することを、
神が願っているということです。
感謝すべきことに、 神は、私たちの日常の只中に、
神の言葉を実現させてくださる道を備えてくださいました。
預言者エゼキエルを通して、神はその道を明らかに示してくださいました。
神はエゼキエルを通して、このように語りました。
わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。(エゼキエル36:26-27)
新しい霊とは、神の聖なる霊である、聖霊のことです。
この聖霊の働きを通して、神は、神の言葉を私たちのこの心に刻むのです。
そうすることによって、神が私たちを日々造り変えてくださり、
私という存在のうちに、神の言葉が刻みこまれていくのです。
そして、神の言葉が刻み込まれた、私たちの存在を通して、
この世界に神はその手を伸ばされるのです。
神の言葉が実現していくのを、私たちは神と共に待ち望み、
神と共に歩むようにと招かれているのです。
ひび割れたものを修復し、新しく造り変え、
歪なものの形を整え、完成へと導く、
神の業に期待しつつ、歩んでいきましょう。