しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年7月31日日曜日

説教#127:「神の愛を携えて生きるならば」

「神の愛を携えて生きるならば」
聖書 マタイによる福音書5:43-48、サムエル記 上24:2-7
2016年 7月 31日 礼拝、小岩教会

【「隣人を愛し、敵を憎め」】
旧約聖書に記されている数ある言葉の中で、
最も重要な戒めはどの戒めなのでしょうか(マタイ22:36参照)。
イエス様はあるとき、このような問い掛けを受けたとき、
神を愛することと、隣人を愛することである、
と答えました(マタイ22:37-40)。
イエス様が最も重要な言葉であると語った「隣人を愛する」ことについて、
先ほど朗読していただいた箇所でも、イエス様は触れています。
しかし、一体どういうことでしょうか。 
43節に記されているイエス様の言葉には、「隣人を愛しなさい」の後に、
「敵を憎め」と、もうひとつ命令が加えられています。 
「あなたがたも聞いているとおり、
『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」と。
イエス様はこれまで4度も、人々の間で広く受け入れられている、
旧約聖書の律法やその解釈などを取り上げた後、
「しかし、わたしは言う」と言って、人々に教えを語りました。
『隣人を愛し、敵を憎め』も、当時のユダヤの人々に
広く受け止められていた言葉のひとつです。
しかし、旧約聖書のどこを探しても、「隣人を愛しなさい」はありますが、
「敵を憎みなさい」とは記されていません。
恐らく、「敵を憎め」とは、「隣人を愛しなさい」の解釈なのでしょう。
イエス様が語る以前から、ユダヤの人々にとって、「隣人」とは、
自分たちの同胞であり、同じ信仰を共有する仲間たちのことを指す言葉でした。
そのため、彼らにとって「敵」とは、
同胞のユダヤ人以外の人々のことを意味していました。
たしかに、ユダヤの人々は同胞以外の人々から、
長い間苦しみを受けてきました。 
そして、イエス様に従う人々は、 
同じユダヤ人からもいじめられ、馬鹿にされていました。
そのため、「隣人を愛しなさい」という命令を、
「敵を憎め」という意味も含む言葉として、彼らは受け取ってきたのでしょう。
しかし、イエス様は「隣人を愛しなさい」という言葉について、 
「しかし、わたしは言っておく」と語り、その場にいた人々を諭されました。
「そのような理解であってはいけない」と。

【あなたを迫害する者は、敵ではなく、隣人】
イエス様は、人々にこのように命じられました。 
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。(マタイ5:44-45) 
興味深いことに、「敵」を愛しなさいと言った後、
イエス様は、「敵」のために祈りなさいとは言っていません。
イエス様は、「迫害する者」のために祈りなさいというのです。
そのように言うことによって、イエス様は、私たちにこのように命じています。
「私は、あなたに「敵」を愛しなさいと命じている。
しかし、あなたが「敵」と考える人々を、「敵」とみなしてはならない。 
もしも、その相手をあなたの「敵」とみなし続けるならば、
そこには敵意しか生まれないのだから。
あなたが敵と考えている人もまた、あなたの隣人です。
だから、誰かを迫害しなければ生きることが出来ないでいる、
あなたの隣人のために祈りなさい」と。
もしも、敵が敵であり続けるならば、私たちは祈ることなど出来ないでしょう。
しかし、イエス様は、「自分を迫害する者のために祈りなさい」
と命じることによって、私たちの意識を変えようとしておられるのです。
敵を愛し、愛した敵を敵とみなさないことによって、
イエス様は私たちを祈りへと導こうとしているのです。

【神の子として生きる道】
ところで、「敵を愛し、迫害する者のために祈る」その動機について、
イエス様は、「あなたがたの天の父の子となるため」と語られました。
ユダヤの人々にとって、「子」とは、
血のつながりのみを指す言葉ではありませんでした。
たとえば、イエス様の弟子であったヤコブとヨハネは、
イエス様からボアネルゲス=「雷の子たち」(マルコ3:17)
というアダ名をつけられました。
それは、彼らは、雷のように
激しい性格の持ち主だったからと考えられています。
このように、「子」という言葉は、雷の子や、
滅びの子(ヨハネ17:12)、慰めの子(使徒4:36)などのように、
それらのものが持つ性質を引き継いでいることを
表す言葉としても用いられたのです。
ということは、ここでイエス様が語っている「天の父の子」も、
そのような意味でも使われていると理解することが出来るでしょう。
「天の父」とは、主である神のことです。
つまり、天の父の子とは、「神の子」のことです。
つまり、神の性質を引き継ぎ、神の子とされているために、あなた方は、
「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」とイエス様は言われたのです。
しかし、創世記1章が語る人間の創造の理解に立つならば、
そもそも、すべての人は、神の子であるはずです。
神のかたちに私たち人間は造られたのですから。
しかし、実際はどうでしょうか。
「私たちは神の子である」という事実は、忘れ去られてしまっています。
そして、神の子らしく生きないことによって、
神によって与えられた「神のかたち」を
自ら傷つけているという現実を、私たちは抱えています。
聖書は、それを罪と呼びます。
イエス様は、私たち人間が抱えるこの罪の問題を解決するために、
私たちのもとに来てくださいました。
そして、私たちが「神の子」であることを思い出し、
神の子として生きることが出来る道を切り開いてくださったのです。
自分の命を犠牲にして、十字架にかかり、
私たちの罪を赦すことによって、
イエス様は私たちに愛を示してくださいました。
そのため、私たちは神の子として生きることが出来るのです。
そうであるならば、「あなたがたの天の父の子となるため」に、
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」
とは、どういうことでしょうか。
もちろん、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈ることは、
神の子となるための条件ではありません。
イエス様によって、私たちの罪の問題が解決し、
私たちは神の子として生きることが出来る者とされているのですから。
では、なぜイエス様はこのように語られたのでしょうか。
イエス様はきっと、「あなたは神の子とされているのだから、
神の子らしく生きなさい」と私たちを招いておられるのだと思います。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
それは、神の子であるあなた方に、相応しい生き方である」と。

【愛を携えて生きること】
自分の敵を愛すること。
いや、敵を敵とはみなさず、愛そうと努め、
自分に敵意を向けてくる相手を祈る対象と考える。
「自分を愛してくれる人を愛」することは(マタイ5:46)、
誰もがそんなに多くの努力を払わなくても出来ることですが、
敵を愛し、迫害する者のために祈ることは、
多くの人々が積極的には行おうとは思わない選択です。
その意味で、私たちが神の子として生きることは、
とても風変わりな、異質な生き方を選ぶことだと言えるでしょう。
私たちが祈るように招かれている祈りとは、
自分の敵や、自分の嫌いな相手の滅びを祈ることではありません。
自分を迫害する者が、神の祝福のもとに生き、
より豊かな歩みへと導かれ、
神の喜びとなる道を歩むことができるように、祈るのです。
そのような祈りをする中で、相変わらず、右の頬を打たれ、
侮辱を受けることもあるかもしれません(マタイ5:39)。
そのようなときでも、左の頬を差し出し、愛そうと努める。
これが、イエス様が私たちに求めておられる道です。
それを知るとき、イエス様が私たちに示された愛とは、
ぼんやりと心の中で、目の前の相手に
暖かい気持ちを持つことではないことがわかります。
愛とは、明らかに、私たちが行動で示していかなければならないものなのです。
それは目に見える形で起こす行動かもしれませんし、
祈りによるものかもしれません。
神の愛をぼんやりと心の中で抱くのではなく、
それをしっかりと携えて、行動によって示していく。
それは、とても困難な道のように思えます。
あのイスラエルの王であるダビデにとっても、それは困難な道でした。
先ほど朗読していただいたサムエル記の箇所は、
サウル王から命を狙われていたダビデが、
サウルの命を奪う絶好の機会を得た場面です。
しかしダビデは、洞窟の中で用を足すために
無防備でいるサウルを殺すことをしませんでした。
感情的には、もしかしたら、サウルを殺したかったかもしれません。
自分を憎み、自分の命を狙い続けるサウルを敵と考えて、
サウルの命を奪うことは、この時のダビデにとって簡単に行える選択でしたし、
それは自分の家来に勧められたことでもありました。
今、サウルを殺せば、自分の命を狙う者はいなくなり、
ダビデは身の安全を確保することも出来ました。
しかしダビデは、サウルを憐れみ、彼に愛を示しました。
サウルとの間に、神に求められている関係を築こうと願い、 
ダビデは自分を敵視するサウルを、自分の「隣人」として受け入れたのです。
これこそ、イエス様が示しておられる敵を愛し、
迫害する者のために祈る道といえるでしょう。

【完全な者となりなさい】
さて、イエス様はこのような言葉で話を結ばれました。
だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。(マタイ5:48) 
「完全な者」というと、完璧な人間であれ、という意味に聞こえます。
しかし、そのような意味でイエス様は語ってはいません。
この言葉は、5章21節から始まった、「反対命題」と呼ばれる、 
イエス様の言葉の最後の結びの言葉でもあることに注目する必要があります。
律法や人々の間で広く受け入れられている律法の解釈を挙げて、 
イエス様は、「しかし、わたしは言う」と言って、語ってきました。
これらの言葉を語り出す前に、イエス様はその前置きとして、 
17節の言葉を語りました。
わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(マタイ5:17) 
イエス様は、律法の意味が人々の間で正しく捉え直されることを願って、
「しかし、わたしは言う」と繰り返し語ってきました。
それは、律法を廃止するためでなく、完成するためでした。
律法を完成させることを目指して語ってきたイエス様が、
最後に語ったのが、「敵を愛し、
自分を迫害する者のために祈りなさい」という命令でした。
イエス様はこの言葉を目指して語ってきたのです。
そうであるならば、「隣人を愛する」ことこそが、律法を完成させるのです。
神の言葉を耳で聞いて、感謝するだけでは、隣人を愛することはできません。
ですから、イエス様は私たちに語り掛けておられるのです。
「あなたのその心にしっかりと神の言葉を刻みこみなさい。 
そして、その言葉をあなたの生活に刻みつけなさい。 
実際に、敵を愛し、あなたを迫害する者のために祈りなさい」と。
イエス様は、律法を完成させるために私たちのもとに来てくださいました。
そして、イエス様によって完成させられた律法は今、そう、神の言葉は今、
私たちの手に委ねられているのです。
イエス様は「神の愛を携えて歩んでいきなさい」
と私たちに向かって声を掛け、招いておられます。
それがイエス様が私たちに示しておられる道です。 
その道を選び取って歩んでいくならば、律法は私たちの心に刻まれ、
天の国は、私たちを通して私たちの周囲に、
そしてこの世界に広がっていくのです。
聖書を通して、イエス様が私たちに掛ける声が聞こえてきます。
互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)
さぁ、神の愛を携えて、この一週間も歩んで行きましょう。
主よ、その歩みの中で私たちが出会う一人ひとりを、
愛することが出来る者へと私たちを造り変えてくださいと祈り求めながら。