投稿

8月, 2016の投稿を表示しています

説教#131:「何を祈るべきなのか?」

「何を祈るべきなのか?」  聖書 マタイによる福音書6:11-15、創世記50:15-21  2016年 8月 28日 礼拝、小岩教会  【一体何を祈るべきなのか?】  私たちはいつも神との祈りの交わりに招かれています。  しかし、その祈りにおいて、一体何を祈れば良いのでしょうか。  イエス様は、「だから、こう祈りなさい」と言って、  「主の祈り」を通して、私たちに祈りの模範を示してくださいました。  イエス様によれば、私たちは「父なる神よ」と 神に向かって呼びかけて、祈り始めることが出来ます。 また、私たちが心で抱く願いや思いよりも、  神のみ心、神の計画こそがなされることを祈り求めるようにと、 イエス様は主の祈りの前半部分で教えてくださいました(マタイ6:9-10)。 しかし、そのように神の計画が実現することを願う一方で、  私たちが日々感じる思いや、心で抱く悩み、悲しみが  蔑ろにされているわけでは、当然ありません。  私たちが自分自身のために祈り、 また、共に生きる愛する人々のために祈るとき、  何を祈るべきなのかを、イエス様は主の祈りの後半部分で教えてくださいました。 

説教#130:「神の名を呼ぶ」

「神の名を呼ぶ」  聖書 マタイによる福音書 6:9-10、創世記 28:10-19  2016年 8月 21日 礼拝、小岩教会  【神を「父」と呼ぶこと】  イエス様は「だから、こう祈りなさい」と言って、  私たちに祈りを教えてくださいました。  その祈りは、このような言葉から始まりました。  天におられるわたしたちの父よ(マタイ6:9a)  この祈りを、教会は「主の祈り」と呼んで、毎週祈り続けています。  毎週のように祈り続け、イエス様が教えてくださった祈りの言葉を覚え、  記憶に、そして心に刻み込んでいます。  祈りは、神との対話ですから、  まず初めに、神に呼びかけることから始まります。  イエス様が教えてくださったこの祈りは、  神を「お父さん」と呼ぶことから始まっています。  聖書を読むと、神について、様々な呼び方があることに気付くでしょう。  全能の神(詩編91:1)、生ける神(ヨシュア3:10)、 恵み深い神(詩編68:11)。  私の羊飼い(詩編23:1)、私の光(詩編27:1)。  そして、アブラハムの神、イサクの神(創世記28:13)などというように。  イエス様は、そのような数ある神への呼びかけ方の中から、  神を「お父さん」と呼ぶことを選ばれました(マラキ2:10参照)。 この呼び方は、父親と子どもの関係にある親密さが、  神と私たちとの関係の中にあることを示すものです。  しかし、それは、自分の父親を通して、 神がどのようなお方なのかを知ることが出来る、という意味ではありません。  私たちひとりひとりには、血のつながりのある父親がいます。  しかし、彼らには、理想的で尊敬できる側面もあれば、  人間的な弱さを抱え、決して喜ぶことのできない一面も持っています。  そのため、父親との間に良い関係を築けない人も、  父親から愛情を受けられず、傷付けられてきた人もいます。  ですから、自分の父親を見つめて、 父親との関係の中で受け取るイメージを神に当てはめるような仕方で、 神を「父なる神」と理解するべきではありません。  そうではなく、ただ神おひとりが、私たちの父であると、  私たちは、イエス様が教えて

説教#129:「心を神に向けよ」

「心を神に向けよ」  聖書 マタイによる福音書6:5-8、サムエル記上1:12-20  2016年 8月 14日 礼拝、小岩教会 【心をどこに向けるべきなのか?】  日々の生活の中で、私たちは様々なものに目を向け、心を向けています。  集中して取り組んでいることがあれば、  周りの声も聞こえず、心をひたすらにその物事に向けます。  また、悩みがあれば、その悩みの種となっていることが、  ぐるぐると頭の中を駆け巡り、悩んでいる事柄に心を奪われてしまいます。  そうなってしまうと、今取り組んでいる物事に対して、  「心ここにあらず」といったような状態になってしまうことでしょう。  イエス様はきょうの言葉を通して、私たちが祈るとき、  私たちの心をどこに向けるべきかを、教えてくださいました。  イエス様は、ご自分のもとに集まっている人々に、 このように語り掛けられました。  祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。(マタイ6:5)  当時のユダヤの人々は習慣として、  毎日3回、朝・昼・夕の決まった時間に祈りを捧げていました。  祈りの時間になると、人々は祈りを捧げるために、どんなことをしていても それまでしていたことの手を、一度止めて、祈り始めたようです。 敬虔な、信仰深いユダヤ人たちは、  一定の祈りの時間には大通りに立って祈り、 一般の民衆に祈りの時間だということを示したそうです。 自分自身の祈る姿勢によって、自分が祈る姿を見ている周囲の人々に、 敬虔な信仰者の姿勢を教えてやろうと思ったのでしょう。 しかし、イエス様はそのような人々のことを、  「人に見てもらおう」という動機で動いている 「偽善者」であると言われました。  新約聖書は、もともとギリシア語で書かれているのですが、  「偽善者」と訳されているもともとの言葉を調べてみると、  「役者」という意味であることがわかります。  つまり、彼らは「敬虔で、信仰深い人」を演じているに過ぎず、  人々から「あの人は信仰深い人だ」とほめられたいがために、 

説教#128:「神から受ける報酬」

「神から受ける報酬」  聖書 マタイによる福音書6:1-4、列王記上17:8-16  2016年 8月 7日 礼拝、小岩教会  【善い行いをする動機を問う主イエス】 報酬を受け取ることは、誰もが喜ぶであろう、嬉しいことです。  自分の行ってきたことが、正しく評価されたことを 目に見える形で知ることが出来るからです。 イエス様は、私たちの行いとそれに対する報酬について、 このように語り始めました。  見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。(マタイ6:1a)  イエス様がここで言う「善い行い」とは、ユダヤの人々の間で、  信仰者の義務として受け止められてきた3つの行いのことを指しています。  その3つとは、施しをすることと、祈ること、そして断食をすることでした。  イエス様は、ユダヤの人々が信仰者の義務として受け止めてきた、  これらの善い行ないについて、 2節から1つずつ触れて、人々に教えを語りました。 イエス様はその導入として、3つの善い行いについて語る前に 「見てもらおうとして、 人の前で善行をしないように注意しなさい」 と語られたのです。 もちろん、善い行いの種類によっては、 人の前でしなければいけないものもあるでしょう。 そのため、ここでイエス様が問題としているのは、  「善いことを決して人前でしてはいけない」ということではありません。 「善い行いをする際に、あなたはどのような動機を抱いていますか」 と、イエス様は問い掛けているのです。 イエス様は言われます。  人から「見てもらおう」という動機で、 つまり自分が人々から賞賛を受けるために、 人の前で善い行いをしないように注意しなさい、と。 本来、善い行いは、共に生きる周囲の人々にとって、良いことだと思うから、 喜ばれることだと思うからなされるものです。 きれいな環境をつくりたいから、ゴミを拾う。 うずくまって助けを求めている友人がいるから、 声をかけて、一緒に時間を過ごす。 このように、本来善い行いというものは、 共に生きる人々を愛するためになされるのです。 しかし、そのような本来の目的を見失い、 自分が賞賛を受けるという報酬を自分で作