しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年8月14日日曜日

説教#129:「心を神に向けよ」

「心を神に向けよ」 
聖書 マタイによる福音書6:5-8、サムエル記上1:12-20 
2016年 8月 14日 礼拝、小岩教会

【心をどこに向けるべきなのか?】 
日々の生活の中で、私たちは様々なものに目を向け、心を向けています。 
集中して取り組んでいることがあれば、 
周りの声も聞こえず、心をひたすらにその物事に向けます。 
また、悩みがあれば、その悩みの種となっていることが、 
ぐるぐると頭の中を駆け巡り、悩んでいる事柄に心を奪われてしまいます。 
そうなってしまうと、今取り組んでいる物事に対して、 
「心ここにあらず」といったような状態になってしまうことでしょう。 
イエス様はきょうの言葉を通して、私たちが祈るとき、 
私たちの心をどこに向けるべきかを、教えてくださいました。 
イエス様は、ご自分のもとに集まっている人々に、
このように語り掛けられました。 
祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。(マタイ6:5) 
当時のユダヤの人々は習慣として、 
毎日3回、朝・昼・夕の決まった時間に祈りを捧げていました。 
祈りの時間になると、人々は祈りを捧げるために、どんなことをしていても
それまでしていたことの手を、一度止めて、祈り始めたようです。
敬虔な、信仰深いユダヤ人たちは、 
一定の祈りの時間には大通りに立って祈り、
一般の民衆に祈りの時間だということを示したそうです。
自分自身の祈る姿勢によって、自分が祈る姿を見ている周囲の人々に、
敬虔な信仰者の姿勢を教えてやろうと思ったのでしょう。
しかし、イエス様はそのような人々のことを、 
「人に見てもらおう」という動機で動いている
「偽善者」であると言われました。 
新約聖書は、もともとギリシア語で書かれているのですが、 
「偽善者」と訳されているもともとの言葉を調べてみると、 
「役者」という意味であることがわかります。 
つまり、彼らは「敬虔で、信仰深い人」を演じているに過ぎず、 
人々から「あの人は信仰深い人だ」とほめられたいがために、 
敬虔な自分という偽りの姿を演じている偽善者なのだ、
とイエス様は指摘しているのです。 
本来、祈るとき、私たちの心は神に向けるべきです。 
しかし、彼らの心は一体何処に向いていたでしょうか。 
彼らの心は、神の方にではなく、周囲の人々の方に向いていました。
また、人々の目に映る自分自身の姿に心が向いていました。 

【祈りは、神との対話】 
ところで、なぜ祈るとき、私たちの心を神に向けるべきなのでしょうか。 
それは、祈りは神との親しい対話だからです。 
そのため、イエス様は個人の祈りを捧げるときについて、こう勧められました。 
だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。(マタイ6:6) 
建物の最も奥まった部屋で祈るとき、確かに人目にはつきません。 
しかし、イエス様は祈る時はいつも一人で祈りなさい、
人前では決して祈ってはいけない、 というようなことを
伝えるために、このように語ったのではありません。 
イエス様は、奥まった部屋で祈るイメージを伝えることを通して、
祈りとは神との対話であるから、 あなたの心を
しっかりと神に向けて祈りなさい、と勧めておられるのです。 
誰かに立派な信仰者として認められるために、
人前に立って祈るべきではありません。 
祈りを通して、誰かを教え導こうとしたり、 
誰かを自分の都合の良いように操作するために祈るべきでもありません。 
祈りとは、天におられる父なる神との親しい会話なのだから、 
「祈るときはいつも、あなたの心を神に向けて祈りなさい」と、
イエス様は招いておられるのです。 
しかし、現実に私たちの目を神から逸らせ、
私たちを祈ることから遠ざけものは数多くあることに気付くでしょう。
いや、そのようなものが数多くあることが問題というよりも、 
私たちの心が神以外のものに向いてしまいやすいことこそが、
根本的な問題なのでしょう。 
神以外のものに心を奪われてしまいやすい、 
私たちが抱えているその悲しい現実を、聖書は「罪」と呼びます。 
この罪のために、私たちは人を自分よりも低く見て、高慢になってしまいますし、
人からの評価を必要以上に気にしてしまいます。
そして、私たち誰もが抱える、この罪が原因となって、
神との関係が損なわれているのです。
この罪の問題の解決のために、イエス様が私たちのもとに来てくださいました。 
罪の赦しをすべての人々に与えるために、
イエス様は十字架にかかってくださいました。
そして、イエス様によって罪の問題の解決が与えられたため、
私たちの心は神に向けることができるようになったのです。
ですから、私たちは祈るとき、いつもイエス様の名によって祈っています。 
イエス様によって罪が赦され、神との関係が回復されていることを思い起こし、 
感謝と喜びを覚えながら祈るように、私たちは招かれているのです。 

【神のみ心を求める祈り】 
さて、7-8節でイエス様は、
神との対話である祈りについて、このように述べています。 
また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。(マタイ6:7-8) 
「異邦人のようにくどくどと述べて」いるような祈りを、
イエス様はここで禁じています。 
イエス様は、長い祈りや繰り返しをしてはいけないという意味で、
このように述べたのではありません。
実際、イエス様は十字架に架けられる前日の夜に、ゲツセマネという名の園で、
3度同じような言葉で繰り返し祈りました(マタイ26:39-44参照)。
ここで「くどくどと述べる」と訳されているギリシア語は、
もともとは「虚しい」という意味を持っている言葉です。
そのため、意味もない虚しい言葉を続けて、長い祈りをする。 
そうすることによって、神を自分の思い通りに操作できると
思い込んでいる人の祈りをイエス様は批判しているのです。 
それに対して、イエス様が3度繰り返した祈りは、
そのような「くどくどと述べる」ような虚しい祈りではありませんでした。
イエス様がゲツセマネで必死に祈った祈りは、このようなものでした。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)
イエス様が自分から過ぎ去らせてくださいと必死に願っている、
「杯」とは、十字架上での死のことです。
しかし、イエス様が神から求められていることは、
十字架の死という杯を受け取ることでした。
この祈りの中で、イエス様の思いと神の思いが衝突していることに気づきます。
自分の思いを神にぶつけ、神を自分の思い通りに操作したい祈りであれば、
「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」とだけ、祈ったことでしょう。
しかし、イエス様は「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈り、
自分の思いと神の思いがぶつかり合うこのとき、
神の思いに自分の心があわせられていくことを願ったのです。
自分は避けて通りたいが、十字架に架けられることこそ、
神が自分に示してくださっている最善の道であると、イエス様は信じ、
神のみ心として受け取ったのです。
このように、神が聞いてくださった私たちの祈りのすべてが、 
祈ったその通り、そのまま現実のものとなるというわけではありません。 
イエス様の祈りの姿勢からわかるように、 
本当に心が神に向いているならば、私たちの祈りは、 
人からの賞賛を得ることや
人を教え導こうとするようなものにはならないはずです。 
神のみ心を真剣に求めるならば、祈りはより真剣なものとならざるを得ません。 
私自身が抱えている思いと、神の思いを照らしあわせて、 
神の抱く思いに道を譲ることを認めることこそ、 
神との対話の中で問われることなのです。
私たちの祈りがそのようなものであるならば、
祈る姿を誰かに見てもらおうとする虚栄心や、
祈りによって誰かを教えようとするような高慢さが、
私たちの心に入り込む余地は、本来はないはずなのです。
しかし、神以外のものに心が向いてしまうことが多い自分自身と、
私たちは出会い、落ち込むことがあります。
罪赦されたにも関わらず、相変わらず、罪の支配を強く感じ、
神にいつも心を向けることが出来ない。
そんな日ばかりかもしれません。
そんな私たちにとって、ゲツセマネで祈ったイエス様の祈りは、
私たちに大きな希望と、慰めを与え続けてくださるものです。
ゲツセマネでのイエス様の祈りは、
私たちの罪を赦すために、イエス様が十字架に架けられるという、
苦難に満ちた道を、神のみ心としてイエス様が選び取った祈りでした。
そのため、この祈りは本質的には、
私たちのためになされた、とりなしの祈りなのです。
私たちの心が神へと向けられていくように、
イエス様が私たちのために祈ってくださっている。
それは大きな慰めです。
そして、今は不完全で、不器用さが伴うかもしれないけど、
やがて神に心がしっかりと向けることができるようになる
という希望が与えられます。
私たちが、神との関係を回復できるようにと、
イエス様が祈り、イエス様が命を投げ出してくださったのですから。

【心を神に向けて生きる】 
さて、不完全さや不器用さが伴うかもしれませんが、
私たちの心が神に向くとき、神がどのようなお方なのかを、 
私たちは少しずつ少しずつ祈りを通して知っていくことになります。
私たちの祈りを聞いてくださる神を、 
イエス様は、「隠れたことを見ておられるあなたの父」と表現されました。 
神は、私たちの隠されている思いさえも、知るお方であるということです。 
私たちが、周囲の人々に隠している悩みや悲しみも、
自分さえ認識していない心の呻きや嘆きさえも、神は知ってくださっています。
ですから、神に癒やしと励ましを求めて、 
誠実に、そして真剣に神と向き合うことが私たちには出来るのです。
すべてを知り、すべてを受け止め、
すべてを時にかなって美しく、愛をもって導いてくださることを信頼して、
「隠れたことを見ておられる」私たちの神に、私たちは祈ることが出来ます。
ですから、心を神に向けて、祈りつつ、歩んで行きましょう。
私たちが頭で思い描くことや心で抱く思い、
私たちの希望や夢といったものをはるかに越えた、
神の思い、神のみ心こそが、私たちの歩みの上に実現することを期待しつつ。
そして、神が私たちの歩みの上に起こしてくださる業を心待ちにしつつ、
神のみ心にこの身を委ねて歩んで行きましょう。