しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年9月4日日曜日

説教#132:「衣ではなく、あなたの心を引き裂け」

「衣ではなく、あなたの心を引き裂け」 
聖書 マタイによる福音書 6:16-18、サムエル記下 12:13-23 
2016年 9月 4日 礼拝、小岩教会 

【現代人にとっての「断食」】
「人間にとって最も良いのは、
飲み食いし自分の労苦によって魂を満足させること」(コヘレト2:24)と、
旧約聖書の「コヘレトの言葉」に記されているように、
聖書の時代の人々にとって、食べることは何よりも喜びでした。
「断食」というものは、人々にとって喜びであり、
そして、自分の生命を保つために欠かすことの出来ない、
食事を一時的にやめることでした。
断食をするたびに、人々は気付かされたことでしょう。
私たちが日々飲み食いしているものは、実のところ、
「神の手からいただくもの」(コヘレト2:24)であるのだ、と。
つまり、自分自身の力によって、自分の生命を支えているのではなく、
日々食べるものを備えてくださる神によって、
私たちの生命が保たれているのだ、と断食をする毎に人々は気付かされ、
神に感謝を捧げたことでしょう。
このような信仰的な気づきを私たちに与える断食というものは、
当時の人々にとって、信仰深い行いのひとつでした。
この断食について、イエス様は、このように語りました。
断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。(マタイ6:16)
イエス様は断食そのものを禁止することはしませんでしたし、
実際、イエス様自身もかつて、荒れ野において
40日間の断食を行っていましたが(マタイ4:2)、
その一方で、イエス様は人々の行う断食の姿勢を批判したのです。
「あなたがたは、人に見てもらおうとして、断食を行っている」と。
しかし、そもそも現代に生きる信仰者のひとりである、私たちにとって、
断食をすることそのものが、無意味なことのように思えるかもしれません。
そのようなことをしなくても、
神は私たちの祈りを確かに聞いてくださる方なのですから。
でも、そのように思いつつも、自分自身の生活を思い返してみると、
実は、食べ物を食べないこと自体は、経験していることに気付かされます。
ある時は、忙しすぎて、食べるのを忘れてしまいます。
またある時は、お昼ごはんを食べてしまうと、
昼過ぎに眠くなってしまうから、という理由で、意図的に食事を抜きます。
前日の夜に食べ過ぎたため、翌日になっても何も食べられないこともあります。
そして、病気で食欲がなかったり、体重を落としたかったりなど、
健康上の理由から、食事を控えることさえあります。
そのような理由で、私たちはしばしば食事を抜きます。
その意味で、現代人が日常的にする「断食」といえば、
信仰上の理由ではなく、自分自身のためだといえるでしょう。
自分がしたいことに集中するために、
私たちは食事を摂らないことがあるのです。
このように、食事を摂らないこと自体は、
私たちにとっても意外と身近なことだといえます。

【ダビデの断食】
では、聖書において描かれている断食についてはどうでしょうか。
そもそも、断食とは一体何のためにするものとして、
聖書では描かれているのでしょうか。
旧約聖書の時代から、断食は信仰的な理由でなされていました。
それは、神への祈りに集中するためです。
人々は、神に自分の罪を悔い改めて、必死に赦しを乞い求めました。
また、愛する人の病の癒やしを求めて祈るために、断食は行われました。
まさに、あのダビデ王も、そのような願いを抱いて、断食をしました。
彼が断食をして、神の前にひたすらに祈り続けた様子が、
サムエル記にはこのように記されています。
主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした。王家の長老たちはその傍らに立って、王を地面から起き上がらせようとしたが、ダビデはそれを望まず、彼らと共に食事をとろうともしなかった。(サム下12:15-17)
ダビデの子が、主に打たれて弱ってしまった理由は、
ダビデが神の前に大きな罪を犯したためでした。
ダビデが赦しを求めたとき、彼の罪は確かに赦されました。
しかし、ダビデが神を軽んじた行いをしたそのために、
「生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」(サム下12:14)と、
神は預言者ナタンを通して宣告されました。
だから、ダビデは神の憐れみを求めて、祈る他ありませんでした。
彼は、自分の子どもの生命のために、
ひたすらに神に心を向けて祈りたかったのです。
ですから、彼は断食をして、神に心を向けて、必死に祈りました。
他の人々のことなど、気に留める余裕さえなく、
ダビデは自分の部屋に引きこもり、地面に横たわって祈り続けました。
そのようなダビデの姿が16-17節では描かれているのです。

【衣ではなく、あなたの心を引き裂け】
このようなダビデの姿を見つめてみると、
イエス様が断食について語ったとき、「人々に見せつけるため」に
断食をする人々をイエス様が問題にした理由に気付かされます。
誰かに見てもらうために、断食をすること。 
また、立派な信仰者として認められたいために、断食をすることは、
神との交わりに心を向けている状態とは言えません。
それは、神との交わりに心を向けるためではなく、
ただ単に、「あの人は立派な信仰者だ」と人々からほめられたいという、
自分の目的を達成するためになされているのです。
旧約聖書の時代、神は、預言者ヨエルを通して、
この問題について、このように語りました。
主は言われる。 「今こそ、心からわたしに立ち帰れ 断食し、泣き悲しんで。 衣を裂くのではなく お前たちの心を引き裂け。」(ヨエル2:12-13) 
当時、罪の悔い改めのしるしとして、人々は衣を引き裂きました。
衣を裂くことそれ自体は、ひとつの象徴的な表現です。
心の奥底から沸き起こる、自分の罪に対する嘆きや悲しみ、そして後悔
といった感情を、当時の人々は衣を引き裂くことを通して表現したのです。
しかし、それがいつしか、衣を引き裂くほどの深い悔い改めの意味を失い、
「形だけ」のものになってしまったのです。 
あの人は、衣を引き裂いているから、悔い改めているのだ、と。
罪を悔い改めるということは、そのようなことではありません。
心から、自分の罪に嘆き、悔やみ、その現実に悲しむ。
真実な悔い改めが起こるとき、
形では表現しきれないものが本来、私たちの心の中では起こるはずなのです。
そして、それが、行動に現れてくるはずなのです。
しかし、いつしか人々が求めたのは、人間の目に見える「形」の方でした。
あの人は、衣を引き裂き、灰を被っているから、
神の前に悔い改めているのだ。
あの人は、ちゃんとした身なりで礼拝を捧げているから、
心から神を賛美し、礼拝しているのだ。
あの人は、たくさんの奉仕をしてくれているから、
心から神と人を愛しているのだ。
人々の目に映る「形」さえ整っていれば、そのように見えたのでしょう。
もちろん「形」から入ることは、決して悪いことではありません。
そこから、重要な意味を私たちはしばしば学ぶことが出来るのですから。
しかし、危険なのは、形式にばかり気を取られて、
そこに込められた意味を、私たちが見失い、忘れてしまうことです。
それはしばしば起こりうることです。
どれだけ衣を引き裂き、灰を被っていたとしても、
どれだけ身なりを整えて、礼拝に出てきたとしても、
どれだけたくさんの奉仕をしたとしても、
その意味を見失ってしまえば、何の意味もないのです。
あなたの心が、神に向いていなければ、その行動は何の意味もない、
寧ろ、虚栄心に満ちていて、人にその形式を押し付けてしまう、
質の悪い行動にまで成り下がってしまう、というのです。
だから、預言者ヨエルは強く警告しました。
「衣を引き裂くのではなく、あなた自身の心を引き裂きなさい。
それが、神の前になされる、真実な悔い改めなのだ」と。
そして、イエス様も人々に語りました。
「断食している姿を、人々に見せて、
自分が立派な信仰者だと知らせる必要などないだろう? 
あなたは、断食するとき、人の目を気にするのではなく、
神にひたすらに心を向けなさい。
人は上辺でしかあなたのことを判断できないが、
神はあなたのことをよくご存知である(サム上16:7参照)」と。
私たちは、信仰的な理由から、日々様々な決断を下します。
その瞬間瞬間において、私たちの心が、
本当に神に向いているのかがいつも問われているのです。
本当にあなたの心が神に向いているならば、
自分の行いを人に見せつける余裕などありませんし、
まして、人の行いを見て、批判する暇など全く無いのです。
ですから、今一度、預言者ヨエルの言葉に耳を傾けましょう。
「今こそ、心からわたしに立ち帰れ 断食し、泣き悲しんで。 衣を裂くのではなく お前たちの心を引き裂け。」(ヨエル2:12-13)
【神のもとに、命がある】
さて、現代のキリスト者たちは、心を神に向けるためにという理由で、
断食することは決して多くはないかもしれません。
しかし、心を神に向けるために、断ち切らなければならないものは、 
もしかしたら、古代の人々よりも数多くあるかもしれません。
経済的に豊かになればなるほど、 
私たちの心を神に向けることを邪魔するものが増えていくように思えます。
もちろん、私たちの身の回りにあるものすべてが、
悪いものだから、それを断ち切るべきだ、という意味ではありません。
それは断食の考え方とは少し違います。
食べ物は神が与えてくださった良いものですが、
聖書の時代の人々は、神との交わりに集中するために、
神から与えられた良いものを、一時的にとることをやめたのです。
ですから、もし、今以上に神に心を向けて、
神との交わりを持ちたいと願うならば、
「断食」をしてみると良いでしょう。
身の回りのものの中で、また私たちの普段の習慣の中で、
あるものを一時的にやめるとき、神との交わりをより豊かに持つことができる。
そのように感じるものがあるならば、それを実行するとき、
それが私たちにとっての「断食」となるはずです。
その決断は、時に、私たちの心を引き裂くような、
苦しい経験となるかもしれません。
しかし、思い起こしてみましょう。
断食によって、人々は自分の生命を保つための食事を、
一時的にとることをやめました。
ですから、断食とは本来、私たち自身の生命を引き裂くことなのです。
そのような苦しい経験を人々が選択し続けたのには理由がありました。
それは、神との交わりをもつためです。
また、ダビデが自分の子どものために祈ったように、
他者をとりなす祈りをするためでした。
決して、自分自身のためだけに、
私たちは自分の生命を用いるべきではないのです。
神のため、そして人のために、心を裂く。
そうするときに、私たちの生命は豊かなものとされていくのです。
神との交わりのもとに、永遠の生命は豊かに溢れ出ているのですから。
愛する主にある兄弟姉妹である皆さん、私が今日、この説教を通して、
あなたがたに伝えたい事は、とてもシンプルなことです。
人々からの賞賛の中ではなく、
神との交わりに中にこそ、永遠の命があります。
ですから、あなたがたの心を神に向けなさい。
目に見えるものが大切なのではありません。
衣を引き裂くのではなく、あなたの心を引き裂きなさい。