しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年9月11日日曜日

説教#133:「心の置き場所」

「心の置き場所」 
聖書 マタイによる福音書 6:19-21、申命記 8:1-10 
2016年 9月 11日 礼拝、小岩教会 

【所有することについて】 
「何かを所有することは、良いことだ」という価値観は、 
いつの時代も変わらずに、
私たち人間の考えを支配している考え方といえるでしょう。 
確かに、自分が必要だと思うもの、心から欲しいと思うものを手に入れると、 
私たちの心は満たされ、喜びが沸き起こります。 
しかし、私たちは喜びを覚えるその一方で、 
自分の心の中に、もう一つの感情があることに気付かされます。 
それは、「まだ他のものも欲しい、これだけでは足りない、
もっともっと必要だ」と願い求める、貪欲な心です。 
イエス様は、私たちが心で抱くそのような思いを感じ取られたのでしょう。 
そのため、イエス様は人々にこのように語り掛けました。 
あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。(マタイ6:19) 
イエス様は、私たちの貪欲さに直接目を向けるのではなく、 
自分のために地上に富を積み続けることが、
私たちに悩みを起こさせることを指摘されました。
富とは、金貨と銀貨(ヤコブ5:3参照)
のことだけを指す言葉では、もちろんありません。 
当時の人々にとっての富とは、
贅沢な衣服(ヤコブ5:2)や、 食物の蓄え(ルカ12:16-21)、
また、高価な香料(マタイ2:11)などを意味していました。 
ここでは、虫食いについて語っているので、 
イエス様は高価な衣服を意識して語っているのでしょう。 
高価な衣服こそ、虫食いの被害に遭うのを何としても避けたいものです。 
ですから、イエス様の時代の人々は、 
高価な衣服が虫食いの被害に遭わないようにと、 
家の外に自分の服を干して、虫食いを防止しました。 
しかし、外に高価な衣服を干したら、当然人の目につきます。 
そのため、その高価な衣服は、多くの人々の目に留まり、
「あの家の人は、高価な衣服を持っているのだから、
たくさんの財産を持っているのだろう」と、
人々の間で噂になってしまいます。
その結果、その家にある財産は、
盗人たちに狙われてしまうことになるのです。
そうなってしまうと、大変です。
衣服の虫食いを心配するだけでなく、
家の中にある財産が盗まれて、奪われてしまうかもしれない
という心配までしなければならなくなってしまうのです。
何ということでしょうか!
このように、私たちが自分のために地上に富を積み続けると
どのような結果を及ぼすのかを、 
イエス様はこの短い言葉で、実に的確に表現されたのです。 

【この世界の所有者ではなく、管理者】 
それにしても、イエス様はなぜこれほど、
地上に富を積むことに否定的なのでしょうか。 
富を地上に積むと、悩みが増えるからという理由ではないと思います。
「自分のために、地上に富を積むな」とイエス様が言う理由は、
私たち人間はそもそも、この世界の所有者なのではないからでしょう。 
聖書の最初の書簡である「創世記」に描かれている、
天地創造の物語を思い出してみましょう。
創世記2章において、この世界とそこに住むすべてのものを造られた神は、
「人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、 人がそこを耕し、
守るようにされた」(創世記2:15)と記されています。
つまり、人間は、園の木から自由に食べるものを取って、
食べることは許されていましたが、
それは、園にあるあらゆるものを、必要以上に絞り取り、貪り、
そして、自分勝手な支配者のように振る舞っても良い
という許可ではありません。
神は、園の所有者、また支配者として、人間を造ったのではありません。
神は、園を管理する者として人を任命し、
「耕し、守るように」と人間に命じられたのです。 
最初の人間にこのように命じた神は、私たちに対しても、 
この世界を管理するようにと命じておられます。 
そして、私たちに、この世界を管理する職務を与えておられるのです。 
私たちが神の造られたこの世界の管理者であることについて、
使徒ペトロはこのように書いています。
あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。(Ⅰペトロ4:10) 
もしも、私たちがこの世界の所有者でいて良いのであれば、
私たちはこの世界のあらゆるものを好き勝手に、
自分のものとして使い、貪り、そして利用することでしょう。 
しかし、この世界のすべてのものは、神が所有するものです。
ですから、私たちの手元にあるものは、
すべて神から与えられた恵みの賜物であり、
神から正しく管理するようにと委ねられているものなのです。 

【富は、天に積みなさい】
その事実に目を向けるとき、今私たちの手元にあるものを、
自分自身のために、地上の宝として、積み続けるのは、
とてもおかしな話だということに気付かされます。
だからイエス様は、「地上に富を積んではならない」と語った後に、
「富は、天に積みなさい」(マタイ6:20)と勧めたのでしょう。
それは、神からすべてのものが与えられていると認め、
すべてのものを神から受け取って生きる姿勢といえます。
神が、恵みとして私たちにあらゆるものをいつも与えてくださっています。
手元にあるお金、住む家や衣服、食べる物など、
私たちが富と呼ぶものは、究極的には、
すべて神が私たちに与えてくださったものです。
私たちが普段、富とは考えないものも、神から与えられているものです。
家族や友人、近所の人々、仕事で接する人々など、
共に生きる人々は、神が私たちに与えてくださいました。
そして、この世界を造られた神は、私たち人間を造られました。
つまり、私たち一人一人に生命を与えてくださいました。
これらのものすべて、いや、この世界で私たちが手にするすべてのものは、
神が私たちのために備えてくださった宝なのです。
ですから、必要以上に自分の手元にあるものに
執着する必要はありません。
また、自分の所有権を各々が無意味に主張し、
争い合うことなど、本来、私たちに必要ないはずなのです。
すべてのものは、この世界を造られた神に属しているのですから。
地上に富を積むとき、神から与えられたものを、
私たちは、必死に自分のものだと主張してしまいます。
しかし、すべてのものが神から与えられたものと認めるならば、
神から与えられた富は、この世界の管理のために
用いるべきであることに、目を向けるべきなのでしょう。
助け求める人々に、手を差し伸べるために、
私たちは神から様々なものを委ねられているのです。
それは、具体的に、お金かもしれません。
また、私たちの時間を割いて、
悩む人々のもとに駆けつけることかもしれません。
この地上に富を積むのではなく、神から与えられているものを、
この世界の管理のために用いるとき、
また、見返りを求めずに、人を心から愛するために用いるとき、
それが、私たちにとって、富を天に積むことになるのです。
あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。(Ⅰペトロ4:10) 
【あなたはこの世の定住者か?それとも旅人か?】 
さて、地上に積む富と、天に積む富を対比した後、
イエス様はこのように語られました。 
あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。(マタイ6:21) 
とてもドキッとさせられる言葉です。 
「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」と、
イエス様ははっきりと言われたのですから。
もしも、私たちの富のあるところが地上であるならば、
私たちはいつまでもこの地上に居たいと願うことでしょう。
いつまでも、そう永遠に、同じ場所にいたいと願うことでしょう。
しかし、それは当然かなわない話です。 
というのも、誰もが最終的には、死を迎えるのですから。 
死は、私たちがこの地上で積み上げる富を無意味なものにしてしまうほど、
私たちに対して、今も昔も変わらず、脅威的な力を奮い続けています。
高価な衣服や香料、この世で手に入れる名声など、
死を前にするれば、全く意味の無いものとなってしまいます。
土地や財産も、やがて、他の誰かのものになってしまいます。
また、死を迎えることによって、私たちは愛する人々との関係を失います。
それでも、ある人々は、せめて自分の生きている間だけは、
自分の持っている富や財産を失わないようにしたいと願います。
でも、地上に富を積み続けるならば、
そこに自分の思いを割き、そこに自分の心を置き続けるのですから、
私たちはその場所から動けなくなってしまいます。
しかし、イエス様は「地上ではなく、天に富を積みなさい」と語られました。
そして、「天に、あなたがたの心を置きなさい」と。
天に私たちの宝を積むならば、天にこそ、私たちの心が置かれるのです。
私たちが、天に宝を積み、心の置き場所を天にするとき、
天におられる神のもとこそが、私たちの目指すべき場所となります。
そうであるならば、私たちは生きる限り、
天の御国を目指して歩む旅人なのだといえます。

【私たちは、天を目指して歩む旅人】
この地上での歩みは、神が約束された場所を目指す旅であることを、 
旧約聖書に記されている、イスラエル民族の歴史を通して、 
神は私たちに示し続けてくださっています。 
先ほど朗読していただいた旧約聖書の「申命記」において、
モーセはイスラエルの人々に、荒れ野を旅したあの40年間を
思い起こすようにと促しました。
荒れ野とは、何もない、枯れ果てた地です。
植物もなく、乾燥していて、死と隣合わせの場所です。
そのような地をさまよい続けていた40年間、
神は天からマナと呼ばれる食べ物を降らせて(申命記8:3)、
それによってイスラエルの人々を養い続けてくださいました。
また、その旅の間、人々の着物は古びず、
足がはれることもありませんでした(申命記8:4)。
荒れ野を旅をしている間、必要なものは神からいつも備えられ、
神がいつも自分たちを養い、守り、この旅を導き続けてくださったことを、
モーセはイスラエルの人々に思い起こすようにと促したのです。
私たちの人生は、このような荒れ野の旅のようなものです。
行き先がわからなくなって、不安を抱えることも、
荒れ果てた地を歩いているような感覚を覚えることもあります。
しかし、いつでも神が私たちを養い、守り、導いてくださるのです。
そして、その導く先は、神が約束された場所です。
イスラエルの人々にとって、それはカナンの地でした。
しかし、彼らにとって、そこは永遠の住まいではありませんでした。
神は、イスラエルの人々を約束の地へと導くことを通して、
最終的には、約束された天の御国へと私たちをたどり着かせてくださる
という約束は確かなものであることを示してくださったのです。
私たちは、天の国を目指す旅人です。
旅人でありながらも、この地上において、住む家をもっていますが、
そこは、私たちの永遠の家では当然ありません。
家は朽ち果てていきます。
住む私たち自身も、様々な理由から、
同じ場所には常に留まることが出来ません。
それでも、目指すべき場所である天は、常に変わることがありません。
だから、私たちの心の置き場所は、 
天におられる神のもとにこそあるべきなのだと、 
イエス様は「富を天に積みなさい」と言うことによって、 
私たちに示してくださっているのです。 
天にある神の都こそ、私たちに備えられている永遠の住まいなのです。
イエス様は、私たちをいつも手招きしておられます。 
「この旅にあなたも加わって、
一緒に天の国を目指して歩んで行こうではないか」と。 
やがて、旅を終えて、天の国にたどり着くとき、
私たちは宝を得ることになります。
その宝とは、私たちがこの地上で積み上げる富にも
遥かに勝る、豊かなものです。 
それは、神との豊かな交わりです。
そう、永遠の生命と呼ばれる、渇くことのない泉が、 
私たちが目指す場所に確かにあるのです。 
ですから、地上に自分のために富を積むのではなく、
富は、天に積みましょう。
天に、私たちの心の置き場所があります。
そして、神のおられる場所である、天こそが、
私たちがいつも目指すべき場所なのです。