しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年10月30日日曜日

説教#139:「命に通じる門を目指せ」

「命に通じる門を目指せ」 
聖書 マタイによる福音書7:13-14、エレミヤ書21:8-10
2016年10月30日 礼拝、小岩教会 

【門をくぐり、道を歩む】 
私たちの人生は、何かを選び取ることの連続です。 
きょうの夕飯は何を食べようか。 
勉強をしようか、それとも遊ぼうか。 
などというような、日常的に繰り返している軽い選択もあれば、 
進路のことや、どこで誰と暮らすかなど、 
人生を左右するような重要な選択もあるでしょう。 
イエス様はきょう、私たちの前に、 
「狭い門」と「広い門」という、ふたつの選択肢を示しておられます。 
ふたつの選択肢を示されたイエス様は、好きな方を選びなさいとは言わず、
「狭い門から入りなさい」と勧められました。 
イエス様によれば、狭い門こそ、命に通じる門だからです。 
ところでイエス様は、門について語るのと同時に、 
道について語りました。 
「滅びに通じる門は広く、その道も広々として」いる。 
しかし「命に通じる門は狭く、その道も細い」というように。 
それでは、門と道は、どちらが先にあるものなのでしょうか。 
門が最初にあって、その後に、道が続いているのでしょうか。 
それとも、道が続いていて、最後に門があるのでしょうか。 
想像してみると、門も道も、
どちらも先にある可能性があると言えるでしょう。 
「狭い門から入りなさい」という言葉からは、
最初に門をくぐる印象を受けます。 
門とは、ある領域に入るためのものです。
町の門をくぐれば、人々の生活の領域である町の中に入ることが出来ますし、
神殿の門をくぐれば、神を礼拝する聖なる領域へと入ることを実感できます。
つまり、狭い門から入るならば、命の領域に入り、
その後、命に通じる道を歩んでいくことができるという意味で、
イエス様の言葉を読むことが出来るでしょう。
それは、キリスト者の存在のあり方の一つの側面をよく表していると思います。
神を信じ、イエス様に従って歩む者とされた者は、洗礼を受けます。
それは、神と共に歩む道が、
その人の人生のうちに開かれていくための門のようなものです。
洗礼を通して門をくぐるとき、神と共に歩むことができるのですから、
その道には命が溢れているのです。

2016年10月23日日曜日

説教#138:「天からの贈り物」

「天からの贈り物」
聖書 マタイによる福音書7:7-12、サムエル記 下 12:13-23
2016年 10月 23日 礼拝、小岩教会

【希望と期待と同時に、失望を与える言葉】
きょうのイエス様の言葉は、聖書に記されている数ある言葉の中で、
多くの人々に期待と希望を与えてきたのと同時に、
失望を与えてきた言葉でもあると思います。 
イエス様はこのように語られました。 
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。(マタイ7:7-8) 
私たちは、この言葉に希望を抱いて、神に祈り続けてきました。 
また、求め続けてきましたし、探し続けてきました。
そして、神が天の門を開いて、私たちに祝福を与えてくださると、
信じて、門をたたき続けてきました。
それなのに、一向に神は私たちの祈りに応えてくださらず、
神は私たちの祈りに沈黙しているように感じることがあります。
また時には、全く望んでいなかったものを与えられることもあるでしょう。 
そのようなとき、「求めなさい。そうすれば、与えられる」という
イエス様のこの言葉を前にして、私たちは神に裏切られたように感じます。
いや、自分の祈りが不完全だったのか?
自分の信仰が弱く、浅かったのが問題だったのか? 
と、自分自身の信仰者としての姿勢を疑い出すこともあるでしょう。
喉から手が出るほど必要なものがあるときに、私たちに希望を与える一方で、
時には、このように失望を与えるこの言葉を、
私たちは一体どのように理解すれば良いのでしょうか。 

2016年10月9日日曜日

説教#137:「あなたのもとに返ってくるもの」

「あなたのもとに返ってくるもの」
聖書 マタイによる福音書7:1-6、イザヤ書33:22、
2016年 10月 9日 礼拝、小岩教会

【「人を裁くな」と主は言われる】 
自分の語った言葉が、ブーメランのように自分にそのまま返ってくる。 
きっと、そのような経験は誰にでもあると思います。 
誰かの過ちを指摘したとしても、実は、
自分も同じ過ちを犯していることさえあります。
また、他人の欠点に気づき、それを指摘したとき、 
それが自分の欠点であることだってあります。 
もしも私たちが誰かのミスや弱さといったものに対して、
強烈な批判や攻撃をするならば、
その言葉が自分のもとに返ってきたときに、
私たちが受ける痛みは相当なものです。 
このように、自分の語った言葉がブーメランのように
自分のもとに返ってくることは、よくわかっているのに、
私たちは、人の弱さにつけこんだり、欠点や足りない部分、過ちなどを、 
必要以上に指摘し、傷つけることを、なかなかやめられずにいます。 
だから、イエス様は私たちにこのように語りかけられたのです。 
人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。(マタイ7:1)
ここでイエス様が語っていることは、裁判における法的な裁きではありません。
イエス様は、私たちが日常的に周囲の人々に対して行なう裁きに対して、
「人を裁いてはいけない」と命じているのです。
イエス様がこのような命令を私たちに語るのは、当然のことだと言えます。
というのも、私たちは、目の前にいる人のすべてを知ることが出来ないのに、
気に入らないことや欠点などを見つければ、指摘したり、
影で裁いたり、ときには直接、攻撃的に批判したりもします。
その上、そのように人を裁く一方で、
私たちは人間は、すべての人を公平に裁くことなどできません。
先入観や感情の変化などで、その裁きの内容はころころと変わってしまいます。
いや、そもそも、他人を裁くことが出来るほど、
完璧で善い人間など一人もいません。
ですから、本来、私たちが人を裁いても良いという正当な理由などないのです。
だから、イエス様は「人を裁くな」と命じられるのです。

2016年10月2日日曜日

説教#136:「思い悩むときこそ、神を見よ」

「思い悩むときこそ、神を見よ」 
聖書 マタイによる福音書6:25-34、イザヤ書43:1-7
2016年 10月 2日 礼拝、小岩教会 

【「思い悩むな」と主イエスは言われる】 
私たちの日常に、悩みはつきものです。 
悩みなどなくなれば良いなと願っても、私たちはよく悩みます。 
今晩の夕飯は何を食べようかから始まり、 
明日から始まる仕事のことや人間関係のことで思い悩んだり、 
過去の失敗で後悔して、心が沈み込んだり、 
将来のことで不安になったりします。 
私たちが抱えるその悩みが大きければ大きいほど、 
心配事が増えれば増えるほど、悩みや心配事で心が一杯になってしまいます。
そうなってしまうと、そのことばかりが頭の中を絶えず駆け巡り、
他に何もできなくなり、夜も眠ることができなくなってしまうでしょう。
イエス様の生きた時代の人々も、現代に生きる私たちと同じように、 
様々な悩みを抱えていました。 
この時代、その日一日生きていくだけのお金を
手に入れるだけで精一杯の人々がほとんどでした。
ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと、 
人々はいつもいつも思い悩んでいたのでしょう。 
人間関係のトラブルに巻き込まれることもあれば、 
人に言えない悩みも、当然あったことでしょう。 
このように様々な悩みを抱える私たちひとりひとりに、 
イエス様は「思い悩むな」(マタイ6:25)と語り掛けられました。 
イエス様が私たちに「思い悩むな」と語り掛けることから始まった
イエス様のこの言葉は、慰めと励ましに満ちています。
ですから、この言葉は、世界中の多くの人びとから最も愛されている
聖書の言葉のひとつといえるでしょう。 
でも、注意深く読んでみると、この言葉を
素直に励ましの言葉として受け取るのは、少し難しいようにも思えてきます。
というのも、イエス様はここで
「あなたがたは思い悩む必要などありませんよ」と言っているのではなく、 
「あなたがたは思い悩むな」と命令しているのですから。 
でも、そんなこと言われたって、悩んでしまいますし、
悩みや心配事が全くなくなるわけでもありません。