しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年10月2日日曜日

説教#136:「思い悩むときこそ、神を見よ」

「思い悩むときこそ、神を見よ」 
聖書 マタイによる福音書6:25-34、イザヤ書43:1-7
2016年 10月 2日 礼拝、小岩教会 

【「思い悩むな」と主イエスは言われる】 
私たちの日常に、悩みはつきものです。 
悩みなどなくなれば良いなと願っても、私たちはよく悩みます。 
今晩の夕飯は何を食べようかから始まり、 
明日から始まる仕事のことや人間関係のことで思い悩んだり、 
過去の失敗で後悔して、心が沈み込んだり、 
将来のことで不安になったりします。 
私たちが抱えるその悩みが大きければ大きいほど、 
心配事が増えれば増えるほど、悩みや心配事で心が一杯になってしまいます。
そうなってしまうと、そのことばかりが頭の中を絶えず駆け巡り、
他に何もできなくなり、夜も眠ることができなくなってしまうでしょう。
イエス様の生きた時代の人々も、現代に生きる私たちと同じように、 
様々な悩みを抱えていました。 
この時代、その日一日生きていくだけのお金を
手に入れるだけで精一杯の人々がほとんどでした。
ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと、 
人々はいつもいつも思い悩んでいたのでしょう。 
人間関係のトラブルに巻き込まれることもあれば、 
人に言えない悩みも、当然あったことでしょう。 
このように様々な悩みを抱える私たちひとりひとりに、 
イエス様は「思い悩むな」(マタイ6:25)と語り掛けられました。 
イエス様が私たちに「思い悩むな」と語り掛けることから始まった
イエス様のこの言葉は、慰めと励ましに満ちています。
ですから、この言葉は、世界中の多くの人びとから最も愛されている
聖書の言葉のひとつといえるでしょう。 
でも、注意深く読んでみると、この言葉を
素直に励ましの言葉として受け取るのは、少し難しいようにも思えてきます。
というのも、イエス様はここで
「あなたがたは思い悩む必要などありませんよ」と言っているのではなく、 
「あなたがたは思い悩むな」と命令しているのですから。 
でも、そんなこと言われたって、悩んでしまいますし、
悩みや心配事が全くなくなるわけでもありません。

【「空の鳥を見なさい」】 
ですから、「イエス様、あなたは思い悩むなと言いますが、
そうは言っても悩みは尽きません」と反論しようとする私たちの心に、
イエス様は「思い悩むな」というこの命令を響かせるために、 
ふたつの例を挙げて語り始めました。
イエス様は空を羽ばたく鳥を指差しながら、こう言われました。 
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。(マタイ6:26-27) 
空を飛ぶ鳥から、自由を連想することができます。 
しかし、聖書で「鳥」について描かれている箇所を読んでみると、
どうやらそのような良いイメージだけでないことがわかります。
たとえば、旧約聖書の「哀歌」では、「敵はゆえなくわたしを追う 
鳥を追う狩人のように」(哀歌3:52)と歌われていますし、 
預言者ホセアの書では、 
「エフライムの栄えは鳥のように飛び去る」(ホセア9:11) 
といったように、人々に不安を与えるような預言が語られています。 
このように、聖書において鳥は、 
不安や困難、苦しみなどの比喩的な表現としても用いられているのです。 
聖書において鳥という言葉がもつ、このようなイメージを念頭において、 
イエス様の言葉を読み返してみると、「私たちが何もしなくても
神さまはいつも私たちを養ってくださるから大丈夫ですよ」 といった意味合いで、
イエス様がこの言葉を語っているわけではないことに気付かされます。 
鳥というイメージそのものが、自由を楽しみながら、不安も常に抱えています。
でも、それにも関わらず、鳥は思い悩むことなく、存在し、空を飛んでいます。
つまり、神が養ってくださるということは、
ただ飲み食いするものが与えられるだとか、 
蓄えの心配から解放されるといった話ではないのです。
困難や不安は生きる限りつきまとってくるけれども、 
それでも、その困難や不安の中を神が共に歩んでくださり、 
必要な助けを与え、養ってくださるという希望の言葉として、
イエス様は語りかけているのです。
「空の鳥を見なさい」と。
このように、空の鳥が神から愛され、神から護られ、
そして養われているのだから、 
まして、神が愛してやまないあなたがた人間を、神が見捨てるわけがない。 
愛さないわけがない。 
だから、「あなたがたは思い悩む必要などないのだ」と
イエス様は空の鳥を指し示すことによって、私たちに語り掛けているのです。

【「野の花に学びなさい」】 
そして、ふたつめの例をイエス様はこのように語りました。
なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。(マタイ6:28-30) 
「着飾る」というと、衣服のことだけを想像してしまいますが、
私たちは衣服以外の様々なものでも、自分を着飾ることができます。
言葉や態度、また生活のしかたなど、
自分をよく見せようとする様々な努力をすることによって、
私たちは自分をより美しく、人の目からよく映るように、飾ることが出来ます。
しかし、必要以上に自分を飾るとき、
どこか本当の自分らしくなくて、疲れてしまうことがあることでしょう。
そうやって、出来る限り自分をよく見せようとした結果、
私たちは悩みを抱えるのです。
しかし、イエス様はこう言われました。
「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」(マタイ6:28)と。
ここで「注意して見なさい」と訳されている言葉は、
「よく学びなさい」と訳すほうが良い言葉です。
つまり、ただ野に咲く花を注意深く見るだけでなく、
その花を見て、よく学ぶようにとイエス様は招いておられるのです。
花を注意深く見ることによって、花は美しいけれども、
同時に儚く、移ろいやすい存在であることを知ります。
しかし、そのような存在である花でさえ、
神が美しく装ってくださっているのです。
そう、花は神によって造られたため、その存在のありのままで美しいのです。
神は、私たち人間を、野に咲くこのような花以上に良い存在として、
美しい存在として造られました。 
ですから、私たちは、自分の飾り方で思い悩む必要などないのです。
あなたの存在のありのままが、素晴らしいのですから。
イエス様は私たちに語り掛けておられます。
「神が私たちをどのような存在として見ておられるのかを、
着飾ることのない、野の花を見ることを通して、よく学びなさい」と。

【神を見つめ、その思い悩みを神に委ねよ】 
このように、「思い悩むな」と人々に命じた後、
イエス様は鳥や花を見つめるようにと語りました。
それは、鳥や花を美しい存在として造り、その存在のありのままを喜び、愛し、
守り、そして養ってくださる方に私たちの目を向けさせるためでした。
神を信じる者にとって、この世界のあらゆるものは、 
神の恵みの業を証言するものです。
先ほど、一緒に声を合わせて朗読した詩編121篇を歌った詩人も、
そのような確信を抱いてこのように歌いました。
わたしの助けはどこから来るのか。 わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。(詩編121:1-2) 
神の創造の業であるこの世界を見て、彼は驚きを覚えていたことでしょう。 
そして、同時に、天と地を造られた主、 
つまりこの世界を造られた神が、わたしの助けであることが、
私たちにとって大きな喜びであることを 実感して、
この詩編を歌い出したのです。
「わたしの助けは、天地を造られた主のもとから来る」と。
そしてこの詩人は、神の助けについて、続けてこのように歌いました。
主はあなたを見守る方 あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。 昼、太陽はあなたを撃つことがなく 夜、月もあなたを撃つことがない。(詩編121:4-5) 
この世界のすべてのものを支配される方は、私たちを見守る方です。
いや、遠くの方で見ているだけでなく、 
太陽にも、月にも、すべての被造物にも、働きかけることが出来、 
私たちの歩みを支え導いてくださいます。
いや、そればかりでなく、預言者イザヤによれば、
この世界を造られた方が、どのようなときも、
私たちと共に歩んでくださいます(イザヤ43:2)。
イエス様はこの詩人や預言者イザヤが抱いた確信と同じ確信をもって、
このように語りました。 
だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。(マタイ6:31-32) 
イエス様は、天におられる私たちの父である神に、
目を向けるようにと促されます。
私たちが思い悩むことは、すべて天と地を造られ、
そこに住むすべてのものを養っておられる神のもとへと
持っていくことができるからです。 
その上、神は私たちを養うだけでなく、
私たちが必要としていることをよくご存じです。
だから、イエス様は私たちにこのように命令されたのです。
「思い悩むな」と。
神は私たちが抱える思い悩みをすべて知っておられます。
だから、自分の力で何とかしようと思い悩むべきではないのです。
私たち一人一人の存在を美しいといって、 喜び、
私たちの存在を良しとされる神の業に信頼することこそ、
私たちにとって最も幸いな道なのです。
この神の業に信頼して歩んで行きなさいと、イエス様は
私たち一人一人に愛をもって語り掛けておられるのです。

【「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」】 
このようにして思い悩みを神に委ねるならば、
悩みの解決のために必死に自分の力ばかりに頼って
努力をしようとする思いから解放されます。
そのとき、私たちは本当に求めるべきものが、
求められるのだとイエス様は言われるのです。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイ6:33-34) 
イエス様は、私たちが第一に求めるべきものである「神の国と神の義」を、
求められるように、「思い悩むな」と語られたのでしょう。
確かに、神の国と神の義は、完全な形ではまだ実現していません。
神の支配よりは、人間の自分勝手な支配や、
悪が横行しているように思えますし、
神の義よりは、誰かの正義と誰かの正義がぶつかり合っている音を
耳にすることのほうが遥かに多いことです。
ですから、私たちは悩みを抱えるのでしょうし、苦しむのでしょう。 
でも、だからこそ、神の国と神の義が私たちのもとに、
完全な形でやってくるときが来ることを、
求めなさいとイエス様は命じられたのです。
私たちの悩みが解決へと導かれる、希望の日を、
確かに備えてくださる神に信頼して、
その日を待ち望むようにと招かれているのです。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と。

【パンと杯を手渡され、養われ続ける群れ】 
このように神の国と神の義を待ち望む日々を過ごす私たちに、
イエス様は、あることを世々に渡って行い続けるようにと命じられました。
それが、この礼拝の中でこれからもたれる聖餐式です。
私たちは聖餐において、テーブルの上に乗っている
パンとぶどうジュースをお互いに分かち合います。
それは決して、私たちが自分自身の手で手に入れたものではありません。
これらのものは、パンと杯は、
最後の晩餐の席で、イエス様から弟子たちに渡されたものです。
教会はその出来事を、聖餐式を守り続けることによって、
2000年間思い起こし続けました。
弟子たちは、神が自分たちを養い続けてくださっていることを、 
イエス様からパンと杯を手渡されることによって知りました。
そして、私たちも同じように、このパンとぶどうジュースの入った杯を
手渡されて、それをこの口に含み、食べて、飲むときに、
神によって養われていることを頭で理解するだけでなく、 
実際に、礼拝で体験して、知るのです。
神が、私たちを養ってくださっているその事実を、
まさに礼拝において、共に聖餐の食卓を囲むことを通して知り、 
私たちはこの場所を出て行くのです。
きょう、イエス様はあなたがた一人一人に語り掛けておられます。
「いつでも、いつまでも、私があなたと共にいて、
あなたを支え、あなたを養う。
あなたが喜びを覚えるときも、悲しむときも、
良いときも、悪いときも、困難のときも、思い悩むときも、
どのようなときも、私があなたの手を取って、共に歩み続ける」と、
イエス様は私たちに伝えているのです。
ですから、思い悩むときこそ、イエス様の言葉を思い起こすとともに、 
この場所での経験を思い起こしましょう。
それが難しいと感じるときは、空の鳥や野の花を見つめて、
神が、私たちを養い続けてくださっている事実を思い出しましょう。
そのようにして、神を見つめ続けようではありませんか。
思い悩むときこそ、私たちにいつも惜しみなく
恵みを注いでくださる神を見つめ続けましょう。
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。(Ⅰペトロ5:7)